さぁ、覚悟して

 よく晴れた朝。とても気持ちよく目が覚めた今日みたいな日は、寮の周りを散歩してから登校するのが日課だ。朝のだんだんと賑やかになっていく雰囲気。これを感じるのが好きなのもあるけど、早朝からトレーニングしている彼に会えないかな、なんていう気持ちもあって、そわそわしながら歩いた。

 結局、今朝は彼に会えなくて少しがっかりしながら登校した。寮生活だし、同じ敷地に立ってるからすぐに昇降口に着く。靴を履き替えて、教室に向かう廊下で紅白の髪を見つける。"轟くん"と声をかけようとして、のどの奥に声が張り付いた。
 轟くんの隣を歩く、背の高い綺麗な女の子。彼の隣の席の八百万さんだ。声をかけようとした気持ちと、伸ばしかけた手が同時に萎れていく。歩くことを止めてしまった足は、まるで廊下に貼りついてしまったように動かなくて、その場で轟くんと楽しそうに話している八百万さんの後ろ姿を見送ることしかできなかった。

***

「苗字が好きだ」

 そう言ってきたのは轟くんからだった。まだ入寮する前、帰り道に立ち寄った公園で轟くんは夕日が言い訳にならないくらい顔を真っ赤にさせて、真っ直ぐに私を見ていた。

 最初はびっくりして、何も答えられなかった。そんな私を彼は、困っていると思ったみたいで、返事はすぐじゃなくていいと言ってくれた。
その日から目が合うと微笑んでくれる轟くんのことが気になりだして、彼を目で追うようになって、少しずつ知ってだんだんと惹かれていって、気付けば"気になる"から"好き"になっていた。

 一緒に帰る夕方の道で、今度は私から"好きだよ"と伝えたとき、轟くんは私に好きだと言ってくれたときと同じように真っ赤になって嬉しそうに微笑んでくれた。それから私と轟くんはお付き合いをするようになった。その直後に寮に入ることになって、顔を合わせる時間が増えて、正直嬉しかった。
 休みの日でも一緒にご飯を食べたり、轟くんに勉強を教えてもらったり、寝る前まで顔を見て話すことができたりして、好きになることが止まらなくなる。でも、好きって気持ちが強くなるにつれて、今までなかったもやもやとしたはっきりしない何かが胸のあたりにできて、日に日に重くなっていく。

 廊下で轟くんと八百万さんを見たとき。その重さがぐっと増して、胸の奥にずっしりときた。なんでなのか分からない。分からなくて、でも理由を知ってすっきりしたくて考え続けていたら頭が痛くなってしまった。

「苗字さん? 今日はお顔の色が優れないようですが……。もしかして、具合が悪いのですか?」

 はっと顔を上げたら、心配そうに私を覗き込む八百万さんの綺麗な顔がとても近くにあった。びっくりするよりも、その綺麗な顔に見とれてしまう。私もこんな綺麗な顔だったらよかったのにと思ったら、また胸のもやもやが重くなった。

「苗字、具合わりぃのか?」

八百万さんの隣から顔を覗かせた轟くんに、ドキリとする。でもそれは好きだからじゃなくて、私が胸にもやもやを抱えている罪悪感というか、後ろめたさみたいなもののせいだ。

「あ、ううん。ちょっとボーッとしちゃってただけだよ」

苦笑いで誤魔化して立ち上がる。そうだ、次は戦闘訓練なんだから更衣室に行かなきゃいけない。

「悩み事ですか? 私でよければお聞きしますわ」

大きな胸に手を置いた八百万さんの気持ちは嬉しいけれど喜べない。今の私はおかしい。親切にしてくれてありがとうと思うところなのに、八百万さんに構ってほしくない。放っておいてほしいと思ってしまう。

「ううん、本当に何にもなくて、ボーっとしてただけ」

心配してくれる八百万さんにお礼を言って、逃げるようにして教室を出た。あんまり長く、轟くんと八百万さんを見ているともやもやの重さから逃げられなくなるような、そんな怖さを感じたから。

***

「なあ、やっぱなんかあったんじゃねぇのか?」

 綺麗な眉間に薄くしわを寄せる轟くんと、誤魔化そうと必死な私は食堂で向かい合って座っている。轟くんはいつも通りお昼に冷たいお蕎麦を食べるらしい。

「本当に何でもないよ。大丈夫」

苦笑いしながら、頼んだランチを口に運んでみたけど、どうしてか美味しく感じられない。

「俺には言いづらいのか?」

「そんなことないって」

怪しむような視線が刺さるみたいでいたたまれなくなってくる。目を合わせないようにしてご飯を飲み込むことだけに集中した。

「………」

 じっと見てくる轟くんが何か言いたそうにしてるのは分かってる。だけど、今は私にも余裕がなくて、いつもみたいに"どうしたの?"って訊いてあげられない。

「食べないとお昼休みなくなっちゃうよ」

せいぜい言えたのはこれくらいで、轟くんはいつもみたいに微笑んで"そうだな"とは言ってくれない。少し怖くなってしまうような目で私を見ているだけだった。

***

 お昼の後は普段通りに授業を受けた。この前までなら眠気に苦しみながら受けていたはずの授業なのに、今日は胸ばかりが痛んでとても眠気なんて感じない。
 なんとなく、ちらっと自分の席から轟くんを見てみたら八百万さんと小声で何か話していた。そんな二人の姿が今までで一番、胸にぐっさりと刺さる。痛い。血が出てるんじゃないかと思うくらい胸が痛くてうずくまるように、私は机に突っ伏して目を閉じる。

 どうしてこんな風になってしまったんだろう。どうしてこんなにも苦しいのか分からない。分からないことが苦しくて、また胸が痛くなってを繰り返して、どうしたらいいのかも分からない。

「苗字、調子悪いのか?」

 教壇からプレゼントマイク先生に声をかけられてしまって、もそもそと顔を上げたらクラス中が私を見ていた。

「あの、その、なんかお腹の調子が……」

注目されたことが恥ずかしくてした曖昧な返事に、先生は心配そうに眉を寄せた。

「大丈夫か? 保健室行っとくか?」

「い、いえ。大丈夫です」

本当に痛いのは胸だけど、お腹を押さえて首を振る。

「んじゃ、判断は任せるけど、我慢しすぎんなよ」

 授業が再開されて、ほっとしながらまた机に突っ伏す。わけわかんないことに気を取られて変な注目を浴びるなんて最悪だ。しっかりしなくちゃダメだと思って、しばらくしてから顔を上げてちゃんと授業は受けた。頭の中を苦手な英語でいっぱいにすれば、その間だけは胸のもやもやだとか、痛みだとかから逃げられた。

***

 本日最後の授業も終わり、後は帰るだけ。だというのに気が重くて動きたくない。みんなが帰っていくのをぺったりと机と頬を付けて見ていたら、私の席の前に誰かが立った。

「……やっぱり、昼から調子悪かったんだろ」

視線だけを上げたら、そこにいたのはやっぱり轟くんで、声だけじゃなくて顔も少し怒っている。

「……違うよ」

 本当に違う。調子が悪いわけじゃない。なんだか轟くんと八百万さんを見ているともやもやして胸が重くて苦しい。そう、素直に言えたらいいのにそれを口にしたら嫌われてしまうような気がして言えない。
 ちゃんと体を起こしたけど、轟くんの顔を見るのは怖くてできなかった。

「なんで頼ってくれねぇんだ……。俺は、苗字にとってそんなに頼れねぇやつなのか?」

「そんなことない……」

嫌われたくない。それだけなのに、轟くんを怒らせてしまう自分が嫌で泣きたくなってくる。

「あの、轟さん。そんなに責めるように仰っては言えるものも言えなくなってしまいますわ」

 心配で八百万さんが間に入ろうとしてくれているのに、また私の胸にはあのよく分からないもやもやが重さを増していく。息苦しくて、このままだと泣いてしまいそうで下を向いた。

「……そう、だな。わりぃ」

「ううん、私こそ……ごめんなさい」

轟くんは何も悪くない。変わってしまった私がおかしいんだ。

「具合、本当に悪くねぇんだな?」

「うん、大丈夫……。あの、ちょっと気持ちに整理をつけないといけないことがあるだけで……。心配かけてごめんね、二人とも」

何とか"ごめんね"が口にできて、自分で自分にほっとした。八百万さんに優しくされるたびに、私は自分の心が醜く思えて嫌いになる。もしかしたら、轟くんには私なんかより……。そう思った瞬間、胸をガンッと何かで打ち付けられたような衝撃が走った。

「八百万、先に帰ろう。苗字も一人の方がいいだろうし」

「そう、ですわね。では、苗字さん、私達は先に寮へ戻っています。何かありましたら、ご連絡くださいね」

轟くんの後ろにいた八百万さんが先に教室のドアに体を向ける。続いて轟くんが私に背を向けた。

(……轟くん)

 何も考えずに轟くんの背中のワイシャツを握ってしまった。何か言わなくちゃいけないのに、泣き声を出さないようにするのに必死で口を開けない。涙で自分の視界が歪んでいくのを見ていた。

「……八百万、やっぱ先に帰ってくれ」

足を止めた轟くんに八百万さんは驚いていたみたいだけど、"轟さんがそう仰るなら"と言い残して帰った。

「……苗字」

 呼んでくれた声は、さっきよりもずっと優しい。教室を出て行こうとした轟くんのワイシャツを掴んだ私を自分勝手だと責めていない。

「思ってること、全部教えてくれ。力になりてぇんだ」

 きっと、轟くんは気づいてる。俯いてる私がみっともなく泣いてることに。好きな人の優しい言葉に打ち明けてしまおうかと気持ちがぐらぐら揺れる。

「言え、ないよ……。嫌われちゃう」

そうとだけ言ったら、頬が優しく撫でられた。びっくりして泣いてるのも忘れて顔を上げたら、轟くんはいつもと同じ表情をしていて、でも、目だけは他の人がなかなか見られないような優しさを見せてくれていた。

「嫌わねぇ。苗字の嫌なところ知っても、簡単に嫌いになれねぇくらい好きだ」

 私を映しているオッドアイを見てしまったら、もう言わないでいることはできなくて、観念して頷いた。

「わかんないの……。頭も、胸の中もごちゃごちゃで……。なんでこんな気持ちになっちゃうのかもわかんない。胸のところが重くって重くって、苦しくて息もできなくなっちゃうんじゃないかって思うくらいで……」

言葉にするともっと苦しくて、ネクタイごと胸の辺りを鷲掴んで俯いたら、また勝手に涙がぽたぽた落ちた。

「今も苦しいのか? 病気かもしんねぇから保健室に行こう」

 保健室に行こうと背に手を添えてきた轟くんがいつも通り過ぎて少しおかしい。

「……轟くんと八百万さんが仲良くしてるの見てるときだけ、苦しいの」

「俺と八百万?」

驚いたように目を丸くさせた轟くんに頷いたら、なんだかおかしくなってきて泣きながら笑った。

「轟くんに嫌われる前に、自分のこと今日一日で大嫌いになった。私の心ってこんなに汚いんだって」

「……嫉妬したのか?」

ずばり言葉にされて思考も体も動かなくなる。さっき二人が一緒に帰ろうとしたときに、私もはっきり自覚した。轟くんの言う通り、私の胸がもやもやで重くなるこれは"嫉妬"だ。

「なあ、そうなのか?」

顔を近づけてきた轟くんの髪が私にかかる。近すぎる距離に止まっていた頭が慌てて動き出した。

「そ、だよ……。轟くんの隣、取られちゃうんじゃないかって思ったら……怖くて……」

鼻と鼻が触れ合う距離にある轟くんの綺麗な顔。

「震えてる。まだ怖いのか?」

「怖いよ……。嫌われるかもって思う、から……」

勝手に震える唇を無理やり動かして答えたら、轟くんの目がスッと甘く細められた。

「そんくらいじゃ、全然嫌いになんかなれねぇ。苗字が自分のこと嫌いなら、その分、俺がお前のこと好きになる」

少し顔を離して、轟くんが私の頬を撫でてくる。何度か撫でると、今度は顔が近寄ってきて目元に轟くんの口が触れた。涙を拭うように唇が動いて離れて、私の涙は完全に止まる。

「わりぃ、嫉妬なんかさせちまって」

 悲しそうに顔を歪める轟くんが、泣いてしまいそうに見えて私は恐る恐る手を伸ばして、その整った顔に触れた。想像以上に轟くんの肌はすべすべしていて、女の子より綺麗な肌してるなんてズルいな、なんて場違いなことを思ってしまう。

「嫉妬深くてごめんね」

そう謝ったら、前の席に座っていた轟くんが立ち上がって私を抱きしめてきた。

「……俺も、してた。嫉妬」

「え?」

思ってもみない言葉に驚いている私に構わず、轟くんはぽつりぽつりと話し出す。

「この前の昼、俺とじゃなくて緑谷と食ってたときだって、本当はすげぇ嫌だった」

 轟くんが言ってるのは、午後の戦闘訓練でたまたまペアになった緑谷くんと、作戦を立てながら一緒にランチをしたことだ。でも、ちゃんと轟くんには理由を説明してた。頑張れって言ってくれたし、気にしてないと思ってたのは私だけで、本当は彼に我慢をさせて言わせていたのかもしれないと嫉妬とは違う理由で胸が痛い。

「でも、名前に嫌われたくないから……俺……」

初めて名前で呼んでもらえたことよりも、私と同じように嫉妬に苦しんでた轟くんに堪らなくなってしまう。
 そっと私の顔に触れている轟くんの鍛えられた腹筋を押して体を離してもらう。私も立ち上がってちゃんと轟くんの前に立って、今度は私から彼を抱きしめた。ゆっくりと抱きしめ返してくれた轟くんの胸の辺りに顔をすり寄せる。

「私も嫌いになんてなれないよ。焦凍くん」

 勇気を出して名前を呼んでみたら、轟くんは急に体を離して確かめるみたいに私の顔を見た。

「今、名前……」

「あの、ダメかな? 轟くんも私のこと名前で呼んでくれたからって思ったんだけど……」

嫌なのかと思ったけど違う。だって、轟くんは顔が真っ赤で何か言おうとしてるけど口が開いたり閉じたりしてる。

「もっと、名前……呼んでほしい」

「わ、私も、焦凍くんにできれば名前で、呼んでほしいなって」

お互いに顔を赤くしながら俯いて、もう一度名前を呼びあったらおかしくって、おでこをくっつけて笑い合う。焦凍くんのサラサラした前髪がくすぐったい。

「同じだな。俺たち」

「そうだね。名前を呼んでほしくても言えなかったり、嫉妬するくらい大好きだったり」

 ふっと焦凍くんが微笑んだかと思ったら、私の目元に唇が寄せられて涙を拭われた。

「な、なに……!?」

「手ェ、塞がってるからよ」

抱き締めている手を離したくないってことなんだろう。間違いなく私の顔は赤いんだと思う。満足そうに口の端を持ち上げている焦凍くんは今まで見たことがない。私の反応に気を良くしたのか焦凍くんは目元だけじゃなく、頬にキスをしたりしてきた。

「俺、もう我慢しない。嫉妬も隠さない。だから、覚悟してくれ」

 じっと覗き込んできたオッドアイの奥がギラギラとしている。そんな目で見られても、焦凍くんを好きな気持ちは揺るがないし、むしろ嬉しくて、今度は私から彼の頬にキスを返した。

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