朝の電車に運ばれて
朝。学校に間に合うには充分に早い時間の電車に乗れば、必ず彼はいる。電車のドアの前、右側。プラットホームに入ってきた電車のドアが開いて最初に目に入る位置。あまり混んでいないときは片手で開いた本を読んでいたり、スマホを見ていたりする彼は、私が乗る電車にいつもいる人として覚えていた。
紫色の髪に、けして薄くはない目の下の隈。気だるそうにも見える表情をしている彼。そんな彼の横を通り過ぎて、今日も私は電車に乗り込んだ。
制服を見るに、彼はかの有名な雄英高校の生徒のようだ。雄英といえばヒーロー科が有名だけれど、彼もそうなんだろうか。普通科でも偏差値の高い雄英のヒーロー科にいるだなんて、毎朝同じ電車に乗る同じ高校生でも酷く差がついている。住んでいる世界が違うなと、尊敬というより、教科書の中の偉人を見るような感覚で彼を見ていた。実際に彼と話すことになる、あの日までは。
***
彼の名前を知ったのは先日行われた雄英体育祭でのことだった。かつてのオリンピックに代わるこの行事はテレビ放送もされていて、一般市民の関心も高い。そんな日本のビックイベントが放映されている日。風邪を引いて偶然休んでいた私は、いつも電車で見ている彼をテレビの中で見つけた。
テレビの中で緑の髪の男の子と取っ組み合っている彼は、これまでよりも更に遠くに感じた。
そんな遠くに感じている彼、心操くんはいつも、私より二つ前の駅で降りる。今日も当たり前のように目的の駅で降りていく彼をなんとなく目で追っていた。
「あ」
制服のズボンから、するっと流れるように落ちたスマホ。しかし、人の波に押されるように降りていった心操くんはスマホを落としたことに気が付いていない。
先日、自分も落とし物をして落ち込んだばかりだから、つい、それを拾って、電車を降りた。降りる人が多いせいか、電車の中と変わらない圧迫感がプラットホームにも溢れている。
どこに行ってしまったんだろうと右に左へと視線を走らせると、少し先にその後ろ姿を見つけた。
「あのっ! 待って!!」
大きな声を出しても流れる人混みの中では、彼に届かない。近くの人は私のことを見ているけど仕方ない。
「心操くんっ!!」
初めて声に出した名前。聞こえなくてもおかしくない距離なのに、彼はピクッと反応して足を止めてくれた。振り返ったときは、どこか眠そうにも見える表情をしていたのに、目が合った瞬間、濃い隈に縁どられた目を大きく見開く。
人の波に揉まれながら近づこうとすれば、彼もこちらへと近寄ってくれる。とうとう目の前まで来た心操くんに、私は落とさないようにとギュッと力を入れて握っていた彼のスマホを差し出した。
「これ、さっきの電車の中で落としてたから……」
「ここじゃ邪魔だから、こっち」
当たり前のように私の手を取った心操くんに連れられて人の流れから外れる。エスカレーターや階段に向かう流れから外れれば、圧迫感や人々の出す熱から解放されたような心地になった。
振り返った心操くんが、そっと私の手を離す。
「ありがとう。気づかなかった」
「ううん、偶然気づいてよかった」
差し出したスマホが彼の手の中に収まる。本人に返せてホッとしていると、あのさ、遠慮がちな声がかけられた。
「電車、大丈夫?」
「あ、うん。いつも少し早いのに乗ってるから大丈夫……って、そっちは!?」
こうして引き留めてしまって迷惑をかけているかもと焦る私に、心操くんは何でもないように否定する。
「いや、俺もいつも早めに来てるから大丈夫」
「よかった」
胸を撫で下ろしていれば、次の電車のアナウンスがプラットホームに響く。これに乗ろうと振り返った私は心操くんに手を振った。
「じゃあ、また明日、電車で」
目を見開いた心操くんは何も言わなかったけれど、前を向く一瞬、照れくさそうな顔をした彼が小さく手を上げてくれたのが見えた。
***
次の日。私と心操くんはいつもの電車の中で会った。おはよう、と彼から声をかけてくれて、私も小さな声であいさつを返す。
「昨日はありがとう」
「ううん、気付いてくれてよかった」
あのまま気づかないで心操くんが行ってしまったら、あの駅の駅員さんに届けようと思っていた。だけど、スマホなんて個人情報の塊は早く持ち主に戻せた方がいいに決まってる。そう思うから、昨日、私に気付いてくれて本当によかったと今でも思う。
思い出してホッとしていると、ふと視線を感じて顔を上げた。満員電車の中、思ったよりもお互いの顔が近い。息が顔にかかってしまう距離。今さらなのにドキドキとしてきて、気付けば同時に顔を逸らしていた。
「そういえば、なんで俺の名前知ってたの?」
「あ、えっと、雄英の体育祭、テレビで見てたから……」
そういえば、これって私だけが一方的に心操くんの名前を知ってる状態なんじゃ? そう気づいたら、あまりにも失礼過ぎてさあっと顔から血の気が引いて行くような気がした。
「どうしたの?」
「いや、えっと、私、まだ心操くんに名乗ってなかったって今さら気づいて……」
ごめんなさい、と謝れば心操くんは何も気にした様子は見せずに、別にいいよ、と言ってくれた。
「あの、今更だけど、苗字名前です。心操くんとは同じ学年で―――」
す、と言い切る前に、お尻のあたりに何かが押し付けられる感じがした。それは物がぶつかってる感じじゃなくて、生々しい温かみがあって、人のものだというのがありありと伝わってくる。
まさか。まさかまさか。自分に限ってそういうことはないだろう。じゃあ、このぐいぐいと押し付けられているものは何?
「苗字さん?」
私を見下ろしてくる心操くんの目はこちらを観察するようなものだった。私なんかが遭うはずない。でも、もしも痴漢だったらと思ったら怖いし、そんな目に遭っているのを目の前の彼にだけは知られたくなかった。
なんでもない、と言おうとした口は震えて、はくはくとしか動かない。その間にもお尻には固い何かが当たっている。怖い。考えないようにしても、勝手にどんどん怖くなってしまって、足までカタカタと震えだす。
不意に掴まれた私の肩。昨日スマホを返したときの大きな男の子の手が力強く私を引き寄せ、くるりと私と彼が立っている位置を変えた。
「大丈夫」
耳に寄せられた声に、勝手に体がぴくっと動いた。先ほど私の肩を引き寄せた心操くんの手は、私の小さな手をすっぽりと包むように握っている。繋がったそこからじわじわと広がる彼の体温が、怖くて縮み上がった私の心を解いていく。それが嬉しくて、少しだけ、ぎゅっと握ってみれば、同じように心操くんも手を握り返してくれた。
「……一度次の駅で降りよう。時間、大丈夫?」
「う、うん……」
ガタン、と揺れた車内に合わせて私の体が傾く。自分の体を支えられなかった私は、目の前の心操くんの肩口へ顔を埋めるように倒れ込んだ。
「ご、ごめっ」
「いいよ」
気にしてないってことなんだろうか。そろそろと顔を上げてみれば、彼は顔を背けていた。でも、紫の髪の間から覗く耳が赤くて、恥ずかしいのは私だけじゃないんだと分かる。心操くんに恥ずかしい思いをさせて申し訳なく思うのに、それがどこか嬉しい気がするだなんて、これはきっと混乱してるせいだ。
***
彼に手を引かれながら降りた次の駅は、学生が利用する駅ではないせいか人がまばらだった。手を握ったまま何を話せばいいのか分からないでいると、心操くんはベンチに私を座らせてくれた。
「大丈夫?」
「う、うん」
私より大きな体を丸めて、顔を覗き込んできた彼に思わずドキッとしてしまう。慌てて俯いていた顔を上げれば、心操くんはよく見る気怠そうな表情で私を見ていた。
「え、えっと……?」
「さっきの、電車のことだけど」
「う、うん……」
電車の中でのことを思い出すと、あの生々しい熱を持ったものの感触まで思い出してしまって怖さで体が固くなる。心配そうな目で私を見た彼は、少し迷ってから電車から降りたときのように、しっかりと私の手を握った。
「あの人、わざとじゃないよ。……女の人には分かりにくいことだろうけど、その、ああいうのは、生理現象で……」
「生理、現象……?」
考えつきもしない言葉に目を丸くさせるしかできない私に、心操くんは言いづらそうにしながら頷く。
「勝手にそうなることもあるから……。腰がぶつかってたのは、満員電車で揺られてたせいで、俺にもかなりぶつかってたし申し訳なさそうだったよ」
「そ、そっか……」
ただの生理現象でそうなって、満員電車で偶然私にぶつかってただけなのに、勝手に痴漢だなんて……!
「苗字さん? どうしたの?」
「自分の自意識過剰さに消えてなくなりたいの……」
両手で顔を覆って俯くしか今はできないけど、穴があったら入りたい。本当に。勘違いで心操くんにまで迷惑をかけて、恥ずかしいし情けないしで泣きたくなる。
「あんな状況じゃ誰だってそう思うよ。俺も最初はそうかと思って焦ったし」
焦る? 心操くんが? なんで? 理由が分からなくて、指の隙間から彼を見てみれば、困ったように口を引き結んでいる。
「あ、いや……」
気まずそうに頭を掻いた心操くんは黙ってしまう。快速の電車がプラットホームを走り抜けた風が、動けないでいる私たちにも吹き付ける。
また勘違いで余計なことを言って恥ずかしい思いをしたら、私は心操くんに会わないように電車の時間をずらさないといけなくなる。でも、それは、少し寂しいから、何も言えなくなる。
「……電車、次のに乗ろうか」
「うん……」
私たちが乗る電車がプラットホームに入ってくる。ゆっくりと停まろうとする電車がブレーキの音を立てている中、隣に立つ彼の声がぽつりと聞こえた。
「あんまり無防備のままでいないで……」
「え?」
聞き直す私に心操くんは返事をしてくれず、黙って手を取った。ドキドキしているのは私だけなのかもしれない。チラッと見た隣に立つ心操くんがどこか照れくさそうにしているのを見ると、もしかしたら、なんて想いが捨てられなかった。
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