ヒロイン少年の苛立ち

 桜が咲いていた四月から二ヵ月。新生活にも慣れ始めた六月の体育館は、気温が高くしっとりとした空気をしていた。
 稲荷崎高校のバレーボール部はこの辺りではいわずとしれた強豪。テスト期間や体育館の点検などの理由がなければ活動が休みになることはない。その日も当たり前のように練習が行われていた。

 二年生の中でも有名な宮ツインズの一人、宮侑も普段通りの練習を行っている。キャーキャー騒ぐギャラリーを鬱陶しく感じながらも彼の集中が切れることはない。バレーボールを手にサーブトスを上げれば、思った以上の手ごたえを感じた。

(イケる)

 思い切り手を振りぬこうとした際に上がったギャラリーの歓声に、微かに侑の集中が乱される。狂ってしまった手元から繰り出されたサーブはコートに収まることなく、真っ直ぐに解放されていた体育館の扉に向かって飛んでいく。そこには、誰が目当てなのか体育館を覗いていた運の悪い女子生徒が立っていた。

 危ない!と叫ぼうと開いた彼の形のいい口が、薄く開いた瞬間。するりと視界に入ってきたそれは、とても鮮やかで美しい動きで侑のサーブを叩き返した。

 スパァン、と響いた音に体育館の中が静まり返る。勢いを失くしたボールが転がる音が聞こえそうなほど、静かになった体育館の中にいる人々の目は運の悪い女子生徒の前に立つ人物に向けられている。

「大丈夫?」

 背に入れて守られた女子生徒は目を丸くさせながら、ぎこちなく頷く。サーブが自分に向かってきたことにも、目の前の人物にも驚いて声が出せなかった。
彼女を助けた相手は、面と胴当て、そして籠手をつけており、どこを見ても剣道部員の装いをしている。

「そう、よかった」

 柔らかな声音は相手が微笑んでいるように感じられて、女子生徒の顔がじわりと赤く染まった。
 彼女の無事を確認した剣道部員は、まだ静かなままの体育館の中へ向き直る。そして近寄ってきた北へと頭を下げた。

「すみません。咄嗟とはいえ、大切なボールに失礼なことをしました」

「いや、ケガ人が出ん方がええよ。気にせんで」

ありがとうございます、と一礼した剣道部員は、侑たちにも一礼してから体育館から出て行った。

 とても綺麗な所作だった。そして、こちらでは聞かないイントネーション。何より、いとも簡単に自分のサーブを見切ったこと。

「なっんやねん!! アイツ!!」

すべてが気に入らない。最高のサーブトスを打ち損じた苛立ちも、邪魔をしたギャラリーの騒音も、あの剣道部員に比べれば霞んでしまう。

「何をそないにキレることあんねん」

 呆れた口調の治へ八つ当たりで睨みつける侑本人にも、どうして苛立つのか分からない。理由は分からないが気に入らないということだけはハッキリとしていた。

***

 その日の練習が終わっても、侑の理由のない苛立ちは治まらなかった。バレーに集中することはできたものの、練習が終わればあの苛立ちがふつふつと湧き上がってくる。
 あのサーブはコントロールは最悪だったが、威力は今の侑が出せる最高のものだった。それなのに、あの剣道部員は簡単に見切り、竹刀なんて細いもので綺麗に打ち返してきたのだ。

「クッソ! 腹立つ!!」

「侑、まだイライラしてんの?」

「調子のええサーブ、ド素人に見切られてむしゃくしゃしてんねやろ」

 バン!と叩きつけるようにロッカーを閉じれば、やれやれと言わんばかりに着替えていた角名が侑に目を向けた。

「そんなに気になるなら剣道場、見てくれば? 相手がどんなやつか分かれば少しは落ち着くんじゃない?」

「せやな。相手がどんな奴か分からんから無駄にイラつくんやろ。家までこの調子だと敵わんわ」

「ハァ!? 誰があんな気に入らん奴、見に行くか!!」

 はいはい、と聞き耳を持たない治と角名、銀島に連れられた侑は嫌々部室を出た。不貞腐れたような顔で歩く先は、初めて来る剣道場。今後も来る予定などなかったその場所を覗き込んだ。

 既に練習は終わっているのか、少しざわついている。イメージ的にもっと堅苦しい空気の場所だと思っていた侑は、部活が終わればどこも同じようなものなのかと意外に思った。

「侑のサーブ、打ち返したのってどいつだっけ?」

 誰だっけと探す角名たちに、つん、とそっぽを向こうとしたとき、ふと視線が剣道場の隅に引き寄せられる。綺麗に正座をしていた相手が、今日、自分のサーブをいなした奴だと侑には分かった。

「……アイツや」

瞬きもせず、相手を見据えている侑に、治たちの視線も向けられる。彼らに見られていることに気づかず、相手は一つ一つ丁寧で綺麗な所作をしていた。

 籠手を外した手は白く細く、美しくて見入ってしまう。その手が面にかかり、そして、そこから現れた横顔に、ついに彼は呼吸を忘れた。ざわざわとしている周囲と違い、そこだけ凛とした神聖にも思える雰囲気があった。

 流れた汗さえ輝いているようにキラキラと見える。伏し目で、首元の汗を拭う様子にはくらくらとしてしまいそうな艶っぽさを感じずにいられなかった。

「女の子やん」

 ぽつりと溢した治に、侑はハッと我に返る。つい見惚れてしまっていたが相手が女の子だと分かると、ここに来るまでに感じていた苛立ちが複雑なものへと変わりつつあるのを感じた。

「見たことないけど、綺麗な子やな」

感心した声の銀島に思わず頷きそうになった侑は、ぐっと堪えるように口を引き結ぶ。

「侑ドンマイ」

 おかしそうにクツクツと笑う角名に、姿を変えようとしていた苛立ちが元の形のまま居座ろうと踏ん張りだす。

「ハッ! 結局気にいらんままや!」

 フンッ!とそっぽを向いて侑は剣道場から歩き出す。気に入らない。あのサーブを見切ったのが女であったことも、見入ってしまうほど綺麗だったことも、自分に気づきさえしなかったことも。

(ああ!! 腹の立つヤツや!!)

 しかし、角名の言ったとおり、苛立ちが多少マシになった部分があったのも確かだった。

***

 翌朝。目が覚めても侑の中の苛立ちは燻ぶっていた。朝から機嫌の悪い侑に辟易した治は諦めに似た呆れ顔をしている。朝練は普通にこなしたものの、彼の機嫌は未だにナナメ。

「おい。ええ加減にせえよ。赤ん坊やあるまいし、いつまでご機嫌ナナメやねん」

「あ?  誰が赤ん坊やねん! ご機嫌ナナメちゃうわ!」

 朝練を終えて教室に向かう廊下でのこと、一緒に歩いていた角名のスマホがピコン!と通知音を出す。

「今日、転校生がくるらしいよ」

「へえ、何組?」

角名の隣を歩いていた銀島が聞けば、彼もそれ以上は知らないのか、さぁ、と答えてスマホを制服のポケットに戻す。
 いつもなら興味を示しそうな侑はやはり機嫌が悪く、話に乗ってこない。どうしたもんかと銀島に視線を向けられた治は何も言わずに首を振る。
ハァ、と溢した銀島のため息が朝の喧騒の中に紛れて消えていった。

 治と角名とは彼らの教室の前で別れ、侑も自分の教室へ銀島と一緒に入る。何人かに挨拶をされて適当に返しながら自席についた彼は、ぶすっとした顔で頬杖をついた。
そのまま何をするでもなく、頬杖をついていれば、嫌でも耳に入ってきたのは角名が教えてくれた転校生の話。どうやら転校生は女子らしい。

 女子。そう聞いて一番に侑の頭に過ったのは、昨日の面を外した美しい女子だった。鮮明に思い出せてしまうほど、彼女の姿は彼にとって鮮烈な印象だった。

 ガラリと教室のスライドドアが音を立てる。昨日と同じように教壇の前に担任教師が立った。

「もう知っとるやつも多いみたいやから、ええやろ。入っといで」

 先ほどよりも静かに開いたスライドドアの向こうから現れたのは稲荷崎の制服を着た、忘れられない女子生徒。大きく目を見開いている侑に気づく様子もなく、彼女は担任の隣に立った。

 女子だと騒ぐ男子を中心としたクラスメイト達を担任が注意すると、声はひそひそとしたものに変わった。

「軽く自己紹介してもらおうか」

「はい」

 担任から教室全体へと向き直った彼女は、緊張気味に息を吸い込んだ。

「初めまして。東京から来ました、言祝小春です。まだ分からないことばかりなので、色々教えてください」

よろしくお願いします、と頭を下げた彼女は、昨日聞いたものと同じイントネーションで話すのに、侑に違和感しか与えない。

「あの、よろしくお願いします」

 ハッとすれば考えていた顔がすぐ近くにきている。頬杖から顔を上げた侑に、にこっと笑った小春は隣の席に着く。

 すぐにペンケースとノートを取り出した彼女は、真っ直ぐに黒板の方を向き、侑の方を一切見ようとはしない。それが気に入らない。ムスッとしたまま、侑はとりあえず一時間目の授業を受けた。

 その後も話しかけるか、かけまいか悩んでいる間にも時間は流れ、気付けば昼休みに入るチャイムが鳴り響く。ずっとなんと声をかけるか考えていた侑は、ぐだぐだ考えることを止め、口を開いた。

「おい」

 やはり、昨日のことを確かめてやろうと、教科担当が教室を出て行ったのを見計らって声をかける。

「え? あ、はい」

きょとん、と目を瞬く様子が可愛らしく、ぐっと侑は怯んだ。不思議そうにしながら、言葉を待っている小春に、彼は怯んだのを隠すために高圧的な態度をとる。

「昨日はどうも」

「昨日、ですか?」

 なんのことかと言いたそうな彼女に、気持ちがピリつくのを感じながら侑はわざとにこやかな笑みを貼りつけた。

「俺、バレー部なんやけど」

「そう、なんですか……?」

 続かない会話に気まずそうな顔をする小春にとって、昨日のことは記憶に残るようなことではないと言われたようで、それが一気に侑の機嫌を損ねる。

「なんや、昨日のことなんかどうでもええとでも思っとるん? そっちが何考えとるんかは知らんけど、こっちの邪魔するようなこと二度とすんなや」

「え? あの?」

困惑している彼女を残し、大きく音を立てて席を立った彼は弁当をひっつかんで教室を出た。
 そのまま隣のクラスに入れば、後から銀島が追いかけてきて、角名を含めた四人で部室へと移動する。

「なあ、転校生。そっちのクラスにもおるんやろ?」

「ああ、治んとこにも来たんやっけ?」

「ていうか、侑はまだ機嫌悪いの?」

 治と銀島が普通に話している中で、不機嫌そうな顔をしている侑に角名の呆れたため息がこぼれる。

「なんや、悪いか? あの女、昨日のことこれぽっちも覚えてへん上に、すました顔しよって」

先ほど取り繕っていた薄っぺらいものが消え、イライラを隠さなくなった侑は八つ当たるように足を鳴らして歩く。

「やめろや、ガキくさい」

 嫌そうに顔を顰める治を睨みつけようと振り返った瞬間。侑はそこが階段であることを忘れていた。
 降りるために踏み出した足がズルリと滑る感覚がしても態勢を立て直せない。このまま走るであろう痛みを覚悟した。

「大丈夫?」

 しっかりと支えられた背中に感じる手にどくん、と心臓が早鐘を打つ。そして、聞こえてきた声は、先ほど教室で聞いたものではなく、昨日体育館で聞いたものだと分かった。そろり、と目を開いてみれば、視界いっぱいに入ってきたのは昨日剣道場で見た美しい顔だった。

「君、昨日のバレー部の人、だよね? どこか痛めた?」

「へ、平気……」

 バクバクしている心臓の音がうるさい。心配からか、顔を見るためにさらに距離を詰められ、彼女のサラサラとした髪が侑の鼻にかかった。

「あ、侑、大丈夫か? お姫様みたいになっとるやん」

「こんな図体も態度もデカいお姫様、俺なら願い下げや」

 彼らの言う通り、侑は王子様に助けられたお姫様のような状態で階段を上ってきた彼女に支えられている。プククク、と堪えきれていない笑い声で、我に返った侑は恥ずかしさで顔をさらに赤くした。

「相手、女の子だしね」

 先ほどから何枚も写真を撮っている角名の言う通り、この状況はいかにも少女漫画にありそうなシチュエーションであるが、侑と彼女の立場は完全に逆だ。

「男女は関係ないよ、角名くん」

 よっと、軽い動きで侑を立たせた彼女の腕は、それでどうやって侑のような大男を支えたのかと思うほどに細かった。

「元気なのもいいけど、階段ではほどほどにね」

ふ、とした笑みは柔らかいものの、先ほど教室で見たものとは違う。何が違うのかハッキリとは分からないが、似ているけれど違うということだけは確かだった。

「言祝さん、メシは?」

「ああ、今買ってきたところだよ」

 ひょい、と見せてきたゼリー飲料に、治は眉間にしわを寄せる。

「それ、全然足らんやろ」

「いや、早くすませて、軽く稽古がしたいんだ。気になることがあるから」

「うわ、休み時間まで練習とか信じらんねぇ」

 苦い顔をする角名と、当たり前のように治とも話している様子に、だんだんと思考が追い付いてきた侑は、またイライラとしだした。

「お、お前、教室のときと態度、全然ちゃうやんけ!!」

「教室?」

こてん、と首を傾げる様子がまた可愛らしく見えてしまい、侑は悔しさから唇をギュッと噛みしめる。
 午前中は移動教室もなく、休み時間のたびにクラスメイトに話しかけられていた彼女が教室にいたのは隣の席である自分が一番よく知っている。それなのに一体いつ、彼女は治や角名と知り合い、気軽に話せる仲になったというのか。

ぐるぐると回る疑問に、ああ、と彼女は納得したような顔をした。

「そうか、君のクラスなのか。小春は」

 クスっと笑った顔に、また侑の顔は熱を帯びる。直視していると、もっと熱くなってしまうと気が付いていても目を逸らすことができない。

「ツム、話聞いてへんかったんか?」

心底呆れた顔をする治に、赤い顔のまま侑は睨みつける。

「なにがや!!」

「だから、俺たちのクラスにも転校生が来たっつー話」

同じように呆れた顔の角名が、同じ説明を繰り返す為に手を彼女へと向けた。

「うちのクラスの言祝さん。ちなみに俺の隣の席」

「言祝小雪です」

 よろしく、と頭を下げた彼女に侑は、は?と呆けた顔をする。そして、もしかしてと身近な可能性に気がついた。

「君のクラスにいる言祝小春は私の双子の姉妹だよ」

 予感が当たっていたことを知らされた彼に今日一番の恥ずかしさが込み上げる。そうとも知らないで、あんなことを言えば小春が困惑するのも当たり前だ。それなのに、と思うと侑は頭を抱えて座り込んだ。

「なんも知らんでも当たり前やんか!!」

「お前、そっちの言祝さんに何言うたん?」

 じっとりとした視線を向けるのは治だけでなく、角名と銀島も同じだった。

「大丈夫。何かあったなら、私から小春に説明しておくよ」

それから、と、小雪は治たちへ顔を向ける。その仕草は何でもないものなのに、侑の目を捉えて離さない。

「私のことは名前で呼んでほしい。宮くんたちなら理由は分かると思うけど」

「苗字で呼ばれんの、紛らわしいもんな」

「そうなんだ」

困ったような笑みを治へ向ける小雪の横顔に、侑の顔はまたじわじわと熱を持つ。昨日からずっと抱いていた苛立ちが、やっと姿を変える。しかし、それを彼は素直に認めることも受け入れることも、まだできなかった。


 これがのちに稲高のラストサムライと呼ばれる小雪と侑の出会いだった。
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