ヒロインになりたかった

※モブ視点のモブ悲恋。苦手な方はご注意ください

 彼と知り合ったのは昨年の食堂でのこと。慌てて食堂に入ってきた彼の友達を咄嗟に避けた私は一学年下の彼、相澤くんの胸に飛び込むようにぶつかった。私からぶつかったというのに、彼も彼の友人も私に謝ってくれた。それがきっかけで、見かけると挨拶を交わすようになり、そのうち、ちょっとした雑談をするようになった。

 私も相澤くんたちもヒーロー科で、共通の話題はいくらでもあった。でも、そのうち、私はだんだんと愛想のない表情をしながら、細かなところまで見ている相澤くんのことが気になるようになって、気付けば恋をしていた。

 そんなありきたりな恋。でもちゃんとした恋で、会えたときよりも会えないときの方が相澤くんのことを考えていた。三年生になった今だって、気付けば相澤くんばかりが頭の中を占める。
最近は食堂でもなかなか会わないけど、あの三人はどこでお昼を食べているんだろう。はぁ、とため息を吐いた私は友達と一緒に食堂へと向かった。

***

 やっぱり今日も食堂で相澤くんを見かけることはなくて寂しい。多分だけど、彼も私を異性として意識してくれていると思う。最初の頃はそうでもなかったけど、二人でいても雑談ができるようになったし、視線が合うと逸らすのは脈ありの証拠だって雑誌で見たことがある。

 それなのに、なかなか会う機会がない。彼を想っての何度目か分からないため息を溢したとき、放課後の廊下でとても綺麗な女の子とすれ違った。

 彼女のことは一方的にだけど知っている。一年生の苗字名前。窓から飛び込んでくる風に揺れる長く艶やかな黒髪を押さえながら歩く姿は噂に違わず美しい。いや、あの身のこなしを見てしまえば噂以上だ。思わず感嘆のため息をついていると、廊下の奥からずっと会いたいと思っていた男子生徒の姿が見えた。

 相澤くん、と私が声をかけるよりも早く、聞いたことのない可愛らしい声が彼にかけられる。

「相澤先輩!」

嬉しそうに声を弾ませているのが、今、すれ違ったばかりの苗字名前のものだと気づいたときには、私の心臓は嫌な予感で速く動き出していた。

「苗字、廊下を走るなって何回言えば―――」

呆れたように注意している相澤くんの声。表情も不機嫌そうに見えて、少しだけホッとする。

 なんだ。彼はいつも通りだ。よく考えたら美人に声をかけられたからといって、相澤くんが浮かれたりするところは想像できない。きっと、二、三言交わしてそのまま別れるだろう。

「もうお帰りなら、一緒に帰りませんか?」

「まだ職員室に用がある」

ほら、はっきりと断られてる。何度か相澤くんと一緒に帰ったことはあるけど、私は断られたことはない。もしかしたら言い寄られて困っているのかも。だったら、と振り返ったときに聞こえたものに、私は自分の耳を疑った。

「だから、ちょっと待ってろ」

「……え?」

 思わずこぼれた声に、慌てて口を押えたけど、二人に私の声は聞こえていないらしい。

「分かりました。じゃあ、いつもの場所で待ってますね」

手を振って昇降口へと向かう彼女の後姿を見送った相澤くんは気のせいじゃなきゃ照れくさそうに頭を掻いている。そして彼は私に気づくことなく職員室へと歩き出してしまった。

「なんで……?」

 気づいてくれなかったことも、苗字名前に待つように言ったのも理解できない。なにより、"いつもの場所"だなんて、そんな二人だけの秘密みたいだし、そんなにしょっちゅう会ってるなんて思いたくない。だって彼は私を意識してくれてるはずだ。なのになんで、と思いながらも相澤くんを追いかけることもできずに私も昇降口へと向かった。

***

 はぁ、と本日何度目か分からないため息。原因は相澤くんなのか、それともあの美人すぎることで有名な一年生のせいか。机に頬杖をついて窓の外をぼんやりと見ていたら、苗字名前と同じように美人で有名なクラスメイトが近寄ってきた。

「どうしたの? 今日はため息ばかりついてるみたいだけど」

「香山さんは……相澤くんたちと仲、よかったよね?」

「仲がいいか悪いかは考えたことがないけど、会ったら話す程度には親しいわね」

それがどうしたの?と首を傾げる彼女もやっぱり綺麗で、あまりパッとしない自分が嫌になる。羨んだって仕方ないのは分かっているけど、可愛いとか綺麗だとかはどうしても羨ましい。

「昨日、相澤くんとあの一年生の女の子が話してるの見てビックリしちゃって……」

「ああ、苗字さん?」

 うん、と頷いたら香山さんは楽しそうに笑った。

「相澤くんも隅に置けないわよね。あんなに可愛い子に想われて」

「やっぱりそうなの?」

「さあ? 直接聞いたわけじゃないけど、苗字さんを見てれば分かるわ」

友達が登校してきたのか、香山さんは呼ばれてそちらへ行ってしまった。

 外を見るのをやめて、机に突っ伏す。大きく吐いた息はため息なんかじゃない。不安で胸の中に重く留まっていたものが、安心に代わって軽くなって出て行ったもの。

 やっぱり相澤くんは言い寄られて困っているのかも。断ってもしつこいから仕方なく一緒に帰っているのかもしれない。
それなら、どうして昨日声をかけてあげなかったんだろうと少し後悔したけど、これで彼と話すきっかけになるんなら、ちょっとだけあの美人過ぎる一年生に感謝しよう。

***

 放課後の図書室からの帰り。帰宅するだけになった私の少し前を歩いている背中が誰のものなのか気づいて駆け寄る。

「相澤くんっ!」

振り返った彼は驚いた様子はなく、いつも通りの仏頂面だった。

「先輩、廊下は走らない方がいいですよ」

淡々とした口調は昨日、あの子にしていた呆れたものじゃない。それが何となく嬉しくて、だよね、と笑った。

「久しぶりだね。元気だった?」

「まあまあです」

素っ気ない答えに、つい笑ってしまう。横目で私をちらりと見た相澤くんが歩き出す。その横を当たり前のように私も歩いた。

「インターン決まった?」

「いえ、まだ」

「そろそろ決めないとね〜」

 こうして久々に話せていることが嬉しい。浮かれている私に気づいているのかいないのか、相澤くんは何も言ってこない。それでも私が話せば相槌を打ってくれる。本当は彼からの話しも聞いてみたいけど、それはゆっくり少しずつでいい。

 そんな幸せな私の気分をぶち壊したのは、相澤くんの視線の先にいた例の女子。真っ直ぐ彼に見つめられていることも分からない彼女は、クラスメイトの女の子と談笑している。美人のくせに可愛らしい仕草をする彼女への不快感にも似た嫌悪感に私の心は嫉妬にまみれていた。

「あの子、有名だよね。苗字さん」

「……そうですね」

「ああいう、清楚ぶってる子って苦手。裏じゃ何してるか分からないもんね」

 彼女を見ていた相澤くんの目が私に向く。でも、その目には何となく今まで向けられていたものよりも温度がないもののように思えた。

「あ、相澤くんも言い寄られて困ってるって聞いたよ。迷惑なら迷惑って言わないと、ああいう子は自分が可愛いから何でも許されると思ってるから、付けあがられたりしたら大変―――」

「―――先輩は苗字の何を知ってるんですか?」

これまで一度も私の話を遮ったことのない彼の声がかぶせられる。驚いてしまって、口が上手く動かしにくいけれど、無理やりに口を動かした。

「は、話したことないけど、やっぱり女子だから見れば分かるよ。ああいう子って可愛いから親とか周りとかにちやほやされてきててワガママだし、付き合わされてる側が困ってるのも理解できないし……」

「それ、偏見ですよ」

はっきりとした相澤くんの声にハッとする。彼の目を見れば、嫌悪感がまるで隠されていない。

「で、でも!」

「アイツのこと、何も知らないなら適当なことは言わないでください」

顰められた顔から、相澤くんが不愉快に感じていることは明白だ。それでも私は引き下がれなかった。

「確かに、殆ど予想みたいなものだけど、あ、相澤くんだって言い寄られて迷惑してるんでしょ? なら、全部が全部間違ってるわけじゃないじゃない」

「誰が言ってるんですか?」

「え?」

「誰が、"俺が苗字に言い寄られて迷惑してる"って言ってるんですか?」

静かなのに強い語気。ピリピリと肌に感じる彼の怒りに、私の口はついに動けなくなってしまった。

「俺は苗字のことを迷惑だと思ったことはありません」

そう言い残して相澤くんはこれまでよりもずっと速く歩いて行ってしまう。何となくとか多分とかじゃなく、彼は今日、これ以上一緒に歩くことを許してくれない。これは明確な拒絶だ。

「どうして……?」

 寂しい。悲しい。苦しい。混ざり合う気持ちがどんどん重さを増して動けなくなってしまう。そのまましばらく立ち尽くしていたら、廊下の窓から相澤くんが苗字さんに声をかけているのが見えた。
嬉しそうにしているけど、彼女が意外そうにしている様子も驚いている様子もない。相澤くんから話しかけられることが珍しいことじゃない証拠なんだろうと思ったら、これまで以上に胸が痛んだ。

***

 気にするようになったせいか、あれから何度も苗字名前を見かける。いつ、どんなときに見かけたって彼女は綺麗で嫌になる。きっと私みたいな嫉妬とか、劣等感なんて抱いたことはないだろう。そう思えば思うほど、彼女に対する苦手意識が強くなった。

 相澤くんと苗字さんが一緒にいるところも何度も見かけた。何か言われて顔を赤くする彼をからかうように笑っている彼女に、これまで経験したことのないような苛立ちを覚えた。

 これ以上、相澤くんに馴れ馴れしくしないでほしい。触らないでほしい。そう思うのは私が相澤くんを好きだから。でも、彼女にそれを言ったら、きっと私の容姿を見てバカにされるような気がする。

それでも、私は彼女に言わなくてはいけないんだ。なけなしの勇気を振り絞って歩き出す。次に彼女を見かけたら言ってやろう。気持ちがしぼんでいかないように一歩一歩踏みしめて、私は長い廊下を歩いて食堂に向かった。

***

 昼間にした決心がまだまったく鈍っていない放課後。廊下の向こうから何も知らない苗字名前が歩いてきた。この前も、この人の少ない放課後の廊下を歩いていたから、ここを通れば会えると思ってた。ドキドキとしながら、すれ違うところで、緊張に強張る口をなんとか動かす。

「苗字名前さん、だよね?」

 綺麗な黒髪を揺らして振り返った彼女は私に見覚えがないせいか不思議そうに目を瞬かせている。それさえ、まつ毛が長いことのアピールのようで腹が立った。

「はい。そうですけど、貴女は……?」

「相澤くんに付きまとわないでもらえるかな? 彼も迷惑してるみたいだし……」

わざと彼女の質問には答えないで要件を言う。これくらいで相手が引き下がらないのは最初から分かってるけど、彼女はびっくりしたように目を見開いてから、すっ、と表情を真剣なものに変えた。

「嫌です」

はっきりと答えた彼女に、この前の放課後の相澤くんを思い出すから少しだけ怯んでしまう。

「相澤先輩が私に声をかけられるのが迷惑だって言ってるなら考えます。でも、本人が言ってるわけじゃないなら、私は行動を変えるつもりはありません」

「……なんで相澤くんが言ってないって言えるの? そんなの分からないでしょ?」

負けじと睨みつけてやれば、彼女は何も気にせずに、ふ、と柔らかい表情を見せた。

「本当に嫌なら、相澤先輩は遠回しじゃなくて私に直接言います。私の知ってる相澤先輩はそういう人です」

「じゃ、じゃあ、貴女がどう思ってるか知らないけど、相澤くんのこと、からかうのやめてくれない?」

見抜かれた動揺を必死に隠す私に、彼女はどこか納得した顔をした。それが無性に腹立たしくて、ぐっと唇を噛みしめてから口を動かす。

「私の方が貴女なんかよりも、ずっと前から好きだった! 彼に選んでもらえる自信だってある! だから邪魔しないで!!」

バクバクと脈打つ胸を押さえながら叫ぶように思いを口にした私とは対照的に、彼女はとても冷静な目を向けてきた。

「相澤先輩に選んでもらえる自信があるなら、どうして私に付きまとうな、なんて仰るんですか?」

淡々とした声で伝えられる内容に言い返せない。言い返せないから悔しくてイライラが増していく。

「私も相澤先輩が好きですから、そう簡単に"はい。分かりました"とは言えません」

どこまでも落ち着いていて綺麗な彼女に、いつもの自分じゃなくなってしまう。誰に何を言われようと凛とした姿勢の苗字さんが嫌だ。私にない美しさを持つ彼女が大嫌いだ。だって、こんな綺麗な子が恋敵だなんて私に勝ち目がなさすぎる。

 ズルい。そう思うと同時に私の手は勝手に動いた。パンッ!と私たちしかいない廊下に響く乾いた音。無意識に人に手を上げてしまった自分に信じられないでいる私は指一つ動かせなかった。

「……簡単に叩かれませんよ、私」

 片手で簡単に私の平手打ちを止めた苗字さんは何でもないように淡々と言った。いきなり叩かれそうになったら、普通は少しくらい動揺すると思う。なのに、その冷静さがまた相澤くんを思い出させて悔しさで奥歯を噛みしめた。

「それから、好きになった順に意味なんかありません。人の気持ちは早い者勝ちではないんですから」

 丁寧なお辞儀を残して、苗字さんは廊下を歩いて行く。もう私は彼女を引き留める言葉も気力もなくて、ただその場に立ち尽くしていた。

***

 苗字さんと話した放課後から数日後。私はまた相澤くんに会うことができた。

「相澤くん」

くるっと振り返った彼は私を見ると会釈して、そのまま歩いて行こうとする。せっかく会えたのに、何も話せないのは嫌だった私はすぐに彼を追いかけた。

「これからお昼?」

「はい」

 足を止めてくれた相澤くんにホッとしながら、私は少し緊張しながら背の高い彼を見上げる。

「あの、さ、久々に一緒にお昼食べない? ちょっと聞きたいこともあるし……」

聞きたいことなんて、もちろんただの口実だ。でも、聞けないけど、聞きたいことがあるのは嘘じゃない。

「いえ。他に約束があるので遠慮します」

少し遠くを見るような目をする相澤くんに嫌な予感がする。不安がどんどん、怖くなるくらい大きく胸の中に収まらないほどに膨れていった。

「……苗字さん?」

 自分でも驚くくらいには冷たい声だった。でも、相澤くんは全然気にした様子はなくて、平然と"はい"と答えた。

「なんで、苗字さんなの……?」

「どういうことですか?」

 他にも人がいる廊下では話しにくくて、私は相澤くんの手を強引に取って歩きだす。すぐ近くの誰も使わない階段の影に彼を連れ込んで足を止める。流れとはいえ、相澤くんの手を繋げたことが嬉しくて、少し優しい気持ちになれた。もう少しこのままでいたいと思う私の気持ちとは裏腹に、手は相澤くんの方から離されてしまった。

「話なら手短にお願いします」

 まるで私と話す時間は割きたくないと言っているように聞こえて、先ほどまでの嬉しさが余計に私を悲しくさせる。

「苗字さんを待たせてるから……?」

「そうです」

悔しくて目が熱くなる。勝手にじわりと熱を持った瞬間、涙が込み上げてきたのを感じた目で彼を睨む。

「少しくらい、いいでしょ? あの人、自分勝手で人の話しなんて聞かないんだし……」

怪しむように眉を寄せた相澤くんは、いつもみたいに目を逸らしたりせずに私を見た。その目は気のせいでなければ少し怒っているようにすら感じられる。

「……俺から誘ってるので待たせたくありません」

「な、なんで!? そういうことすると苗字さんに勘違いさせるよ? それに、その、相澤くんにああいう子は似合わない、と思う……」

 焦った勢いは最後まで続かなくって、だんだんと小さくなっていった。俯いた私は、どうしたらいいのか分からなくなって自分のつま先を見る。

「苗字に俺が釣り合わないのなんて最初から分かってます」

「そ、そういう意味じゃっ!」

慌てて顔を上げた私に、相澤くんはいつもの気だるげな顔を向けてくれなくて、冷たい表情をしていた。

「でも、そんなものを気にして苗字に会うのは、真剣なアイツに向き合ってないことになります」

「告、白……されたの?」

 まだ告白されていないでほしい。私が先にするまで、後から来た彼女に追いこされるのは嫌だ。そう願う私をよそに相澤くんは何も答えてくれない。何か言ってほしいと彼のブレザーの裾を掴んだら、ため息の後にぽつりと答えてくれた。

「そうだとしても、先輩に関係ありますか?」

「なっ……!」

「話がそれだけなら、俺はこれで」

背を向けようとしている相澤くんのブレザーをもっと強く握る。行かないで。私より苗字名前を選ばないで。必死に祈る私に、相澤くんは困ったような声を出した。

「放してもらっていいですか?」

「嫌……行かないで」

 なりふり構わず、両手で彼のブレザーを握って俯く私に、相澤くんは渋い顔をする。

「この前から思ってたんですが、先輩は苗字の何が嫌いなんですか?」

「全部……嫌いッ!!!」

顔を上げた勢いも使って叫ぶ。香山さんも相澤くんも苗字さんのことを一つも悪く思わないところが腹が立つ。もう相澤くんへの恋心も苗字さんに対する妬みも大きくなるばかりで、ドロドロとした感情が積もり積もってヘドロのように私の心にまとわりついて我慢が出来なくなっていた。

「私だって、相澤くんのこと、好きなのにッ! あの子は自分が美人だからって気まぐれに相澤くんのこと構ってるだけのくせにッ!! もう、なんなのよ!! なんで相澤くんも分かってくれないのッ!!」

息を荒げる私の手が彼に掴まれる。あっ、と思ったら、彼のブレザーを掴む私の手が引き離された。

「俺は先輩の気持ちには応えられません」

 はっきりと淀みなく告げられた拒否。告白のお礼もなく、どこまでも簡潔で明確な断りに完全に気持ちがへし折られる。だらり、とだらしなく落ちた私の手がスローモーションのように見えたのは、自分でも思った以上にショックだったせいだろうか。

「……苗字は、掴みどころのないヤツに見えるかもしれませんけど、アイツはいつだって真剣で真っ直ぐですよ。だから、今回のことも恨むならフッた俺だけにしてください」

今度こそ苗字さんの元へ向かおうとする相澤くんの背中に縋るような気持ちで声をかける。聞けないけど聞きたいことの答えをもらわないと納得できない。

「相澤くんは苗字さんが好きなの? 二人はどんな関係なの?」

 足を止めた彼は小さく振り返る。悩むように視線を逸らした相澤くんは、また私へと視線を戻した。

「俺と苗字は、ただの先輩後輩です。……今はまだ」

軽く会釈をした相澤くんはもう振り返ってくれない。静かで近くにあるはずの喧騒を遠くに感じるこの場所から抜け出した彼は足早に彼女の元へと行ってしまった。

***

 その後。体育祭が終わった後、相澤くんと苗字さんが一緒に中庭を歩いているのを見かけた。校舎の中から見ている私に彼らは気づいていない。二人そろって歩く姿は見たくなかったけれど、初めて見る彼のとても柔らかな表情に、不思議と、もう惨めな気持ちにはならなかった。

 もう一つ、何かきっかけがあれば私と相澤くんの距離が狭まって、もっと近づけるようなそんな予感がしていた。でもそれは全部私の勘違い。最初から彼は私のことなんて特別には見てくれてなかった。もっとはっきりいえば恋愛対象じゃなかったんだろう。

 ポケットから何かを取り出した相澤くんが、それを苗字さんに渡している。丁寧に受け取った彼女の両手には飴だかチョコだかが溢れるほど乗っていた。嬉しそうに笑う苗字さんに相澤くんの表情も優しい。

 苗字さんと相澤くんが出会うことがなくて、私と相澤くんが付き合っていたらあの顔を私に向けてくれたのかな。そんなことを考えてため息を吐く。完全に終わってしまった恋だというのに、未練がましいけれど、すぐに忘れられそうにはない。

にこにこと楽しそうに笑っている苗字さんが本当は悪い子じゃないことも知ってる。だけど、もう直接会って言うこともできないから、遠くからぽつりと風に乗せて呟いてみた。

「ごめんね」

 とても酷いことを言ったこと。手をあげたこと。全部含めてのごめんね。彼女に聞こえてなくていい。自己満足で自分勝手なごめんね。

 嫉妬と劣等感に振り回されていた私は、誰から見ても醜かっただろう。特に、他の女の子の悪口を言う私を相澤くんはよく思わなかったと思う。

「あ、いたいた! ホラ、お昼行こう!」

友達に手を引かれながら食堂へ急ぐ。振り返ったら、泣きたくなる気がしたから、私はもう相澤くんのことも苗字さんのことも考えるのはやめた。

 今度は私のことを好きになってくれる人を好きになりたい。そんな人が現れてくれることを祈りながら、ため息を一つ。開け放たれた窓から入ってきた風はとても穏やかで、私は久々に、大きく息を吸い込めたような気がした。

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