202021/05/01〜

『紡いで、織りなす』設定

 ポカポカとした春の陽気が少し遠ざかったような、そんな陽射しが入り込むリビング。窓から入り込む風はまだ冷たく過ごしやすい。昼寝好きの少女であれば、この心地よさに負けて眠っていそうなものの、今日は真剣な眼差しを広げたノートに向けていた。
 別にこれは雄英から出された宿題ではない。かといって少女が自主的にしている勉強でもない。毎年この時期になると悩むことの多いこれに、少女はペラペラとページを戻して書かれている内容に目を通し始めた。

「姉ちゃん」

 ぴょこ、と顔を出したのは少女の弟。その小さな手にはトレーがあり、よく冷えた緑茶の入った冷茶グラスが乗せられていた。

 少女がノートを広げているローテーブルに冷茶を置いた男の子は、当たり前のように少女にくっつく。
桜の花が描かれた冷茶グラスの下には、麻のコースターが敷かれている。以前は適当に出してきていたというのに、こんなに細かなところまで気が配れるようになったのかと少女が感慨深くなっていると、早く褒めてくれと言わんばかりに男の子は少女の薄い腹へ頭をすり寄せた。

「ありがとう」

 相澤によく似た癖のある黒髪を優しく撫でられた男の子は、ん、と短く嬉しそうな声を漏らす。少女の為に入れた緑茶を早く飲んでくれないかと、男の子は期待した顔を少しだけ上げた。

 父と同じく、個性を使う目に期待が込められているのを察した少女は、その可愛らしさに、ふふ、と微笑む。

「いただきます」

 冷茶グラスを両手で取った少女は、静かに冷たい緑茶を口へ運んだ。渋みのない甘ささえ感じる緑茶に少女は目を丸くする。

「旨い?」

 膝に覆いかぶさるようにしている男の子は、こてんと首を傾げた。

「うん、すっごく美味しい……」

どうやって淹れたのだろうかと思うほど、美味しい緑茶に目を落としている少女に、男の子は満足げな笑みを口元に引く。

「氷で入れるの。今朝、母さんと作ったんだ」

「お母さんと?」

 小さく頷いた男の子は、覆いかぶさっていた少女の膝から体を起こした。

「この前、保育園から帰ってきたとき、母さんがおれに作ってくれたのが旨かったから、おれも姉ちゃんに作りたいって言ったら教えてくれた」

 息子の可愛らしいお願いに微笑んでいた母は、朝から仕事に出ている。忙しかったんじゃないだろうかと思う少女に、今度は寝室から出てきた彼が声をかけた。

「昼、食ったか?」

 眠そうに掻いている相澤の頭には寝癖がついている。

「ううん。そろそろ支度するね」

 ノートをぱたん、と閉じた少女は立ち上がると、足早にキッチンへ向かった。じっ、とその背中を見送った男の子は、たっぷりと不満を含めた目で相澤を見る。

「……なんだ」

「別に」

 明確な不満を詰め込んだ目をする息子に相澤はやれやれと鼻でため息を吐いた。

「別にお前と姉ちゃんを引き離そうとしたわけじゃないだろ」

「結果的にそうなったけどね」

 つーんとそっぽを向いていじけてしまった男の子は、先ほどまで少女が座っていたクッションを見るとそこへ顔を埋めてしまう。
 少女が高校へ進学してから自分と一緒にいる時間がなくなってしまって寂しい。しかし、そんなことを言ったら困らせてしまうと理解しているからこそ、男の子はそれを口にはしなかった。

 大好きな姉に困った子だと思われたくなくて、物分かりのいいふりをしなくてはと気を張るようになったのはいつからだっただろうか。寂しいような不安のようなものが、急に胸に込み上げてきた男の子は、顔を埋めているクッションを、きゅっと握った。

「………」

 そっと、男の子の近くに腰を下ろした相澤は何も言わずに、小さな頭を包むように撫でる。大きくて無骨な手からは想像がつかないほど優しい撫で方に、男の子は胸の中が少しだけ軽くなったような気がした。

「お前が少しくらいワガママ言ったって、あいつは困らないし、嫌いになったりしない」

 誰にもバレないように黙っていたというのに、簡単に見抜いてしまう父親のこういうところが苦手だ。
 下唇を突き出して拗ねた顔をする男の子に動じることなく、相澤はその小さな頭を撫で続ける。しばらくそのままでいれば、聞き逃してしまいそうなほど、微かな声が返ってきた。

「……ホント?」

「ああ」

 いつもと変わらない淡々とした声は、どこか落ち着くような雰囲気を持っていて男の子の気持ちを上手く上向かせる。

「ん……」

 座布団から顔を上げた男の子は、先ほど少女へしていたように相澤の腰に腕を回し、固い腹へと頭を押し付けた。

***

 昼食を終えると、少女はまたローテーブルにノートを広げて悩みだす。うーんと唸ってはため息を溢す少女に、男の子が黙って近づいた。

「ん? どうしたの?」

 首を傾げる少女に、男の子は難しい顔をして黙りこくる。先ほどの父親の言葉を信じていないわけではない。しかし、嫌われてしまったり、失望されるんじゃないかという不安はまだ小さな胸の中で存在感を放っている。不思議そうに男の子の名前を口にする少女の声が、俯きがちだった小さな顔を上向かせた。

「……たい」

「え?」

 ぽそっと聞こえた声は、体がつっくいているせいではっきりと聞き取れなかった。弟の様子がいつもと違うような気がして、心配になった少女は戸惑いがちに男の子の背中に触れる。

 背中に触れてくる手は温かくはない。しかし、父や母と同じように優しくて、男の子は口を思い切って動かすことができた。

「手伝いたい……。ずっと、悩んで難しい顔してる。おれ、姉ちゃんが笑ってる方がいい」

 見開かれている少女の印象的な青い目が、ふわりと優しく緩められる。嬉しそうに微笑む少女に、男の子も嬉しくなって頬が熱くなった。

「ありがとう」

 母によく似た柔らかな表情に、男の子は照れくささから顔を背ける。

「……母の日、お母さんに何をプレゼントするか決めた?」

「うん」

 部屋に置いているタブレットを手にした男の子に、傍で仕事をしながら話を聞いていた相澤はまさかと、手の動きを止めた。

「コレ、印刷する」

 近くに置かれていたタブレットを慣れた手つきで操作した男の子に画面を見せられた少女は驚きのあまり言葉を失う。タブレット画面いっぱいに表示されているのは、この家の近くでよく見かける猫の尻。

「母さん、コイツの尻可愛いって言ってたから」

(それは獲物を狙ってるときの話だろ)

 そう思いながら仕事用のタブレットで資料を見ていた相澤は、先日のことを頭の隅で思い出す。この前、やたらと猫の写真を撮っていた息子が喜んでいたのは、やはりこの為だったのかと目をタブレットから子どもたちの方へ向けた。

「そ、そっか。えっと、一生懸命選んだから、お母さん喜ぶね」

 自信満々に頷いた男の子に少女は苦く笑っている。そこで男の子は、どうして少女がこんな質問をしてきたのか気が付いた。

「母の日のプレゼント、決めらんなくて悩んでんの?」

 かくり、と首を傾げる小さな彼に、少女が素直に頷く。そして、少し恥ずかしそうな顔で広げていたノートを男の子に見せた。

「これ、今まで母の日にお母さんにあげてきたものなんだけど、なかなか思いつかなくって」

 ぺらぺらと最初の頃からページをめくってみれば、男の子が去年選んだプレゼントと同じものを見つける。

「たんぽぽ。おれもあげたことある」

「そうだったね」

 改まって渡すのが恥ずかしかったのか、口をへの字に引き結んだ男の子は突き出すようにたんぽぽの花束を母へ渡していたのを思い出す。あの時の微笑ましさが胸に蘇ってきた少女は無意識に笑っていた。

「母さん、おれがあげたたんぽぽ、押し花にしてるけど、おれがあげたのじゃないのもしてるだろ? あれは姉ちゃんがあげたやつだったんだな」

「え?」

 知らなかった少女は、とっさに相澤の方へ顔を向ける。視線に気づいた彼は、男の子が言っていることが事実であると小さく頷いた。
 たんぽぽを渡したのは初めての母の日だった。涙で目を潤ませるほど喜んでくれていた彼女がそれを形に残して今も大切にしてくれていることに、少女の胸は苦しいほど嬉しくなっていく。

 あの日と同じように、自分の感謝を彼女に伝えたい。貴女がいるから私は愛情を知っているのだと、貴女が大好きだと伝えたい気持ちが少女の中でより一層と強くなった。

「………」

 胸に溢れるあたたかさを逃がしたくなくて、少女は胸元で両手を握り締める。嬉しさで頬を緩めている少女の手を男の子が遠慮がちに引いた。

「おれ、なんか手伝える?」

 見上げてくる男の子に、ふと、思いついた少女は軽く握った手を口元に添える。横目で見ていた相澤は少女の何気ないその仕草が、彼女に見えて目を見開いた。

「あのね、じゃあ……」

 小さな声で内緒話を始めた二人に、相澤はふぅ、と短く息を吐き出す。元々容姿が驚くほどよく似ている少女に彼女の面影を見て、驚かされることが増えた。留守番をしているときに彼女を思い出すようなことをされた彼は、ここのところ満足に会えていない彼女に会いたい気持ちを刺激されて、ため息を吐かずにはいられなかった。

***

 日が伸び、少し前までは夜といえた時間の外はまだ明るい。

「ただいま帰りました」

 食材がぱんぱんに詰まったエコバッグを肩にかけた彼女が、静かにリビングを覗く。そして、飛び込んできた光景に何度か目を瞬くと、くすくす笑った。

 三人は揃って眠っている。こっくりこっくりと船を漕いでいる相澤を中心に頭を寄せ合う子どもたちはすぅすぅと寝息を立てていた。

 今日は一体、どんなことをして一日を過ごしたのだろうか。早く聞いてみたい気持ちを抑えながら、彼女は食事の準備に取り掛かるのだった。

 そして、後日。母の日に息子から送られた猫の写真に大笑いした彼女は、娘からもらったプレゼントに驚いたものの、酷く嬉しそうに目を細めるのだった。
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