春の再会

 淡い美しい色の花びらが風に、はらはらと舞っている。春特有の風景に目も心も奪われていた雪乃は、ハッと我に返って手元にある手描きの地図に目を落とした。

「えっと、こっちから来たから、あっち……かな?」

首を捻りながら、地図をくるくると回す。多分、今見ているものと地図の向きが同じになっただろうと、真新しい制服に身を包んだ雪乃は歩き出した。

 雄英のヒーロー科に進むにあたって両親とした約束がぼんやりと雪乃の脳裏に蘇る。

『雄英で教鞭を執っている相澤と親子であるということは隠すこと』

 親子であることが周囲にバレてしまえば、色眼鏡で見ない人間はいない。それは雪乃の努力が認められないことや、相澤の立場を悪くするものであって、二人にとっていいことはない。

『雄英の敷地内にいるとき、相澤は雪乃のことを一生徒以上に見ない』

 学校にいる間はあくまで先生と生徒。家でのような距離感でいてはいけない、ということは始めから雪乃も理解していたが、改めて言葉にされたことで身が引き締まるような緊張を覚えた。そして、それは相澤だけでなく、小さな頃から知っている山田や、香山たちのことも含まれている。

『学校では、相澤雪乃の名前を使わない』

 前述の親子関係を隠すため、本名である"相澤雪乃"の名前を使わない。苗字が同じなのは偶然で通すこともできるだろうが、余計な勘繰りを避ける意味があった。

 "相澤"の代わりに桜の旧姓である"防人"の苗字を使うことも考えられた。しかし、今日から雪乃の使う苗字は防人ではない。

 曲がり角を抜け、視界に飛び込んできたものに雪乃は大きく目を見開く。そして手元の地図を見ては首を傾げた。

「あ、あれ?」

 地図を見ながら歩いてきたはずなのに駅まで戻って来てしまった雪乃は、キョロキョロと見回す。この前、一度、桜と来たときはすんなりとたどり着けたのに、どうしてこうなってしまったんだろうと考え込む。

(お姉ちゃんに電話する? でも、もう仕事に行ったかもしれないし……)

 考え込んでいても仕方ないと、先ほど出てきた駅に向かう。同じ場所からもう一度地図を見ながら歩き出した。

***

「あ、あれ……?」

 地図を右に左にくるくると回しながら歩いて出てきた場所は、これまで見たことのない場所だった。迷うだろうと予想して、かなり早めに出て来ていたため、駅に同じ学生服を着た人はいなかった。それがこんな結果になってしまうなんてと、雪乃の視線が足元へと落ちる。
不安と焦りを感じながら、元来た道を戻ろうとすれば、角を曲がってきた人に思い切りぶつかってしまった。


 尻もちをつきそうになった雪乃は手を掴まれ、引き寄せられるように立たされた。

「ご、ごめんなさい!」

「いや、俺も前を見てなかった」

慌てて頭を下げた雪乃の視界に入った相手の足元。もしかしてと期待した雪乃の顔がおもむろに上げられる。

 いまだに手を掴んでいる相手は男の子。雄英の制服を纏い、左半分が赤く、右半分が白い髪をした彼の整った顔には大きな火傷の跡がある。

「大丈夫か?」

「は、はい。あの、雄英の方、ですよね?」

「見りゃ分かんだろ」

素っ気ない声音で話しかけられることはよくあるというのに、彼からのものは相澤のものとは違い温度がなく、どこまでも冷たい印象を受けた。

「そうですね。すみません。あの、助けていただいた上に、図々しいお願いなんですけど、私、道に迷っていて……。その、雄英まで連れて行ってもらえませんか?」

 おずおずと頼んだ雪乃は小さくなりながら相手を見上げる。声と同じように冷たい目をしているオッドアイ。怖いと思ってもおかしくはないのに、どうしてか雪乃には悲しそうに見えていた。

「……ついてくんなら勝手にしろ」

「ありがとうございます!」

 一緒に行こうとは言ってくれなかったけれど、これで学校にたどり着けないという不安からは抜け出せる。安堵感と喜びで、ほっと息を吐き出して笑う雪乃に、目の端で見ていた彼の胸は小さな高鳴りのようなものを感じた。
 よく分からない感覚がする胸元を一つ撫でると、気のせいかと歩き出す。その後ろを雪乃がちょこちょことついて歩いた。

 雄英まで歩く間、二人に会話はなかった。彼はいかにも話しかけるなとばかりに近寄りがたい雰囲気を出し、雪乃は雪乃で帰りは一人で歩けるようにと道を覚えるのに必死になっていて気が回っていなかったからだ。

 黙々と歩いていれば、たくさんの桜と大きな校舎が目の前にある。校門をくぐり、ほう、と感嘆のため息を溢した雪乃は無事にたどり着けたことからの安心感で頬を緩めた。

「どうもありがとうございました!」

笑顔の雪乃が立つ奥に、春の空と舞う桜の花びら。一つ一つの花びらが、まるで彼女が立っている場所を彩っているかのようで、思わず彼は見入ってしまっていた。

「私、あ、えっと、"果敢無雪乃"です。次に会えたら、ぜひ、お礼をさせてくださいね」

 頭を下げた雪乃に彼は無意識に自分の名前を口にする。

「轟、焦凍……」

小さくて、風が吹いていたら聞こえなかったかもしれない声は、不思議なほどしっかりと彼女に届いていた。
 名前を教えてくれたことが意外で目を瞬いた雪乃は、また笑みを見せる。

「轟くん」

さぁ、と吹き抜けていく風に、揺れる彼女の青みがかった美しい白髪(しろかみ)。長い髪を押さえる仕草さえ、轟の鼓動を速まらせる。

「本当にありがとうございました。それでは」

 もう一度丁寧に頭を下げた雪乃は校舎へ小走りで向かっていく。その背中を彼は小さくなるまで見送ってしまっていた。

***

「あ、あれ? こっちから来たから……」

 校舎の中に入ったはいいものの目的の教室にたどり着けず、先ほど道で迷っていたときのようにキョロキョロと周りに目を向ける。右も左も同じような教室の並ぶ長い廊下の真ん中で雪乃は焦っていた。

(轟くんに教室が分かるか聞けばよかった……)

無事に着いた嬉しさで浮かれていたことを恥ずかしく思いながら、誰か人はいないかと探しながら歩き出す。
 教室に向かうルートから外れてしまっているのか、近くに人影はない。道に迷って登校できない高校生というのも恥ずかしいが、校舎内で迷って遅刻するというのも恥ずかしい。なんとかしなくてはと急ぎ足で角を曲がったところで、少し遠くに二人の男子生徒と思われる背中を見つけた。

「あのっ! すみません!」

 大きく息を吸い込んで声をかければ、二人で歩いていたうちの一人は何でもないように振り返り、もう一人は大袈裟なほど体を震わせてから、ゆっくりと振り返った。

「ん? どうしたの?」

金髪の彼は相手を安心させるようなニコッとした笑顔で雪乃を見る。そして、その隣にいた青みがかった黒髪の男子生徒は雪乃の姿を見ると、みるみるとつり上がった目を丸くさせた。

「すみません、教室までの道のりを教えていただきたいんですが、お時間、大丈夫ですか?」

「お! 一年生だよね! ピッカピカの」

もちろん、いいよ!と快く教えてくれる金髪の彼の言葉を忘れないように、雪乃はメモを取る。書き込んでいるのは、雄英までの道のりが描かれた、桜手描きの地図だった。

「どう? 大丈夫そう?」

「は、はい! ありがとうございました!」

 多少不安を感じながらも頭を下げた雪乃は教室へ向かおうと踵を返す。

「ま、待って!」

 しっかりと手を掴まれ、振り返った雪乃の視界に入り込むのは、これまでずっと黙り込んでいた男子生徒。彼は青みがかった黒髪にとがった耳、そして鋭いのに自信がないように見える目が印象的だった。驚いているのは手を掴まれている彼女だけでなく、金髪の彼も同じようだ。

「環?」

 何かあったのかと言わんばかりに名前を呼ばれた天喰は、ハッとして掴んでいた雪乃の手を離す。

「ご、ごめん! い、いきなり手なんか掴んだりして……」

「いえ、びっくりはしましたけど……」

 無意識に手を掴んでいたことに気づいた天喰の顔色はどんどんと青くなり、あっという間に真っ青になっていた。

「あの、大丈夫ですか? 具合でも―――」

真っ青になって冷や汗を垂れ流す彼を心配して近寄った雪乃は、先ほどまで自分の手を掴んでいた大きな手へ、白い手を伸ばす。

「―――だ、大丈夫!! むしろ、俺なんかが触れて気持ちの悪い思いをさせて本当に申し訳なくて!!」

捲し立てる彼を、ぽかんとした様子で聞いている雪乃と違い、珍しいものでも見たとばかりに金髪の彼は笑った。

「どうしたんだよ、環。ちゃんと言わないと、この子も困るだけなんだよね」

「こ、困らせるつもりじゃ! い、一年生ならまだ不安だろうから、その教室まで送って行った方がいいんじゃないかと思っただけで……」

なら、そう言ってあげればいいんだよね、と金髪の彼に言われた天喰が雪乃へ向き直ると、先ほど触れることのなかった手が伸びる。白く細い両手は当たり前のように天喰の手を包んだ。

「本当ですか! 凄く助かります!! 私、酷い方向音痴で、今教えてもらった通りに歩いたつもりで教室に行けなかったらどうしようって思ってたんです」

 近い距離で嬉しそうに、にこにこと笑う雪乃。整った顔立ちが可愛らしく笑う様子に、天喰は耳の奥で心臓が異様に早く動く音を聞くことしかできなかった。

「そういうことなら、遠慮しないで最初からそう言ってくれていいのに」

「すみません。あんまりお時間を頂いてはいけないかと思いまして」

 苦く笑う雪乃に、金髪の彼も笑みを返す。

「ところで、ソレ」

指をさされた先を雪乃の目が追うと、そこには天喰の手を握る自分の両手があった。

「そろそろ離さないと環が気絶しそうなんだよね」

「え?」

 手から、ゆっくりと顔を上げれば雪乃の目に、今にも煙が出そうなほど顔も耳も真っ赤にさせ、小刻みに震える天喰が映る。どうして彼がこんな顔をしているのか分からないでいる彼女は首を傾げつつ、そっと手を離せば、息でも止めていたのか胸に手を置いた彼は大きく息を吸い込んだ。

「大丈夫。可愛い女の子に手を握られて緊張してただけだから。気にしなくていいよ」

金髪の彼から視線を環に戻す。かわいそうなほど真っ赤になった彼はきつく目を閉じていた。なんだかとても悪いことをしてしまったような気持ちになっている雪乃の向かいに立つ、天喰がようやく様子を窺うように片目を開けた。

「あの、ごめんなさい。私、嫌な思いをさせてしまっ―――」

「―――違うっ!」

 遮られた大きな声に驚いたのは雪乃や金髪の少年だけでなく、声の主である天喰も同じだった。先ほどまで申し訳なさそうにしていた彼女は丸くした目を何度も瞬かせている。

「嫌な思いなんか、してない……!」

するわけがない、とは言葉にできなかった天喰は熱くて仕方ない顔を背ける。そんな彼をを、小さく笑う声がした。俯いたままの天喰の目が、ちらりと動いて、笑っている相手を見た。

「ごめんごめん。からかってるわけじゃないよ。あの環が、って思ったら微笑ましくなっただけ」

 何か言いたげに口を引き結ぶ天喰から状況が飲み込めていない雪乃に視線を向けた彼は、にっこりと笑いかける。

「自己紹介がまだだったよね。俺は通形ミリオ。こっちが天喰環」

「あ、えっと、果敢無雪乃です」

先輩だと名乗る二人に頭を下げた雪乃は、少し前に轟に名乗ったときと同じ緊張を味わっていた。

 今の自分は果敢無雪乃だと理解していても、つい名前を口にしようとすれば相澤の名が出そうになってしまう。誰にも気づかれないように、きゅっとスカートを握った彼女は、"果敢無"の苗字を使うきっかけになった桜との会話を思い出した。

『防人の苗字を使うのは、あまりお勧めできません』

 目を伏せた桜はどこか悲し気で、理由を知りたくても聞ける雰囲気ではなかった。何も言えずに同じように俯いた雪乃に、彼女は優しく理由を話し出す。

『防人は古い家で、元々は武家だったそうなんです。もう武士がどうこうだなんていう時代ではないのに、今でも古いしきたりに囚われているところがあります』

ちらっと目だけを上げてみれば、困った顔をした桜が小さく悲し気に微笑むのが見えて、雪乃はまたすぐに目を逸らした。

『だから、不用意にあの苗字を使って雪乃に嫌なことがないようにしたいんです。それで、考えたんですが……』

言葉を切った桜の手が、俯いて表情の見えない雪乃の頭に触れる。優しく撫で始めた手の心地よさに、雪乃の顔は無意識に上がりだす。

『"果敢無"の苗字を借りるのはどうかなって』

『果敢無?』

どこかで覚えのあるような苗字に首を傾げた雪乃に、彼女は頷き返す。

『私の母の旧姓です。おばあちゃんが雪乃のことを守ってくれますようにって、願掛けの意味もあるんですがどうでしょう?』

 いつでも桜は自分のことを気にかけてくれている。そこには他人には向けられることのない家族にのみ向けられる優しさと愛情を感じて、雪乃は嬉しそうに頬を染めながら頷いた。

『おばあちゃんの苗字、私が借りていいならそうしたい』

『きっと喜びますよ』

ふふ、と笑う彼女に雪乃もつられて笑う。もうそのときには相澤の苗字を名乗れない疎外感や寂しさを感じていなかった。

「果敢無さん?」

 ハッとして勢いよく顔を上げた雪乃に通形はもう一度心配そうな声をかける。

「どうしたの? ボーっとしてたみたいだけど、何か不安なことある?」

「え、あ、いえ。大丈夫です。初日なので、ちょっと緊張はしてますけど」

当たり障りのない答えを口にすれば、そっかと通形は追及することなく納得してくれた。

「じゃあ、とっておきのギャグ。果敢無さんの為に見せちゃおっかな!」

 何故か腕まくりをする通形に、彼が何をしようとしているのか察した天喰が守るように雪乃の前に出る。

「ミ、ミリオ! それよりも早く彼女を教室に送り届けてやるべきだ!」

「えー? そんなに急がなくても大丈夫だよ」

納得していない通形に首をブンブンと左右に振った天喰は、雪乃の手を取って歩き出す。

「行こう! あ、あれは君の目に映すべきじゃない!」

「は、はい……?」

 訳も分からず頷いてしまった雪乃は自分の前を歩く天喰の背中を見つめる。歩くたびに揺れる髪の間からチラリと見えるとがった耳。その耳は赤く染まっていて、雪乃の目はそればかりを見てしまっていた。

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