白いアザレアの答え
好き。好き。好き……。好きとは一体なんだろうか。色々な種類がありすぎてどれが私に求められているものなのか分からない。
「はあ……」
深いため息と一緒に私は机に突っ伏した。机のひんやりと冷たい感じが気持ちいい。目を開けたら予習で使っていた国語辞典が見えた。これに答えが載っているとは思えないけど……。ペラペラとページをめくって私は目的のものを見つけてすぐに辞書を閉じた。
「ひかれることって言われても、それが分からないんだってば……」
期待はしてなかったけど、勝手にがっかりした。分かるように書いてあるのが辞書じゃないの?
「……そんなに難しいの?」
急に聞こえた声に驚いた。だって、ここは私の部屋で他には誰もいないのに。
「お、お母さん……」
「ごめんね。何回かノックしたんだけど、気づかないみたいだから入ってきちゃった」
困ったようなお母さんに慌てて首をふる。
「ううん。ごめん。ぼーっとしちゃって」
どうしたのかと思ったら、お母さんの手にはトレーがあって、その上にはお母さんと私のマグが乗っている。
「ミルクティー、一緒に飲みたいなって思って持ってきたの」
差し出してくれるマグを受け取ると、甘くていい匂いがした。
「いい匂い……」
お母さんは笑ってミルクティーに口をつけた。私も真似して飲んでみるとあったかくて甘い味が口に広がった。うん、おいしい。
ちらっとお母さんを見る。当たり前だけど、お母さんはお父さんと恋をして、結婚して、私を産んでくれた。もしかしたら、私の知りたい"好き"の答えを知ってるかもしれない。
「あの……ね」
「うん?」
「教えてほしいんだけど……」
「私に分かることならいいんだけど……」
自信がなさそうな顔をするお母さんに首を振る。多分、私が予習をしてたせいで勉強について聞こうとしてると思ったんだ。
「あ、勉強じゃなくてなんだけど」
きょとんとしているお母さんは首を傾げている。どこから話せばいいんだろう。もしかしたら、全部話さなきゃ伝わらないかな。
「あ、あのね。私、その、告白されたんだけど……」
"好き"ってよく分からないなんて言ったら呆れられちゃうかな? それとも娘のバカさ加減にがっかりする? そんな考えが邪魔して言葉が続かない。
「……郁弥くん? それとも夏也くん?」
「え!? な、なんで!?」
びっくりして声が裏返っちゃった私をお母さんがくすくすと笑う。
「なんでって……。ずっと三人のこと見てたんだもの。分かるよ」
なんだかびっくりしすぎて、言葉が出ない。ぽかんとしたままお母さんの顔を見ている私はきっと間抜けな顔をしてる。
「それで透はなんて返事したの?」
「そ、それが……その、好きってよく分からなくて」
考えても分からないなら、全部話してみよう。きっとお母さんは私のことをバカにして笑ったりしない。
「あのね、いっくんとなっちゃんに好きって言ってもらえたんだけど、私そういうの考えたことがなくて……」
黙っているお母さんは優しく微笑んでいた。なんでそんな顔してるんだろう?
「ああ、ごめんね。バカにしてるとかじゃないの。透は私の子なんだなーって思って」
頭を撫でてくれる手がくすぐったい。いつまでたっても小さな子どもみたいだけど、私はお母さんに頭を撫でてもらうのが嫌いじゃない。
「私も初めての告白はそんな感じで答えられなかったの」
「お母さんも?」
「そうだよ」
あっさりと言われたけど、その人との関係が気まずくなったりしなかったのかな? それともそんなに仲良くなかったとか? でもそうだったら私の場合には当てはまらないし……。
「それでも、その人は変わらずに好きでいてくれて、ずっと傍にいてくれたの……」
遠い目をしているお母さんはどこか懐かしそうな顔をしている。
「その人とはどうなったの?」
目を丸くさせたあと、なぜかくすくすと笑われた。なんで?
「その人とはそのまま結婚して、透ちゃんが生まれてきました」
「え!? お、お父さん!?」
こくこくと何回も頷いているお母さんはおかしそうに笑いをこらえている。だってうちのお父さんってなんていうのか不愛想だし、何考えているのか全然だし、何にも言わないし!
「確かにお父さんは愛想がいいわけじゃないし、思っていることとか、考えていることを口にする方じゃないけど」
考えが完全に筒抜けみたいで、何も言えない。うぐっと黙った私にお母さんはおかしそうに目元の涙を拭う。どれだけ笑うの。
「でも、それでも私をとても大事にしてくれてるんだよ。もちろん透のこともね」
ぎゅっとあたたかい両手に抱きしめられる。小さなころから大好きな香りがする。
「私はお父さんから好きとか恋とか、そういう気持ちを教えてもらったんだよ」
「お父さんから……」
「そう。すっごく感謝してるし、お父さんを好きになれてよかった。そうじゃなきゃ、透にも会えなかったんだから」
私を抱きしめるお母さんの腕がさっきよりもきつくなる。
「分からないなら、そう伝えるのもいいけど……。好きって気持ちを教えてほしい人を選ぶのも悪くはないかもしれないよ」
今度は私からお母さんに抱き着く。受け入れるとか断るだけじゃないのかもしれない。それが分かっただけで気持ちがとても軽くなった。
「ありがとう……」
「ううん。それじゃ、お勉強がんばってね」
飲みかけの私のマグだけを残して、お母さんは部屋から出ていった。
だから、私は知らなかった。お父さんが実は部屋の前にいて、お母さんの言葉に顔を真っ赤にさせていることも。お母さんがそれに気づいて部屋を出ていったことも。
***
「あ、降ってきた」
学校からの帰り。最寄駅に着いたときに雨がぽつりぽつりと降りだした。今日の予報では降るとは言わなかったけど、念のために傘を持ってきてよかった。前になっちゃんに貸したことのあるお気に入りの私の傘。開いて中に入ったら、男の子が傘を持たずに走っているのが見えた。
「いっくん!」
私の声で振り返ったいっくんは目をまん丸にさせている。そういえば、私から声をかけるのは久しぶりかもしれない。急いで駆け寄って、いっくんを私の傘に入れた。
「……あの、雨降ってるから」
「雨降ってるのは知ってる……」
ふてくさったように見えるけど、いっくんの場合は照れ隠しだ。これは私から言うしかない。
「一緒に帰ろうよ、いっくん」
「……うん!」
ぱっと表情を明るくさせて笑ってくれるいっくんに私も嬉しくなる。昔から、私はこんなふうにいっくんが笑うのが嬉しかった。
「貸して」
傘の柄が私からいっくんに移る。そのときに手が重なって恥ずかしくなったのは私だけなのかな。ちらっといっくんを見ると、いっくんも顔が赤い。
「なにその顔……」
「う……」
からかわれるかも。自分でもこんなふうになったことないから、なんで顔が熱いのか分からないし、どうしたいいのかなんてもっと分からないよ。
「……期待させるような顔しないで」
「いっくん?」
顔を背けてしまったいっくんの顔が見えない。けど、なんか様子がおかしい。
「兄貴から聞いた。……兄貴にも好きって言われたんでしょ?」
「うん……まあ」
なっちゃん、いっくんに言ったんだ。そうだよね。いっくんが私に好きって言ってくれたときにいたんだから。いっくんが告白したの知ってて、いっくんに自分が告白したことを黙ってるって、なっちゃんはしないだろうな。
「……ごめん。いっくん」
隣でひゅっと息を呑んだ音がした。足を止めたいっくんはなっちゃんそっくりな目を丸くさせていた。
「ち、違うよ! 振ったとかじゃないから!」
言い方が悪いと自分でも思ったから慌てて首を振った。
「じゃあ、なに……」
ほっとした様子のいっくんに、これを言うのも申し訳ないんだけど……。
「あのね、私、嬉しかったよ。いっくんに好きって言ってもらえて」
上手く説明しなきゃいけないから、いつも以上に考えながら言葉を選ぶ。
「でも、私まだ"好き"ってよく分からなくて……」
「ガキ……」
「いっくんだって子どもじゃない」
むっとしていっくんを見ると、いっくんは大きくため息をついた。
「いいよ。すぐに答えが欲しかったわけじゃないし。透はそうなんだろうと思ってたから」
「なにそれ!」
どれだけいっくんは私を子ども扱いしてるんだろう。悔しくなって顔をそっぽにむける。もしかしなくても、これが子どもっぽいって言われるのかも。
「ほらそういうところ」
「い、今のは言われなくても自分で気づいたもん!」
「ふーん」
「信じてない! 本当だってば!」
「はいはい」
まともに取り合ってくれないいっくんに悔しくなるけど、顔を隠しながら笑っているのが見えた。
「そういう、いっくんは素直じゃないだけじゃない」
「はあ!? 透には言われたくないんだけど!」
「ええ!?」
私はいっくんほど捻くれてないつもりだったのに、そんなふうに思ってたなんて逆にびっくりだよ。お互いにむっとしながら睨みあう。だけど、少しすると―――
「ぷっ、あはは!」
「あははは!」
「なにその顔! ははは!」
「い、いっくんだって、変な顔してた! あはは!」
なんでかにらめっこみたいになって、私たちは笑った。子どものころも私といっくんは睨みあうとそのうち、おかしくなってきて今みたいに笑ってた。変わってないんだと思ったけど、そのとき私は気づいてしまった。
「いっくん、背、伸びた?」
子どものころは少し私より小さかったのに、今は私より少し目の位置が高い。
「本当だ……」
てっきり恥ずかしがって素直じゃないことを言うかと思ったけど、いっくんは穏やかに微笑んでいる。
「前は透の方が少し大きかったのに。そっちが避けたりするから全然気づかなかった」
「う……」
それは私が悪いけど……。
「だって、いっくんとなっちゃんが私に内緒の話ばっかりするから仲間外れにするんだと思って……」
「もしかして、避けてた理由ってそれ? バッカじゃないの」
「いっくんはすぐバカって言う」
悔しくて、またむっとしてしまう。
「だってバカなんだから仕方ないでしょ。……兄貴と僕が透を取り合ってたことも気づかないんなんてさ」
「え?」
「"え?"ってなに? もしかして気づいてなかったの?」
気づくもなにも初耳なんだけど。じゃあ、私はいっくんとなっちゃんのケンカしているのを仲間外れにされてるって勘違いして避けてたってこと?
「いっくんに言われなくても自分でバカだと思う……」
「……でも、透はそれでいいよ。僕はそのほうが―――」
雨の音が急に小さく聞こえて、いっくんの真剣で赤い顔が見える。
「―――好きだから」
「あ、う……」
ぐあっと体中が熱く燃えているような気がした。初めて言われたわけじゃないのに、すごく動揺する。
「知ってるくせに、そんな反応しないで」
フンと顔を背けたいっくんと顔の熱がこもるばかりの私はそれきり、家に着くまで話せなかった。
***
「あ」
いっくんの声に顔を上げると、ちょうど家に入ろうとしているなっちゃんがいた。
「なっちゃん」
私の声に気づいたなっちゃんは、私たちを見るとあからさまに不機嫌そうな顔になった。
「なんで一緒なんだよ」
「駅でちょうど会ったんだよ。いっくん、傘持ってなかったから」
ね、っていっくんに言うと、なっちゃんは怪しむようにいっくんを見る。
「郁弥、本当に傘持ってなかったのか?」
「折り畳みは学校に置いてきたんだよ。雨降ると思ってなかったし」
近寄ってきたなっちゃんも私の傘に入ってきて、だいぶ窮屈になった。お互い家の前なのに私たちはどうしてこんな狭い傘の下に入りこんで話しているんだろう。
「って、なっちゃん濡れてるよ! ちゃんと拭かないと!」
ハンカチでなっちゃんの濡れた髪を手の届く程度で拭く。狭い傘の中だから、なっちゃんを拭くたびにいっくんにもぶつかってしまう。
「透、手ぶつかるから拭かなくていいよ。兄貴だって家に入ればいいんだし」
「なんだ郁弥。お前妬いてるのか?」
驚いていっくんを見ると、真っ赤な顔でものすごく動揺してた。恥ずかしくなるからそういう顔はしないでほしい。
「は、話があるならウチに来てもらえばいいって言ってるんだよ! こんなところで話してて、また透に風邪引かれても困るから」
た、確かに風邪を引きやすい私にとってはそのほうがありがたいけど……。ちらりとなっちゃんを見上げると、照れたように頭を掻いている。
「えっと、なっちゃんにも話さなきゃいけないことがあるから……。うちに来ない?」
二人の顔が同時に私を向く。間違った。なっちゃんだけじゃダメだ。
「あの、なっちゃんだけじゃなくて、いっくんも」
ほっとしたようないっくんとは対照的になっちゃんは不満そうな顔をしてる。さすがにこの状況でなっちゃんと部屋で二人きりなんて無理。あと、しばらくは公園で二人きりも無理!
「それじゃあ、あとでね。待ってるから」
傘をそのままいっくんに預けて、自分の家に入る。傘の下で睨みあう二人は不思議と前みたいに険悪な感じはしなかった。
「なっちゃん!」
驚いて振り返ったなっちゃんは、駅前で会ったときのいっくんそっくりだ。なんだかそれがおかしい。
「ちゃんと体拭いてからくるんだよ!」
「……おう!」
手を上げて、なっちゃんはいっくんが私にしたように傘の柄を取る。むすっと、いっくんはしてたけど、私が見ているのに気がついたのか少しだけ振り返った。それに小さく手を振ると顔を赤くして、いっくんも手を振り返してくれた。
***
「……美味しい」
「本当?」
「だ、だから透にしてはね!」
ぷいっと、そっぽを向いたいっくんはクッキーを持って行ったときと変わらない。それを思いだして私は一人で笑っていた。私たちは今、私の部屋で子どもの頃と同じ位置に座って、ホットケーキを食べていた。
「本当に郁弥は素直じゃないよな」
やれやれと言うなっちゃんのお皿にはもうほとんどホットケーキが残っていない。
「いっくん、大変! なっちゃんもう食べちゃうよ! 気を付けないと横取りされる!」
「もうガキじゃねーんだから、そんなことしねーよ!」
ペチンとデコピンをされてしまった。そんなに強くはなかったけど、痛い。
「透の中じゃ兄貴はずっと子どものままなんだね」
「なんだと……?」
「ち、違うよ! というか、その話がしたくて来てもらったんだ……」
二人の目がこちらを向くと妙に緊張してしまう。だけど、ちゃんと話さなきゃ。
「あのね。あれから考えたんだ。だけど、私には二人が言ってくれた"好き"がまだ分からなくて……」
両手を膝の上でぎゅっと握る。さっき紅茶を飲んだのに、すごく喉が渇く気がする。
「それで?」
促してくれるなっちゃんに頷く。ちゃんと話すって決めたんだから頑張らなきゃ。
「うん。それでね、もう少し返事に時間が欲しいと思って……」
重くなった空気の中で顔を上げるのはとても緊張した。二人ともどんな顔してるんだろう……。
「僕はいいよ。……それで」
「いっくん……」
さっき帰りに話してたせいか、いっくんは全然驚いていなかった。
「それが今の透が出せる精一杯の答えなんでしょ? ……なら、僕はそれでいい」
「……だな。むしろ意識されなかった今までよりは大分進展はしたんだし、これからはそんなに焦る必要ないもんな」
なっちゃんといっくんがお互いを見て笑ってる。
「透……!」
「え、ちょ、ちょっと……!」
「えっと……えへへ……」
自分でも分かる。私は泣いてる。でも、それが恥ずかしくて誤魔化した。
「わ、悪かった! 俺が焦りすぎたからお前を困らせて……!」
「ぼ、僕も、ごめん……!」
「違うの、嬉しくって……」
眉間にしわを寄せてお互いの顔を見る、なっちゃんといっくん。
「なっちゃんといっくんが、笑ったから」
泣きながら笑う私の顔にいっくんのハンカチが押し付けられる。
「ほら、早く泣き止んで」
「うん、ありがとう」
「そうだ。ほら」
なっちゃんは取りだした紙袋を私へ突き出した。勢いのまま受け取ると、ずっしりとした重みがある。
「またオレンジ?」
「好きだろ?」
うんと言えば、なっちゃんは太陽みたいに笑う。それが嬉しくて私も笑えば、いっくんも笑ってくれた。
***
それから何年か経って、ようやく私は答えを見つけた。
「私ね、"好き"ってなんだか分かったよ」
驚いた顔の彼に私は笑顔を向ける。きっとそんな顔をすると思ってた。
「ずっと、傍にいてくれてありがとう。これからもずっと傍にいてね」
"大好き"と抱き着けば、彼も私を抱きしめ返しながら頷いてくれるのが分かった。
子どものころ何気なくしてしまった花冠の約束は、違った形で果たされる。私たちは三人一緒にいつでも笑いあえる。お互いが大好きで、とても大切なことに変わりはないのだから。
白いアザレア
〜アナタに愛されて幸せ/愛で満たされる〜
End