22020/01/01〜
今にも雪が降りそうな寒空の下。誰も使うことのないベンチに一人、彼は座っていた。寒さをしのぐためにポケットに手を突っ込んで、吐き出す息が白くなるのを見つめる。星の出始めた暗い空を背景にした白い息は昼間よりもはっきりとよく見えた。
明るいところでは見えづらく、暗い場所では見えやすい。それが大事なものと似ているような気がした。儚く消え入ってしまう白に、学生時代の頃のことがぼんやりと脳裏に蘇ってきた。あの日も、こんな風に身に染みるような寒さだった。
***
日が沈んでどのくらいの時間が経っただろう。あの事件の後から休むことなく始めた自主訓練は、終える頃になると夜がとっくに始まっていて校内に残る生徒なんて相澤ともう一人しかいなかった。
自分に合わせることはないと伝えたとき、彼女は自分は自分でやることができたからと答えた。それが何かはその時々で違う。今は、座学に力を入れたいと言っていた。
いつも待ち合わせに使っている、なかなか人が来ない中庭のベンチで相澤は何気なく空を見上げた。はあ、っと吐き出した息が白い。寒い空気に溶けて消えていく様子をぼんやりと見る。
(そろそろか)
この場所で10分。それ以上は待たないでほしいと言い出したのは彼女から。
『お互いに待っているわけではないんですから、たまたま時間が合ったら一緒に帰りましょう』
そう微笑んで言ってくれた彼女の声は、まだ耳に鮮明に残っている。付き合う前から受け取ってきた気遣い。さりげない優しさが俺たちはお互いの足を引っ張り合う関係ではないと思わせてくれる。
(今日も間に合わなかったか)
ここのところ彼女とは会えていない。会えなくても、彼女から電話やらメッセージが届いていた。彼女と同じ頻度ではないが相澤からも電話やメッセージを送り、お互いに話さない日はない。
会いたいと思う。けれど、そんな時間の余裕は今の相澤にはなかった。立ち上がろうとした瞬間、背中から伸びてきた腕に抱きすくめられる。
「お待たせしました」
「……ギリギリだったな」
強い強い喪失感を知ったあの日から、感じにくくなってしまった嬉しさが、じんわりと胸に広がる。こうした人間らしい感情を失わないですんでいるのは彼女が繋ぎとめていてくれるからだろうと、相澤は首元に回された細い腕に触れた。
「今日は、消太くんに会えてよかった」
走ってきたのか、触れ合った彼女の頬が熱い。こんなにも鈍くなってしまった感情でも、やはり彼女を想う気持ちは強く生きている。
「……俺も」
離れて行く腕を見送って振り返ると、やはり彼女は微笑んでいた。こんな自分に彼女が微笑んでくれているのは気を遣っているからだと思うと、相澤の胸にまた一つ罪悪感が生まれた。
帰り道はこれまで通り、彼女の話に耳を傾けていた。歩いていて偶然に手の甲と手の甲が触れ合う。あっ、と思ったとき、無意識に彼女の手を握っていた。
少し低い体温の手がいつもよりもさらに冷たくて、少しでも寒さから守ってやりたくなる。握った手ごとコートのポケットに突っ込めば、隣からは小さな笑い声が聞こえた。嬉しそうに微笑んだ彼女に、ほんの少し胸の中の罪悪感が薄れた気がした。
***
偶然、視界の中で光ったそれにハッとする。都会ではなかなか見ることはないそれは瞬きを繰り返す間に消えた。もし、もう一度見られるのなら、なんて考えて自嘲する。
(流れ星に願い事なんて、合理的じゃないな)
吐き出したため息が白く変わった瞬間、ぎゅうっと後ろから抱きしめられた。
「今日も寒いですね」
冷たい空気と一緒に鼻腔で感じたのは、優しく張りつめていた気持ちをほぐしてくれる匂い。
「ああ」
さらに強く抱きしめられて頬と頬が触れ合う。冷たい相澤のものとは違い、彼女の頬はポカポカと温かい。
「ごめんなさい。寒い思いをさせてしまいましたね」
"こんなに冷えて"と触れ合っていない方の頬が彼女の手に包まれる。少し冷たい手と違って走ってきたせいか、あたたかい頬の温もりを深く感じるように相澤は目を伏せる。
「お前こそ、どこから走ってきたんだ」
離れていこうとする彼女の頬は、相澤からすれば片手で包めてしまうほどしかない。彼女の頬を撫でるようにしてから自分へ引き寄せると、またぴったりとお互いの頬が重なった。
「あはは、冷たくて気持ちいい」
「俺はあったかいよ」
少しだけ頬をすり寄せてみると、耳元でまた笑い声が聞こえてきた。
「髭がチクチクしてくすぐったいです」
「ああ、悪い」
顔を離すと、覗き込むように身を乗り出していた彼女と相澤の視線が重なった。近い距離で見つめ合う。雰囲気までを和らげて微笑む彼女に惹きつけられるようにして顔が近づいた。
軽く触れあった唇が離れる。赤くなった顔を隠すように俯く彼女が、昔と何も変わらないことがおかしくて彼は小さく笑った。
「お前、そういうところは変わらないな」
「……変わりましたよ」
ぽふ、と首の付け根辺りに顔を埋めてきた彼女の声が相澤の体の中に届くように響く。少しくすぐったくて、僅かに身をよじった。
「あの頃の好きより、もっと強くて大きくて"好き"だとか"大好き"だとか感情を言葉にするんじゃ追い付きません」
自分から温かみと重さが離れて行ったと思ったら、冷たい両手が頬に添えられる。そして、誘導されるままに動かした先で、今度は彼女から唇を合わせてきた。離れる瞬間、もう少し重ねていたいと相澤が思った事を見抜いたように、彼女は染まった頬で柔らかに微笑んでいた。
「やっぱり冷えてますね」
はい、と差し出されたそれを受け取る。まだ熱いくらいのそれは近くの自販機で買ってきたばかりであることを相澤に知らせた。
「今はコーヒーの気分だったんだがな」
「甘い方が美味しいですよ」
ここも昔と変わっていなかったかと、手にあるココアへ視線を落とす。すると、先ほど缶のココアを差し出してきた手が何かを乞うように向けられた。
「なんだ?」
「ポケットの、ください」
ギクリ、と相澤の体が強張る。正直、見抜かれたことに動揺していた。
「な、なんで分かった?」
「あ、やっぱり。消太さんのことだから、用意してるんだろうなって思ったんです」
ぐっと押し黙った相澤を、おかしそうに彼女がくつくつと笑う。
「消太さんも変わりませんねェ。そういうところ」
「……分かりやすいって言いたいのか」
「違いますよ」
すっと体を離した彼女は、相澤の正面に回る。
「優しいところ。私が一番最初に好きになったところです」
吹き付けた冷たい風になびく美しい黒髪が、空に昇る銀色の月の光でキラキラとしている。学生時代よりも更に美しくなった彼女の姿は、まさに絵に描いたようだった。
「そろそろ行きましょう? 山田先輩を待たせることになっちゃいますから」
立ち上がって差し出された手を掴んで抱き寄せる。彼女が後ろから抱きしめてきたときとは違って、相澤よりも低い位置に彼女の顔がある。
「アイツはこの間も遅れてきたんだから、今日くらい待たせておけばいい」
見上げてくる少し赤い顔を撫でる。愛おしさから表情を緩めた相澤に、彼女は目を閉じてその胸へ預けるように顔を寄せた。
「じゃあ、もう少しだけ。今日は消太さんと山田先輩とご飯に行く日なんですから、遅刻したら勿体ないです」
「……俺以外の男のこと気にすんのか」
上から降ってくる不機嫌を隠さない声に、彼女は嬉しそうに笑う。
「ヤキモチは素直に言えるようになりましたね。……相澤先輩はそういうこと言えなくて、可愛いところがあったのに」
「お前は余計な一言が増えた」
ほら、と相澤はポケットから温くなってしまった缶を彼女へ差し出す。ラベルを見て目を細めた彼女は大切そうに、それを両手で受け取った。
二人でベンチに座り直す。ベンチに置いていた彼女からもらった相澤のココアはまだ温かい。プルタブに指をかけて缶を開けた相澤の横では、まだ彼女が缶を見て嬉しそうにしている。
「それ以上見てると冷たくなるぞ」
「つい、嬉しくって」
にこにことしている彼女の手にあるのは、相澤と同じココアの缶。勿体ないと感じながら彼と同じように缶を開けた彼女は、両手で缶を包みながら小さく口を付けた。
「美味しい」
「熱くないか?」
「ええ、ちょうどいいです」
普通なら温いと言われそうな温度だろうと、彼女は知っている。猫舌な自分の為に彼が気にかけてくれるのが嬉しくて表情が緩んでしまう。
昔から、自販機で売っているあたたかい飲み物は熱すぎて飲めなかった。それを相澤が覚えてくれていたことが、自分がすぐに飲めるようにと彼が進んで買わないココアを用意してくれていたことが、何よりも嬉しくて普段よりもずっと美味しく感じられた。