『春の再会』から天喰ルート 普通の高校と比較するまでもなく、雄英の校舎は並外れて大きい。興味はあるけれど、方向音痴であるために食堂に行けそうにないと話せば、緑谷は何でもないことのように言った。
『それじゃあ、明日のお昼は果敢無さんも一緒に食堂に行こうよ』
そう誘われたことが嬉しかった雪乃は楽しみすぎるあまり、気を抜くと笑ってしまいそうなほどだった。
「姉ちゃん、嬉しそうだな」
彼女の白く細い手と繋がる小さな手。血は繋がっていない弟を保育園に迎えに行った帰り道で、ぽつりとかけられた声によって、雪乃の顔はカァっと赤くなった。
「う、えっ!? わ、分かる!?」
うん、と頷いた男の子は落ち着いた様子で、姉である雪乃をじっと見上げる。
「いいことあったの?」
小さく首を傾げた拍子に揺れた、弟の癖のある黒髪。その髪だけでなく、弟の見た目は父親である相澤によく似ていた。
「あのね、今日、クラスの人たちに明日食堂でお昼食べようって誘ってもらったんだ」
「それだけ?」
「それだけじゃないよ、他にもたくさんいる人の中から私に声をかけてくれたんだもん!」
たったそれだけと弟が感じることでも、ニコニコとする雪乃にとってはそうではない。結局、堪えきれず、一人でに緩んでしまう口元に手を添えながらクスクスとしている雪乃に弟は、ふぅ、と息を吐き出す。
「よかったね」
「うん! あ、でも、明日もお母さんとお弁当作るから心配しないでね」
別に、自分の弁当のない日はわざわざ作らなくても、と思いながら弟は楽しそうに料理をする母親と姉を思い浮かべて頷いてしまう。父親と同じく、この子も母親と姉には滅法弱かった。
***
いつの間にか閉じてしまっていた目をゆっくりと開ける。ぼんやりと見えてきたのは、小さな黒い頭。そこから感じるのは、自分と同じシャンプーの香りだった。
夕食の支度を終えて、弟と一緒に風呂に入った雪乃は彼に絵本を読み聞かせている間にうたた寝をしていた。腕の中から、すぅすぅと聞こえてくる可愛らしい寝息が弟も眠っていることを雪乃に知らせる。
「あ、起きたんですか?」
艶やかな黒髪を下ろしてリビングに入ってきた彼女は、パジャマを着ていた。
「おかえりなさい。帰ってきたの分からなかった」
まだ眠っている弟を起こさないように、体を起こした雪乃は、自分たちに厚手のタオルケットがかけられていたことに気づいた。
「よく寝ちゃってましたね。お疲れですか?」
「ううん。あったかいから眠くなっちゃって」
子どもって体温が高いですもんね、と頷いた桜は、静かに二人へと近寄ると膝をつく。
「……雪乃もよく、こうやってタオルケットに包まってお昼寝してましたね」
「今も好き……」
少し恥ずかしそうに頬を染める雪乃に、小さな頃と変わらないところを見た彼女は、くすっと笑った。
「気持ちいいですもんね。私も好きです」
そっくりなお互いの顔を見ながら笑い合っていても、小さな寝息が止むことはない。誰に似たのか、一度寝てしまうと相澤家で一番小さな男の子は、ちょっとやそっとのことでは起きなかった。
「夕食の支度、ありがとうございます。温め直してきますから、そろそろ起こしてあげてください」
息子の頭を一撫でしてキッチンへ向かおうとする桜に、あっ、と思い出したように雪乃の声がかけられる。
「明日ね、食堂でご飯食べようって誘ってもらったの。だから、私のお弁当はいらないんだけど、明日も一緒に作るから」
「分かりました。雪乃の作ってくれる卵焼きは美味しいので、明日も食べられるのが楽しみです」
美しく優しい微笑みを残して、彼女はキッチンへと向かう。その後ろ姿を見送ってから雪乃は、弟の体をそっと揺すった。
「そろそろ起きて」
名前を呼ばれた男の子は、半分目を開けながら眠そうな声を上げる。ゴシゴシと目を擦ってから雪乃を見上げた弟は、ふにゃりと力を抜いて彼女の膝に頭を乗せた。
***
朝から楽しみで気になってしまっていた昼休みは、思ったよりも早くやってきた。
「雪乃ちゃん、お昼行こう」
「うん!」
麗日に声をかけられた雪乃は表情を明るくさせて席を立つ。緑谷と麗日、そして飯田と一緒に食堂へと歩いた。
決して一人ではたどり着けないであろう食堂は雪乃の想像を遥かに超える広さだった。圧倒されている彼女は、さすが雄英だろう!?と眼鏡を押し上げる飯田に同意して頷くことしかできなかった。
「雪乃ちゃんは何にするん?」
「えっと……」
ランチヒーローの取り仕切る食堂は、その名に恥じぬメニューの豊富さで雪乃を驚かせる。迷ってなかなか決められない雪乃は、先に決めた緑谷と飯田に目を向けた。
「緑谷くんと飯田くんは何にしたの?」
「僕はカツ丼だよ」
「俺はビーフシチューだ」
和食と洋食か、と思った雪乃はもう一度メニューを見る。そういえば、今日の相澤の弁当には桜が作ったハンバーグが入れられていた。
(お姉ちゃんのハンバーグ。食べたかった……)
弟の弁当に、自分が小さい頃にしてもらったのと同じく、ハンバーグで作られたくまさんが入っていたのを思い出すと、だんだんと頭の中がハンバーグでいっぱいになってくる。
(でも、お姉ちゃんのお弁当は焼き鮭に甘い卵焼き、いんげんの胡麻和えと黒豆の煮物だったなぁ)
輪っぱの弁当箱に詰められたおかずたちを思い出すと今度は和食が食べたくなってきたが、やっぱりハンバーグかな、と顔を上げた。
「ハンバーグにする」
「ハンバーグもいいね」
瞬き一つせずにメニューに見入っていた雪乃の様子に苦笑いをしていた緑谷と麗日だが、隣に立つ飯田はハッキリとした口調で言い切る。
「果敢無くんは決断するのに時間をかけ過ぎだ! もっと決断力をつけるべきだな!」
「う、うん! 頑張る!」
待たせてしまった申し訳なさを感じながら、両手を握って素直に頷いた雪乃に飯田も満足そうに、そうしたまえと頷き返した。
「そんな、お昼決めるくらいで決断力なんて大げさじゃ―――」
「何を言っているんだ緑谷くん! これも訓練だと思えば大げさなんてことは―――」
言い返されてたじたじになっている緑谷を隣を麗日に背を押された雪乃が通り過ぎていく。
「お、お茶子ちゃん?」
「いいからいいから。気にしてたら食べる時間なくなってまうよ」
のんびりとした口調で、自分よりも緑谷たちと仲のいい麗日に言われてしまえば、そういうものなのかな、と思わされる。でも、どうしてか言い合っていても剣呑した雰囲気にはならず、仲の良さを感じられる緑谷と飯田を好ましく感じて雪乃は眩しさから目を眇めた。
***
四人で向かい合うように座って食事を始める。会話の内容は、先ほど行われた学級委員長を決める投票のこと。緑谷に入った三票の内訳の話しから、流れはたった一つ、混じっていた無効票へと変わった。
「それにしても、あの無効票は一体誰だったんだろうな」
「無効票ってことは何も書いてなかったんだろうけど」
クラスの殆どが迷いなく自分の名前を書いて投票したというのに、何も書かれなかった無効票に三人は疑問を感じているようだ。
「……無効票って、よくないよね」
小さく溢した雪乃に三人の視線が向く。視線を下げている彼女に、どことなく怒られる前の子どものような怯えに似た何かを感じた三人はそれぞれ思うことを口にし始めた。
「そうかな? まだみんなのこと、よく知らんから書けんかったのかもしれんよ」
「僕も飯田くんみたいに自分以外に投票しなくちゃって思ってたら、迷って時間内にはかけなかったかもしれない」
「それだけ時間いっぱいまで真剣に考えていたということかもしれないということだな」
顔を上げて目を瞬かせる雪乃へ三人は何も言わず笑みを見せる。自分が無効票を入れたのだと気づいても聞かないでくれる優しさが、雪乃の胸に染みていった。
「決断力を身に着けて、今度は時間内に書かないとだね」
はにかむ雪乃に、三人はそうだねとだけ返した。その優しさが雪乃の胸を軽くする。
正式な試験を受けて入学したわけではない自分は、おまけで1年A組の籍に置かせてもらっている部外者のようなもの。そんな自分に学級委員長を決める参加資格はないと感じていた雪乃は、誰の名前も書けずに投票をするしかなかった。
クラスメイトにはまだ知られていない個性で無効票を消すことも考えたが、その場にいた担任の相澤には気づかれてしまう。その場で問い詰められることはないにしても、心配をかけるだろうし、一票足りないことでクラスを騒つかせるようなことはしたくなかった。
でも、と雪乃は食べかけのハンバーグへ視線を落とす。クラスメイトとして付き合ってくれる緑谷たちへの今の態度は失礼かもしれない。そう感じたからこそ、次こそは投票には参加しようと雪乃は思った。
***
けたたましい警報音に、平和な昼時は簡単に姿を消してしまった。食堂にいた生徒たちが一斉に避難しようと動き出す。
緑谷たちと避難しようと雪乃も立ち上がった。美味しいハンバーグをそのままにしていくことを惜しく感じたが今はそれどころではない。後ろ髪を引かれつつ、歩き出したとき、別方向から逃げてきた男子生徒が思い切り雪乃にぶつかった。
「ひゃっ!?」
勢い余って、尻もちをついた雪乃に構わず、男子生徒は我先にと逃げていく。開きかけていた口から謝罪の言葉を出すことが叶わなかった雪乃は、口を閉じて立ち上がろうと試みる。
しかし、ドタドタと駆け抜けていく足が目の前や背中のすれすれを通っていく状態では動くことができなかった。
(怖いっ!)
あちこちから聞こえてくる混乱や恐怖から上がる怒りの声。苛立ちが不安を煽り、苛立った人々が乱暴に歩いてくるのが見えた雪乃は咄嗟に庇うように頭を抱え、強く目を閉じた。
「果敢無さんっ!!」
足音、物音、様々な声が混じり、近くにいたとしても大きな声を出さなければ聞こえないような状況にもかかわらず、雪乃の名前を呼んだ声は不思議なほどはっきりと彼女の耳に届いた。
強く引き寄せられた雪乃の体に回る逞しい腕。そして、背中に感じる胸板から、助けてくれたのが男子であることしか分かるはずはないのに、雪乃はこの優しい腕を知っているような気がした。
もう少しでぶつかってしまうはずだった足たちが駆け抜けていくのを見送ってから、そろそろと首だけで振り返る。そこにいた人に雪乃は目を瞠った。
「天、喰、先輩……?」
「果敢無さん、ケガは? どこか痛いところとか……」
普段の自信のない目ではなく、焦りと心配が含まれた彼の目に雪乃は首を振る。
「だ、大丈夫、です」
ほっと安堵のため息をこぼした天喰は、さらに強く抱きしめて雪乃の肩に自分の額を押し付けた。
「よかった……」
深く安心した声はとても小さいものだけれど、抱きしめられている雪乃の耳にはよく聞こえる。じわじわと頬が熱を持つのを感じた雪乃は、そっと、抱きしめてくる天喰の腕に触れた。
「あ、の、天喰先輩……」
「あ、本当にいた」
奥から響いた飯田の一声で落ち着いた人々の中から、ひょっこりと顔を出した通形は二人にフフフと意味深な笑みを向ける。
「環、そろそろ離してあげないと果敢無さんが大変なことになりそうなんだよね」
通形に指摘されて自分の状況に気がついた天喰は慌てて雪乃を離した。
「す、すまないっ!! 決してやましい気持ちがあったわけじゃない! とはいえ、馴れ馴れしく、だ、抱きしめて、不快な思いをさせ―――」
「―――お、落ち着いてください!」
放っておけばいつまでも謝罪を続けそうな天喰の言葉を遮った雪乃は赤い顔のまま、一歩、彼との距離を詰める。
「天喰先輩、私、嫌な思いなんてしてません。助けてくれてありがとうございました」
ふわっ、と頬を緩めた雪乃に、天喰はみるみる顔を赤らめていき、耳までもを染めていく。頼りなさそうに口を引き結ぶ彼は、何か言いたげに唸るような声を上げてから、ゆっくりと口を開いた。
「嫌、じゃないなら……よかった」
口元を手で覆って隠しても隠し切れない天喰の赤い顔は、雪乃の目を釘付けにする。
年上の男性である彼にこんなことを思うのはおかしいことなのかもしれないが、今の彼女には天喰が可愛く思えて仕方なかった。
「環のやつ、凄かったんだよね。かなり離れたところから君のこと見つけて駆け出して。俺は果敢無さんが座り込んでるの全然見えなかったのに」
「ミ、ミリオ!!」
言うなと手をバタつかせる天喰の顔はさらに赤らんでいく。必死な手振りでこれ以上余計なことを話すなと訴える彼にだけ聞こえる小さな声で、通形は何でもないようにそれを教えた。
「環、後ろ、後ろ」
話を逸らされたようで納得いかないが、面白がるような笑みが気になった天喰はゆっくりと振り返る。そこには―――
「ありがとう、ございます……」
俯きがちにお礼の言葉を口にした雪乃が天喰に負けないほど顔を赤くしている。恥ずかしくて堪らないのか、スカートの前で両手を握っている彼女の白い髪から薄っすらと覗く耳までも熱を持っていた。
そろそろと顔を上げた雪乃は天喰を見据えると嬉しそうに笑う。ドキ、っとした天喰は幼い日の初恋の女の子の姿と雪乃が重なって見えていた。
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