142020/12/01~
ほう、と吐き出した息が白い。寒さが身に染みるようになった季節になったと、しみじみ感じながら彼女は寒がりな彼のことを思った。
今頃はまだ、この寒空の下でパトロールをしているだろうか。
寒さが好きではない相澤のことを考えながら入ったのは、いつも利用しているスーパー。ここには何度か相澤と一緒に入ったことがある。
ふと、以前来た時のことを思い出す。親とはぐれた子どもが、父親と間違えて相澤の足に抱き着いた。泣きながら、すべてに濁音をつけて"おどうざん"と呼んできた子どもに驚いた彼は、勘違いを知らせるために迷いながら、"おい"と声をかけた。
自分がしがみついているのが父親ではないと気がついた子どもは、彼の顔を見上げながらさらに激しく泣き始めたのだった。
あのときの慌てようを思い出して、くす、っと込み上げてくる。口元の笑みを手で隠すと、彼女は葱をスーパーのカゴの中へ、そっと入れた。カゴの中には既に白菜と春菊、エノキ、シイタケが入れられている。
(あとは、鶏肉か、白身魚……)
どうしようかな、と考えながらスーパーの中を歩く。今夜の夕飯は鍋で決まっているが、水炊きにするかゴマ豆乳鍋にするかで迷っている。
相澤はどちらでも食べてくれるだろう。できれば、今の彼の気分を知りたいところだが、仕事中にメッセージを送るのは憚られた。
「うーん……」
値段で決めるのもいいかもしれない。そう彼女が思ったとき、ポケットに入れていたスマホが通知で震えた。
スマホに届いたメッセージを見た彼女は、ふ、と楽しそうに目を細める。鶏肉のパックを取ると、冷凍庫の中にあるうどんの数を思い出して、冷凍うどんのコーナーへと急いだ。
***
「ただいま戻りました」
誰もいない部屋からは当たり前に声は帰ってこない。それでも、彼女は楽しくて仕方がなかった。
相澤と元の鞘に収まってから、それほど経たずに同棲を始めた。彼とお揃いの鍵を使って先に部屋に入り、食事の支度をして相澤の帰りを待てることが嬉しい。
胸の奥からじんわりと温かくなってくるこの感覚は、高校生の頃よりも強くなっているような気がする。
(今が一番、幸せってことなのかな)
胸の前に手を置くと目を伏せた彼女は僅かに頬を赤らめてから鍋の準備を始めた。
土鍋に入れた水の中に昆布を入れ、だしを取る。それを少し置いている間に、彼女はローテーブルの上を片付けた。取り皿とレンゲに箸を、小さなランチョンマットの上に用意して、カセットコンロを置くとキッチンへ戻る。そして、包丁を手に取った。
一つ一つの材料を丁寧に切っていく。にんじんはすべて梅の花に飾り切りされ、しいたけも綺麗な花になっている。
火にかけた土鍋から漂う昆布だしのいい香り。誰もいないことをいいことに、彼女はくんくんとキッチンに充満する匂いを楽しんだ。
「ふふっ」
相手のことを考えながら作る料理の楽しさを噛みしめる。ふわふわと浮き立ってしまいそうなほどの気持ちを抱える彼女は、今か今かと相澤が帰ってくるのを待っていた。
***
ちょうど、鍋が完成した頃、玄関の鍵が開く音がした。彼が帰ってきたことを知らせるこの音が嬉しくて、会えるまでの数秒が惜しくて、彼女は早足で出迎えに向かう。
「おかえりなさい」
靴を脱いでいる相澤へ声をかければ、どこか気恥ずかしそうにしながら"ああ"と短く返ってきた。彼が照れていることを見抜いている彼女が、ふふ、と小さく笑う。それが悔しい相澤は通りすがりにコツン、と指で彼女の額を小突く。
「消太さん、おかえりなさい」
背の高い相澤の自然と上目で見てくる彼女に、彼は顔を顰める。言葉にされなくても何を求められているのか分かってしまった。じっと見つめてくる黒い目に抗えず、ため息をこぼすと相澤は口を開いた。
「……ただいま」
「よく言えましたね」
よしよしと頭を撫でてくる彼女から彼は赤らめた顔を逸らす。こうなることは予想していたとはいえ、彼女にこうして撫でられるのは嫌いになれない。
「ガキ扱いすんな、とは今日は言わないんですね」
「疲れてるからな」
言外に甘えたいと相澤が可愛くて、彼女の目は更に細められた。
「今日はお鍋にしました。あ、先にお風呂にしますか?」
「いや、メシにする」
「分かりました。用意してきますから、その間に手洗いうがいしてくださいね」
「ガキ扱いすんな」
やっと聞けたいつものセリフに、いたずらっぽく笑った彼女はリビングへ戻って行く。その背中を見送った相澤は洗面所へ向かいながら、少々感慨深く最近のことを思い出していた。
ずっとずっと忘れられなかった彼女と暮らし始めた初めての冬。家に帰れさえすれば、いつだって彼女を独り占めにできると知ってから、帰路に着いている最中は僅かに心が浮かれる。
彼女が待っているリビングへと入れば、そこは寒かった外とは違いとても暖かく、迎えてくれる笑顔に胸の中までも温められた。
「この前、お店で食べたゴマ豆乳鍋が美味しかったので真似してみました」
「香山先輩と行ったってところのか?」
はい、と頷いた彼女は取り皿に、綺麗に具材をよそる。
「水炊きと悩んだんですけど、買い物をしていたときに、また今度、違うお店に連れて行ってくれるってメッセージをもらって、それでゴマ豆乳鍋にしてみました」
盛り付けられたそれを席に置かれた相澤は、彼女が自分の分をよそり終わるのを見てから手を引いた。
「消太さん?」
引き寄せられた彼女が不思議そうにしているのにも構わずに抱きしめた彼は、その白い首筋へ顔を埋める。
「んっ、消太さん、くすぐったいです……」
くすぐったさで声を揺らす彼女の首から少しだけ顔を離したが、理性的な相澤には珍しく衝動的にその白い首筋に舌を這わせた。
「ひゃっ!?」
驚いてビクっと体を震わせた彼女の頬を親指で撫でながら、彼はクツクツと笑う。
「やられっぱなしは性に合わんからな」
何か言おうと薄く開きかけた彼女の唇に吸い付く。数回繰り返せば、彼女からも応えるようなキスをされ、そういう流れになりそうなときだった。
「はい、おしまいです。ご飯にしましょう。お腹空きました」
「……オイ」
明らかにそういう流れだっただろうと目で訴える相澤をからかうように彼女は笑みを浮かべる。
「せっかく用意して待っていたご飯より優先させたいものがあるんですか……?」
寂しそうに言われてしまえば、もう彼は言い返すことなどできない。明らかに分かっていてしている彼女にムスッとした顔をしながらも席に座り直す。
「いただきます、しましょうね」
「分かってる」
いただきます、と両手を合わせてから箸を取る。綺麗に盛り付けられた鍋の具材たちを一口運べば、ゴマ豆乳鍋の濃厚でコクのある味わいが口の中に広がった。
「消太さん」
呼ばれて顔を上げれば、彼女は先ほどのからかうようなものとは違い、口元に手を添えて美しく、そして艶めかしく微笑んでいる。ドキドキと早くなっていく自分の鼓動を感じながらも相澤は彼女から目を逸らすことはできなかった。
「さっきの続きは、またあとで」
ごく、と喉が鳴ってしまったのは、彼女の用意する食事が旨いせいか、それとも彼女の色気にあてられたからなのか、相澤本人にも分からない。ただ、今夜が気にならないわけがなかった。
そして、寝室のベッドに二人で入り込んで、続きを求めた彼は、"さっきのはいつもしてる寝る前のキスじゃないんですか?"と、とぼけられた。
しかし、これ以上のお預けをくらう気はない相澤は、彼女に覆いかぶさると逃げられないように細く白い手首を捕まえる。
「別に俺はいいぞ。寝れるもんならな」
激しく口内を荒らしまわるようなキスをされた彼女の顔が真っ赤に染まると、彼は満足そうに顔にかかった髪をかき上げて意地悪く笑うのだった。