現実に勝てない夢

 雪乃が相澤と桜の娘になってから、いくつもの季節が過ぎた。初めての入学式に、中学受験を経験した雪乃は次の春に中学三年生になる。嫌でも将来や進路というものを意識させられる歳になっていた。

 写真たちが飾られたリビングで雪乃は取り寄せた資料を見比べては考え込んでいる。青みがかった美しい白い髪を耳にかけたとき、ローテーブルの上に雪乃が愛用しているマグカップが置かれた。

「一息入れませんか?」

 資料から顔を上げると、にこっと桜が柔らかに微笑んでいる。いつもあたたかいその笑みに、難しい顔をしていた雪乃も笑顔になった。

「ありがとう」

マグカップを手にした雪乃の隣に、当たり前のように桜が腰を下ろす。そして、彼女も自分のマグカップに口をつけた。

「美味しい」

 口の中に広がるココアの甘さが、考えすぎて疲れていた雪乃の頭と悩む胸の中を癒す。ほぅ、と息を吐いた雪乃を覗き込む桜の黒髪がさらさらと流れた。

「どうですか? 志望校、決められそうです?」

「まだちょっと悩んでて……」

 料理好きな桜の影響で、小学生に上がった頃から雪乃は料理をするようになっていた。最初は簡単なものから少しずつ教わりながら料理を覚え、中学に上がる頃には自分の弁当は自分で作れるほどになった。
しかしそれでも、桜の料理が好きなのは変わっておらず、ほぼ毎朝、桜と一緒に弁当を作っては彼女と交換している。ちなみに、相澤の弁当は彼女たちが作ったおかずが半々に入れられていることが多い。

「まだ二年生ですから、そんなに明確に志望校を決めなくてもいいんじゃないですか? 将来的にやりたいことは大まかに決まってるんですし」

 桜の言う通り、雪乃は将来をおおまかに考えている。それが調理に関するものだった。気持ちが落ち込んだとき、疲れたとき、何度も桜の作る料理に励まされた。自分もそんなふうに人を励ますことができたら。そんなことができるようになりたい。そう思うようになれば、自然と食に関わる仕事がしたいと考えていた。

 しかし、まだ具体的にどのように食に関わっていくのかは決めていない。だからこそ、その先の専門学校や大学選びに影響する高校で悩んでいた。

「お姉ちゃんは? どんな風に高校を決めたの?」

「私は……」

 桜が思い出すのは中学三年生の時のこと。相澤に初めて会った日のことに思いを馳せれば、整った彼女の顔はほんのりと赤く染まっていく。

「あ、分かった。消ちゃんでしょ?」

「へっ!? あ、えっと……」

 おかしそうにくすくすと笑う雪乃に、桜は赤くなった顔で苦笑いをして見せた。

「……そうです。初めて会った消太さんに恋をしてしまって、それで追いかけるように雄英に」

恥ずかしさで目を逸らした彼女が意外で雪乃は目を瞬かせる。そういえば、二人が付き合ったきっかけなどは聞いたことがないことに気がついた。

「ねえ、お姉ちゃんと消ちゃんはどういうきっかけでお付き合いし始めたの?」

「今日は随分と訊いてきますね……」

恥ずかしいと、顔を赤らめた桜は誤魔化すようにマグカップに口をつける。そんな彼女へ甘えるように雪乃は話の続きを強請った。

「聞いたことないから気になるんだもん」

「そ、それは……」

「押しに押されて付き合った」

 言いにくそうに、もごもごと口を動かす彼女に代わって口を開いたのは、風呂上がりの相澤だった。意外だとばかりに瞬く雪乃の目は、濡れた髪をタオルで拭っている彼へと向けられている。

「そうなの?」

「ああ」

短く答えた相澤が隣に座ると、桜は慌てて否定するように手を振った。

「た、確かに好きって最初に言ったのは私ですけど、しつこく付きまとったりしたわけじゃないですからね? 勘違いしちゃダメですよ?」

「毎日会いに来てたじゃねぇか」

「そ、そうですけど……っ!」

珍しく悔しそうにしている彼女と、ククッと喉の奥で笑っている彼の低い声。今日も両親の仲が良くて雪乃は無意識のうちに嬉しそうに笑っていた。

***

 変わらぬ平和で穏やかな日々を過ごしていたある日。険しい顔をした相澤が明け方に帰宅した。ちょうど、目が覚めてしまっていた桜が玄関まで出迎えると、彼は手にした封筒を何も言わずに突き出した。

 血が出てしまいそうなほど唇を噛みしめている相澤の様子を見てから、桜は受け取った封筒の中身を確認する。綺麗な黒い目が文字を追うごとに険しくなった。

「これ……! こんなのって……!!」

頷く相澤と同じように彼女の整った顔が悔しさと悲しさでくしゃりと歪む。一度、握り締められた跡のある封筒は、また桜の手によってクシャクシャにしわが寄る。

「お姉ちゃん? 消ちゃん帰ってきたの……?」

 トイレに起きてきた雪乃が眠そうに目を擦りながら廊下に立っていた。弾かれたように振り返った彼女の複雑な表情が泣き出してしまいそうに見えて、先ほどまで感じていた雪乃の眠気はさっぱりとなくなった。

「……雪乃、話がある。リビングで待ってる」

視線を落とした桜の手を引く相澤がリビングに入っていくのを見送った雪乃の胸には、何とも言えないモヤモヤとした不安が広がる。

(大丈夫……)

 心の中で何度も自分に言い聞かせながら、雪乃は胸元をぎゅっと握り締めた。

***

 険しい顔をした相澤と悔しさを滲ませた表情の桜と向かい合うように座った雪乃は、場の雰囲気から緊張せずにはいられない。一体何を言われるんだろうかとドキドキしている雪乃の前に、先ほど桜が握り締めていた封筒が置かれた。

「今日、俺のところに届いた。お前の進路に関係してる」

「進路?」

頷いた相澤は封筒に手を置きながら、雪乃の目をじっと見た。

「国が、お前の進学先を指定してきた」

「え……?」

どうして、一般人ある自分が進学先を、それも国から指定されるのか。何一つ理解できない話に雪乃は困惑する。

「進学先は、雄英高校ヒーロー科」

「雄英って、消ちゃんたちが出たところの雄英?」

"ああ"と短く答えた彼は淡々と説明を続ける。

「今は俺が教師をしてる、その雄英だ」

「な、なんで? どうして国が私の進路を決めるの……?」

 自分は決してヒーローにはなれないし、なろうとは思わない。間違っても両親である相澤と桜の職が嫌いなわけではないが、自分の役に立たない個性なんかでは周りの迷惑になるだろうと雪乃は思っていた。

 すぅ、と相澤が息を吸い込んだ音が微かに聞こえる。深く吸い込んだ空気で、彼は覚悟を決めてこの先を話し出した。

「国は、お前の個性を気にしてる」

「私の、個性……?」

人の役に立てない、忌々しい個性。血の繋がった家族から嫌われるきっかけになった自分の個性の何を国が気にしているのかと、雪乃は更に困惑した。

「雪乃、お前の個性はお前が考えてるよりも強い個性だ。だから国は今になって、お前が個性を暴走させる恐れがないか、(ヴィラン)になる可能性がないかなんてクソなことを気にし出した」

 小さな頃、個性訓練をつけてもらう前に同じことを相澤は言った。そして"強い個性だからこそ、コントロールができるようにならないといけない"とも。

「国はお前に二つ、選択肢を出してる。一つは、雄英のヒーロー科に進学すること。もう一つは公安の監視下に置かれること」

 "監視"という言葉に雪乃は頭をガツン、と殴られたような衝撃を受けた。公安の元へ行ったら、もうここには帰れない。もう相澤や桜には会えないなんてことは、想像することさえ雪乃にはできなかった。

 真っ青な顔をしている雪乃の向かいで相澤はきつく拳を握る。何も考えられないでいる雪乃に、これまでずっと口を閉ざしていた桜がやっと声をかけた。

「……どう、しますか?」

ぽつり、と漏れたような声は弱弱しく、これまで雪乃が迷ったときにかけてくれていた凛としたものではない。

「公安の監視下に入れば、雪乃の望む進学ができます。でも、ここにはもう帰ってこられない。雄英に行けば、望む進学はできません。でも、一緒にいられる」

俯く雪乃の顔は青みがかった白い髪に隠れて見えない。その様子に、初めて会った頃の小さな彼女の姿を重ねた桜は静かに立ち上がった。

「私は雪乃と一緒にいたい。今だけじゃなくて、これから先もずっと……。でも、貴女の将来は貴女のものです。だから、ゆっくり考えてください」

 そっと回された細い腕にしっかりと抱き寄せられる。微かに震えている桜の腕に触れながら雪乃は顔を上げて、向かいに座っている相澤を見た。

「まだ、時間はある。俺たちはお前の気持ちを最優先する」

 そう口にする彼は唇が切れてしまうのではないかと思うほど強く噛みしめている。血の繋がった両親たちよりも長い時間を過ごし、惜しみない愛情をくれた相澤と桜。二人は雪乃にとって間違いなく家族で、両親はこの二人のことでしかなかった。

「……私、消ちゃんとお姉ちゃんから離れたくない。だから―――」

 離れ離れになるか、ならないか。この二択しかないのであれば雪乃の答えは始めから一つしかない。

「―――雄英に行く」

目を見開いて自分を見る二人の同じような表情を少しおかしく感じながら、雪乃は小さく笑ってみせた。

「小さい頃にしたことで、害があるって思われても仕方ないよ。私、それだけのことをしちゃったんだし、自業自得―――」

「―――お前は誰かを傷つけたりしない!」

これまでずっと冷静でいた相澤の目がつり上がっている。悲しみと悔しさが混ざり合い、それを覆う怒りで見つめられた雪乃は驚いて口を噤んだ。

「雪乃。私たちは貴女がそんなことをしたりする子じゃないって、ちゃんと分かってます」

 これまでよりも強く頭を抱きしめられた雪乃の顔が、あたたかな桜の胸元に埋まる。トクトクと聞こえてくる心臓の音に、じわりと雪乃の視界は歪んでいく。

「……貴女を守ってあげたいのに、頼りない私でごめんね」

優しく頭を撫でてくれる手に、ついに雪乃の目から涙が溢れだした。

「もし、雪乃が雄英を卒業しても食関連の仕事に就きたいなら、その方面に強い大学にいけばいい」

 桜の胸に顔を埋めていた雪乃が顔を上げる。相澤に向けられた桜によく似た目からはまだ涙がぽろぽろと流れていた。

「で、でも、学費とか……」

「お前の将来に関わることなら、俺たちに親らしいことくらいさせろ」

淡々とした口ぶりと、目を逸らす相澤の様子は、一見すると素っ気ない。しかし、それが照れ隠しであることは、桜だけでなく雪乃もずっと昔から知っていた。

「お金の心配ならしなくて大丈夫ですよ。これからしっかりとお父さんが働いてきてくれますから。ね、消太さん」

 くすくすと笑う、からかうような口調が、この場に居座っていたどんよりとした空気を変える。笑う桜を目の端で見た相澤が顔を背ける。長髪で隠れる前に、その横顔が淡く染まっていたことに気づいた雪乃も思わず笑みをこぼしていた。

 こうして、中学二年生の初冬に雪乃の進学先が雄英高校ヒーロー科に決まった。

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