ヒロイン少年と名前

 侑が小雪にお姫様抱っこで助けられてから数日。気さくで腰の低い二人の噂は基本的に悪いものではない。特に侑と同じクラスの小春は愛嬌もよく、可愛いと評判になっている。

 頬杖をついていた侑は、ちらり、と隣の席でクラスメイトたちと話している小春へ目を向けた。一人一人の話しに相槌を打ち、口元に手を添えて笑っている様子は確かに可愛らしい。
 始業のチャイムが鳴り、散り散りに彼女の周りに集まっていたクラスメイト達が席へと戻って行く。ふと、侑の視線に気が付いたのか小春は小首を傾げた。

「宮くん?」

 綺麗な声だと思う。しかし、あの時、階段でかけられたあの声と似ているのに違和感のようなものを覚えてしまう。

「別に何でもあらへんから気にせんで」

誤魔化し笑いを浮かべて、小春から視線を外すと、なかなか見かけない小雪のことをぼんやりと思い出した。

(アイツ、どんな生活してたら見かけないってなんねん。同級生やぞ)

 舌打ちしそうになって、初めて自分が小雪に会いたがっていることに気づいた侑は嫌そうに顔を顰める。不機嫌な子どものようにも見える彼の表情に、隣の小春は困ったように首を傾げていた。

***

 放課後になり、部活動が始まれば侑の思考から小雪のことが薄くなる。気に入らない彼女のことを考えなくていい時間は彼にとって心地よく、よりバレーに集中できた。

 しかし、休憩時間の角名の何気ない一言で忘れていたはずの小雪が侑の頭の中を占めてしまう。

「そういえばさ、小雪が侑のサーブ打ち返したとき、どうしてあの格好してたかって話聞いた?」

「そら、部活やからやろ?」

 座り込んでいる侑を気にせず、立ったままでいる彼らの話は進んでいく。話に乗った治に角名は話を聞いた時のおかしさが戻って来て、ふっと笑った。

「いや、アレで外周してたらしい。で、戻ろうとして間違えてここに来たんだって」

「あの格好で外周? めっちゃ暑いやん」

スクイズボトルから口を離した治は信じられないと片眉を上げ、隣にいた銀島はああ、と納得したような顔をする。

「剣道部は、遅刻したら防具つけて外周するんやったか?」

「そうそう。転入する前日に挨拶兼ねて練習に参加するって顧問に話し通してたのに、迷って遅刻したからって自分から外周申し出たんだってさ」

「真面目やなぁ」

感心と呆れが半々といった感じの口調の治は、先ほどから不満そうな顔で黙り込んでいる侑を目の端で捉えると、わざと声を張った。

「防具着こんで外周してヘトヘトでも、小雪はツムのサーブなんか余裕で打ち返せるんやな」

「なんやと!?」

 聞き捨てならんと立ち上がった侑は治に掴みかかろうとてを伸ばす。しかし、それも未遂で終わった。

「なんの話しとるん?」

かけられた落ち着いた声。その声の主に振り返った侑の背筋は勝手に、しゃんと伸び、角名たちも何故か緊張から口が強張った。

「俺と治のクラスに来た転校生が、この前、侑のサーブ打ち返したやつで……」

 おずおずと角名が説明すれば、北は腑に落ちたとばかりに頷いた。

「小雪んことか」

「えっ!? 北さん、あのいけ好かん女んこと知っとるんですか!?」

食いついてきた侑に、北は自分の持つ小雪の印象と彼の印象が随分と違うことに首を傾げた。

「いけ好かんって、侑、小雪と何かあったん?」

 具体的に何かがあったわけではない。ただ、なんとなくいけ好かないのだとは、常日頃からちゃんとしている北の前で口にすることは憚られる。うぐ、と口を噤んだ侑の代わりに、治が淡々と答えた。

「簡単にサーブ打ち返えされた次の日に、階段で足滑らせてお姫様だっこで助けてもろただけです」

「サム!」

 余計なことを言うなと侑は自分の肩割れを睨みつける。

「あんときのサーブは完璧やなかった。せやから打ち返されたって、そないに悔しがる必要なんかないやろ。階段で足滑らしたんは、侑の不注意や。礼は言うても、気に入らんなんて言うたらあかん」

返ってきた正論パンチに、侑は悔し気に唇を噛みしめた。確かにそうだ。しかし、それだけでは収まらない何かが小雪にはあって、もう少し一緒にいればそれが分かりそうなのに、まったく姿を見せない彼女にイライラとしてしまう。

 上手く言葉にできない苛立ちを感じながら、侑は北へ口を開く。

「そ、それだけやないから、こないに苦しいんです」

そう、苦しい。そうだ苦しいのだと、今、理解したけれど、原因が分からないから説明もできない。
 きゅ、と拗ねた子どものような顔をする侑に、北は顔色一つ変えず"そうか"とだけ言ってその場から離れた。

 その背中を見送った角名と銀島は俯いている侑を一度見やってから、治へ目を移す。

「何? そういうこと?」

「分からん。家でも機嫌悪くて迷惑しとる」

「あの、侑がなぁ」

各々言いたいことを口にした彼らに、侑は立っている三人を睨みつけた。

「言いたいことあんなら、ハッキリ言え! ネチネチネチネチ気色悪いんじゃ!!」

いつもなら言い返してくるはずの治も角名も、そして銀島までもが可哀そうなものを見るような目で侑を見下ろす。

「なんやねん! その目は!!」

「別に? 侑ってこういうの疎いんだって意外に思っただけだよ」

 俺は面白そうだからそれでもいいけどね、と角名が言ったところで休憩が終わる。どいつもこいつも一体なんなのか。イライラしていても、ボールにさえ触れれば淡く滲んで消えていく。
 侑の苛立ちは練習が再開されたことで、すぐに忘れ去られた。

***

 練習が終わると、また侑の中にはモヤモヤとした気持ちが広がっていく。少しでもその時間を短くしたくて、侑はここのところ毎日居残っている。バレーをしている間だけは余計なことを忘れられる。自分にはバレーがあるということにホッとしていた。

 くたくたになるほど体を動かしたお陰か、イライラと不安は侑の中にはない。気分の良くなった彼は鼻歌を歌いながら部室を出た。

 ザーザーと音を立てて降る雨に気づくと、そこでこれまでのいい気分が沈んでいく。

「最っ悪や……」

 治たちと帰っていれば雨に降られる前に帰れたのかもしれないと、傘を持っていない侑は忌々し気に暗い夜の空を睨んだ。しかし、どんなに忌々し気に彼が睨んだところで雨足が弱くなるわけでもない。
 はぁ、とため息をついてから、スマホを手に取った。今頃、家に着いているであろう治に傘を持ってこさせれば濡れずにすむ。

 一言、"傘持ってこい。雨降っとる"とメッセージを送ると、思いのほか返信は早かった。

『メシ食うとるから無理』

『ええから、はよ持ってこい! ずぶ濡れになるやん!!』

 しかし、治からの返信は一向になく、イライラとしながら侑はポケットにスマホを押し込んだ。
 どうしたものか、と降りしきる雨を見る。ずぶ濡れはいただけないが、それも覚悟して走るしかないのかと思い始めたとき、雨以外の音が侑の耳に届いた。

「宮くん?」

 隣の席でいつも聞いている声とは似ていても違うそれに、勝手に胸が跳ねる。振り返ってみれば、そこにはなかなか見かけないと思っていた小雪が立っていた。

「傘、持ってない?」

「お、おん……」

 傘をさしている彼女は汗のせいか髪がしっとりと濡れている。気に入らないと思ってるはずの小雪相手に、どうしてかドキリ、としてしまったのが嫌で侑は
顔を逸らした。

「なら、これを使うといいよ」

「は?」

 広げられた傘を差し出してきた小雪にイラっとしてしまい、侑は顔を顰めながら雨のように冷たい声を出した。

「なんや、可哀そうな俺を助けて自分はええ気持ちに浸りたいんか?」

違うと頭では分かっている。彼女は親切だからそう言ってくれただけのこと。ただ、誰にでも向けられる親切など、自分にかけてほしくなかった。
 目を瞬いた小雪は、ふ、とおかしそうに笑うと侑の手を取って傘の柄を握らせた。

「考えたことはなかったけど、似たようなものかもしれない」

思わず傘を持ってしまった侑は、見上げてきた小雪の微笑みに目を瞠る。何も言えないでいる彼に構わず、彼女は続けた。

「ただ、宮くんに風邪を引いてほしくないんだ。君のバレーをしている音が聞こえなくなるのは寂しいからね」

 離れて行こうとする小雪の手を思わず掴んだ侑は、その手の小ささに驚く。先日、階段で助けられたときにも思ったが、その辺の女子と変わらない腕の細さのように思えた。

「宮くん? どうかした?」

「俺は、お前から施しなんか受けへんぞ」

「施しって」

プッと、噴き出して笑った小雪は顔を逸らして肩を揺らしている。それがなんだか急激に恥ずかしくなってきた侑は、真っ赤な顔で噛みついた。

「なんもおかしなことあらへんやろ!!」

「ごめん、宮くんって面白いこと言うんだなって思っただけだよ」

 一しきり笑った彼女は、それじゃあと侑に向き直る。

「一緒に帰るのはどう? それなら、私は宮くんが濡れなくて安心だし、宮くんも濡れずにすむ」

「……なんか釈然とせん」

「でも、いつまでもここでこうしているわけにはいかないだろう?」

ここで職員にでも見つかって、北に注意される未来を想像した侑はぞわっと背中に悪寒が走ったのを感じた。

「お、お前がどうしてもって言うからや! 仕方なしやからな!」

「うん。ありがとう、宮くん」

 ははっ、と笑った小雪は当たり前のように、侑の手から傘の柄を持とうとする。触れた手のひんやりとした冷たさに驚いたものの、彼は傘の柄を彼女に渡さなかった。

「アホ、お前の方がちっこいんやから俺が持つ」

「ああ、そうか。ごめん、つい癖で」

そっと離れていった手を、どうしてか目で追ってしまった気まずさに侑はムスッとする。

「行こうか」

 同じ傘に入るため体を寄せてきた小雪に、侑の体は大袈裟なほど跳ねた。

「あ、ごめん。汗臭いかな」

腕に触れていた肩が離れて行ってしまうのが惜しい。そう思ってしまい、離れた距離をとっさに埋めた。

「そんなこと言うてへんやろ! 汗臭いんは俺かて一緒や!」

「……そうか。同じだね」

 ふ、と微笑まれて、これまで感じていた苛立ちも毒気も抜かれたようで、残ったのは何とも言えない気恥ずかしさだった。

 歩き出してしばらくの間、二人に会話はなかった。気まずく感じる侑と違い小雪は何とも思っていないようなのが、また彼の機嫌を損ねている。しかし、何も感じていないがために、雰囲気を変えたのも彼女だった。


「そういえば、宮くんのことは小春からよく聞いてるよ」

「別に人に話せるほど、仲良ぉしてるつもりないですケドぉ?」

そっぽを向きながら、フンと鼻を鳴らしてみても、小雪は何も気にすることなく小さく笑う。

「そんなことないよ。昨日も移動教室が分からなくて困ってるのを助けてもらったって言ってた。どうもありがとう」

「………」

こんなにも素直にお礼を言われてしまうと、悪態もつきにくい。ほんの少しだけ、コイツの傍は心地がいい。そう思ったしまったせいだ。そう言い訳しながら、引き結んでいた口元を緩める。

「……サムも角名も、ときどきお前の話しとる」

「そうか」

横目で見てしまった微笑む小雪の横顔に、また心臓がおかしくなりそうなほど強く跳ねた。なんだかよく分からない心臓の動きに侑は思わずジャージごと胸元を鷲掴んだ。

「治も角名も同じクラスでとてもよくしてくれるよ」

 ドキドキとしていた心臓の音が急に大人しくなる。代わりに胸がギュッと締め付けられるような、心の表面がざらつくような不快感があった。

「宮くん?」

"なんで、サムのことは名前で呼ぶん?"

立ち止まって唇を噛みしめる。そうでもしないと、よく分からない感情で涙が出そうだった。

「名前、呼んでもいいの?」

 ハッとした顔を侑を見る小雪は嬉し気に目を細めている。その顔に見惚れた侑は、慌てて頭を左右に振った。

「嫌なら無理には呼ばないよ」

苦く笑った顔に混じった寂しそうなものに、初めて彼女に対して悪いことをしてしまった気分になった彼は、怯むように唇を噛む。

「い、嫌なんて言うてへんやろ……。お、お前がどうしても言うんなら、呼ばせてやらんこともない」

「ありがとう、侑」

 双子である侑は恐らく、双子ではない人々より名前で呼ばれる機会が多かった。そのせいか名前で呼ばれても、馴れ馴れしいとも思わず、何も感じなかった。それなのに、小雪に名前を呼ばれた瞬間、それだけで自分の名前が特別のような、喜びのような何かに胸が満たされた。

「……おん」

 短く返事をするのが精いっぱいなほど、顔が熱い。どうしてか、彼女の傍にいるとそう思わされることが多いような気がした。
 会話がなくなり、雨の音に包まれる。何も言わない小雪が何を考えているのかを知りたくて、横目で見てみれば長いまつ毛に縁どられた目を伏せている彼女が見えた。触れ合う肩が熱い理由を知らない。知りたくない。本能的にそれを認めたら負けだと侑は知っていた。

「……なんで、名前呼んでもええかなんて聞いてきたん?」

 この話に意味はない。ただ、沈黙でこれ以上小雪を意識したくなかっただけの話題。それに目を瞬かせた小雪は、ふ、と小さく笑った。

「なんで治のことは名前で呼ぶんだ?って声が聞こえたからだよ」

クツクツと顔を逸らしながら笑う彼女に侑の顔からは血の気が引いていく。思った事がまさか口から出ていただなんて、信じたくはなかった。

「侑が嫌じゃなかったら、私のことも名前で呼んでほしい」

 自分ばかりが、顔が熱くなる思いをさせられているのが悔しい。その気持ちに突き動かされて傘を持ち上げた侑は、ずい、と小雪に顔を近づけた。

「……小雪」

 見開かれた彼女の目に自分だけが映り込んでいる。それが強い優越感を侑に覚えさせた。

「よろしく、侑」

柔らかに目を細めた顔は、小春と同じ顔のはずなのに似ていない。無意識に触れたいとすら思わされた。

「ここまで何も言わずに来てしまったけれど、侑の家はどの辺なんだ?」

 思い出したように言った彼女はもう微笑んではいない。我に返った彼は行き場を失った手を慌てて引っ込めた。

「へ? あ、ああ。俺んちはあとちょっとやけど……」

「そうか、じゃあ行こう。あまり遅くなっては家の人を心配させてしまう」

そう言われてやっと、小雪の家のことに気づく。今さら訊いてもいいのかと侑が悩んでいるうちに二人は一軒の家の前に着いた。

「あ」

「ここなのか?」

 察した彼女は、侑に軒下に入るように促す。

「ごめん、少し肩が濡れてしまった。すぐにお風呂に入って体を温め―――」

「―――お前んち、どっちや?」

明らかに不機嫌そうな顔をする彼が、彼女の声にかぶせるように尋ねると、小雪は何でもないように答えた。

「すぐそこだよ。だから心配しないで大丈夫」

「すぐそこなら、俺が送ってもかまへんよな?」

 困ったように眉を寄せた小雪は侑の頭へ手を伸ばす。避けるでもなく、それを受け入れた侑はされるがまま彼女の手に金色の髪を撫でさせた。

「ダメだよ、侑。侑は早く体を温めないといけないし、夜道は危ないから」

まるで小さな子どもにするように頭を撫でて笑う彼女が自分を心配しているのは理解できる。しかし、納得はできなかった。

「夜道が危ないんはお前や! お前、女やろが!!」

 至極当たり前のことを言った侑に、目を丸くする小雪は心底信じられないという顔をしていた。驚ききっている彼女に、彼も驚いて固まってしまう。
 そんなとき、唐突に玄関のドアが開き、前に立っていた侑にぶつかった。

「あだっ!?」

「およ? 喧しい思たら帰って来とったんか」

 玄関から出てきた治の手には二本の傘がある。どうやら、帰りの遅い侑を迎えにいくつもりだったらしい。

「分かっとるなら、もっと静かに開けろや!!」

治から傘を一本、ひったくると侑は傘を差して表へ一歩出た。

「サム、俺、コイツ送ってくるわ」

「いや、大丈夫。本当にすぐなんだ。それじゃ、治、侑、また」

 慌てて元来た道を戻ろうとする小雪の手を、侑の手が追いかけて掴む。

「ええから、黙って送られろや! お前になんかあったら気分悪いねん」

「せやで。ツムは図体と態度だけはデカいからなんかの盾くらいにはなるで」

なんやと!と取っ組み合いのケンカを始めそうな二人に、小雪は口を挟んだ。

「分かった! 分かったからケンカはしないでくれ」

やっと折れた小雪に、侑と治は同じ顔でニヤリと笑みを浮かべた。その顔で、自分がまんまと二人に嵌められたのだと気づいた彼女は小さくため息を溢す。

「盾は半分冗談やけど、もう夜遅いねんからツムに送ってもらい」

「うん、お言葉に甘えてそうするよ」

「なんでサムが言うん? 俺のセリフやろ」

 今度は本当に言い合いが始まってしまいそうな気がした小雪は、侑の手を引いた。

「それじゃ、治、また明日教室で。侑、行こう」

「おん、またな」

 手をひらひらと振っている治に、小さく笑みを返した小雪の手を今度は侑が小さく引く。先を行こうとする彼を追いかけるように歩き出した彼女を見送った治は、ふぅっと息を吐き出す。

(これでツムも自覚したやろ)

今夜からはあの迷惑なほど不機嫌な侑と一緒にいなくてすむのだと安堵してから家の中へ入っていった。

***

 本当は逆方向だとか、遠いのではないかと疑っていた侑は、思ったよりもあっという間に着いてしまった小雪の家の前で立ち尽くしていた。

「ほんまにここか?」

「ああ。母方の祖父の家なんだ」

 古い小さな民家の表札には言祝ではない苗字がかかっている。疑っている侑の顔を見た小雪は、信用させるために彼の目の前で引き戸を開けた。

「ただいま」

 その声を聞いて奥からバタバタと迫ってくる足音。飛び出してきたのは侑と同じクラスの小春だった。

「遅いっ! いつまで自主練してたの!! ご飯冷め……」

怒っていた彼女は開けられっぱなしの玄関の外に侑が立っているのを見つけて、みるみる顔を赤くさせていく。

「な、なん、なんで、宮くんが……!」

「あー……、言祝さんて、デカい声出るんやな」

 家での一面をクラスメイトに見られて固まっている小春に何か言ってやった方がいいとは思っても、普段から気を遣ったりはしない侑にそれはできなかった。

「学校を出るときに雨が降っていて、送って行ったら、わざわざ送り返してくれたんだ」

 さして気にした様子もなく家の中に入った小雪はすぐに戻って来て侑にタオルを差し出す。

「侑、本当に風邪を引いてしまうから、せめてコレを使ってくれ」

 濡れた彼の肩をずっと気にしていた彼女は、真っ白なタオルを侑の肩にあてる。

「あ、そうだ。宮くん、ちょっと待っててくださいね」

先ほどの勢いが嘘だったかのように軽い足音で奥へ入っていった小春を見て、小雪は侑に向き直った。

「本当にありがとう。女の子だからなんて言われたのは久々すぎて自分でも忘れてた」

 眉を下げて困ったように笑う彼女を見下ろしながら、彼は怪訝そうに顔を顰める。

「ハァ? お前、どっからどう見ても女やろ」

それを忘れるってなんやねんと思っている間に、小春が奥からパタパタと走って戻って来た。

「宮くん、小雪を送ってくれてありがとうございました。コレ、少しだけど1組の宮くんと一緒に食べてください」

 差し出されたのは、ラッピングで可愛らしさを引き出すよりも量を包むことを優先させたらしい色気のないタッパー。それにたっぷりと詰められたポテトサラダに目を瞬かせた侑は、プッと笑った。

「言祝さんて、思てたんと大分違うわ」

「え? そう、かな?」

 ハッとして口を押えた小春に彼は、いいと手を振る。

「気軽に話してくれてええよ。そもそも同い年で敬語の方がおかしいやろ」

「あ、うん。ありがとう」

「本当はお茶でも飲んでいってほしいところだけど、侑もこれから夕飯だろう?」

「おん。ほなな」

 軽く手を振って外へ出ていく侑を小雪と小春が玄関から見送る。すぐに家の中に入っていった小春と違い、小雪は雨音に混じって聞こえづらい侑の足音に耳を澄ませていた。

『夜道が危ないんはお前や! お前、女やろが!!』

 そう言ってくれた侑の声を思い出す。ふふ、と込み上げてきた彼女の笑みには嬉しさと自嘲が含まれていた。

***

 侑が持ち帰ったポテトサラダを狙っている影。それは彼が入浴しているのをいいことに、タッパーの蓋を開けた。

「おお、むっちゃ旨そう……」

 取り出した箸で一口運ぶ。咀嚼すればするほど、治の表情は明るく変化していく。

「オイコラ、サム!! お前、夕メシ食うたんやろ!? なに食ってんねん!!」

「ツム、ヤバい。これ、マジでヤバいで」

噛み合わない返事をする治に、ハァ?と腹立たし気に眉間にしわを寄せる侑は風呂上がりの為、肩にタオルをかけていた。

「むっちゃ旨い! こんなん食うたことない」

 旨い旨いと次々に口へ放り込んでいく治の勢いに焦った侑の手が制止をかける。

「ちょっと待てや!! 俺の分、考えてへんやろ!! 俺がもらったお礼やぞ!!」

「ハァ? 俺のナイスアシストの間違いやろ。誰のおかげで小雪と一緒に歩けたと思てんねん」

よこせとタッパーを引き寄せようとする侑と、取られまいと体をねじって距離を取ろうとする治。結局、母親が止めに入るまで二人の争いは収まることはなかった。
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