ハギの告白

 身支度を整えて一階のリビングに入ると、お母さんが朝ごはんの用意をしていた。

「ごめん。寝坊しちゃった」

カバンをドアの近くに置いてキッチンへ入ろうとすれば、お母さんはいつもの笑顔で首を振った。

「病み上がりなんだから、今日はいいよ。もうできたから、座って?」

一緒に食べようと言ってくれるお母さんはいつも通り優しい。そんなお母さんの優しさに朝から心がぽかぽかする。お母さんの向かいに座って手を合わせる。

「いただきまーす」

 朝のニュースを見ながらお母さんと二人で食べる。特に気になるニュースもないけど、ぼーっと芸能人がドラマの番宣をしているのを聞いていた。トーストとサラダを食べ終わると、お母さんがオレンジを勧めてきた。半月のようにカットされたオレンジ。多分それは―――

「夏也くんが持ってきてくれたオレンジ。……せっかくいただいたんだから早く食べたほうがいいと思って」

微笑むお母さんは、きっと何も知らない。だけど、昨日のなっちゃんの言葉を思い出すには充分なことだった。

『そうじゃなきゃ、俺も郁弥もツラいままなんだよ……』

あの日のなっちゃんの声が耳元によみがえって、私は何も言わずに俯いた。

「……夏也くん、ずっと透を待ってたのよ」

「え……?」

マグカップの中に注がれたコーヒーを冷ましながら、お母さんは私に穏やかな目を向ける。

「郁弥くんに運んでもらった次の朝、夏也くんが透の傘を持ってウチの前にいたの。多分、駅まで一緒に行くつもりだったんじゃないかな」

上げた顔がまた下がっていくのが分かっても私はそれに逆らえなかった。

「夏也くん、透が風邪を引いて寝込んでるって言ったら、すごく心配してた」

「……そっか」

うつむいたまま見えるのはマグカップの中身だけ。

「それから毎日、透の具合聞きに来てたよ」

複雑な気持ちで顔を上げたら、お母さんは優しい困り顔をしていた。

「夏也くんにも郁弥くんにも、ちゃんとお礼言わないとね」

「うん……そうだね」

 オレンジを一つ取って口に運ぶ。甘さよりもすっぱさが強い味に涙が出た。

「すっぱい……!」

笑うお母さんの顔を見ながら、残りのオレンジを食べきった。

***

 机の上には可愛らしくラッピングされたクッキーの袋が四つ。そのどれもがはち切れそうなほどパンパンに膨らんでいる。今日の調理実習で予想以上に大量に作れてしまったクッキーたちは、クラスのみんなで分け合っても余るほどだった。

「どうしよ……」

ため息を吐いてもクッキーが減るわけじゃないけど、どうにか解決できないか悩んでしまう。

『八坂さんのクッキー、美味しかったから他の人にあげてみたら? きっと喜ぶと思うよ』

そう助言してくれたクラスメイトの言葉を鵜呑みにしていいのかな。

「喜ぶ……」

ぼんやりとクッキーの袋を見る。しばらくそれを見ていたら、朝忘れていったケータイがベッドの上で鳴った。

「あ……」

 メールはお母さんからで、少し帰りが遅くなるらしい。多分、誰かに会ってお茶でもしてくるつもりなんだろう。この大量のクッキーをお母さんと食べようと思ったのに……。ベッドにケータイを落とすと白うさぎくんと目が合う。その視線の先にあるのは机の上にあるフォトフレーム。その写真を見るとため息がでた。

 ふと思いついてしまった。他にいい考えがないか悩んでも、どうしても思いつかなくて、またため息がでる。部屋の時計を見る。渋々、二袋のクッキーを紙袋に入れて家を出た。

***

 一応、インターホンを鳴らす。子どものころはなんてことないことだったのに、今は手に汗が出て仕方ない。

「……何してるの?」

「ひっ!?」

 後ろからかけられた声に驚いて足がもつれる。

「本当に何してるの?」

驚いて転びそうになったところを、いっくんが支えてくれた。その反射神経にも驚いて固まってしまった。

「あ、ありがとう……」

いっくんの手を借りて立たせてもらう。驚いたところを見られたのも、転んだところを助けてもらったのも、じわじわと恥ずかしくなってきて顔が熱い。

「……透?」

「クッキー、作ったから……」

 いっくんの胸元に紙袋を押し付ければ、そのまま受け取ってくれた。それから言わなきゃいけないことが一つ。

「この前、風邪引いたときなんだけど……」

いっくんは不思議そうにしながら、黙ってわたしの言葉を待ってくれる。

「あの、風邪うつらなかった?」

急に恥ずかしくなって思ったことと違う言葉が私の口から出た。

「透じゃないから、あんな風邪引かないよ」
 
ツンとした態度のいっくんは素直じゃないけど、多分これは私に心配させないように言ってるだけ。不器用だけど、いっくんは小さいころから優しい。

「あの、ごめん。ちょっと待ってね」

 深呼吸を繰り返す私を、いっくんはさっきと同じく何も言わずに待っててくれる。

「心配してくれてありがとう。いっくん」

目を丸くして驚くいっくんの顔が見れない。どうしてこんなに緊張するのか分からないけど、ちゃんとお礼は言えた。じゃあね、と手を振って家に戻ろうとする。だけど、帰ろうとする私をいっくんは引き止めた。

「寄りなよ。お茶ぐらい出すから……」

 後半は声が小さくなっていて聞き取りづらかったけど、いっくんの顔が赤いから私はただ小さく頷いた。

***

 通されたのはリビングではなくて、いっくんの部屋だった。子どもの頃に来たきり、一度も来ていないいっくんの部屋は何も変わってない。

「何? 人の部屋ジロジロ見て」

文句を言いながらも恥ずかしがっているいっくんが、いつの間にか部屋の入り口にいた。その手には湯気を立てている紅茶をのせたトレーがある。

「いっくんの部屋、変わってないなぁって。あのポスターとか前もあったよね?」

 壁に貼られている水泳選手の大きなポスターを指す。

「あったっていいでしょ。ほら、冷めるよ」

その場にトレーを置いて、それを囲むように私たちは座った。

「透は砂糖一つでいいんだよね?」

「うん。いっくんもでしょ?」

 本当はミルクティーが好きだったけど、牛乳の嫌いないっくんに合わせているうちに、私の好みはいっくんに似ていた。紅茶に関してはだけど。

 紅茶を飲むいっくんの顔が少し嬉しそうなのは勘違いではないと思う。そんないっくんを見ると私も嬉しくなって、こんなクッキーでも持ってきてよかったと思えた。

「なんで、こんなにクッキー作ったの?」

「調理実習で作ったんだけど、分量間違えてすごい量になっちゃったんだ」

ふーんと言いながらいっくんはクッキーを一つ口に運ぶ。

「おいしい……」

ぽつりとこぼれた言葉に嬉しくなって顔が緩む。それに気づいたのか、いっくんは慌てて言葉を足した。

「透にしてはだけどね!」

「それでも、いっくんが喜んでくれたら嬉しいな」

いっくんの照れ隠しなんて子どものころから何度も見ているから、誤魔化したってすぐに分かる。それはいっくんも分かっているから、赤い顔のまま紅茶を飲んでいた。
 こうしてみると、いっくんは変わっていないのかもしれない。『男として見ろ』なんて言ってくるなっちゃんとは違うと思うと、いっくんの隣は居心地がよかった。

「透、口の端にクッキーついてる」

「えっ!? どのへん!?」

 口の周りにクッキーをつけるなんて小さな子どもみたいで恥ずかしい。慌てて右の口の端に触れるけど、思った感触はない。

「そっちじゃない。もう、面倒くさい。そのままじっとして」

そっと伸びてきたいっくんの指が優しく私の口に触れる。あの日、私の濡れた前髪を分けてくれたときと同じ。そんなことを思い出したら顔が熱くなった。

「取れたよ。……透、どうしたの?」

 覗き込んでくるいっくんの顔を今は見れない。

「み、見ちゃダメ!」

片手で顔を隠しながら、もう片方をいっくんと、距離を取るように突き出す。

「……そういう顔、兄貴にも見せるの?」

驚いて顔を上げると、いっくんは苦しそうに顔を歪めていた。どうしてそんな顔をするの?

「いっくん……?」

「透は全然分かってないよね」

 ため息をつく様子に、もしかしていっくんもなっちゃんと同じなのかなという不安が生まれた。考えだしたら気になって仕方がなくなってしまう。変わっていないことを願いながら、私は聞いてみることにした。

「……いっくんも男として見てほしいって思うの?」

いっくんの目はみるみる大きくなっていく。その目を見たときに聞かないほうが良かったのかもしれないと思った。

「……兄貴にそう言われたの?」

いっくんの目はさっきと違って驚いていない。私にはよく分からない感情が見える。

「どうなの?」

真剣ないっくんの声に正直にぎこちなく頷く。どうしてだろう何も悪いことはしていないはずなのに顔を上げられない。

「……透、顔上げて」

 顔を上げると、いっくんは困ったような表情をしていた。そして、そっと私の顔へ手が伸びてきた。慰めるように頬を撫でるいっくんの手が気持ちよくて目を閉じた。

「……泣きそうになるほど困ってるの?」

頬を撫でる手が大丈夫と言ってくれているような気がして、私は目を開けた。ちょうどそのとき一階からものすごい足音が迫ってきた。驚いている私と違って、いっくんの顔は険しくなった。大きな音ともにいっくんの部屋に入ってきたのはなっちゃんだった。

「郁弥……お前!」

私の顔に触れたままのいっくんを見て、なっちゃんが怒ったのが分かる。でも、いっくんが悪いわけじゃない。だから、今にも掴みかかりそうななっちゃんの前に両手を広げた。

「何してんだよ?」

 イラついた目を向けてくるなっちゃんが怖い。だけど、このままだといっくんが殴られてしまうような気がして動きたくなかった。

「透、大丈夫だから下がって」

後ろのいっくんを見ると、なっちゃんに負けないほど怖い顔をしていた。その顔を見たら、私の腕から力が抜けてゆるゆると下に落ちた。

「……透に何したんだ、郁弥」

「別に何もしてない」

「じゃあ、なんで透が泣きそうになってんだよ」

その言葉にいっくんの目つきはさっきよりも鋭くなった。

「そんなの、兄貴が透を困らせたからだろ!!」

 立ち上がったいっくんの荒い声に私は驚いて身をすくめた。なっちゃんも同じなのか目を見開いている。

「透!」

突然、いっくんに名前を呼ばれて返事よりも先に体が跳ねた。座ったままの私に視線を合わせるためにいっくんは膝をついた。

「……透はどうしたいの?」

「え?」

この部屋には私だけじゃなくなっちゃんもいるのに、いっくんはそんなこと気にする様子もなく私の顔を覗き込んだ。

「僕は透が今まで通りでいたいなら、そうする」

「今まで通り……?」

 いっくんの言う今まで通りって子どものころみたいにってこと? 戸惑いを感じながら顔を上げる。頷いてくれたいっくんは真剣な顔をしていた。

「なんで……?」

なんで私のためにそんな風にしてくれるの? そう口にする前にいっくんは拗ねたような表情になった。反らした視線と赤くなった顔の意味が分からない。

「本当に何にも分かってないよね……」

 『分かってない』前にも言われた言葉の意味を私はこの後、初めて知ることになった。

「……透のことが好きだから」

真っ赤にした優しい表情のいっくんから目が離せない。でも、いっくんの後ろにいるなっちゃんの酷く傷ついたような表情も忘れられなかった。

「だから、透のためなら何でもしてあげる」

 生まれて初めて告白をされた。その相手はいっくんだった。

ハギ
 〜内気な愛情〜

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