62020/04/01〜

『君に告げられた春』学生編の二人
 満開に咲いた薄紅色の花。風に吹かれた花々が揺れる音が、さざ波のように押しては返す。いつもの誰も来ない中庭から茂みに入った奥の奥。そこには一本の大きな桜の木があった。

「さぁ、どうぞ」

「……おせちか?」

 いつも一緒に昼食を摂るときは、彼女が弁当を用意してくれる。そんな彼女から"お花見をしながらお昼をご一緒しませんか?"とメッセージが届いたのは一昨日だった。きっと、花見弁当のようなものを作ってくるのだろうとは思っていたが、まさかこんなにはりきって重箱の弁当を用意されるとは、相澤はまったく思っていなかった。

「おせちじゃありません。お花見弁当です」

開いた稲荷寿司には錦糸卵と桜の塩漬けが乗せられている。他にも、タケノコと花の形に切られたニンジンやレンコンの煮物にフキが添えられたもの、(さわら)の西京焼き、菜の花の胡麻和え、よく分からない料理も多いが、春らしくどれも色とりどりだ。

「気合い入れすぎだろ。お前、ちゃんと寝たのか?」

「大丈夫です。ちゃんと寝てます」

 ふふっと嬉しさを頬に広げた彼女は、彼を細めた目で見つめる。

「心配してくれて嬉しいです」

「……当たり前だろ」

面映ゆいのか目元を赤らめた相澤は、ふいっと視線を左下へと逃がした。そんな彼を微笑ましく見た彼女は、同じように目元を赤らめて重箱へ視線を下ろす。

「一つでも、消太くんに美味しいと思ってもらえるものを作りたかったんです。喜んでくれたら嬉しいなって」

 風に揺れた黒髪を耳にかけた彼女の仕草に、どきりと胸が跳ねた。

「消太くん?」

首を傾げた彼女に、また彼の胸は強く脈打つ。早くお礼を言わなくてはと思うのに、どうしてか口を開くと違う言葉が出てしまう気がした。

「あの、何か嫌いなものが入ってましたか?」

不安そうな顔を彼女にさせている。早く言葉にしなくてはと相澤は焦りながら口を開く。

「好きだと思った……。お前のこと、凄く好きなんだって、感じてた」

 目を丸くさせている彼女の反応を見て、自分がお礼ではなく、今感じていることを無意識に口にしたのだと気づいた相澤の顔はみるみる赤く染まった。

「私も、消太くんの傍にいると、いつも大好きなんだって改めて感じます」

整った顔に浮かぶ彼女の微笑みは、桜の中で見るせいか、普段よりも一段と美しかった。思わず伸ばした相澤の手が、普段は白い彼女の頬に触れる。淡く染まっていた頬は、彼が触れるとどんどんと熱を持ち、赤く染まった。

 言葉にされなくても、その様子で自分が強く彼女に想われているのが分かった彼は愛おし気に目を細める。相澤の視線を受け止めた彼女も同じように嬉しそうに目元を和らげた。

そのまま手を彼女の頬の上で滑らせると、恥ずかしそうに目を伏せる。思っても口にすることのできない"可愛い"が相澤の中で膨らんでいく。

「か……」

 恥ずかしさや照れくささを押し殺して、可愛いと彼女に言ってみようとした。しかし、どうしても、伝えたい気持ちより照れくささが勝ってしまい声が喉の奥から出てこない。

不思議そうに首を傾げた彼女は、俯いてしまった彼に何かを察したのか、ふっと雰囲気を和らげた。

「……お弁当、食べませんか?」

 顔を上げた相澤の視界に入ったのは、とても柔らかな彼女の笑み。さりげない心遣いは彼女の優しさからくるものだと知っている。決して相手を責めない言葉や口調が彼女らしい。

「ああ……」

返事をしてから、彼は改めてお重箱を覗く。(いろどり)がいいだけでなく、詰め方にもこだわりが見えた。

「いただきます」

 いつも食べる前に、彼女はきちんと手を合わせる。こういうところに育ちの良さがでるのだろうかとぼんやりと思う。きっと手を合わせないで食べても、彼女は何も言わない。そう分かっていても、悪く思われたくはないと考えるようになり、いつの間にか相澤も食べる前には手を合わせるようになっていた。

 一つ一つ、どれも手が込んでいそうな料理が詰め込まれた、この弁当にどれだけの時間が使われたのだろう。そう改めて考えてしまった相澤の視線が彼女に向く。

「どれでも好きなものを言ってくださいね」

取り皿を手に、どれを選ぶのか待っている彼女へ彼は考えるように頭を掻いた。

「……ありがとうな」

心配をするのではなく、お礼を言った方がいい。相澤の考えた通り、彼女の口元が優しく弧を描いた。

「私こそ、ありがとうございます」

適当に取り分け始めた彼女は、皿に乗せたもののバランスも考えているようで、彼が受け取ったものはとても綺麗に盛り付けられていた。

「なんでお礼言うんだよ?」

「なんででしょう? 消太くんにありがとうって言われて嬉しくなっちゃったからですかね?」

 質問を質問で返すなと思いながら、相澤は手元の皿へ視線を下ろす。白で周りがピンクに染められたそれは桜の花びらを模しているようだ。そのまま口へ入れると思った触感ではなかった。

「これ、かまぼこじゃないのか」

「それはゆり根です。茶碗蒸しに入れても美味しいですよ」

まだやったことがないんですが、天ぷらにしても美味しいそうですよ、と彼女も煮物を口に運ぶ。上品に食べる様子を見ていた相澤の視線に気づいた彼女は笑みを返す。

「お茶もおかわりがありますから、遠慮なく言ってくださいね」

「ああ」

 別に何かが欲しくて見ていたわけではないけれど、素直に彼女に見とれていたとは言えない彼は無難な返事で誤魔化した。

弁当を食べながら、ちらりと彼女を盗み見る。同じタイミングで彼に目を向けた彼女と視線がバッチリとぶつかり、二人はどちらともなく笑顔になった。

「消太くんと食べるとなんでも美味しいです」

「お前の料理上手いからだ。俺は関係ない」

 意外そうに瞬きをした彼女が、くすくすと笑う。

「分かってませんね。好きな人と食べるご飯は特別美味しいものです」

向けられる穏やかな黒い目に、"消太くんは違うんですか?"と訊かれているようだった。確かに、これまでは食事に時間を割かない栄養補給食ばかりを食べていた。別に味にこだわりもないからそれでいいと思っていたが、こうして彼女と一緒に摂る食事は相澤の中でも特別なものになっている。

「……まあ、分からなくもない」

 口に運んだ稲荷寿司も美味だ。これまでには食べたことのない味だったが、気に入ったのか彼はもう一つ同じものを取り皿へと乗せる。
 自分の作ったものをこうして相澤が食べてくれることに、こっそりと喜びながら彼女は頬を赤らめて目を伏せた。

***

 食後、しばらく話していると相澤は眠気を感じ始める。微かに感じる程度のものだというのに、彼女はとてもよく見ていた。

「消太くん」

 とんとん、と隣を叩ている彼女に何を促されているのか、言葉はなくとも彼には分かった。広げられているレジャーシートの上にゆっくりと横になれば、彼女も相澤と同じように横になった。狭いレジャーシートの上では、自然とお互いの体が触れ合う。彼女から感じる柔らかさや温もりに癒されるが、同じくらい彼は緊張していた。

「可愛いですね」

優しい声をかけてから、髪を数度撫でられた相澤は不機嫌そうな顔で彼女を見た。

「ガキ扱いはよせ」

「ごめんなさい、可愛いと思うとつい言ってしまって」

悪びれずにくすくすと笑っている彼女に、はぁっとため息をこぼす。

「見てください」

彼女が指さす方へ目を向けると、サァァァっと風に吹かれた音をさせながら桜の花びらが降ってきた。顔の上に落ちてきた花びらを捕まえた彼女は懐かしさの込められた目で、指先でつまんだ桜の花びらを見つめた。

「知ってますか? 地面に落ちる前の桜の花びらを捕まえると、恋が叶うそうですよ」

 どこかで聞いたことのあるようなまじないを彼女もしたのだろうかと、眠気を含んだ目で彼が見ていると、彼女はふっと息を吐いて花びらを手のひらから落とした。

「今の私には必要ありませんね」

 寝返りを打った彼女が自分へ向いたのに合わせて、彼も体を彼女の方へ向ける。お互いの顔を見る形で横になった二人は、どちらともなく小さく笑った。そして、手を伸ばし合い、当たり前のように指を絡める。

「消太くん、大好きです」

「……俺も」

彼女の少し冷たい手を握りながら、相澤は目を閉じた。すぐに聞こえてきた寝息が、彼女を優しく穏やかな気持ちにさせる。

 無防備に眠っている彼の姿を見られることが何よりも嬉しい。嬉しさと強い好きを抱きしめながら、彼女もゆっくりと目を閉じた。
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