42020/03/01〜

『幸せの過剰摂取で死ぬ』の二人
 梅の花が、風に吹かれてはらはらと花びらを散らせている。白と紅の花びらが地面に落ちてくるのを見ていた彼は、その美しさにほうっと息を吐いた。
 彼女との待ち合わせの時間にはまだ30分ある。たまにはこうして花を見るのもいいかもしれないと感じていた時だった。

「環先輩!」

彼にかけられた声はとても弾んでいて嬉しそうだ。ただ、自分を見つけただけで満面の笑みを見せる彼女に、天喰は渋い面持ちになる。

「こんにちは。早いですね」

「あ、うん。こんにちは。あのさ、この前も言ったけど、そんなに笑顔振りまいたりしちゃダメだよ。君はただでさえ、その……」

"可愛いんだから"と言って真っ赤になってしまった彼に彼女も赤面していく。

「な、なんで出会い頭にそんな恥ずかしいこと言うんですか……」

「じ、自分でもなんで言ってしまったんだろうと後悔してるところだ。俺なんかが褒めたところで君を喜ばせてあげられるわけでもないのに、休みに会える事実に浮かれてたみたいだ……」

ごめん、と背を向けて俯く天喰に彼女は赤くなった頬で、くすっと小さく笑った。

「私も休みの日に天喰先輩に会えて浮かれてるんです。同じですね」

恐る恐る振り返った彼は、穏やかな表情をしている彼女を見ると目を瞠った。さぁっと吹いた風に乗って舞う白と紅の花びらが、まるで彼女を彩っているようで見惚れてしまう。

「先輩?」

「あ、ああ。えっと、何でもない……」

 本当に同じように浮かれてくれているのだろうかと思ったが、彼女の顔を見ればそれが嘘ではないことが天喰には分かった。今日の暖かい風に吹かれて揺れる彼女の髪から覗いた耳がほんのりと赤くなっている。本当にお互いに想い合えていることが、何よりも天喰を喜ばせた。

「そろそろ行きましょうか。ちょっと、早いですけど」

にこっと笑う彼女が先に歩き出そうとしている。それを見て彼は迷うように視線を泳がせた。

「環先輩? 何かありました?」

待ってくれている彼女に自分が情けなくなりながら、天喰はまだ迷っていた。そして、きゅっと唇を引き締めて彼女へ顔を上げた。

「あ、あの!」

 彼も自分が思っていたよりも大きな声が出たことに驚いていたが、それよりも彼女はいつもよりも鋭くさせた目を向けられてさらに驚いていた。
 もじもじするな、ちゃんと言うんだ!と自分を励ましながら、天喰はこわごわ震える手を彼女に向ける。

「て、手を、その繋いでも……いいだろうか」

目を丸くさせている彼女はぽかんとしていて何も言わない。やっぱりこんなことをいきなり言い出したから気持ち悪いと思われたんだと天喰が激しく自己嫌悪していると、彼女がくいっと彼の袖を引いた。

「本当に、いいんですか?」

 見上げてくる目がほんのり潤んでいる。目元も赤らんでいて、その様子は普段以上に可愛らしい。緊張で勝手に喉がゴクリと鳴ってしまった天喰は、声を出すことが出来ずに頷いた。

 もう一度震える手を差し出す。その手に、そっと彼女の手が重ねられた。

「嬉しいです。環先輩と手を繋ぐのは初めてだから」

「俺も嬉しいけど、緊張で心臓を吐き出しそうだ」

その言葉通り、繋いだ彼の手は酷い手汗を掻いている。それがあまりにも天喰らしいと彼女は嬉しそうに頬を緩めた。

***

 待ち合わせた公園の奥へと歩いた二人がいるのは、先ほどの場所よりもたくさんの梅が植えられ、その間を歩けるように舗装されている小道。桜の花のような華やかさはないけれど、控えめな凛とした雰囲気が好ましい。

「綺麗ですね。こんなにちゃんと梅の花を見たのは初めてかもしれません」

待ち合わせ場所での天喰と同じように彼女は梅の花に感嘆のため息をこぼす。じっと花を見ている彼女の横顔を、彼はこっそりと盗み見るように横目で見た。
 ひらひらと落ちてきた白い花びらが彼女の頬を掠めて落ちる。まだそこには触れたことがないと天喰がいじけてしまいそうになっていることなど知らずに彼女は花を楽しみながら歩いていた。

「あ、知ってますか? この先の休憩処で、梅のアイスがあるそうですよ」

「もしかして、それが目当てだった?」

自信がなさそうに聞いてくる彼に、彼女はふふっと笑う。

「一番の目的は環先輩に会うことに決まってるじゃないですか」

どきっと胸が跳ねた彼は気恥ずかしさで顔を俯きがちになる。

「き、君はそうやってすぐに俺を喜ばせるから心臓によくない。このままだと俺は嬉しさが原因で死ぬよ」

「また大袈裟な」

大袈裟なもんか、と天喰は赤い顔を隠すように彼女から背ける。一緒にいて同じ空気を吸うだけで自分には勿体ないほどだったというのに、運よく好意を抱いてもらえて、しかもこうして手を握ることができているなんて出来すぎているようにしか彼には思えなかった。

「……私だって、環先輩に好きになってもらえたのは運が良かったと思ってますよ」

「な、な、なんで、思ってること……!?」

 君の個性はそんな人の心を読むようなものじゃなかったはず、と青ざめた顔で天喰は狼狽える。がくがくと震えていても繋いだ手を離さそうとしない彼に嬉しさを感じながら、彼女は困ったような笑みを見せた。

「だって、全部口から出てるんですもん。誰だって分かります」

パチン!と手のひらで口元を叩く勢いで覆った彼に、彼女はぎょっとした。

「今のかなり痛かったんじゃ……」

心配で彼が手のひらで隠している口元を見ようと体を寄せてきた彼女から、ふわりと優しい匂いがした。くらっとくるその香りは辺りに咲いている梅よりもずっといい香りのように天喰には感じられた。

 周りには誰もいない。そう確認してから彼は彼女の手を引いた。ぎゅっと、腕の中に閉じ込めるように彼女を抱きしめる。いつも自分のことを笑わずに心配してくれる彼女の優しさに胸がきゅっと甘く締め付けられていた。

「……環、先輩?」

どうして抱きしめられているのか分からない彼女は、ドキドキとしている自分の鼓動を感じながら彼の背中を宥めるように撫でる。手が触れた瞬間、ぴくっと反応した天喰はここからどうしたらいいのか困り果てていた。
 ずっとこのまま抱きしめていたいが実際にはそうはいかない。誰かが来て見られでもしたら、自分は通報されるかもしれない。そこまで想像してから、ぶるり、と体を震わせて彼女にすがるように抱きしめた。

「大丈夫ですか? もしかして、具合が悪いとか……」

「ち、違う。その……」

何も言わないでいるからまた余計に心配をかけてしまった。また自分のダメなところに情けなくなって、天喰の唇がぎゅっと噛むように引き結ばれる。

「無理しない方がいいですよ。今日はもう帰りましょう」

具合が悪いのだと思われてしまい、彼女が何度も彼の背を撫でる。このままではせっかく一日一緒にいられるはずだったのに、これで終わってしまう。それは嫌だと強く思うと、天喰の口はしっかりと動いた。

「好きだと思ったら抱きしめてたんだ……ごめん」

 ずっと彼の背を撫でていた手が止まる。呆れられたのかもしれないときつく目を閉じる彼を彼女がしっかりと抱きしめ返した。

「なんで、そこで謝っちゃうんですか? もう」

「だ、だって、気分を悪くしたかもしれない……」

どこまでも自信のない彼を仕方なく思うと、また彼女の顔に笑みが浮かび上がる。

「好きな人に抱きしめてもらって嫌な人なんかいないと思います。環先輩は違うんですか?」

 以前、彼女から抱きしめてもらったときのことを思い返しても、嫌だなんて絶対に思うはずがなかった。

「そうだね。嫌なワケない」

でしょう?と言って甘えるように顔を胸元にすり寄せてきた彼女の肩に手をやって、引き剥がすように彼は距離を取った。

「い、嫌じゃない! 凄く幸せで俺なんかには勿体ないくらいだけど、も、もう、心臓が持たないから……!」

必死にそう主張する彼を見上げた彼女は目を見開いた。耳まで真っ赤にしている天喰は見ている側が可哀そうになるほど小刻みに震えている。

「あの、えっと、それじゃあ、落ち着いたらまた繋いでもらえれば嬉しいんですけど」

「……手は、その。君が嫌じゃなきゃ、繋いでいたい」

 ああ、またキモいことを言ってしまったと彼は頭を抱えて蹲る。それでもやっぱり離したくないのか、いつの間にかまた彼に手を取られていることに彼女はくすくすと笑いだす。

「環先輩、可愛い」

「な、なっ!?」

 混乱しながら上げた天喰の顔は先ほどと変わらずに真っ赤だ。パクパクと声にならず空気ばかりを吐き出している彼がおかしくて彼女の笑いは止まらない。

「ねえ、先輩。私、どうしても今日、先輩に会いたかったんです」

恐る恐る指の隙間から彼女を窺う天喰の目は恥ずかしさも相まって少し潤んでいた。その目に向けて彼女は微笑む。

「当日は会えるか分かりませんから、今日、渡したいと思って」

同じようにしゃがみ込んだ彼女はバッグから可愛らしくラッピングされたものを取り出して、彼へと差し出した。

「ちょっと早いですけど、お誕生日、おめでとうございます」

「あ、ありがとう……」

 受け取ってもらえたことに彼女の表情が安心から緩む。

「あの、手作りなので気に入らなかったらなかったことにしてくれていいですからね」

「手作り? じゃあ、このラッピングも?」

小さく頷いた彼女に天喰は悲しそうに眉を下げる。

「そんな、それじゃあ、開けられないじゃないか。このまま一生、中身が気になりながら見つめるしかない」

「い、いえ、そこは開けてくれた方が嬉しいです」

「でも、そんなことをしたら、君がせっかくしてくれたラッピングが台無しに……」

"ラッピングはそういうものです"と彼女に少し強く言われ、彼は渋々頷いた。

「あの、開けてみてもらってもいいですか?」

「いいけど、先に写真を撮っておきたいんだ。とても綺麗にラッピングできているし、その、君が俺の為にしてくれたことをなかったこにしたくない……」

細かなこと一つ一つを大事にしてくれる彼に、彼女の胸がポカポカとしてくる。きっと本人の言う通り、人によってはこんな彼を面倒だと思う人もいるのだろう。しかし、好きになった人にここまで優しく想われることが面倒だなんてまったく思えない彼女は、ふんわりと表情を和らげた。

「はい。もちろんです」

 渡したときは確かに不安があったが、今の彼女の中にそれはなかった。きっとどんなものでも気持ちさえ込めていれば、天喰は受け入れてくれるという確信がある。
 やっと繋いでいた手を離し、パシャパシャと写真を撮っていた彼は満足したのか、ちらりと窺うように彼女を見た。

「それじゃあ、開けるけど……いい?」

緊張気味に彼女が頷いたのを見た天喰も、何故か緊張したようにゴクッと喉を鳴らして頷き返す。彼の手で丁寧に開けられたラッピングの中からは、白地のハンカチが出てきた。

 まるで一仕事終えたかのように二人で、ほうっと息を吐き出す。パッとお互いへ顔を向けると、その距離は鼻先が触れ合ってしまうほどに近かった。ドキドキしていることは言葉にしなくても分かる。同時に開いた口から、プッと笑い声が漏れ出した。

「ふふっ」

「はははっ」

どうしてかおかしくなってきてしまって近い距離で顔を見合わせたまま笑い合う。一しきり笑うと、二人はそのままの距離で話し出した。

「ここ、もしかして君が?」

「結構頑張ったんですよ」

 天喰の指が差すハンカチの隅。そこにはモンキチョウと青スジアゲハの刺繍が施されている。

「凄い。売り物みたいだ」

「環先輩、蝶々が好きって言ってたから刺してみたんです。気に入ってもらえましたか?」

うん、と頷いて、もう一度、刺繍へ目を落とした彼は指先で優しくそこをなぞる。ふと、視界に入った彼女の指に巻かれている絆創膏に気づくと、天喰は申し訳なさそうに眉を顰めた。

「その指、もしかして……」

「えっと、実はお裁縫って全然得意じゃなくて……。得意な友達に聞きながら練習して」

恥ずかしいのか視線を逃がしながら髪を弄る彼女の横顔がまた赤くなっていく。まったくどうして彼女はそうなのだろうかと思いながら、天喰は俯きがちに彼女へ視線を向けた。

「凄く、嬉しい。一生大事にする」

遠慮がちに見てくる彼を見つめた彼女は、何か言いたげに俯く。そして、きゅっと天喰の服の端を掴みながら、思い切って口を開いた。

「だ、大事にしてもらえるのは嬉しいんですが、一生は―――」

(一生だなんて重いに決まっているじゃないか!)

激しい自己嫌悪に顔色を青くしている彼に気づかず、彼女は続ける。

「―――一生大事にするのはハンカチじゃなくて、わ、私にしま、せんか?」

 これまで見たことがないほどに真っ赤になりながら彼女は彼を見つめる。呆けていた天喰は、震える手でスカートを握り締めている彼女にハッとした。こんな恥ずかしい思いをしてまで、伝えてくれた気持ちに応えたいと、彼は手を伸ばす。その手には普段の迷いや不安は一切ない。真っ直ぐに伸びた手は彼女の頬に添えられる。

あっと彼女が思ったときには、彼の唇が寄せられていた。頬に残る感触に信じられない気持ちでいる彼女の手を天喰は両手で包み込んだ。

「お、俺なんかでいいのか、自信はない。でも、君を、一生大事にしたいっ!」

 梅の小道での大きな彼の宣言は彼女にだけでなく、他の人にも届いてしまい、気づけば知らない老夫婦から拍手を送られていた。

 拍手の効果により、ひどい腹痛を起こした天喰は、結局彼女と梅のアイスを食べることはできなかった。その後、彼はベンチで腹痛が治まるまで彼女に背中を摩られ続ける。情けない自分が嫌になりながらも、隣にいてくれる彼女の温もりに幸せを感じていたのだった。
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