打ちあがる赤い菊
クリスマスが終わっても厳しい寒さが和らぐことのないこの頃。寒いのはあまり得意ではないけれど、今日は朝から出かける支度をしていた。
「うーん……」
何度も鏡を使って全身をチェックする。おかしくはない、と思うけどやっぱり今日がとても楽しみだったから、すべてに気合いが入ってしまう。前髪をいじったり、スカートはやっぱりあっちがよかったかなと心配になってもう一度クローゼットを開けようとすれば、壁に掛かった時計が目に入った。
「大変……!」
いつの間にか待ち合わせの時間までかなり迫っていた。慌てて私は家から出た。
***
「あ」
ちょうど家から飛び出したところで、隣の家のドアが開いた。出てきたのは待ち合わせをしている人ではなく……。
「……よう」
「なっちゃん……」
つい先日のことを思い出して私はなっちゃんの顔が見られなくなる。すると、なっちゃんは仕方なさそうに笑って私の頭にぽんと手を置いた。
「そんな顔すんなよ」
私はこの前、二人がずっと向けてくれていた"好き"という気持ちに答えを出した。その答えを最初に伝えたなっちゃんは、私を責めたりはしなかった。
「今日言うのか?」
「え?」
なんで分かったのだろうか。思わず首を傾げながら、なっちゃんを見上げると優しいけれど寂しそうな目と視線がぶつかった。
「……今日の透を見れば分かる。可愛い」
「あ、ありがとう……」
可愛いなんて言われ慣れない言葉に顔じゅうが熱い。恥ずかしくなって爪先を見る。やっぱり気合を入れすぎた感じがするのかな。それはそれで恥ずかしい。
「何してんの?」
不機嫌そうな声に顔を上げると私たちを睨んだいっくんがいた。機嫌の悪そうないっくんに肩をすくめたなっちゃんは苦笑している。
「たまたま、出てきたタイミングが一緒だっただけだ。じゃあな」
もう一度、私の頭に手を置いたなっちゃんはわざとぐしゃっとして行った。
「ちょ、ちょっと! なっちゃん!!」
怒る私の声から笑いながら逃げていったなっちゃんの姿はあっという間に見えなくなった。いっくんに背中を向けて髪の毛をすぐに整える。朝からすごく時間をかけたのに……。どうしてなっちゃんは子どもの頃からああいうところは変わらないんだろう。私たちだってもう子どもじゃないのに。
「……もういい?」
「え? あ、うん。ごめんね。待たせちゃって」
振り返ったいっくんはやっぱり機嫌が悪そうだ。それが気まずくて私は恐る恐るいっくんを見上げた。
「えっと、ごめんね。せっかくのお休みなのに……」
「僕から誘ったんだから透が謝ることないでしょ」
先に歩きだしてしまったいっくんの背中を見る。私を好きだと言ってくれた中学生のころは少ししか変わらなかった身長は、とても大きくてたくましく思えた。
「……何してんの? 行くよ」
少し先でいっくんが振り返ってくれたことが嬉しくって顔が緩む。
「へへ……」
「……だらしない顔」
そっけない言い方をされて少しムッとして見せると、いっくんはやっと笑ってくれた。
「今度は変な顔」
「いっくん!」
ますます怒る私にいっくんは吹きだしたように笑う。怒っているのに私はいっくんの笑顔が嬉しかった。
***
中学の時、同じ高校に行けたらいいなと漠然と思っていた私とは違って、いっくんはどんどんと前に進んでいった。水泳の為に高校を選んで、生活も水泳一色になった。それを応援する気持ちはもちろんある。あの引っ込み思案だったいっくんが世界を広げたんだから、嬉しくないわけがない。だけど、心のどこかに寂しさも間違いなくあった。
「透?」
覗きこんできたいっくんの顔が視界いっぱいに広がる。
「ひゃ!」
ぼうっとしていたせいで、名前を呼ばれているのに気づかなかった。眉を寄せたいっくんは怪しむような目をしている。
「……他のこと考えてたわけ?」
「そんなこと、ないけど……」
今ではないけど、考えていたのは昔のいっくんのことだ。いっくんと違う高校に進学したことが寂しかったんだよなんて、そこまで素直には言いたくないだけ。
ふと電車の外を見るとちょうど目的の駅に着いた。
「ほら、降りるよ」
すたすたと先に行くいっくんの後を追いかける。そういえば、いつの間にかこうしていっくんの後姿を追いかけることが多くなった気がする。前は隣を歩けていたのに、どうしてこんなふうになっていたんだろう。
***
ずっと行ってみたいと思っていた遊園地は、いっくんから誘ってもらえた。どうして私が行きたがっていたことを知っていたのか分からないけど、いっくんから電話をもらったときは嬉しくて嬉しくて舞い上がってしまいそうだった。それなのに……。
前をすたすたと歩いて行ってしまういっくんは全然私の方を見てくれない。何かしちゃったかな。気になってもそっけない彼に話しかけるのは気後れてしまう。でも、そんなことも言っていられない。もうすぐお昼だ。
「い、いっくん」
「……何?」
やっとこっちを向いてくれたいっくんの目はやっぱりどこか冷たい。居心地の悪さを感じながら私はバッグをギュッと抱えた。
「あのさ、お昼……」
「ああ。何食べる?」
そういえばそんな時間かといっくんは周りの売店を見渡した。偶然フードコートの近くまで歩いていた私たちの周囲では、みんな楽しそうにお昼を食べている。
「ううん。あのね、お弁当作ってきたの。いっくんの分も……」
「え……?」
意外だったのか、なっちゃんそっくりの目を丸くさせたいっくんの表情がだんだんと和らぐ。
「期待してないけど、食べてあげるよ」
「なんでそう素直じゃないの!」
むすっとしていっくんを見上げれば、やっぱりおかしそうに笑っていた。普段、あまり会えないせいか、こうしていっくんが笑ってくれるとついつい私は許してしまいたくなる。きっと、これは私のいっくんへの気持ちが変わったのが一番の理由なんだろう。
***
「……意外」
お弁当を食べながらぽつりとこぼした一言を私は聞き逃さなかった。
「何が"意外"なの?」
眉を寄せながら睨んでやれば、いっくんは言いたくなさそうに口を開いた。
「透が作ったくせに美味しいから……」
「いっくんは昔から私の作ったもの、素直に食べてくれないね……」
早起きして頑張ったのは服装や髪型だけじゃない。お弁当だってそうだ。今回一番努力してきたのは実はお弁当なんて、いっくんは気づかないだろう。
「……これが一番美味しい」
張りきって作ったおかずたちの中から、いっくんがお箸で取ったのは一番練習した甘い卵焼きだった。
「いっくんは甘い卵焼き、好きだもんね」
褒めてもらえたことが嬉しくてにこにこしていると、いっくんは照れたように視線を逸らしてしまった。
「そういえば、なっちゃんも好きだよね。甘い卵焼き」
「……そうだったかもね」
ツンと一気にいっくんが冷たくなる。なんでだろう。どうして、いっくんはこんなに私に冷たくするんだろう。いっくんもそれっきり話してはくれなくて、楽しいはずだったお弁当はとても寂しい気持ちでいっぱいになってしまった。
***
冬の夕暮れはあっという間に来てしまい、辺りは暗くなった。そろそろパレードが始まるころだろうか。あの後もいくつかアトラクションに乗ったけど、いっくんはあまり楽しそうじゃない。いっくんが笑ってくれないことが悲しい。いつの間にか私は下ばかり見て歩いていた。
「ねえ、ねえってば!」
突然腕を掴まれて、慌てて顔を上げる。私の腕を掴んでいるのは知らない男の人だった。前を歩いていたはずのいっくんがいない。さっと顔から血の気が引いた。
「君、一人なの? 俺、今カノジョにフラれちゃってさ〜」
「一人じゃありません! 離してください!」
引っ張り返してみても、相手の男の人の方が力が強くて腕を離してもらえない。ニヤニヤとした笑顔が怖い。周りを見てもみんなこちらを見るだけで助けてくれそうにはない。どうして、私は今一人なんだろう。
「ねえ、いいじゃん。そっちもフラれたんでしょ?」
その言葉に胸がズキっとした。もしかして、いっくんはもう私のことなんて好きじゃなくなった? 高校で私じゃない誰かを好きになってしまったんだろうか。じわりと目の奥が熱くなって視界がぼやけていく。
「透!!」
後ろから聞こえてきた怒鳴り声に振り返ると、溜まっていた涙がこぼれてしまった。それが見えてしまったのか、いっくんが目を剥いた。
「お前っ……!! 何したんだよ!!」
「ひっ!」
胸倉を掴まれた男の人は怯んで、私から手が離れた。今にも殴ってしまいそうないっくんにしがみついて必死に止める。
「ダメだよ! もう平気だから、止めて!」
ここで問題なんか起こしてしまったら、いっくんの将来を潰してしまう。そんなことだけは絶対に嫌だった。
「…………」
ほんの一瞬、私を見たいっくんは相手の男の人を強く睨みながら手を離した。長いまつ毛に縁どられた強い目に睨まれた男の人は、恰好がつかないせいかそのまま逃げるように人ごみの中へ走っていった。
「……なんで勝手にいなくなったの?」
怒っているいっくんに顔を上げられない。
「わざといなくなったわけじゃ……」
下を向くせいか、また視界がにじんでいく。
「じゃあ、なんなの?」
どこまでも冷たい声に私は我慢の限界だった。キッと顔を上げて睨みつければ、いっくんは驚いて目を見開いた。
「そっちこそなんなの!? わざとじゃないって言ってるのに! そ、そもそも、いっくんがさっさと行っちゃって、全然私のことなんか……!」
泣くな泣くな泣くな。自分に言い聞かせても、やっぱり悲しくて、我慢できなくて涙がこぼれた。
「バカ! 大っ嫌い!!」
ものすごく傷ついた顔をしたいっくんを無視して、私はその場から走った。もう何もかも最悪だ。本当はいっくんに伝えたいことがあったのに、どうしてこんなことになっちゃったんだろう。
「透……!」
追いかけてくる声は微かに聞こえた気がするけれど、聞こえなかったことにした。
***
泣きながら走ったせいか、すぐに息が切れて動けなくなる。このテーマパークのシンボルである大きな観覧車が少し遠くに見える。この周辺に人は全然いない。遠くから聞こえる歓声がパレードが始まったことを知らせている。
「うっ、う……」
固く唇を結んで声を出さないようにしても、どうしても声が漏れる。もう耐えられなくてその場にしゃがみ込んだ。バカなのはいっくんじゃない。会えるのが嬉しくて、一人で浮かれていた私だ。
どのくらいこうしていたんだろう。もう私の涙も治まってきた。多分、いっくんは先に帰ってしまったんだと思う。大嫌いなんて言った私に腹を立てたかもしれない。……それとも、いっくんは私に嫌いなんて言われても何とも思わないのかな。
「いた……」
驚いて体が固まった。別々の高校になってから何度も電話で聞いたこの声は間違いなくいっくんだ。あの冷たい眼差しと声を聞くのが耐えられなくて、私はぎゅっと目をつむった。
「ごめん……。怒らせるつもりじゃなかったんだ……」
「もういい、いいってば……」
聞きたくないと首を振る私にいっくんのため息が聞こえる。
「ちゃんと聞いて」
「ヤダ……」
「透……」
困ったようにいっくんは私の肩を揺すった。その触れ方は小さなころと変わらない臆病さを感じた。懐かしさに負けて、ゆるゆると顔を上げる。いっくんは、泣いている私を見てとても悲しそうにしていた。
「……ごめん。透が楽しみにしてたの、知ってたのに……」
「知らない……」
楽しみにしていたのを知っていたのに、あんなに冷たい態度をとっていたんだ。もう、いっくんの言葉を聞けば聞くほど悲しくなる。なんだか全部がバカバカしくて、いっくんを置いて歩き始めた。
「ちょ、ちょっと、待って! どこ行くの?」
追いかけてくる足音を感じても、振り返りたくない。無視して足を速めれば、手首を掴まれた。
「離して……!」
「……透」
弱弱しい声に悪いことをしているような気にさせられてしまって、少しだけ後ろを見た。なっちゃんとよく似たいっくんの目は今にも泣いてしまいそうだ。
「僕の話、聞いて……。ちゃんと謝るから……」
いっくんはずるい。そんなふうに言われたら断れないことを、きっと見抜いてる。仕方なくのろのろといっくんに向き合う。
「……気づいたら透がいなくて焦ったんだ。それで、男に絡まれてるのを見つけたから、何か、頭に血が上って……」
ごめんと謝るいっくんに私は首を振る。いっくんはどうして私が怒っているのか全然分かってない。
「違うよ! そんなんじゃない!」
言うつもりなんてなかったのに、言ったらいけないと分かっているのに、もう止められない。
「久しぶりに会えたのに、いっくんは全然私を見てくれない……。どんどん一人で行っちゃって、私が追いかけるのが当たり前だし、お弁当だってすごく頑張ったのに、興味なさそうだったし……!」
子どもみたいなことを言ってるのは分かってた。私の目がまた熱くなっていく。
「私ばっかり、いっくんに会いたいって思ってて……楽しみにしてたのがバカみたい……」
少しでも可愛いと思われたくて選んだスカートは、とても近くにあるのに今の私にはよく見えない。ぽたっと一つこぼれた涙がスカートに染みを作る。
「待って、話が見えないんだけど……」
困惑して眉間にしわを寄せるいっくんを自棄になって見上げる。
「……私、好きな人が分かったの。だから、いっくんに―――」
眼を見開いたいっくんが息を飲んだ。こんな涙でぐちゃぐちゃな顔で本当は言いたくなかったのにと、気持ちとは裏腹に私の頭にはまだ冷静な部分が残っていた。
「―――嫌だ!!」
私の体がいっくんの匂いにすっぽりと包まれている。逞しい腕。小さなころは私と何も変わらなかったいっくんの体は、もう男の人になっていた。
「聞きたくない!」
抱きしめてくる腕の力が強い。少し苦しいほどの強さは、私に期待と勇気を持たせた。
「いっくん、私の話も聞いてよ……」
「嫌だ! 兄貴に渡したくない!!」
私よりもずっと大きくなった体で子どものように嫌々と首を振る彼の背中に手を回す。
「……私ね、今日の為にいろいろ練習してきたんだ」
いっくんが私を抱きしめる腕が少しだけ緩む。
「服も髪もどうすればいいか悩んだり、いっくんの好きな甘い卵焼きが上手に作れるように練習したり……」
完全に緩んだ腕はまだ私の体に回っている。顔を上げれば動揺しているいっくんの顔が見えた。
「じゃ、なんで……。透は兄貴と……」
「なんでなっちゃんが出てくるの?」
信じていないようないっくんに私は悲しくなった。
「だって……この前だって、わざわざ夜の公園で兄貴と二人きりで話してたし……。今朝だって兄貴に"可愛い"って頭撫でられて嬉しそうにしてた。お昼のときだって兄貴のこと言うし……! 僕じゃなくて……兄貴を選んだんだろっ!?」
今朝のこといっくんは見ていたんだとかそんなことを思う暇もない。いっくんは苦しそうに表情を歪ませて声を荒げる。
「これも、僕と二人で出かける最後だから―――!」
「―――違うよ!」
聞いている間に勝手に一人で勘違いをしていく、いっくんに私はまた怒っていた。どうして、昔からそんなに不安になるまで何も言ってくれないんだろう。
「……確かになっちゃんには先に、好きな人のことは話したよ」
いつの間にか俯いていた私はぎゅっと両手を握る。あのとき、なっちゃんは"そんな気がしてたよ"と無理に笑ってくれた。今はあのなっちゃんの悔しさと悲しさの混じった優しい笑顔が私の背中を押してくれる。
「でも、私の一番はなっちゃんじゃない! 私は―――!」
じんわりとまた涙で目の前が歪む。
「―――私は、いっくんが……郁弥が好きだよ」
膜のように目に貼りついていた涙がこぼれて、視界がはっきりとする。目の前には元々ぱっちりとした目を大きく開いているいっくんが見えた。ここまで言っても信じてもらえなかったらどうしよう。動揺しているいっくんの目を見ていたら、また涙が溜まってきて両手で顔を隠すように覆った。
「……透」
すごく優しい声だった。私の顔を覆う手に触れた手も優しくて、誘われるままするりと下ろされてしまう。
観覧車の後ろからパレードのクライマックスを知らせる花火が打ちあがった。パラパラと花火の名残の音を聞きながら、私といっくんの唇は優しく重なっていた。
「僕も、透が好きだよ。……ずっと好きだった」
今日初めて見ることができた私の大好きないっくんの柔らかな微笑み。きっと私はずっと気づかなかっただけで、このいっくんの笑顔がずっと好きだったんだ。また花火が打ちあがる。菊の花のように広がる幾つもの打ち上げ花火。その音の中で今度は私からいっくんにキスをした。
赤い菊
〜あなたを愛しています〜