102020/08/01〜

『結んで、ほどいて/夢見る絵本』の夢の続き
 風邪を引いた山田のお見舞いを終えた赤ずきんの女の子は、送ってくれた猟師の男の子たちへ手を振った。

「ありがとう! 焦凍くん、環くん!」

バイバイ!と大きく手を振る女の子を、焦凍と環が見送る。恥ずかしそうに控えめに手を振る環の奥では、焦凍も小さく手を振り返していた。家に入るまで何度も振り返って手を振った女の子を見送った環は、小さくため息を溢す。

「どうしたの?」

 いつまでも女の子が入っていった家を見ている環に声をかけた焦凍は、かくりと首を傾げた。

「もう少し―――」

そこまで口にして環はハッとして自分の口を塞ぐ。ぱちんっ!と立った大きな音に、焦凍はぎょっとした。
何があったのか訊こうと思っても、せわしなく目を泳がせている環を見ると、なんだか声をかけるのは悪い気がして、焦凍は少し考えてから訊くのを止めた。
なんだか訊いたら、ますます狼狽えさせてしまいそうだし、それに何よりお腹が空いたから早く帰って食事を摂りたい。

「じゃあ、かえろ」

 すたすたと歩き出した焦凍の背中を少し遅れて環が追いかける。ほとんど無言で歩く中、環はオオカミの耳を赤い頭巾の下に隠した女の子のことを思い出す。

 もう少しだけ一緒に歩いていたかったなんて、どうして会ったばかりの女の子に対して思ってしまうのだろう。ドキドキとして治まらない動悸がする胸に触れる。頼りなさそうに波打つ唇を引き締めた環は空を見上げた。

 見上げた空は暗い。夜空にはもう数えきれないほどの星が、二人の歩く道を照らしていた。

***

 家に入る直前。もう一度振り返った女の子は焦凍と環へと手を振ってから、家の中へと入った。

「ただいま!」

 今日の出来事を早く彼女に話したい。どれから話せばいいんだろうと思った女の子は足を止めて一つずつ思い出す。

 オオカミだと知っても、猟師の男の子たちがとても優しくしてくれたこと。山田に教えてもらったスープを作って喜んでもらえたこと。お皿にこびりついた汚れが落ちなくて苦戦したこと。それから、初めて自分以外のオオカミに会ったことを思い出しながら、リビングの中へ入る。

「ママ、あのね」

 ひょっこりと顔を出した室内にいたのは、今、思い出していた大人のオオカミがいた。

「おかえり」

当たり前のように言われた"おかえり"に、女の子の口は無意識に"ただいま"と動く。なんでこの人が自分の家にいるのか分からなくて、目をパチパチとさせる女の子に奥から声がかけられる。

「おかえりなさい」

 普段から優しい彼女の笑みが、より一層あたたかい。もっといえば幸せそうだった。

「ただい、ま……?」

首を傾げてから相澤と彼女の顔を交互に何度も見ている往女の子に、彼女はおかしそうにくすくすと笑う。

「ご飯、できてますから、席についてください」

「う、うん」

 彼女が食事を運んでくる前に、いつもの自分の席に座る。そして、女の子は向かいに座っている彼をこっそりと盗み見た。しかし、しっかりとぶつかってしまった視線。じぃっと見られることで、おろおろとしている女の子に気づきながらも相澤は見ることを止められなかった。

「ソレ、外してくれないか?」

「あ、コレ?」

 頷いた彼の指示通り、かぶっていた赤い頭巾を外す。頭巾の下からは、青みがかった髪と同じ毛の生えた大きな耳が、ぴょこんと現れた。自分と同じ、オオカミの耳。それを確認すると、僅かではあるが相澤の目は柔らかに細められる。

「お待たせしました」

 奥から運んできた彼女の作った食事。やわらかいパンやスープから立ち上がる湯気はあたたかさだけでなく、とてもいい香りも運んできた。

「いい匂い……」

くんくん、と鼻をひくつかせている女の子の頭を撫でた彼女は、彼と目を合わせて、ふ、と微笑む。その意味を察した相澤が小さく頷くと、彼女は女の子の名前を呼んだ。

「ご飯の前にお話ししてもいいですか?」

「なあに?」

 背中側に立っている彼女へ、振り返りつつ見上げてきた女の子を少し体温の低い手が丁寧に撫でた。その手に撫でられる心地よさに女の子は目を細める。

「紹介しますね。こちらは、消太さん。あなたのパパですよ」

「ぱ……?」

驚きのあまり、目をまんまるにさせている女の子が見たのは、向かいで気まずさと照れくささに困惑して視線を逸らす父親の姿だった。
 いきなりそう呼んでも嫌がられないだろうかと、女の子の胸に不安が広がる。それでも、目の前の人をそう呼びたいと思って、緊張で強張る口を動かそうとすれば、喉が勝手にゴクッと鳴った。

「パパ……?」

 小さな声で緊張しながらも呼んできた女の子に、今度は相澤が目を見開く。生まれる前から、ずっと傍にいなかった父親なんて呼べない存在。そう思われたって仕方がないと思っていた彼は、酷く動揺していた。

「そう、呼んでくれんのか?」

嫌じゃないのか、という意味を込めていたのに、女の子はそれに気づかず、顔いっぱいに嬉しさを広げてみせた。

「パパッ!」

 カタン!と音を立てて椅子から立ち上がると、女の子は真っ直ぐに相澤へと駆け寄り思い切り抱き着く。驚いて固まっている彼に構わず、ぎゅうぎゅうと抱き着いている女の子は嬉しくて頭を押し付けていた。
 呆けていた相澤は、恐る恐る手を小さな頭へと伸ばす。戸惑いながら触れていた手は、何度か女の子を撫でると、しっかりと頭に触れた。

「ねえ、ホント? ホントにパパなの?」

「ああ……」

嬉しさのあまり頬を真っ赤にさせている女の子に、相澤の目がどこまでも優しくなる。彼女にそっくりな顔や自分と同じ耳と尻尾だけが理由じゃない。この嬉しそうな顔を見れば、もう誰に聞かれても、この子は自分の子だと胸を張って言える自信がついた。

「パパ……!」

きゅんきゅんと女の子から上がる子犬のような甘えた声。ぐりぐりと顔を押し付けてる様子からも"会いたかった"と喜んでいるのが伝わる。初めて会った娘を抱き上げた彼は、しっかりと女の子を抱きしめた。

 その様子をしばらく黙って見ていた彼女は、たまらなくなって相澤を後ろから抱きしめる。前と後ろから感じる温もりに、彼は昔の自分に教えてやりたくなる。自分には、こんなにもあたたかい"家族"が待っているのだと。

***

 相澤と同じベッドに入り込んだ女の子は、まだ彼が帰って来てくれた嬉しさの興奮が冷めやらない。その嬉しさいっぱいの様子を肘枕をした彼が穏やかな眼差しを向けていた。

「パパはもうお仕事終わったの? 明日は? 一緒?」

「ああ。もう、ずっと一緒にいられる」

嬉しい嬉しいと、また抱き着いた女の子は相澤の胸元に頬ずりをするように顔を押し付ける。くーんと声を出しているのは、きっと無意識なのだろう。それほどに自分と一緒にいることを喜んでくれるとは思っていなかった彼は、彼女が言ったことが本当だったと笑みが込み上げていた。

「パパ、あのね。ママね、ずっとパパのこと言ってたんだよ」

「俺のこと?」

 うん、と頷いた女の子はいたずらっぽく、くすくすと口元を隠して笑う。その笑い方が彼女に似ていて、相澤は子どもの頃、恋をした少女の姿を思い出していた。

「ママはね、初めて会ったときからパパのことが大好きで―――」

「ちょ、ちょっと! その話は秘密だって言ったじゃないですか!」

 大慌てで寝室に入ってきた彼女に女の子はきゃーっと言いながら布団の中へもぐってしまう。布団の中から聞こえてくる女の子の楽しそうに笑う声の一方、 ああ、もう、と言わんばかりに両手で顔を覆っている彼女は、黒髪の間から覗かせている耳を真っ赤にさせている。

自分がいない間の知らない話をもっと聞かせてほしいと思うが、それよりも今は、目の前で恥ずかしがっている彼女が彼は愛おしくて仕方なかった。

 布団の中でもぞもぞと動いている女の子は、寝やすい位置を探しているようだ。明日、この子が起きたら、彼女がしたように自分も秘密の話をしよう。
"俺も、初めて会ったときからママが好きだった"と言ったら、女の子がどんな顔をするのかを考えて、ふ、と小さく微笑んだ。

「消太さん」

 布団へと落としていた視線を上げると、近寄ってきた彼女の唇と彼の唇が重なる。ちゅ、と軽く触れるだけのそれでも、相澤の顔を真っ赤にするには十分だった。内緒と離れたばかりの口元に人差し指を立てた彼女は、今度は彼の頬に唇を寄せてから静かに体を離していった。

「ママ、おやすみのちゅーして」

 ぴょっこりと布団から顔を出した女の子の言葉に、相澤は大袈裟なほど体を跳ねさせる。その様子をしっかりと見ていた彼女はおかしそうに口元を押さえて笑っていた。

「ママ」

早く早く、と急かす女の子に"はいはい"と返事をした彼女は、慣れた様子で女の子の小さな頬にキスを落とす。

「おやすみなさい」

「ん、おやすみなさい」

目を閉じようとして、女の子はハッとして相澤を見た。くりっとした大きな子どもの目に見つめられた彼は、女の子が何を求めているのか分からず目を瞬く。

「パパも」

「……は?」

「ちゅー」

 やっと何を要求されているのか分かった相澤は、ぐわっと顔が熱くなるのを感じた。自分のいないこの家で習慣化していた"おやすみのキス"をしてほしいと強請られている。どうしたものかと動けずにいる彼の頬に柔らかいものが触れた。

「こうするんだよ」

 やり方を知らないのだと思われたことが不服だとか思うよりも、娘にされたことが、むず痒いような恥ずかしいような照れくさいような、よく分からない気持ちにさせる。
 照れ切っている相澤の反対の頬に、今度は彼女の唇が触れた。

「してあげてください」

にこっと微笑んだ彼女の目を見た彼は、気まずそうに視線を外す。その先で、女の子がせがんでくる目が見えて、相澤はきつく唇を引き結んだ。そして、覚悟を決めてその小さな頬に唇を寄せた。

「おやすみ。パパ、ママ」

 えへへ、と嬉しそうに笑った女の子は、また布団の中にすっぽりともぐる。彼の背中側で、もぞもぞと動いていたかと思えば、すぐに小さな寝息を立て始める。

「パパが帰ってきた嬉しさで、山田先輩の話は、ほとんど聞けませんでしたね」

苦笑した彼女もベッドの中に入ると、相澤は彼女を引き寄せた。鼻腔に広がる愛おしくて仕方のない彼女の匂い。鼻先をすべすべとした頬に擦りつけた彼は、彼女の耳元で囁く。

「俺にもしてくれ」

「ん、何を、です……?」

 くすぐったさで体を震わせる彼女に構わず、相澤は今度は鼻を耳へ押し付けた。

「おやすみのキス」

少し顔を離すと、彼女は仕方がなさそうに苦笑して、彼の頬へそっと口づける。ムッとした相澤は何も言わず、強引に彼女の唇を奪った。驚いている彼女に、彼は意地悪い笑みを浮かべる。

「キスしてやれって言ってたくせに、娘に嫉妬してたんだろ?」

 どきっとした顔をする彼女へ、満足そうに相澤は意地の悪い笑みを深くする。

「悪いママだな」

「ごめんなさ―――」

謝り切る前に、彼女の唇はまた塞がれた。今度は小さく、ちゅ、と音をさせて離れた彼は彼女の頬を撫でる。

「なぁ、幸せか……?」

 目を瞠った彼女は、すぐに柔らかに目を細めた。どこまでも優しさを含んでいる彼女の目に吸い込まれてしまいそうだと感じながら、相澤も同じように目元を和らげる。

「はい。この子がいて、消太さんが帰って来てくれて、凄く幸せです」

じんわりと込み上げてきている彼女の涙。それが零れてしまいそうなほど溜まった目尻に寄せられた彼の口元は弧を描いていた。

「俺もだ」

 ぎゅっと抱きしめてきた彼を彼女も抱きしめ返す。嬉しそうに微笑む彼女に幼い日を思い出した相澤が目を閉じたとき、うーん、と眠さでぐずるような声が布団の中からした。

 もぞもぞと動いた女の子は彼と彼女の間に入り込み、満足そうな声を漏らして、また眠りだす。
顔を見合わせた二人は、微笑み合うと手を絡み合わせて眠りに落ちた。

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