52020/03/10〜

『君に告げられた春』の二人
 くしゅん!と、くしゃみをした彼女はきちんと顔を背け、ティッシュで口元を押さえていた。

「大丈夫か?」

 ティッシュの箱を差し出した相澤は、目元と鼻を真っ赤にさせた彼女を痛々し気に見つめる。

「大丈夫じゃありません……」

すべてに濁音がついているような声で話した彼女は、ティッシュを受け取ると背中を向けて音を立てずに鼻をかんでいる。この季節にこの症状と言えば花粉症だが、彼女は元々花粉症ではない。一時的に花粉症にさせられてしまっている。というのも、早朝のパトロールでの出来事が原因だった。

 パトロール中に、老夫婦が開いている小さな花屋の前を通りかかった彼女は、親切心で花の荷下ろしを手伝った。彼女の個性であれば、重く、数があろうとトラックから商品の花を運ぶのは造作ない。下ろし終えて、その場を去ろうとした彼女を引き留めたのは、まだ幼い花屋の孫。
 彼は彼女のファンだった。興奮する子どもは当然のように彼女へ握手を求めた。元来子ども好きな彼女が快く握手に応えたことが、今、彼女が花粉症の症状に苦しんでいる原因だった。

「花粉に敏感になる個性……。花屋の孫がそれでいいのか?」

「誰しも、個性を選んで生まれてきているわけではありませんから……」

 鼻を押さえながら涙をぽろぽろと流す彼女を、相澤は新しく取り出したティッシュで拭ってやる。

「握手でこうなったってことは、触れると発動するのか?」

「みたいですね。興奮するくらい好いてもらえるのは嬉しいですが……」

うう、と苦しそうにしている彼女は、また背を向けて音もなく鼻をかむ。
 まともに話すことも前を見ることもできない彼女は、結局、その後の仕事を諦めて休むことにした。そこへ、ちょうど仕事明けの相澤に会い、そのまま彼女の部屋に一緒に帰ることになった。

「時間で効果もきれるそうですが、半日はこのままらしくて……」

「半日はツラいな」

 "はい"と答えてすぐ、彼女はティッシュで口元を押さえる。くしゅん、くしゅん、と顔を背けて小さなくしゃみを繰り返した彼女は、苦しそうな声を漏らす。

「こういうのは私じゃなくて消太さんの方が似合うのに……」

「どういう意味だ?」

訝し気に眉を顰めた相澤に"だって"と鼻を押さえながら話す彼女の声はこもっていて聞き取りづらい。

「鼻を真っ赤にして涙目になった消太さんは可愛いだろうなぁって思って」

「ときどき、お前の言う可愛いは意味が分からない」

呆れてため息を吐いた彼の横で、また彼女は隠れるようにしてくしゃみをした。

「でも、苦しんでほしいわけじゃないので、花粉症じゃなくてよかったです」

鼻を赤くして笑った彼女の目尻から涙が流れていく。どう見ても可愛いより痛々しいだな、と思いながら、相澤は彼女の涙を拭ってやった。

「薬、ないのか?」

「元々、花粉症じゃありませんから……。それに半日で治まるなら、わざわざ買うこともないですよ」

 我慢すればいいと思っているらしい彼女は、それよりと涙の溜まった目で相澤を見上げる。

「お風呂、沸きましたからお先にどうぞ。タオルはあとから持って行きますね」

「今日はお前が先に入った方がいいんじゃないか?」

 自分も花粉症ではないが、風呂に入ると楽になると聞いたことがある。そう伝えてみても彼女は首を縦には振らなかった。

「消太さんは仕事明けなんですから、先にお風呂で疲れを流してきてほしいんです」

苦笑いをしている彼女が恥ずかしさを誤魔化そうとしている。鼻が詰まってしまっていることも、話すことすべてが濁音になってしまうことも恥ずかしがっているのがよく分かる。

「今日はお前からだ。そんな鼻声で何言ってんだ」

相澤も譲らない態度を見せたが、彼女は目を数度瞬いて、じゃあと顔を寄せた。

「一緒に入りますか? そうすれば、どっちが先もないですよ」

「ば……! 馬鹿なこと言うな!」

「じゃあ、お先にどうぞ」

 一緒に入るか、先に入るかの二択にされてしまい、彼はため息を吐きながら下を向いた。この様子では、彼女は絶対に譲らない。そう分かってしまう。そして、それが何よりも自分を大切にしてくれているからだと知っている。仕方ないと思わされたときには、相澤はもう小さく笑っていた。

「ありがとうな」

 抱きしめようと伸ばされた相澤の手は、すっと軽く彼女にかわされる。なんでと不満そうに下唇を突き出した彼に彼女はブンブンと顔を振って、また背中を向けた。どうやら、鼻水が出てきてしまったらしい。

「ごめんなさい。あの、お風呂どうぞ」

くしゅん、とまたくしゃみをした彼女はティッシュに手を伸ばしている。仕方ないとばかりに頭を掻いた相澤は、勧められるまま浴室へと向かった。

***

 風呂を上がった相澤と入れ替わるように彼女が浴室へ向かった。微かに聞こえてくるシャワーの音は、学生の頃よりましにはなったが、今も相澤をドキドキとさせる。それを誤魔化そうと、彼はスマホを手にとった。

 何か彼女の症状を和らげる方法があればとネットで情報を集め始める。大体似たような内容が多く、彼女が風呂を上がったら勧めてみようと検索を終えようとすると、意外な見出しが目に入った。その情報の内容から目が離せないでいる相澤は、彼女が浴室のドアを開けた音で我に返る。別にいやらしいものを見ていたわけではないのに、とっさに彼はスマホを隠した。

「お風呂頂きました」

 風呂に入る前よりも随分と楽になったのか、彼女の鼻声はかなり良くなっていた。

「楽になったか?」

「お陰様で、随分よくなりました」

話す言葉すべてが濁音ではなくなったことに、ホッとしているような彼女は当たり前のように相澤の隣に座る。

「消太さんは、明日お休みですか?」

「ああ。だから、今日の夜にでもお前のところに行こうかと思ってた」

 ふっ、と雰囲気を和らげた彼女は、洗い立ての髪をサラサラと流しながら相澤の顔を覗き込む。

「おかえりなさい、消太さん」

「……ただいま」

ここが自分の帰る場所だと言ってくれている彼女に、照れながら答えた彼の声は小さくぶっきらぼうだった。

「可愛いですね」

よしよしと頭を撫でてくる彼女を、頬を赤らめた彼が軽く睨む。しかし、そんなことをまったく気にせず彼女は笑っていた。

「お前、いい歳した男の頭なんか撫でて楽しいか?」

「楽しいですよ。いくつになっても消太さんのことが大好きですから」

 彼女の気持ちについ、喜んでしまった相澤が押し黙る。少し悔しそうにも見える彼の表情を愛し気に見つめていた彼女は突然、撫でるのを止めた。

 どうしたのかと彼女の名前を相澤が呼んでみるが、彼女は背を向けたまま首を振る。そして、伸ばされた彼女の手に向かって勢いよくティッシュの箱が飛び込んできた。

スパン!といい音をさせたティッシュの箱は彼女の個性によって飛んできたのだろう。驚いている彼に気づかず、彼女は素早く取り出したティッシュで、音をさせずに鼻をかんでいる。

 そういうことかと納得した相澤は、鼻をかんでいる彼女の後姿から顔を逸らす。別に鼻をかんでいるところを見たって何とも思わない。むしろすっきりするようにかめばいい。そう思うけれど、彼女は鼻をかむ音も、姿も、決して相澤に晒そうとはしなかった。

(そういう教育を受けてきたんだろうな)

元々、いいところのお嬢様だったらしい彼女の生い立ちを考えれば、それもおかしなことではないが、もっと自分の前では気楽に生きてほしい。

「すみません。手を洗ってきます」

 静かに立った彼女が洗面所に向かう。その背中を見送りながら、相澤は不満そうに口をへの字に曲げた。

「なあ」

戻って来てすぐ、彼が声をかければ、彼女は小さく首を傾げた。

「あ、もしかして、お腹空きました? 作り置きでよければ、すぐに用意できますよ」

「そうじゃない。お前、そんなに俺に気を遣うな。もっと楽にしろよ」

何を言われているのか分からなかったのか考える仕草を見せた彼女は、すぐに彼の言いたいことを理解して目を瞬いた。そして、おかしそうに小さく笑う。

「消太さんは本当に優しいですね」

「普通だ」

褒められて目を逸らす相澤に、彼女はくすくすと笑う。

「嫌ですよ。鼻をかむところなんて、人前で見せたくありません。それが好きな人の前ならなおさらです」

「じゃあ、俺もお前みたいにした方がいいのか?」

少しムキになって言う彼が意外だったのか、彼女はきょとんとしてから首を振った。

「消太さんはそのままでいてください。私は、その……」

僅かに頬を赤らめた彼女は軽く俯いた状態で相澤を見る。少し潤んでいるように見える彼女の上目に、彼の胸が強く脈打った。

「……好きな人の前では少しでも可愛く見られたいので、このままでいたいです」

 本当は違う部屋で鼻をかみたいくらいなんですけど、と苦笑する彼女の言いたいことに納得して相澤は頷いた。

「俺は、お前が苦労してなきゃ、それでいい」

無理に自分の考えを彼女に押し付けたいわけじゃない。ただ、彼女が無理をしていなければそれでいいと、目を逸らす相澤に彼女は嬉しそうに笑って抱き着いた。

「消太さん、大好きです」

「……俺も」

しっかりと彼に抱きしめ返された彼女から嬉しそうな声が上がる。その声に相澤の表情も緩んだ。

 見上げてくる彼女の顔に彼の無骨な手が添えられる。優しく触れてくる手が心地いいのか、彼女はうっとりと目を閉じた。

「知ってるか」

「何をですか?」

目を開けた彼女の頬を指で撫でる相澤は、しっかりとその黒い目を見つめる。

「キスで花粉症の症状が緩和される」

 ゆっくりと顔を近づけられた彼女は徐々に顔を赤くさせていく。

「あの、本当ですか?」

「ネットの情報だからどうだかな。でも―――」

ちゅ、と軽く触れ合った唇が離れても二人の鼻先は触れ合ったまま。その距離で相澤はゆっくりと小さな声で確かめた。

「―――試してもいいだろ?」

「いい、です」

彼女がそう答えるのを知っていたように相澤は、彼女が"いいですけど"と言い切る前に唇を塞いだ。何度も何度も唇を重ねてくる彼の胸をとんとん、と彼女が叩く。やっと僅かに離れた距離で、彼女は息を少し乱しながら口を動かした。

「ちょ、ちょっと待ってください。あと何回するんですか?」

「さあ? 何回できるだろうな」

また軽く彼女の唇を奪ってから相澤はニヤリと意地悪く笑う。

「三十分すると、鼻炎薬並みの効果が出るらしいぞ」

「さんっ!?」

驚いている彼女に構わず、また唇を重ねた彼はそのまま彼女を押し倒す。何か言いたげだった彼女も仕方ないと思ったのか、彼の唇を素直に受け入れた。

***

 そして、もういい加減三十分は経っただろうと彼女が相澤の袖を引く。その意味に気づいた彼は悪びれもせずに"ちゃんと時間を見てなかった"と言いきった。

「効果がちゃんと出るか分からないと意味がない。だからこれから三十分だな」

「……今度はちゃんと見てくださいね」

仕方ないですねと、苦笑する彼女の口に微かに唇を触れさせたまま、相澤は彼女の顔の輪郭を撫でる。

「お前がそうやって甘やかすから、俺が調子に乗るんだよ」

まったくと思いながらも、こうして甘やかされる喜びを感じる彼は嬉しそうに顔を綻ばせていた。
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