優しい朝

『春の再会』から轟ルート
 なんとか教室にたどり着いた初日の最初に驚いたのは、迷っていた自分を雄英まで連れてきてくれた轟と同じクラスだったことだ。話しかけようと思ったものの、彼は自席で頬杖をつき、明らかに声をかけるなと壁を作っている。

 話したくない気分なのかもしれない、と声をかけなかったことを雪乃は少し後悔していた。最初に勢いのまま、一言ありがとうと伝えていれば何か違ったのかもしれないのに、タイミングを見失ってしまった声のかけづらさは、時間が経つごとに強くなる一方だった。

 はぁ、と吐いたため息は誰に聞かれることもなく教室の空気の中へ消えていく。次に会ったときにはお礼をしようと思っていた気持ちは本当だが、何度声をかけようとしても轟からは拒絶に近い壁しか返っては来ない。

「果敢無さん、大丈夫? な、何か悩み事?」

「緑谷くん……」

 明らかに緊張した面持ちで声をかけてきたのは同じ1Aの男の子。初日の個性把握テストで指を痛めたのを心配した雪乃が声をかけたのがきっかけで、気軽に声をかけられる人の一人だった。

 心配して声をかけてくれる彼の優しさに、落ち込みそうになっていた雪乃の気持ちが上を向く。

「ありがとう。気にかけてくれて」

 柔らかな表情を見せた雪乃に顔を真っ赤にさせた緑谷はわたわたと手を動かし始めた。

「い、いや! そんな全然大したことないよ! 果敢無さんも個性把握テストのときに心配してくれたし……」

照れと恥ずかしさから勢いよく話していた緑谷の声は尻すぼみに小さくなり、最後には指をつき合わせながら俯いてしまう。
 困っている人がいるのに気づいてしまったら、知らないふりはできないのだろうと雪乃は恥ずかしそうに俯く緑谷を見て思う。きっとこういう人がヒーローに向いているんだろうとも。
 誰にも言えない、増えてしまった悩みを飲み込んだ彼女は、あのね、と口を開いた。

「話しかけたい人がいるんだけど、その人は話しかけてほしくないみたいで……。どうしたらいいのか、分からなくなっちゃって」

 苦く笑う雪乃を、見開いた目で意外そうに見た緑谷は昨日のことを思い出していた。

***

 それは、切島、上鳴と話していた爆豪が損ねた機嫌を表すようにバチバチと小さな爆破を起こしたときだった。誰もが声をかけづらいであろう機嫌の悪い爆豪の手を何のためらいもなく伸びた両手が包む。
 周囲が驚いて言葉を失う中、爆豪も同じように驚いて固まってしまっていた。

「爆豪くんの個性って、花火みたいでとっても綺麗だね」

凄いね、と子どものように純粋な尊敬を込めて笑う雪乃に、いつもの悪態で返そうとしていた爆豪の口が強張る。近い距離にある整った顔に、つい見入ってしまっていた。ぐわっと込み上げてくる顔の熱に我に返った彼は彼女を睨みつける。

「な、馴れ馴れしく触ってんじゃねェッ!!!」

そう言いながらも爆豪は雪乃の手を振り払うことはなく、動揺しているのが彼と幼馴染の緑谷にはよく分かる。

「あ、ごめんね。爆豪くん、嫌だったよね」

「んなコト言ってねェだろうが!!!」

 慌てて手を離した雪乃は目を瞬かせた。言われた意味をすぐに理解することができなかったようで、ゆっくりと首を捻る。

「お、おお。やっぱ、爆豪も可愛い子に手握られんのは嫌じゃねぇよな」

分析するように頷いている峰田を苛立った爆豪が強く睨みつける。ひっ!と短い悲鳴を上げた峰田が後ずさると、また雪乃は笑顔を見せた。

「嫌じゃないならよかった。ありがとう」

 でも、これからは気を付けるねと、雪乃はいたって普通の様子で自席に着く。呆気に取られていた近くの席の砂藤に何か話しかけている彼女は本当に何ともおもっていないようで、今度は菓子の話をし始めて、何かを訊いては頷いていた。

***

 この様子を見ていたからこそ緑谷は、雪乃は誰とでも友好的に話すことができる人間だと思っていた。恐らくそれは緑谷だけでなく、あの場にいた1Aのクラスメイトたちはみんなそう思ったはずだ。そんな彼女が話しかけられないという相手はどんな人なのだろう。

「話しかけてほしくないみたいなら、話しかけない方がいいんだろうけど……果敢無さんはどうしてその人と話したいの?」

「あの、話したいっていうか、一言お礼を伝えられたらって思うんだ」

 だから特別何かを話したいわけではないという雪乃は、どこどなく寂しそうに見えて緑谷は、そっかとほんの少し悲しそうな笑みを口元に浮かべた。

「じゃあ、手紙とかはどうかな? それなら直接話しかけるわけじゃないし、相手も困らないと思うんだけど」

 思いつきもしなかった手段に目を輝かせた雪乃は両手でがっしりと緑谷の手を掴んだ。

「凄い! そうだね、手紙、いいね! 私、全然思いつかなかった! ありがとう緑谷くん!!」

喜びを表すように両手で握った緑谷の手をブンブンと上下に振る。嬉しそうな雪乃に顔から煙を出してしまいそうなほど照れ切っている緑谷は、そんなだとか、いやいやいや、とか会話として成立していないものばかりがブツブツと繰り返した。
 どうしたのかと首を傾げた雪乃は、昨日のことを思い出すと急いで手を離す。

「ごめんね! 私、昨日も爆豪くんに注意されたのに」

ペコペコ頭を下げだした彼女に緑谷は気にしないでと、取れてしまいそうなほど首と手を左右に振ったが、顔の熱は一向に引かなかった。

***

 翌日。雪乃は緑谷の助言通り、轟に向けて手紙を書いてきた。いつもよりもずっと早くに起きて、誰よりも早く登校するため乗り込んだ電車に人がいなかった。

 なんとか覚えた轟と歩いた通学路を一人で歩く。まだ春の朝は寒いけれど、冷たい空気が心地よくて雪乃は大きく深呼吸をしてから走り出す。少しでも、轟に感謝が伝われば、期待と緊張で胸が早く脈打った。


 まだ生徒が登校してくるには早い時間。朝から父親と言い争いをした轟はイライラとした気持ちのまま1Aの教室に入った。

 誰かがいるとは思っていなかった彼は、一人、自席ですうすうと寝息を立てている少女に目を見開く。寝ていると気づいてしまえば、音を立てるのは憚られて静かに自分の席まで歩く。そして、教科書を入れようと机の中に手を入れたとき、何かが入っていることに気がついた。

(なんだコレ?)

 机の中から取り出したそれは、何かが入った小ぶりな紙袋。表には手紙が張り付けられていた。

 訝しく思いながらも手紙を開けてみれば、整った字が便せんに書き込まれている。

『入学初日は、助けてくれてありがとう。なかなか話す機会がないので、手紙にしました。お礼といえるほどのものじゃないけど、最近私が気に入っているお菓子です。おやつに食べてください』

 廊下側の一番後ろの席で眠っている彼女の名前が末尾に書かれた手紙を封筒に戻すと、轟は紙袋の方を開けた。

 中から出てきた蕎麦ボーロに、ここに来るまで感じていた苛立ちはすっかりと消えてしまっている。ふぅ、と短く息を吐き出した轟は、眠っている雪乃にそっと近づいた。

 印象的な青みがかった白い髪が一筋、よく整った顔にかかっている。それを耳にかけてやった彼は、微かに彼女の顔に触れた指先が熱くなっているのを感じた。いつも胸の中をドス黒く塗りつぶす父親への強い恨みが消えてしまったかのように、穏やかな気持ちにさせられる。

 無意識に伸ばした指先で雪乃の白い頬を撫でると、彼女はくすぐったそうに小さく身じろぎをした。そして、長いまつ毛がゆっくりと持ち上がる。数回瞬きをした雪乃は、目の前に誰がいるのか理解できずに、こてん、と首を傾げた。

「ん……? お姉ちゃん……?」

 眠そうに目を擦る彼女が、まさか目を覚ますとは思っていなかった轟は顔には出ていないものの内心驚いていた。

「ちげぇ」

一言答えてみれば、ぼうっとしていた雪乃は瞬きを繰り返す間に目を覚ましたようで、顔を赤くさせる。
 
「と、轟くん!」

 早起きは苦手ではない。しかし、轟の机の中に手紙を入れると安心感からか急激な眠気に襲われた。少し寝たら、今夜の夕飯の献立でも考えようと思っていた雪乃は、誰も来ないだろうと安心して眠っていたことが急激に恥ずかしくなって、熱くなった顔を下げる


「コレ」

 突き返されるのだろうかと膝の上で両手を握り締める。何を言われるのかと恐る恐る顔を上げて見れば、彼の顔は怒っても不機嫌そうでもなかった。

「ありがとな」

ぽつりとしたとても小さな声。じっと轟の顔を見ていれば、彼は照れくさそうに頬を染めて視線を逸らした。

 こうした時間を重ねて行けば、轟とも仲良くなれるかもしれない。そんな予感に雪乃は柔らかに目を細めるのだった。


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