32020/02/01~
一日の仕事を終えて彼女の家に帰る。いつの間にか、相澤の意識が"行く"ではなく"帰る"に変わったのは、毎回彼女が"おかえりなさい"と温かく迎えてくれるからなのだろうと感じていた。
食事を終えた二人は正方形のコタツに隣り合うように座っている。動物番組をぼんやりと見ながら、ゆっくりとした時間を過ごしていた。
「はい、どうぞ」
「ん」
差し出された細い指には剥かれたばかりのミカンが一房摘ままれている。最初に付き合っていた頃であれば、恥ずかしくて口を開けられなかったのだろうなと思いながら相澤は素直に口を開けた。
「美味しいですか?」
口の中に広がった酸味と甘みのバランスがちょうどよいミカンの味。ゆっくりと咀嚼しながら彼が頷くと、彼女は嬉しそうに微笑んでもう一房運んでくる。
「はい」
「お前はいいのか?」
自分にばかり食べさせようとしてくるミカンは、彼女が食べたいと言ってわざわざ地方から取り寄せたもの。彼女に勧められるまま、もう半分近く食べてしまった。
「あーん、って口を開ける消太さんが可愛いからもっとあげたくなっちゃって」
ふふ、と笑う彼女にどきりとさせられる。大の男が食べさせられてる姿の何が可愛いというんだと相澤は半眼で彼女を見た。
「そんな顔してもダメです。何しても可愛いと思っちゃうんですから。さっき、ウトウトしてるときも可愛いなって―――」
まだ何か言いたそうな彼女の口にミカンを一房押し付ける。驚いてミカンをくわえたまま目を丸くさせている彼女の様子に笑みが込み上げた。
「食べないのか?」
ぽかんとしている彼女に悪戯心がくすぐられた相澤はそっと顔を近づける。
「なら食っちまうぞ」
ニヤリと笑って宣言してからミカンごと彼女の唇を食べてしまおうとした。しかし、ハッとした彼女がミカンを口の中に引っ込めて俯いてしまった為に、それはできなかった。
さらさらと流れた髪の間から覗いた耳が赤くなっている。その様子をくつくつと笑っていれば、彼女が赤い顔と上目で睨むように見ていた。
「なんだよ?」
「……消太さんがからかうからじゃないですか」
むう、っと唇を突き出した彼女の後頭部を捕まえる。そのまま引き寄せて唇を合わせれば、彼女は真っ赤になってあわあわと口を震わせていた。
「なんだ? 違うのか?」
ニヤリと意地悪く笑って見せた相澤に彼女は何も言わずに俯く。予想した反応ではないことに彼が首を傾げると同時に彼女は黙ったまま立ち上がった。
「お、おい……」
やりすぎたかもしれないと相澤が内心慌て始めていることなど知らず、彼女は静かに彼の両肩へ手を置く。さほど強い力ではないというのに、彼女の手に逆らえずに相澤はそのまま押し倒された。
顔の横に彼女の白い手が置かれる。だんだんと早くなっている心臓の動きを感じながら、相澤は彼女を見つめた。彼の体に重なるように彼女の体が触れる。ゆっくりと近づいてきた彼女の整った顔。目が合った瞬間、とても柔らかな彼女の微笑みはどこか挑発的だというのに彼の胸は強く脈打った。
「ん……!」
期待通りに重なった唇。軽かったのは一番最初のものだけで、回数を増やすごとに深くなっていく。こんなことを彼女からされたことはなかった。興奮よりも嬉しさを感じているのを見抜いたように、彼女は小さく笑って相澤の頬を撫でる。
「もっと……?」
「ああ……」
素直に答えれば、頬を赤らめた彼女がとても優しい表情を見せた。その顔に相澤の鼓動はどくどくと強くなっていく。
お互いに頬に手を添えて唇を合わせる。そっと口を離した二人は赤くなりながら、微笑み合った。
「なあ、もっと」
「嫌です」
今までの甘い雰囲気はどこへ行ってしまったのか。目を瞬く相澤の唇に指を乗せた彼女はくすっと笑う。
「消太さんがからかうから悪いんですよ」
最後に彼の頬に軽くキスをして彼女は起き上がった。
「さ、ミカン食べようっと」
相澤に食べさせていた残りのミカンを食べ始めた彼女は"甘い"と嬉しそうににこにこしている。
(いつもお前は俺をからかうくせに)
納得がいかない彼は寝転がったまま、彼女へ視線を向ける。
「仕方ないですねぇ」
眉を下げた彼女がまた近づいてくる。それに合わせて目を閉じれば、唇にそれが触れた。離れていかないそれに目を開けた相澤は彼女を睨むように見る。
「……おい」
「食べたかったんでしょう?」
彼女が彼の唇につけたのは、彼女自身のものではなく食べていたミカンの最後の一切れだ。
「最後の一切れってちょっと特別な感じがして美味しいですよね」
「味なんか変わらないだろ」
不機嫌そうな相澤に彼女はまるで小さな子どもに向けるような微笑みを見せた。
「あれ? 拗ねちゃいましたか? 困りましたね」
宥めるように撫でてきた手を捕まえる。そして、今度は相澤が彼女を押し倒す。
「じゃあ、俺の機嫌でも取ってもらおうか」
意地悪そうな笑みで髪を掻き上げた相澤に、どきどきと彼女の鼓動が早くなる。
「ちょっと待ってく―――」
薄く開いた彼女の口が塞がれる。何か言おうとむぐむぐと動く彼女の口に構わず、相澤は自分の口を強引に合わせる。涙目で顔中を真っ赤にさせた彼女を見下ろしてから、その耳に吐息交じりの声で囁いた。
「待たない。もう待つのはごめんだ」
するりと首筋を撫でられた彼女は仕方なさそうに微笑んでからゆっくりと目を閉じた。