ホウセンカの心

「いってきまーす」

 玄関からお母さんに声をかけて、傘立てから一番お気に入りの傘を引き抜いた。家の敷地から道路へ一歩踏み出す。そこまでは普段と大して変わったことはなかった。

「おい……」

 振り返るとそこには、なっちゃんがいた。その様子は私が出てくるのを待ってたみたいだ。最近は鉢合わせしないように時間をずらしていたから、なっちゃんと会うのはこの前怒らせてしまって以来だ。
 少し不機嫌そうに見えるのは気のせいじゃないと思う。もしかしたら、まだ怒っているのかもしれない。

「話がある」

「私、学校遅刻するから……」

はっきりとなっちゃんの不機嫌を感じると、余計に話したくなくなる。逃げたくなって、適当な言い訳をして私はなっちゃんに背を向けて早歩きをした。

「待てっ!」

 追いかけてきたなっちゃんに手首を掴まれて、歩く足が止まった。ここまでして話したいことって、何? 振り返っても、なっちゃんは手を離してはくれない。ただ、いっくんとよく似た長いまつ毛に縁どられた瞳が、すごく真剣な色をしているのが分かった。

「な……に?」

その目が真剣過ぎて少し怖い。声が上手く出なかったのは、なっちゃんの勢いに呑まれたからだ。

「駅まででいいから聞けよ」

子どものころから変わらない真っ直ぐで意思の強い瞳。その瞳に見つめられたら断ることも逃げることもできなかった。

「……わかった」

 私の返事を聞いて、なっちゃんはやっと手を離してくれた。手首が少し痛むのは、きっとなっちゃんがそれだけ必死だった証拠なんだと思う。

「あ、悪い! 手大丈夫か?」

赤くなった手首を見て、なっちゃんはすごく焦っていた。しまったという顔をして狼狽えているなっちゃんは、子どものころと変わっていない。
 子どものころ、私をいっくんと取り合って転んだことがあった。あのときのなっちゃんも今と同じように心配してくれた。変わっていないところもあると思うと少しだけ嬉しくなった。

「平気だよ。それより早く行こう」

最後になっちゃんと呼びそうになったのを、ぐっと飲みこんで歩くことを促す。なっちゃんは渋々といった感じで納得してくれた。
 こうやって並んで歩くのは、いつ以来だろう。最後に一緒に歩いたときより、なっちゃんの背はずっと伸びている。

「透、お前さ……」

重い口調のなっちゃんは、深刻の中に苦しみが混じったような顔をしていた。

「……いつから俺のこと、避けるようになった?」

 この間、一人で考えていたことを聞かれて私の胸はドクンと嫌な音をたてた。

「俺だけじゃない……郁弥のことも、ずっと避けてるよな」

やっぱり、無理矢理にでもなっちゃんから逃げれば良かったと後悔した。切なそうな顔をするなっちゃんの顔が見られない。

「……透、聞いてるのか?」

俯いて返事をしない私を怪しく思ったのか、なっちゃんはこちらを覗き込んでくる。

「私だって……」

なっちゃんが私に聞きたいことの答えを私は持っていないし知らない。それなのに、どうしてそんなことを朝から待ち伏せしてまで知りたがるの? そんな私の気持ちなんか知らない、なっちゃんは不思議そうな顔して言葉の続きを待ってる。

「私だって、そんなの知らないよ!」

 吐き出すように言うと、なっちゃんはすごく驚いたような顔をした後、すぐに悲しそうな顔をした。ぽつりと地面に染みが広がる。予報よりも早く雨が降ってきたようだ。

「雨か……」

手のひらで雨を確かめているなっちゃんは傘を持っていない。もしかしたら、折り畳みを持っているのかもしれないけど―――。お気に入りの傘を、なっちゃんに押し付ける。反射的に受け取ったなっちゃんは、また驚いた顔をしている。

「駅、もうそこだから……」

それもあるけど、なっちゃんが濡れて風邪を引いてほしくない。

「もう行くね。バイバイ」

 手を一振りして私は、なっちゃんの前から走って逃げた。駆け出してすぐ、なっちゃんの声が追いかけてきたけど、それを振りきって駅へ向かった。

***

 放課後。朝から降り始めた雨は今も降っているのが窓から見える。

「帰り……どうしよう」

 傘をなっちゃんに貸してしまったから、濡れて帰るしかないのは分かってる。でも、少しでも雨の勢いが緩くなればと願ってしまう。ため息を一つついてから、帰り支度を済ませる。

「ねえ、見て! ほら!」

「なにあれ!」

 周りを気にしてみれば、何人かのクラスメイトが窓を見て騒いでいる。何かいるのかもしれないけど、私はそれよりも雨が止まないかどうかの方が気になる。

「ねえねえ、透も見てみなよ!」

「あんまり興味ないんだけど……」

友達に腕を引かれて教室の窓際まで行けば、みんなが騒いでいる原因が分かった。

「な……!!」

 窓から見えた校門には、傘を差した他校の男子が誰かを待つように立っている。学ランを着ているその男子は間違いなく私の良く知る人物だ。

 机の上に置いていたカバンを掴んで教室を飛び出した。教室の中からクラスメイトの呼ぶ声が聞こえたけれど、走る足を止められなかった。下駄箱で靴を履き替えて外に出る。教室の窓から見たときと同じように雨は降っていたけれど、そんなことは気にならなかった。

「なんで……! こんなところに……いるのっ!?」

 教室から走ってきたせいで、息を切らす私に彼は長いまつ毛を瞬かせた。

「お前こそ、なんでそんなに息切らしてんだ?」

私のお気に入りの傘を差したなっちゃんは不思議そうに首を傾げている。

「こっちが聞いてるの!」

「なに興奮してんだ。お前は」

呆れたような声音に、周りの視線に気がついた。ひそひそと面白いものでも見つけたように、知らない女子たちが話しているのが分かる。自分のいた教室からもクラスメイト達がキャーキャーしているのが見えて一気に恥ずかしくなった。

「ほら、帰るぞ」

 傘を私に傾けてきたなっちゃんを見上げる。少し赤くなっているのは照れているせいなのか、私には分からなかった。

***

 わざわざなんでここまで来たんだろう。傘なら家が隣なんだから、いつだって返しに来れるのに。

「……睨むなよ」

困ったように頬を掻くなっちゃんの肩が雨に濡れているのが見えて、私は大人しく傘に入ることにした。

 二人で最寄り駅へ向かって歩く。なっちゃんがさりげなく私のペースに合わせて歩いているのが分かっても、その優しさが嬉しいとは思えない。本当になんでこんなところまで来たんだろう。岩鳶中から私の学校は電車を使うような距離なのに……。そこで私はあることを思い出した。

「……ねえ、部活はどうしたの?」

まさか、傘を返すためだけに休んだんじゃないよね?

「今日は全体で部活休みだ」

 肩が触れないように傘の端に入っていた私に気がついたのか、なっちゃんは持っていた傘を傾けた。

「ちゃんと入れ。風邪引くぞ」

「そっちこそ」

傘のふちをぐいっと押し上げて傾きを直すと、なっちゃんの顔に不満が見えた。

「お前、風邪引きやすいんだからちゃんとしろ!」

むっとしてしまうけど、なっちゃんが言っているのは本当のことだ。傘が私の上にかかる。でも、なっちゃんの上にはあまりかかっていない。だから仕方なく、私はなっちゃんに寄り添った。
 触れる肩の位置は随分と違う。子どものころよりもずっとその差は開いていて、なっちゃんは私よりも早く大人に近づいているのを感じた。

 そこから電車に乗るまで、私となっちゃんは一言も話さなかった。時々、なっちゃんがこちらを見て何か話したそうにしているのには気づいていたけど、知らないふりをした。

***

 駅に着いたときには、すでに電車はホームにいた。電車に乗ってすぐ、なっちゃんがバッグからタオルを差し出してきた。

「ほら、これで拭いとけ」

「……いいよ」

「ったく……」

 私の頭にタオルをかけてごしごしと拭いていく。雑な感じはなっちゃんらしい。

「いいってば。自分のこと拭きなよ」

タオルを押し付けるように返すと、なっちゃんの目が怒った。

「お前、なんで俺が迎えに行ったと思ってるんだよ」

そんなこと聞かれても私に分かるわけがない。そもそも、校門のところでどうしてここにいるのか聞いたのに答えなかったのはそっちじゃない。
 電車が動きはじめる。窓に雨を打ちつけながら、外の景色が流れていく。

「……そんなの知らないよ」

聞こえないように答えたつもりだったけど、なっちゃんには聞こえてしまったみたいだ。隣からため息が聞こえた。それに気づかないふりをしていると窓に映るなっちゃんが見えた。
 間違いなく私たちは窓に映る姿を通して、お互いを見つめている。窓に映るなっちゃんはとても悲しそうな顔をしていて胸が痛くなった。それでも私たちはお互いに話しかけることなんかできなかった。

***

 もうすぐ、私たちの降りる駅に着く頃。私たちの間にあった沈黙は簡単に破られた。

「あれ? 桐嶋じゃん!」

 声の主はなっちゃんと同じ岩鳶中の制服を来た女の子だった。呼び捨てにしてるということは同級生なんだと思う。

「おう」

短く挨拶をしたなっちゃんに彼女は嬉しそうに近寄ってきた。

「なんで電車乗ってんの? 家、こっちじゃなかったよね?」

「まあな」

私のことなんか視界に入っていないのか、彼女はなっちゃんに話しかけ続ける。その雰囲気に自分が異物のような気がして、あまりいい気分にはなれない。頭がくらくらするような気がしてきて、早く最寄り駅に着くことを考えながら俯いた。

「あのさ……その子、桐嶋の彼女?」

 その質問に、一応自分の存在が認識されていたんだと思った。別に認識されていなくてもいいんだけど……。

「……そうじゃねーけど」

なっちゃんの答えはおかしいと思った。なんではっきり違うと否定しないのか。もしかして、なっちゃんは話しかけられることに困っているの? 顔を上げてみれば、なっちゃんは困っていなかった。ただ、難しそうな顔をしている。

「ねえ、これから桐嶋借りてもいい?」

 話しかけられるとは思ていなかったから、すごく驚いた。それにそんなこと、わざわざ私に許可を取る必要なんかない。なっちゃんに聞けばいい。私じゃなく、なっちゃんが決めることじゃない。

「……そんなこと私に聞かないでください」

そう言いきったとき、ちょうど電車がホームに着いた。彼女となっちゃんの驚いた顔が見えた。ドアが開いた瞬間、私はすり抜けるようにして飛び出した。なっちゃんが追いかけてくるとは思っていないけど、今日はもうなっちゃんの顔を見たくなくて私は改札を駆け抜けた。

***

 駅を飛び出しても安心できない。もう少し先まで走ろう。そう思ってだるくなった足を動かす。
 無理をしたせいか、だんだんと足がおぼつかなくなってきた。乱れた呼吸が苦しくて自然と膝に手をついた。駅からは大分離れたから、もう大丈夫なはず。

「透!!」

近寄ってくる足音と一緒に聞こえた声。もう逃げる余力なんかない。力なく顔を上げれば、そこにいたのはなっちゃんじゃなかった。

「なにやってるの!? こんなに濡れて……!」

 いっくんは傘に私を入れてくれた。なっちゃんから逃げるのに必死で気づかなかったけど、そういえばずっと雨が降っていたんだった。
 私の濡れた前髪をいっくんの優しい指が左右に分けた。途端に視界が明るくなった。

「ちょっと、大丈夫なの? 顔、真っ赤……」

心配そうないっくんの目が、子どものころと変わらず優しいと思った。そのことに安心してしまって気が緩んだ。足から力が抜けて、視界がぐらりと歪む。

「透? ……ちょっとしっかりして!」

ぼうっとした頭で、心配そうないっくんの顔を見ながら私の意識は途切れた。

ホウセンカ
 〜私をほうっておいて〜

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