182021/02/01〜
先日行った節分のことが、ふと、頭に過る。嬉しそうに炒り豆を食べていた少女の様子に、鬼の面をつけた彼の無愛想な様子を思い出して胸の中心があたたかくなれば、マントコートの下で目を伏せていた彼女の口元に笑みが浮かんだ。
雪が降っている。ほんの少し明るくも感じられる雲から、ふわふわと降りてくる
こんなときでなければ、この心奪われる瞬間を楽しむことができたのに、と息を吐き出すと左腰の刀を音もなく引き抜く。
白い雪に跳ね返った街灯の淡い光に包まれた彼女の姿は、幻想的で消えてしまいそうな儚さをまとっているが、厳しい冬の寒さのように凛としていた。
「さぁ、始めましょうか」
一人立つ、彼女の前には大柄の男たちが壁のように肩を並べて立ちはだかる。角を生やし、鬼のような体躯の男たちが吠えれば地響きが起きる。ビリビリと肌で感じる音にひるむことのない彼女の体はするりと流れるように動き出した。
***
夜も21時を回った頃。ぐっすりと眠っている女の子の顔にかかる白い髪を、相澤の無骨な指先がはらう。
「うー……」
くすぐったかったのか、身じろぎした女の子は彼の手を捕まえるとそこに顔を押し付けた。子どもらしい柔らかい頬を緩ませた女の子に、相澤の目が細められる。彼もまた、先日の節分のことを思い出していた。
***
初めての節分は、まだ女の子が相澤の家に来たばかりの頃にやってきた。節分を知らず、教えられた通り、炒り豆を小さな指でつまみながら歳の数だけもそもそと食べていた様子はどう見てもイベントごとを楽しんでいるようには見えなかった。
それが今年は違った。彼女とほぼ同じ時期に苗字が相澤に変わった女の子は、自分も家族だという意識が強くなったせいか、子どもらしからぬ妙な遠慮が少なくなり、素直に甘えることが増えた。
彼女が用意した赤鬼の面をつけさせられた相澤に豆を投げつけるのを躊躇っていた女の子だが、上手く彼女に乗せられて豆を投げることができた。狙っているのか偶然なのかは分からないが、少女の投げた豆はすべて相澤の体の同じところに当たった。
豆まきが終わり、小さな個包の豆を三人で拾う。ただ、拾っているだけだというのに、楽しそうにきゃっきゃと笑う少女を彼女と相澤は微笑ましく感じていた。
拾った豆を食べるためにいくつか開く。折り紙で作ったマスに少しだけ入れられた炒り豆を嬉しそうに相澤や彼女に見せていた女の子は、手作りのマスの中からそれぞれの歳の分の豆を取り出して差し出す。
『こっちは消ちゃんの。こっちはお姉ちゃんの』
はい、と差し出された炒り豆はどれも同じはずなのに、どうしてか旨く感じられた。それもきっと、嬉しそうにしている女の子や隣にいる彼女が関係しているのだろうと、彼は一番多く分けられた豆を口に運ぶ。
いつまでも食べない女の子が気になり、目の端で様子を見る。うっとりとした目をする女の子は、マスの中に入っている自分の豆を眺めていた。
女の子のお気に入りの折り紙で折られたマス。保育園で教わったマスを自分の分だけでなく、家族全員分折って彼女に見せれば、柔らかで嬉しそうな笑みが返ってきた。それ差し出したときのことを思い出すと、嬉しさが込み上げてきて女の子はマスを見ながらにこにことしている。
相澤の残りの豆が女の子と同じ数になったとき、ふ、と隣に座る彼女と目が合った。どうやら同じことを考えていたようで、彼女はにっこりと笑い、彼は照れくささを誤魔化すように顔を逸らす。
くすくすと笑う彼女の声に、やっとマスから目を離した女の子は、二人を見て目を瞬かせた。
『食べないの?』
一年前であれば、自分ばかりが食べていたことに顔を青くさせていたであろう女の子は、純粋に不思議そうな顔をしていた。
『同じ数になりましたから、残りは一緒にと思いまして』
彼女の為に折った桜色のマスと、彼の為に折った紺色のマスには女の子の歳と同じ数の豆が入っている。
"一緒"という言葉が、これまでも温かった女の子の胸の中をふわふわとさせた。
一緒に数を数える彼女と女の子の声に合わせて、三人で炒り豆を食べる。顔を見合わせて笑い合う二人を見て、目を伏せた相澤の雰囲気もどことなく柔らかい。
『消ちゃん』
目を開けた彼の前には炒り豆を一粒つまんだ指を向ける女の子。あーん、と言わんばかりに口を開いている女の子が望む通り大きく口を開けてやれば、舌の上に豆が一つ置かれた。
『おいしい?』
口の中の豆を噛み砕きながら頷いた彼に、女の子は照れくさそうに肩をすくめて笑う。その可愛らしい笑みは隣に座る彼女によく似ているように思えた。柔らかい声が女の子の名前を呼ぶ。
彼女に顔を向けた女の子は、自分がしたように彼女から炒り豆を口元に運ばれると、とても嬉しそうに口を開いた。
『美味しいねぇ』
二人よりも一つだけ多くなってしまった炒り豆を見た相澤は、一つ豆を摘まむ。
『ほら』
目を丸くさせて瞬いている彼女の口へ、さらに豆を近づければ、やっと意味を理解した彼女の頬が赤くなった。
『えっと……』
珍しく彼女が狼狽えていれば、二人の様子を見ていた女の子が口を開く。
『お姉ちゃん、あーんだよ。あーん、してって消ちゃん言ってるんだよ』
大きく口を開けてこうするんだよ、と教えている女の子に、彼女はそれは分かっていると言いたげに苦く笑った。
ちらっと、豆を差し出す指の主を見れば、口元に意地悪い笑みを覗かせている。普段、からかわれてばかりいる彼の意趣返しだと気づいた彼女は仕方なく口を開いた。
小さく開かれた口の中へ炒り豆を入れ、指を離す際に相澤はわざと彼女の形のいい唇を撫でた。ぴく、と微かに体を震わせた彼女の顔がより赤くなる。
『美味しい?』
何も気づいていない女の子に、頷いた彼女の顔はまだまだ赤い。
いつもからかわれてばかりの相澤と、からかってばかりの彼女の立ち位置が今日は完全に逆だ。つい笑いそうになってしまうのを堪えている相澤に、今度は彼女が豆を差し出す。
『どうぞ』
わざとらしく感じられるほど、ニコニコとしている彼女に押されながら、おもむろに口を開けば、先ほど彼がしたように炒り豆が入れられた。そっと相澤の唇を彼女の指先が軽く押す。そして、離れていった指は迷わず彼女の唇に触れた。
『なっ!?』
子どもの前で何をやってんだと驚いている相澤が慌てて女の子を見る。
『いーち、にー、さーん』
彼が彼女をからかえたことを小さく喜んでいる間に、女の子はどうやら残りの豆の数を数えるように頼まれたらしい。勢いよく彼女の方へ相澤が振り返ると、顔を背けて笑っていた。
『お姉ちゃん、お豆ね、お姉ちゃんのだけ少なくなっちゃった』
『じゃあ、さっきは消太さんがあーんしましたから、今度は逆にしましょう』
うん、と素直に頷いた女の子は相澤の服を引くと、あーん、と口を開けて豆を運んでもらうのを待つ。
可愛らしいお願いを断ることも、待たせることもできず彼はまた豆を一つ掴む。望み通り食べさせてやれば、女の子は幸せそうに頬を緩ませた。
***
カタン、と物音がして相澤の意識は浮かび上がる。時計を見てみれば、女の子の隣で横になってから4時間ほどが経っていた。
女の子を起こさぬようにリビングへ出てみれば、そこにはヒーロースーツを纏ったままの彼女が帰って来ていた。
「すみません、起こしちゃいましたね」
「いや、珍しいな」
基本的にヒーロースーツのまま彼女が帰宅することはない。入ってきたのも玄関ではなくベランダからのようだ。
「事務所のシャワーが壊れてしまったと連絡をもらって、仕方なくこのまま帰ってきたんです」
フードから覗く彼女の整った口元が苦く笑う。彼女が入ってきたであろう窓から差し込む月明かりが、相澤に昨夜から降っていた雪が止んだことを知らせた。
薄ぼんやりとした明かりに照らされる彼女に近づいた彼は顔色を変える。彼女のフードを引き剥がせば、白く陶器のような頬は嫌な赤で濡れた跡があった。
「他にもケガしてんのか?」
心配と黙っていた怒りの込められた視線を送られた彼女はまだついていたかとばかりに目を伏せる。
「いえ、どこもケガはしてません。これは返り血ですよ」
寒さで冷え切った頬に添えられた相澤の手の匂いを嗅ぐように、顔を擦り寄せた彼女は少し眠そうな顔をした。
「すみません、とても眠くなってしまったので、先にお風呂をいただいてきますね」
「ああ……」
にこ、と疲れた笑みを見せた彼女は浴室へと歩き出す。その背中を見送った相澤が、この日の彼女に何が遭ったのかを知るのは、この翌日だった。
***
眠っている彼女を休ませたまま、朝食を食べている女の子の向かいに座る相澤はコーヒーを飲みながら仕事の確認をしていた。ピコン、通知を知らせたスマホを手に取る。ロック画面の通知に表示された山田の名前に、仕事だろうかとメッセージを開いた。
そこには雪の降る昨晩、たった一人で何十人の凶悪
雪の中、マントコートのせいで顔もはっきりと見えないが、ぞくりとしてしまうほど見入ってしまう流麗な剣技は彼女のものに間違いない。
再び鳴った通知音に、ハッとした相澤は新しいメッセージに目を通す。
"一般市民が撮影したやつだ。本人には消させたし、メディアには流れねぇから安心しろ"
近くで仕事をしていた山田が駆け付けたときには、既に彼女が鎮圧した後で、メディア対応くらいしかすることがなかったらしい。聞いてもいないのに、彼女を仕事で見つけると、ときたま山田はこうして相澤へ連絡をよこした。
映像を見れば、彼女の腕がどれほどのものか理解できる。この人数を相手にかすり傷を一つも作らずに帰ってこれるほどの強さを持った今の彼女。もうとっくに守られるだけの存在ではないと理解しているが、このままだと彼女にとって守られる側にされるのではないかと嫌な予感がしてしまう。
「おはようございます」
これまた珍しく、少し眠たげな彼女が寝室から出てくる。寝起きの彼女を見ることはめったにない彼と女の子は、どこか気の抜けている彼女の姿に嬉しさのようなものを感じずにはいられなかった。
「おはよう、お姉ちゃん」
牛乳を飲み終えた女の子に近寄った彼女が視線を合わせるように屈む。昨夜、ヒーローとして鬼神の如き強さを発揮していた彼女。その彼女は今、優しい表情で女の子の口周りについてしまった牛乳を拭いている。
その様子を、じっと見ていた彼に気づいた彼女はいつものように小さく微笑んだ。
柔らかで美しい笑みで、自分は既に彼女に助けられ、支えられることで守られているのだと相澤は自分の熱くなった頬に教えられていた。