リナリアと焦り
風邪を引いて数日寝込んでしまったけど、明日には学校にも行ける。友達からのメールでいくつも課題が出されたことを知ってしまうと行く気が失せるけど、心配してくれるクラスメイト達と早く話したい気持ちにもなった。
念のために休んだ今日は特に何もなく過ぎていく。朝も普通に起きて、テレビでニュースを見た。そのあとはお昼まで教科書を軽く読んで予習をしたつもりになった。
夕方になれば、部屋でごろごろしながら明日のことばかり考えるようになっていた。そういえば、いっくんにお見舞いに来てもらったお礼を言っていない。お母さんが言ったかもしれないけど、こういうことは自分の口から言うべきだ。
「……ちゃんと、お礼言わなきゃ」
ため息をついて白うさぎくんのお腹に顔を埋める。熱があって頭がぼうっとしていたせいとはいえ、いかないでなんて甘えちゃったし、それに……。
「いっくんって呼んじゃった……」
"桐嶋くん"と呼んで距離をとっていたのにこれじゃ意味がない。
ノックの音が部屋に響いて顔を上げた。体をベッドから起こしてドアを見た。部屋に入ってきたのはお母さんじゃなかった。お母さんだと思い込んでいた私は驚いて声が出なかった。白うさぎくんを抱いていた腕から力が抜けそうになる。
「……よう」
「なっ……ちゃん」
しぼりだすようになってしまった声で呼んでしまったのに、なっちゃんは嬉しそうに微笑んだ。
「また"桐嶋くんのお兄さん"なんて呼ばれんのかと思ってた」
しまったと思っている間に、なっちゃんは入るぞと言って後ろ手にドアを閉めた。当たり前のように学習机の椅子を引いてそこに腰掛ける。
「もう、風邪いいのか?」
白うさぎくんをしっかりと抱き直して、その後ろ頭で口元を隠す。
「まあ……」
今日は何をしに来たんだろう。伺うように上目で睨んでみる。
「ったく……」
ため息を一つつくと、なっちゃんは手に持っていた紙袋を、差し出してきた。
「ほら、お見舞い」
「ありがとう……」
白うさぎくんを片手に抱いたまま受け取って、またベッドに座り直す。
「中、見ないのか?」
「オレンジでしょ?」
重さもあるけど、なっちゃんは子どものころから私が風邪を引いたと聞くとお見舞いに柑橘類を持ってきた。その中で一番多く持ってくるのがオレンジ。
「よく分かったな」
「なっちゃんは他にお見舞いの品なんて持ってこないじゃない」
寝込んでいる子どもの私に手から零れそうなほど大きなオレンジを差し出してくれた小さななっちゃんを思い出す。一度や二度ではなく風邪を引くたびに、なっちゃんは何度も持ってきてくれた。懐かしさからくすりと笑うと、なっちゃんが真剣な顔をしてみせた。
「透、お前なんでこの前先に帰ったんだ?」
この前というのは一緒に電車で帰った日のことだと思う。あの電車の中でのことを思い出して、いい気分にはならなかった。
「……邪魔しちゃ悪いから」
ぎゅっと白うさぎくんを抱きしめて俯く。
「邪魔ってなんだよ」
少し怒ったようななっちゃんの声に顔を上げる。やっぱり少し怒ったなような顔をしている。
「……飛び出して行ったから心配したんだぞ。分かってんのか?」
心配から怒っているのだろうけど、私には理解できない。
「じゃあ、なんで追いかけてこなかったの?」
別に追いかけて来て欲しかったわけじゃない。むしろ、あの日はあれ以上なっちゃんと一緒にいたくなかった。
「それは……」
黙ってしまったなっちゃんの様子を見ると、きっと電車で会った彼女に引き止められたんだと分かった。それを振りきってまでなっちゃんが私を追いかける必要なんかない。
ため息を小さくついて気持ちを落ち着ける。
「いいよ。別に怒ってるわけじゃないから……」
ちゃんと顔を上げてなっちゃんを見れば、意外そうな顔をされた。
「怒ってないのか?」
「ぜんぜん」
相手が怒っていないと言ったら安心してもいいのに、なっちゃんは複雑そうに眉間にしわを寄せた。そんな顔をされても私は何を言えば正解だったのか分からない。
「そういえば、いっくんは?」
「郁弥……?」
なっちゃんの眉間のしわが深くなった。でも、その理由は私には分からなかった。
「いっくん、風邪うつしちゃってないかなって」
「郁弥のやつ、ここに来てたのかっ!?」
突然立ち上がったなっちゃんの勢いに驚きながら私は頷いた。
「だって、いっくんが私を運んでくれたから……」
「運んだ?」
なっちゃんの様子に、私は首を傾げた。いっくんから聞いてきたんじゃないの?
「おい、どういうことだよ?」
私の肩に手を置いて、なっちゃんは真っ直ぐに見つめてくる。その目の奥に必死さが見えて私は戸惑った。
「なっちゃんと電車で別れた日に、道で熱出して倒れて……いっくんがそばにいてくれたから、私を運んでくれて……いっくんから何も聞いてないの?」
「……郁弥とはちゃんと話してない」
肩に手をかけたままなっちゃんは俯いた。
「な……んで?」
てっきり私を除いて仲良くしているんだと思ってた。それくらいすごく仲のいい兄弟だったのに、それなのになんで? 顔を上げたなっちゃんとの距離が近い。その顔はすごく苦しそうで心配になる。
「なっちゃん……?」
「俺が郁弥を突き放したからな……」
どういうことなのか話が見えない。ただ、目の前のなっちゃんはすごく辛そうだった。
「なんで、いっくんを突き放したの?」
なっちゃんはツラそうな顔で微笑んでから、私から手を離した。そしてまた学習机の椅子に座る。
「……郁弥は自分の世界を広げないとダメになるからな」
「……そっか」
なんとなくなっちゃんの考えが分かる。引っ込み思案ないっくんは、私や、なっちゃん以外の世界がほとんどないから、だから、なっちゃんはそうなってほしくなくて突き放すしかなかったんだ。
「でも、もうそのことは大丈夫だ。だから心配するな」
なっちゃんはそう言って少しだけ嬉しそうに笑った。
「あいつ、水泳部に入って変わったから」
誇らしそうにも見えるその表情に、本当に心配はないんだと安心した。でも、すぐにおかしいと思った。
「じゃあ、なんで話してないの?」
なっちゃんが突き放したことは解決したんでしょう?
「……お前、なんで俺が迎えに行ったと思う?」
「傘……貸したから」
話をそらされたような気もするけど私は一応、質問に答えた。
「それだけじゃねーよ……」
ため息をついてなっちゃんはもどかしそうに頭を掻く。
「くそっ!」
突然、立ち上がったなっちゃんはベッドに座る私の前に来てそのまま押し倒した。見慣れたベッドからの天井をバックにしたなっちゃんの顔は真剣だった。
「なっ……ちゃん?」
なにが起きたのか分からない。真っ直ぐに見つめるなっちゃんの目に私が映っていることだけが分かった。
「透……お前、もっとちゃんと俺を見ろ」
「見て、るよ……?」
なっちゃんの目が真剣過ぎて視線を外すことも許さない。だから私は戸惑いながらも、なっちゃんの目を見つめ返している。それなのに何を言ってるの?
「そうじゃない。ちゃんと……男として見ろって言ってるんだ」
「おとこ……?」
私の体に覆いかぶさるようになっちゃんが近寄ってくる。距離が近くなるたびになんでか体が強張った。耳元になっちゃんの口が寄せられる。
「そうじゃなきゃ、俺も郁弥もツラいままなんだよ……」
すっと離れた瞬間、体の周りの熱を持った空気が一気に冷たくなったように感じた。
「帰る。風邪、ぶり返さないようにな」
最後に微笑んでからなっちゃんはわたしの部屋を出ていった。起き上って見送ったあと、私はもう一度ベッドに倒れた。
私と一緒に押し倒されて、なっちゃんとの壁になってくれた白うさぎくんを、ぎゅうっと抱きしめる。耳に残るなっちゃんの吐息と、白うさぎくんの綿の体に残るなっちゃんの温かさが、なっちゃんの言ったことを思い出させる。
「男として見ろ……か」
そんなことをいきなり言われても、なっちゃんのことを女子として見たことはない。なっちゃんが言ったのはそういうことではないと、ちゃんと理解しているけどどこかでバカな思考を混ぜないと、どうにかなってしまいそうだ。
白うさぎくんに顔を埋めて目を閉じてもなかなか眠気はやってこない。だけど、もう起きている気にはなれなくて私はそのまま布団の中に潜った。
リナリア
〜この恋に気づいて〜