幸せの過剰摂取で死ぬ
"彼女"という存在が出来たのは初めてだ。俺みたいな自信がなくて頼りない男なんて、絶対に彼女と付き合えるわけがなかったんだ。それなのに、間違いというか運命のいたずらとでもいうのか、俺は苗字さんに選んでもらえた。それだけでも一生分の運を使ってしまったような幸福感を得たというのに、苗字さんは毎日それ以上の幸せを俺に与えてくれる。ときどき、これ以上摂取したら幸福過多で俺は死ぬんじゃないだろうかと不安になっている。
そんなことをミリオに話したら、おかしそうに笑われて"なら、環がもっと苗字さんを幸せにしてあげればいいんだよね!"と言い切られた。
それから毎日考えているけど、彼女の幸せがどんなものなのか分からない。むしろ俺なんかじゃなくて、もっと自信に満ちていて頼れる男と付き合う方が苗字さんも幸せなんじゃ―――
「先輩、天喰先輩?」
「ああ、考えすぎたせいだろうか。苗字さんの幻が見える……」
きょとんとしながら、俺の目の前で小さな手を振っていてとても可愛らしい。
「幻じゃないです! しっかりしてください……!」
背伸びをしながら俺の両肩を掴んで揺さぶってくる彼女が本物だと気づくと、恥ずかしさで顔面が一気に熱くなった。
「な、なん、なんで、ここに……!?」
ここは三年の教室で、後輩の苗字さんが普段いる場所じゃない。だから、ここで一人で彼女を幸せにする方法を考えていたのに、どうしてここに本人が来るんだ!?
「何度もメッセージ送ったんですけど返事がないから心配で」
何かありましたか?と心配そうに顔を覗き込んできた苗字さんが可愛くて、それに心配してくれる優しさが嬉しくて顔が緩みそうだ。そんなみっともない顔を晒したりしたら絶対に嫌われる自信がある。だから、必死に唇を噛むように引き結んだ。
「今日は一緒に帰れますか?」
「う、うん。……大丈夫だよ」
苗字さんにのろまだと思われないように急いで荷物をまとめて立ち上がったら、彼女は、くりっとした目を瞬かせてから小さく笑った。
「な、何かおかしなことでも……」
「ネクタイ、ズレちゃってますよ」
自然に伸びてきた苗字さんの手が俺のネクタイにかかる。当たり前のようにお互いの体が近寄って、彼女の顔が俺の近くにある。こ、こんな状況って……!!
「あ、天喰先輩?」
「ムリムリムリムリムリムリムリムリ……」
しゃがみ込んで顔を覆っている俺に引かずに苗字さんは心配そうに背中を撫でてくれる。そんな君の優しさに、俺の至らなさが浮き彫りになっているなんて、きっと思ってもないだろう。
「ええっと、荷物持ったときにネクタイがズレただけですから、そんなに恥ずかしいことじゃないですよ」
大丈夫!と励ましてくれる苗字さんの笑顔が眩しすぎて目を開けていられない。そんな不用意に笑ったら他の男が言い寄ってくるに決まってる。
「……あ、あの、あんまり笑わないで」
「え? あ、バカにしたつもりじゃないんです。ごめんなさい」
素直に謝る彼女に、また俺の醜さが露呈する。君が人を馬鹿にするだなんて思ったりしてないのに、俺は彼女にこんなことを言わせてしまうなんて……。
「天喰先輩?」
ほら、何も言わないでいるせいで苗字さんが不安そうにしているじゃないか! そんな顔も可愛らしいと思うけど、不安にさせたいわけじゃないんだ。
ぐっと腹に力を入れて震えそうになる口を開く。声が震えませんようにと強く願った。
「バ、バカにされたなんて思ってないよ。その、苗字さんは笑うと、す、凄く可愛いから、あの、参ってしまうというか……」
声は震えなかったけど、かみかみだった。これなら噛みませんようにとも願っておけばよかった。
「あ、ありがとうございます……」
頬を赤らめて俯いてしまったのは、俺が可愛いと言ったからだと自惚れてもいいんだろうか。チラッと見てみたら彼女と視線がぶつかって、お互いに慌てて逸らした。
「え、えっと、天喰先輩。明日の約束って覚えてますか?」
「あ、ああ、もちろん」
明日は苗字さんに勉強を見てほしいと頼まれている。俺なんかで教えられることであればいくらでもと言ったら、彼女が凄く嬉しそうにしてくれたんだから忘れるわけがない。
「よろしくお願いします」
にこっと笑ってくれた苗字さんが可愛くて、また顔が熱くなる。どうして俺の彼女はこんなに可愛いんだろう。そんなことを思っていたせいで、俺は明日はどこで勉強をするのかを聞きそびれていた。
***
翌日。苗字さんと待ち合わせた駅から、少し歩いたところにあるアパートの一室に俺はいた。
「ど、どうして俺は苗字さんの家に来ることに……?」
てっきり、勉強は図書館でするのかと思っていたのに彼女が一人暮らしをしている部屋に来るなんて……。ベッドの前に置かれたローテーブルに肘をついて頭を抱えていたら、彼女がコンパクトキッチンの方からひょこっと顔を出す。
「天喰先輩、何飲みますか?」
小さく首を傾げた彼女にどきりとしてしまう。なんでそう簡単に可愛い行動をとるんだ! くうっと目を逸らしながら俺はまた頭を抱える。
「な、何でも大丈夫……。君が出してくれたものなら例え雑巾を絞った水でも飲むから」
「何言ってるんですか、もう」
くつくつと笑った苗字さんはお湯を沸かし始めた。多分、お茶を淹れようとしてくれている。どこか嬉しそうに見える横顔に、また胸がどきどきしてきた。
俺なんかにお茶を淹れてくれる苗字さんの為に少しでも役に立とう。そう思って、鞄の中からペンケースを取り出そうとしたとき。俺はとんでもないものに手を触れさせてしまった。
「な、なななななななな……!?」
がくがくと全身が勝手に震えだす。ベッドの下に偶然突っ込んでしまった手に当たったものを何も考えず能天気に引きずり出してしまった。淡いピンク色の生地に上品な赤のリボンのあしらわれた苗字さんの下着。恐らく、洗濯物を取り込んだときにベッドの下に落として気づかなかったんだろう。
「天喰先輩、どうしました?」
不思議そうにやってきた彼女の手にはトレーがあって、その上にはマグカップが二つ乗っている。
「な、な、なんでも……」
動揺しているせいか、俺の最低な下心のせいか手から苗字さんの下着が離れなくて、咄嗟に握り締めて手の中に隠した。
「そうですか? 何かあったら遠慮なく言ってくださいね」
コト、と目の前に置かれたマグカップからは紅茶のいい香りがしている。
「凄い。いい香りだ」
「先輩に喜んでもらいたくて、ちょっと奮発しちゃいました」
照れたように、ふふっと笑う苗字さんを抱きしめたい。でも、そんなことをしたら、俺が彼女の下着を握り締めている変態だとバレてしまう……!
"天喰先輩、サイテー!!"
「ぐっ……!!」
涙目でドン引きしている苗字さんを想像してしまって、一人で勝手に酷いダメージを受けた。
「あ!」
「ひっ……!?」
何かに気づいたような声を上げた彼女に俺は縮み上がる。バレた。嫌われる前にわざとではなくて、偶然見つけてしまったのだと弁明しないと……!
「美味しいクッキーをもらったんでした。ちょっと待っててくださいね」
またコンパクトキッチンの方へと戻っていった苗字さんにホッとしてから、手の中の下着を見る。この可愛らしい下着は、きっと苗字さんによく似合うんだろう。なんて思ったら、顔中が熱くなってきた。
「そ、それ……」
「え?」
いつの間にか戻ってきていた彼女はクッキーの入った箱を落として、震える指を俺の手元に向けている。さっきまであんなに顔が熱かったのに、今は全身が凍ったように寒い。
「わた、私のパ、パンツ……」
「ち、ち、ちがっ!! いや、違わないんだけど、話を聞いてくれ!!」
苗字さんに嫌われたくない一心で俺は床に頭を打ち付けて土下座した。
「あ、天喰先輩!? 大丈夫ですか!? 凄い音……」
彼女とは言え、人のパンツを握り締めていたような変態の心配をしてくれるなんて、苗字さんはやっぱり優しすぎる。
「とりあえず、顔上げてください」
「俺みたいなクズは君の顔を見る権利なんかないんだ……」
「そんなこと言わないで、お願いですから」
ね?と優しくお願いされては言うことを聞かないわけにもいかなくて、渋々と顔を上げた。
「こんなに真っ赤になって……」
俺の前髪を上げて、赤くなっている額を見ている苗字さんのそれが近い。
「む、む、むむ胸! 胸が近いよ、苗字さんっ!!」
出来る限り固く目を閉じた俺から、彼女の体が離れたのを感じる。耳まで熱くって息も上手くできないくらいの恥ずかしさに耐えていたら、また苗字の体が近くにやってきた、というか抱きしめられた。
「な、な、なん!? なんで!?」
「だ、だって、嬉しいって思ったから……」
ぎゅう、と抱き着いている彼女を片目を開けて確認する。どういうことか、視界いっぱいに苗字さんが入ったら、急に彼女のいい香りを感じてしまった。
「う、嬉しいって何が? 俺は君を喜ばせてあげられるようなことは何も……。むしろ嫌われることしかしてないじゃないか」
首を左右に振った苗字さんは、少しだけ体を離して俺を見上げてくる。
「嬉しいです。天喰先輩に異性として意識してもらえてるみたいで」
初めて聞いた彼女の自信のなさそうな声に、胸がチクリと痛む。もしかしたら、俺が苗字さんに何もしてこなかったから、不安にさせていたのかもしれない。
拒絶されたらと思うと手が震えた。情けないくらい小刻みに揺れる手だけど、俺の気持ちを伝えようと思って彼女の背に添える。
「ずっと意識してるに決まってるじゃないか……。まだしたことないけど、手だって繋ぎたいっていつも思うし、だ、抱きしめたいって思った事だって何度もあるよ。でも、俺の気持ちだけでそんなことしたら苗字さんに嫌われると思うからできなかっただけで……」
「してほしいです。天喰先輩が私としたいこと、全部」
恥ずかしそうに俺の首筋に顔を埋めてきた苗字さんに体が反応する。全身がきゅうっと締め付けられるような、くすぐったくなるような不思議な感覚だ。
「そんなことしたら、嫌われる……。俺は苗字さんが思ってるよりもずっと欲深で下品な男だよ」
「嫌いません。だって、私ばっかりが好きなんですもん」
苗字さんばかりが好き? そんなことは絶対にありえない。でも、聞こえてきた声からは不安とか寂しさのような響きばかりが含まれているように感じた。少しだけ調子に乗ってもいいのだろうか。ごくり、と喉を鳴らして俺は震えてしまう唇を動かした。
「……名前で呼びたい。名前って」
「………」
返事をしてくれない。やっぱり、嫌だったんだ。沈黙が辛くて苗字さんに謝ろうとしたら、服をぎゅっと握られた。
「わ、私も……環先輩って、呼びたい、です」
完全に思考が停止した。可愛すぎる声で名前を呼ばれた嬉しさと興奮で俺は名前を抱きしめたまま後ろに倒れた。
「だ、大丈夫ですか!?」
「ダメだ……幸せの過剰摂取で死ぬ」
本当に死ぬのなら最期にもう一度、名前の顔を見たい。でも、まだ死ぬわけにはいかないから両手で顔を隠した。
「私も、環先輩に名前で呼んでもらえて幸せです」
嬉しそうに笑う声が俺のすぐ近くからしてる。きっと凄く可愛い顔をしてるんだろうと思ったら無意識に手をどけてしまった。
「夢みたいです。環先輩が私のこと好きになってくれて、こうして一緒にいてくれて」
「……それは俺の方だ。名前が好きになってくれるより先に、俺は君のことが好きだったんだから」
驚いて目を瞬いた名前は俺の胸に手をついて起き上がる。今さらこの話をするのも恥ずかしいけど、このタイミングじゃなきゃ次はいつ来るか分からない。
「その、一目惚れって言ったら気持ち悪いって思うだろうか……」
真っ赤になった名前の目に涙が溜まっている。やっぱり気持ち悪かったのか! 俺がどうしようと焦る間に、彼女はまた抱き着いてきて頬を合わせてきた。
「大好き」
耳元で囁かれた言葉は俺には刺激が強すぎて、今度こそ本当に気絶した。数十分後、意識を取り戻した俺が見たのは、安心した名前が"死んじゃったらどうしようかと思った"と涙ぐむ様子で、可愛さと心配された嬉しさが混じった俺は調子に乗って、今度は自分から彼女を抱きしめた。
どうしたら俺が感じている以上の幸せを名前に返せるのかと、ずっと考えていた。でも、多分それは無理な話だ。だって、俺の方が好きという想いがずっと強いのだから。
だから、俺の気持ちの半分でも名前に返して幸せになってもらえれば、それでいいのかもしれないと彼女の笑顔を見るとそう思うようになった。
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