▽ 千手
07話
蜘蛛の糸に囚われた獲物のように、足はその場から一歩も動けない。自分たちが進んできた道の先にあった光景は、恐ろしいほどに赤一色に染まっていた。
はぁ、と零れた息の音だけが静まり返った空間に響いた。
空は真っ赤、地面も真っ赤、だけど目の前の“ソレ”は身の毛も弥立つほど美しい赤だった。鼻孔を擽る鉄の臭いは風に乗ってどれだけ離れていても届くだろう。それほどまでに大量の血が流れたことは、足下を見ればわかる。
夕日に照らされた地面には血の池が出来上がっていた。ペシャリ、水面を作り出したのは自分たちではない。白地を赤く染めた黒髪の少女がそこにいた。
逆光ではっきりと顔は見えない、だけど目が離せない。少女はゆっくりと、骸で埋め尽くされた地獄には相応しくないほど優雅な動作で振り向いて言葉を発した。
「――千手ですね」
それは自分たちの事。くつりと口端を上げて哂いながら一歩、また一歩と近づいてくる。
唇から囁かれた声は甘く、その痺れで自分たちの脳が犯された気がした。嗚呼これ以上聞いてはいけないと警鐘が鳴り響く。だが動けない…その鳩血色の瞳でこちらをジッと見据える少女に畏怖の念を抱いた。
捕食者と獲物。少女と彼らの立場はまさにそれだった。食物連鎖のヒエラルキーの頂点に君臨する少女を前に為すすべもなく喰われる憐れでちっぽけな生き物。千手の男達は自分の半分しか生きていない幼子相手に全てを諦め、悟る。
だが、諦めていない者が1人だけ存在した。
「お前は……誰だ」
赤い瞳の黒い少女に問いかけたのは、赤い瞳の白い男だった。少女から瞬き一つせずに、その一挙手一投足を見逃すまいと瞳孔を開きながら集中する。その無言の間に、返り血だろうか?少女の白皙の顔に赤い線を頬から顎のラインまで引きながら最後に地面に波紋を作った。
「『誰だ』か…フッ、ですが貴方は私が誰なのか、もう解っているのでしょう?」
愉快そうな聲で返事とも言い難いものを口にした少女の動きに合わせて髪が揺れる。
「うちは」考えるより先に口が動いた。女はそれに同意するように一つ頷く。
白い男、扉間の発した言葉で部下たちはハッと目を開く。
この地獄絵のような光景を実際に作り上げたのが目の前の少女であることは今更否定しようがない。
年齢的にありえない光景を現実に可能としたのは彼女が“うちは”なら頓に納得がいく。
噂には聞いていた。幼いうちはの悪鬼がいる、と。本能的に察した…この少女がソレだと。
うちはは敵だ。千手とは決して交わることが許されない宿命の敵。いつから続くのかも忘れてしまうほど長い長い間、両者の間では争いが絶えなかった。常に刃を交え、休まる暇もなく戦い続けた。
――今日の敵はうちはではなかった。だが明日はどうだ?明後日は?明々後日は?目の前の脅威を排除する機会はいつだ?今か?
相手は1人、こちらは扉間を含め5人。普通なら勝てるはずだ。扉間も千手では二番手、しかもあのうちはイズナと唯一対等に戦えるほど強い。勝算はある、はず。だがこの胸騒ぎは一体なんだ?
少女の聲が彼らの聴覚を狂わせる。咽かえるような血の臭いが嗅覚を、そして一面の赤が視界を狂わせ、恐怖で立ち竦む千手の人間を見下すようにこの世界で至高の緋色が冷たく射抜く。
「うちはの敵は皆死んで仕舞えばいい」
さようなら、と聞こえた時には意識が消えた。
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