暖かな腕の中

 目の前で起きていることが受け入れられない。真っ白になってしまった頭は働かず、体は受け入れがたい恐怖にガタガタと震えだす。喉が焼け付いてしまったみたいで声が出せない。

 その日はいつも通りの朝で、相澤も家から学校へ向かったのを知っていた。本当に何も変わらない朝で、桜にからかわれてムスッとした顔をしていたのだって見ていた。
 それなのに、彼は今、血の海の中で倒れている。ピクリ、とも動かない彼の姿から雪乃の目は少しも動かすことができない。

「あ……、やっ……?」

 ただただ受け入れがたい恐怖に雪乃の頭も胸も埋め尽くされていた。

***

 警察に事情聴取まで教室で待機するよう指示された1Aの生徒たちは教室へと戻って行く。相澤の命に心配はないと聞かされても、彼のあの状態を直接見てしまった雪乃の気持ちは落ち着かない。整わない呼吸を何とかしようと思っても上手く行かず、足が微かに揺れた。

「果敢無、大丈夫か?」

 トン、と肩に触れた手に体を強張らせた彼女に山田は眉をひそめる。ここでは教師としてでしか関われないが、長年見て来ていた雪乃の様子がおかしいことに、いち早く彼は気が付いた。

「……すみません。気分がよくないので、少し風にあたってもいいですか?」

 少し青くなっている顔で微笑むのを見て、山田は顔をしかめる。そして、あくまでも教師として彼女に質問した。

「大丈夫なのか?」

相澤のことでショックを受けていることを聞かれているのだと理解しながら雪乃は、こくん、と小さく頷く。その様子は、子どもの頃の彼女を山田に思い出させ、頼りない印象を抱かせた。

「あんま無理スンナ。保健室……は、使ってっから、職員室行くか?」

「いえ、大丈夫です。本当に風にあたっていればよくなりそうですから」

 頭を下げた雪乃がどこかへと歩いて行く。小さな背中はきちんと歩いているというのに、弱弱しく頼りない。声をかけてやりたいが、この場ではそうもいかず、山田はただ見送ることしかできなかった。

***

 どこをどう歩いてきたのか自分でも分からない場所で、ようやく雪乃の足は止まる。誰の気配もない中庭にポツンと置かれたベンチに座ることなく、彼女は静かに涙を流し始めた。

 じわじわと心に広がる恐怖。具体的に何がとはっきり言葉にすることができない不安に完全に押しつぶされていた。

「う、あ……」

 目から涙が溢れて止められない雪乃は両手で顔を覆う。一人で(ヴィラン)と戦闘したことから始まった恐怖は、瀕死の相澤を見てさらに膨れ上がった。
偽物とはいえ、ヒーローを目指している建前で雄英にいる。だから、怖がっている姿を誰にも見せられないと思い込んでいた雪乃はじわじわと自分で自分を追い込んでいた。

 早く気持ちを落ち着けて教室に戻らなければと、頭の隅の冷静な部分でそう考えるのに理性と感情は別物で雪乃の胸の中はぐちゃぐちゃだった。誰にも見られないうちにと焦る気持ちとは裏腹に、焦りは募っていく。


 近づいてくる足音に、誰にも見つからないと思っていた彼女の肩が大げさに揺れる。泣いている顔を見せるわけにはいかないと、何度も涙を拭ってみるがどうしても涙が止められない。

 バタバタと近づいてくる足音に、彼女がビクッと体を強張らせたとき、足音の主は雪乃の後ろで足を止めた。

「よかった。果敢無、さん……」

 荒い呼吸に混じった彼の声で呼ばれてしまい、つい、雪乃は顔を上げる。涙をぽろぽろと溢しているのを見た天喰は、心配で眉根を寄せた。

「さっき、話を聞いた。……ケガは?」

 "大変だったね"なんて言えない。入学したばかりの1年生が(ヴィラン)の襲撃に遭った。訓練を積んでいる2年生や3年生とはわけが違う。
 それに天喰が聞いた話では、彼女は倒れた相澤を庇って(ヴィラン)に立ち向かったらしい。訓練を受けていない雪乃は一体どれだけの恐怖を味わったのだろうと思うと彼の胸は苦しくなった。

 眉を下げている天喰は、情けない顔をしているようにも見える。小さく口を開こうとした彼女は、声を出したら嗚咽を上げてしまうような感覚に、慌てて俯いて首を振った。
 涙の膜でぼやける視界の中、足元にあった葉が消える。ゾクっとした雪乃は思わず自分の体を抱きしめた。

「果敢無さん? どうかした?」

 一歩距離を詰めてきた天喰から雪乃はとっさに離れる。自分の体を巡るこの違和感には覚えがあった。
 相澤と初めて会った日に起こした個性の暴走。不安に飲み込まれ、絶望に近いものを感じている今、またあの日のような暴走を起こすかもしれない。もし、また個性を暴走させたら、公安の元に強制的に連れていかれるのではないかという恐怖が雪乃の中で膨らみ、個性のコントロールを失わせる。

「ダ、ダメ……来ちゃ、ダメ……!」

 涙を流しながら首を振った彼女の異変に気付いた天喰の顔に緊張が走った。雪乃の周りにあるものが少しずつ消えていく。
 目を固く閉じ、自身を抱えるようにしている彼女に、彼は意を決して前に出た。

「え……?」

 驚きのあまり、雪乃は目を開ける。包まれている匂いと体温の優しさに顔を上げれば、彼女は天喰の腕の中にいた。

「……大丈夫、俺が、傍にいる」

ぎゅっと抱きしめてくる彼にドキドキとしてしまい、丸くなった彼女の目から涙は止まっている。彼の胸に耳を押し付ける形になっている雪乃に、天喰の鼓動が聞こえた。
 強く早い胸の音は自分の物と同じ。個性を暴走させかかっている自分に触れるのは、どれほどの勇気がいっただろうと思うと、雪乃の目には先ほどとは違う涙が溢れていく。

「落ち着いて。ゆっくり息をして」

 宥めるために背中をさすってくれる手に、ふと、子どもの頃、遠慮がちに触れてくれた誰かの小さな手を思い出した。

『だ、大丈夫、だから……泣かないで』

 遠くなってしまった記憶にある、ぼんやりとした幼い声が聞こえたような気がした雪乃はおもむろに顔を上げる。

「大丈夫……?」

 眉を下げた心配を滲ませた優しい天喰の表情に彼女は見入ってしまう。まだ目尻に溜まっている涙を躊躇いがちな指に拭われて、目を伏せた雪乃は、柔らかに目を細めて天喰を見上げた。

「うん……ありがとう」

 普段鋭い印象を与える目を大きく瞠った彼の顔がじわじわと赤くなる。そして、自分が何をしているのか気づいた天喰は勢いよく雪乃から離れた。

「ご、ご、ご、ごめんっ!! また懲りずに抱きしめてきてって思うだろけど、君を落ち着かせようと思っただけなんだ!!」

 大きく手を振って全力で否定をする彼を、泣き止んだ彼女はポカン、とした表情のまま見つめる。何も言わない雪乃に天喰の悪い想像は留まることなく膨らんでいく。

(絶対に変態だと思われた。気持ち悪いって嫌われるに決まってる……!! 付き合ってもない俺みたいな男がいきなり抱き着く正当な理由なんかどこにもありはしないし、彼女に嫌われたらと思うと)

「い、生きてるのが、ツラいっ……!」

 羞恥を隠す為に両手で顔を覆う彼に、彼女はそっと近づいた。
 そっと、優しく重ねられた雪乃の手に、天喰は恐る恐る指の隙間から彼女を見る。

「天喰先輩、大丈夫ですか?」

 悲しさと心配をない交ぜにした顔をする彼女に、彼の思考が止まる。自分のことだけを心配し、悲しんでくれているのだと思うと、天喰の胸には温かく、きゅうっと締め付けられるような痺れがあった。

「……おかしいね」

「え?」

 彼女の手から伝わる、ほんのりとした温もりを感じ入るように目を閉じた彼には、珍しくネガティブな気持ちはない。

「君を心配して来たはずなのに、いつの間にか俺が心配されてるなんて……」

小さく笑った天喰をじっと見つめたまま雪乃は、ゆっくりと求めるように口を開いた。

「怖く、ありませんでしたか……? 私のこと」

 見つめてくる雪乃の目の奥に、怯えと寂しさを見た天喰は彼女の手を握る。

「怖いっていうのは、果敢無さんの個性のこと?」

ぎこちなく頷いた彼女は俯いたまま、顔を上げない。
 詳しくは知らなかったが、物を消してしまう個性だとしたら、それは扱いも難しく強い個性なのだろう。そして、それ故に、ツラい思いをしたのかもしれないと天喰も視線を落とした。

 顔を上げないまま、返事を待つ雪乃に嘘を吐きたくない。その気持ちのまま彼の口はゆっくりと動いた。

「……何も考えてなかった」

 一人で恐怖に耐えようとしていた彼女の姿を思い出した天喰は、そっと視線を上げる。

「果敢無さんを一人にしちゃいけないって、それしか考えてなかった」

大きく目を見開いた雪乃を見ながら、彼は恥ずかしそうに頬を染めた。

(傍に行かないと、君の傍に行けなくなるようで怖かったなんて……)

 まだまだ、この甘く痺れる切ない気持ちを打ち明けられない。気まずくなったり、避けられたりしたら、本当に今度こそ生きていけないような気がした。

「ありがとう、ございます」

 泣いて赤くなった目元で微笑む雪乃へ、打ち明けられない気持ちを込めながら天喰も微笑み返すのだった。
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