君のことならお見通し

 はぁはぁ、と浅く苦しそうな呼吸。それはいつも三人で寝ている寝室の隣の部屋からしていた。高熱のため関節や腰が痛むのか、時折、苦しそうに呻いている声が聞こえている。

 暗い室内に置かれたダブルベッド。雪乃が来るまでは相澤と名前が使っていたそのベッドに、一人きりで横たわっている彼女はうっすらと目を開ける。そして、ここで寝るまでのことをぼんやりと思い出し始めた。

***

 違和感を覚えたのは、今朝のこと。寝起きに感じた怠さに、彼女は微かに柳眉を寄せる。きっと、前日の疲れが抜けなかっただけだろうと、起き上がって片手で顔を押さえた。ふと、横を見れば、すやすやとあどけない寝顔がある。娘の奥では同じように熟睡している夫の姿。朝早く、この二人の寝顔を見ると、名前は幸せを感じずにはいられない。

 美しい微笑みを雪乃と相澤に残した彼女は、静かに寝室を出る。そこからはいつも通り、簡単な掃除や洗濯を手早く終えると、朝食の支度をすませた。
起きてきた雪乃の支度を手伝い、保育園に送るまでのバタバタした時間が、名前に体の不調を忘れさせる。そして忘れたまま、雪乃を送った彼女はその足で仕事へと出た。


 万引き二件、強盗一件。午前中にこれらを処理した昼。パトロール中の山田に捕まっていた相澤とばったり出くわした。

「お疲れ様です」

「YO! オツカレ!」

「お疲れ」

 絡まれて鬱陶しそうにしていた相澤の目に名前が映る。それだけで彼の表情は普段通りの気だるげなものへと変わってから、すぐ怪訝なものになった。

「今日は少し肌寒いですね」

「そうかァ? どっちかってーとアチィだろ」

そうですか?と首を傾げながら、腕をさする彼女の表情はヒーローコスチュームであるマントコートのフードに半分隠されてしまって、はっきりと分からない。

「お前、体調悪いだろ」

「え?」

 指摘されて初めて、彼女は自分の体調を思い返す。顎に手を添えて考えている名前を見る相澤は、傍から見れば不機嫌そうに顔を顰めていた。

「……そういえば、今朝は少し怠いような気がしたんでした」

思い出したとばかりの彼女の手を掴むと、彼はすぐ近くの路地裏に入る。

 ついていくつもりのない山田は、混乱して相澤と自分を交互に見ている名前に、ひらひらと手を振って仕事へと戻っていく。本人もはっきりと自覚していない不調に気づいた相澤に相変わらずベタ惚れだなと、鼻歌を歌う山田の背中は、そのまま街中へと紛れてしまった。

 人気のない路地裏は、昼間でも薄暗い。そこで目深にかぶったフードを外された名前は、相澤の顔を見上げた。

「あ、あの?」

 これから何をされるのか分からないでいる彼女に構わず、彼は節くれだった手を伸ばす。ゴツゴツとした男性らしい指が、そっと名前の前髪を分けて額に触れる。そこでようやく、体温を診られているのだと分かった。

「……えっと、イレイザーさん?」

みるみる険しい表情になっていく相澤へ恐る恐る声をかけながら、彼女は自分が思っている以上に熱があるのだと知る。これは怒られるかもしれないと、覚悟したときだった。

 はぁ、と仕方なさそうに疲れたため息。同時に離れていった手をどこか名残惜しく感じながら見ている名前から彼は目を逸らした。

「まだ動けるな?」

「え? あ、はい。大丈夫です」

怒られるとばかり思っていた彼女が呆然としている間にも、相澤はスマホを操作し何かを調べている。

 スマホ画面を見ている彼の言いたいことを、名前は何となく察した。本音は頷きたくはない。少しくらいならという気持ちもあるが、体が資本であるヒーローの体調管理がなっていないのもいかがなものかとも思う。それに思うところは他にもあった。

「名前」

しっかりと名前を呼ばれてしまい、彼女は諦めて目を伏せる。

「はい……」

ぽつりと小さな返事は、とても短いものの、葛藤が含まれている。それを感じ取った相澤はやれやれとばかりに短く息を吐いた。

「病院行ってこい。いつもの病院が、もうすぐ午後の受付始める」

 先ほどスマホで調べたことを伝えても、名前は俯いたまま顔を上げない。何を考えているのか離れていたときとは違い、彼には今の彼女の考えが手に取るように分かる。

「雪乃にうつすわけにいかないって思うだろ」

「そう、ですね……」

体調管理が出来ていないと自分を恥じているのだろうが、ヒーローだって人間だ。どんなに気を付けていても風邪や体調不良はある。そう言ったところで、彼女が自分を責めるのを止めないことは分かっていた。

「体調管理がなっていないことはヒーローとして褒められたもんじゃない」

「はい……」

俯く名前が痛感していることを知りながらも、相澤はわざと言葉にする。そうでなければ、彼女は長く自分を責めると分かっていた。
 "でもな"と、伸ばされた手が名前の白い頬に触れる。

「……お前の旦那としては、そうじゃない」

言葉を切った彼は、なかなか自分を見ない彼女に本心を伝えようと何とか口を動かした。

「これでも、心配してる……。だから、早く治せ」

 おもむろに顔を上げた彼女が見たのは、気恥ずかしそうに目元を薄っすらと赤めている相澤だった。口をへの字に引き結び、心配というよりも機嫌が悪そうにしか見えない表情だが、言葉よりも雄弁に語る彼の目は、本人の言う通り酷く心配している。

「はい……!」

 熱が上がってきたのか、それとも嬉しさと相澤を好きだ想う気持ちのせいか、赤く染まった名前の頬が微かに緩む。その頬をすっぽりと包んでいる相澤の手に、彼女は顔を擦り寄せた。 


 その後、病院にかかった名前は薬を受け取り帰宅した。帰り道に購入した、相澤がよく飲んでいるゼリー飲料で薬を飲んだ彼女は、今は使っていないベッドにタオルを何枚か敷いて横になった。

(思ったより、つらかったのかも……)

薬の副作用なのか、それとも家に帰ってきた安心感からなのか、倦怠感と強い眠気に襲われた名前は、そのまま目を閉じていた。

***

 普段よりも遅い時間に相澤と帰ってきた雪乃に元気はない。名前が風邪を引いたと聞いて心配で落ち着かないようで、彼女が休んでいる部屋の前に座り込んで動かない。

 本当は名前に会いたいのだろうが、"風邪がうつらないように部屋には入らない"と、保育園からの帰り道に相澤と約束させられていた。傍にいるのに会えないことが寂しい。ときどき微かに聞こえてくる苦しそうな彼女の声に、心配でいられなくてうろうろと歩いては何もできないと、ぺたんと座り込む。

 その様子をずっと見ていた相澤は考えるように頭を掻く。元気のない雪乃を何とかしてやりたい。しかし、そうは思ってもどうしてやればいいのか。そう思ったとき、ふと、19歳になった日の名前を看病したときのことが、彼の脳裏に蘇る。

 そろそろ夜の薬を飲まなければならないが、きっと彼女に食欲はないだろう。それならと、あの日のことを思い出しながら相澤は支度を始めた。

 キッチンで何かを作り始めた相澤に気が付いた雪乃は、そろそろと静かに近寄る。火を使っているときは、キッチンに入ってはいけない。そう教えられている雪乃は、こっそりと何かを作っている彼を見ていた。

じぃっと見ていると、思い当たるものがあり、雪乃は鍋を見ている相澤に向かって口を開く。

「消ちゃん……」

えっと、と言いにくそうにもじもじしている雪乃へ振り返った彼は、その様子で何を言いたいのかを察した。

「どうした?」

こちらから欲しい言葉をやるのは簡単だ。しかし、それでは雪乃のためにならない。時間がないわけではないから、と相澤は雪乃が言葉にするのを待っていた。

「あのね―――」

***

 ふと、気付けばぼんやりと明かりのついていない部屋の天井を見ていた。喉の渇きを感じた名前がベッドから起き上がると、近くに常温のスポーツ飲料と相澤がいつも飲んでいるゼリー飲料が置かれていた。おもむろにそれに手を伸ばすと、何かが手に触れる。

 彼女の手に触れたのは小さなメモ用紙。何が書かれているのか確認するために、名前はスマホのライトをつけた。
暗闇に慣れていた目に、スマホのライトが酷く眩しく感じられる。慣れてきた頃に、ようやくメモ用紙に書かれたものを目にした。

"20時ごろに解熱剤を飲ませてる。冷たいのが飲みたいなら呼べ"

 決して綺麗だとは言えない文字。読めればそれでいいとばかりの相澤の文字さえ愛おしくて、名前はその筆跡に指を這わせた。
ぼんやりとだが、何かを飲ませてもらったことは覚えている。薬はしっかりと効き、名前の体は高熱の苦しさから解放されていた。

 スポーツ飲料を飲み、また布団へもぐる。休む前にこっそりと持ってきていた相澤のTシャツを手に取った。部屋着にしている黒いTシャツに顔を埋める。洗濯している為、彼の匂いは感じられないが近くにあるだけで寂しさは和らいでいた。

***

 ひた、と優しく額に触れたもので、名前は目を覚ます。ひんやりと感じたのは、無愛想な顔をした相澤の手で、まだ彼女に熱があるかどうかを診ている。難しそうな顔をしていた彼だが、眉間から力を抜くと手を彼女の額から離した。

「消太さん……?」

「調子、どうだ?」

 昨夜、夕飯を作って寝室に運んだとき、名前は高熱で呻いていて食事どころではなかった。しばらく腰を摩って落ち着かせると、この家に常備されているゼリー飲料と解熱剤を飲ませた。ぼんやりとしている彼女が夜中に目を覚まして、解熱剤を続けて飲むことがないようにメモを残した彼は、本当は傍にいたい気持ちを押し殺して部屋を後にしていた。

「大分よくなりました。もう熱もないと思います」

「高熱に慣れただけだ。まだある」

 昨夜のような熱は確かにないが、まだ微熱があると相澤は確信していた。そうかなぁと自分で自分の額に手を置いた彼女は、うーん、と考えるような声を漏らす。

「……自分じゃ分かりませんね」

「当たり前だ」

くすくすと笑う様子を見れば、本人の言う通り、昨日よりも体調はいいらしい。解熱剤が効かなければ救急車を呼ぶ必要があると考えていた昨夜の様子を思えば、相澤の胸には小さな安堵があった。

「メシ、食えそうか?」

「実は凄くお腹空いちゃって……」

 恥ずかしさで赤くなってしまった顔を隠すように布団を引き上げた名前に彼は、フ、と表情を和らげる。

「待ってろ」

横になっている彼女の頭を一撫でして、相澤は部屋から出て行った。彼に撫でられたところに、名前の手がそろそろと伸びる。撫でてもらった場所に手を触れさせるだけで、嬉しくて胸の中がふわふわとしていた。

 すぐに戻ってきた相澤の手には一人前の土鍋が乗ったトレーがある。ベッドサイドにトレーを置いた彼は彼女の顔を覗き込んだ。

「起きられるか?」

「はい」

背に添えた手で起き上がるのを手伝った相澤に、よろめいた名前がもたれかかる。

「ご、ごめんなさい」

 離れて行こうとする彼女の頭を抱えるように彼の手が回った。服の上からでも分かる、しっかりと鍛えられた相澤の胸に顔を埋めている名前は目を数回瞬いてから嬉しそうに笑う。

「いい匂い……」

すり、と顔を小さくすり寄せた彼女は幸せそうに目を伏せた。甘えてくる名前の頭に相澤は頬を寄せる。

「……お前に頼りすぎてた」

「え?」

 顔を見ようとする彼女が離れないように彼は手に力を入れる。まだ顔を見られたくないのだと分かった名前は動くのを止め、相澤が続きを話すのを待った。

「同じようにヒーローとして活動してる。それなのに、家のことはお前ばっかりだった」

「そんなことないですよ。家にいるときは消太さんが雪乃のことを見てくれますし、洗濯物を取り込んでくれたりするじゃないですか」

ため息を溢した彼は、バカを言うなとばかりに首を振る。

「それだけだ。メシも掃除も洗濯も買い物も、基本的にお前だ。……疲れて風邪引いたっておかしくないだろ」

ぽつりと聞こえてきた"悪かった"に、彼女は彼の胸に手をついて体を離した。そして、申し訳なさを感じている仏頂面を両手で挟む。

「私は義務だと思って仕方なく家事をしてきたんじゃありません」

見上げてくる彼女の目は真剣で、思わず彼は口を噤んだ。

「消太さんが好きだから、家では少しでもくつろげるようにしたいんですよ」

分かってないですねぇ、と笑った名前に相澤の胸が早鐘を打つ。頬を包んでいる白い手に引かれ、彼は抵抗することなく彼女の胸元で頭を抱きしめられた。

「だから気にしないで、お世話されててくださいね」

「俺はお前の負担になりたいわけじゃない」

顔中で感じているや柔らかなもののせいで、彼は赤面している。赤くなりながらも、不機嫌そうに呟いた相澤の頭を名前の手が優しく撫でる。

「……甘やかしたいだけです。消太さんのこと、誰よりも私が一番甘やかしたいだけ」

先ほど彼がしたように、彼女が頬を彼の頭に寄せた。これまでよりも強く抱きしめられた相澤が小さく身じろぐ。

「俺もだ」

一度、名前の胸に顔を擦りよってから、彼は腕を彼女の細い体に回して抱きしめ返した。

「俺もお前を、名前を甘やかしたいと思ってる」

"一緒ですね"と答えた彼女が嬉しそうにくすくすと笑っている声が、直接耳に届く。撫でてくる手に自分が愛されていることを感じながら相澤は目を伏せて口元を緩ませた。

 体を離す前に、彼は彼女をぎゅっと抱きしめた。

「メシ食って薬飲んどけ」

ほら、とベッドサイドに置かれていたトレーをベッドに置いた彼は、小さな土鍋の蓋を開ける。

「いい香り……」

 ふわ、と香るだしに名前は閉じていた目をゆっくりと開いた。小さな土鍋の中には、お粥がある。それは、19歳の誕生日に作ってもらった白粥ではなかった。

「たまご粥」

てっきり白粥だと思っていた名前は目を瞬かせる。

「昨日の夜に作った。雪乃と」

「雪乃と?」

首を傾げて流れた彼女の髪を耳にかけてやった彼も、たまご粥へと目を落とした。

「前に作ったやつと同じモンにしようと思ったんだが、雪乃が手伝いたいって言ってな」

「それで、たまごなんですね」

 たまごが入っている理由が分かった名前は、ふふ、と笑う。レンゲに少しだけお粥を乗せた相澤が息を吹きかけて冷ます。十分に冷ましてやると、彼女の口元へとレンゲを運ぶ。

「ん」

「えっと……自分で食べられます、よ?」

 無言で差し出してくる彼の目を見て彼女は困惑して目を逸らした。照れている名前に相澤は意地悪い笑みを浮かべる。

「ほら、甘やかされてろ」

まだ目を泳がせている彼女へ彼はさらにレンゲを突き出した。

「あーん」

「あ、あーん……」

 向けられる強い押しに負けて、名前は口を開ける。満足そうに口元を笑わせた相澤の手から食べさせてもらった彼女は顔を真っ赤にさせた。

「お、いし、です」

小さく呟いた名前へ口元を微かに笑わせた彼は、またレンゲを運ぶ。咀嚼している彼女を見ながら、彼はこれを作っていたときのことを思い出してポツポツと話し出した。

「雪乃がたまご割ったとき、殻が入った」

口にお粥が入っているせいで何も話せない名前は、話してくれる相澤へと視線を向ける。その目は楽しそうに話の続きを待っていた。

***

 「あのね、消ちゃん。お粥、たまご入れる?」

 キッチンでお粥を作っていた相澤に、そう訊いた雪乃はもじもじと恥ずかしそうにしている。勇気を出すように両手をきゅっと握った雪乃は、しっかりと彼を見上げた。

「雪乃、たまご割れるようになったからお手伝いしたい!」

 作っていたのは白粥で、たまごを入れる予定はない。しかし、雪乃が自分にできることを懸命に探した結果なのであれば、たまご粥にしてもいいと思った。

「……なら、頼む」

「うんっ!」

嬉しそうに大きく頷いた雪乃に相澤は冷蔵庫からたまごを一つ出してやる。それを両手で受け取った雪乃は、早速たまごを割るために小さな容器を用意した。

 コンコン、と平らな場所でたまごにヒビを入れた雪乃は丁寧にたまごを割った。黄身と白身が綺麗に容器の中に落ちる。しかし、容器の中には殻も入ってしまった。

「あ……」

菜箸で入ってしまった殻を取り除いてやろうと相澤がたまごの入った容器へ手を伸ばす。

「待って」

殻を自分で取りたいのかと思った彼が雪乃を見る。緊張した面持ちでゆっくりと相澤を見上げた雪乃は、また視線を殻の入ってしまった容器へと戻した。

 容器へ手をかざした雪乃は、その手をゆっくりと真横にはらう。すると、たまごの中に落ちた白い殻だけが綺麗に消えた。
安心して、ほぅ、と息を吐き出した雪乃はおずおずとたまごの入った容器を相澤へと差し出す。受け取った相澤は驚いた目で雪乃を見た。

 あれほど自分の個性を怖がり、嫌っていた雪乃が個性を使った。大きな変化に、驚かずにはいられない。

「怖く、なかったのか……?」

「ちょっと、怖かった……」

でも、と雪乃は視線を自分の足元へ落とした。

「この前ね、お姉ちゃんとホットケーキ作ったの」

そのことは彼も知っている。相澤にも食べてほしいと取り置かれていた、雪乃が初めて焼いたホットケーキ。深夜に帰ってきた彼は、名前から雪乃がどんな様子で作ったのかを聞きながらそれを食べた。

「そのときもね、雪乃がたまご割ったんだけど殻が入っちゃってお姉ちゃんが取ってくれたの。個性で、殻だけふわって」

手を上げて、身振りでその時の様子を話す雪乃は、だからと続ける。

「だから、雪乃もお姉ちゃんみたいにやりたくって……」

 俯く雪乃の手は今になって怖くなってきたのか震えだす。両手で押さえるようにしながらも震えは止まらない。
たまごの入った容器を置いた相澤が、その場にしゃがみ込む。そして、震えている雪乃の頭に手を置いた。

「上手くできたな」

 顔を上げた雪乃に相澤はいつもと変わらぬ愛想のない表情で頭を撫でる。

「でも、次も上手くいくとは限らない。だから、少しずつ練習しよう」

「れん、しゅう?」

頷く彼に雪乃は首をこてん、と傾げた。

「きちんと使えるようになれば、個性も怖くなくなるはずだ」

「ほん、と?」

ビクビクしながらも個性を使ったのは、名前のようになりたいという気持ちに動かされたから。
自分が前の家族から嫌われるきっかけになった個性は今も好きになれそうにない。できればこれからも使わずにすむなら、そうしていきたい。しかし、それは個性に怯えながら生きていくことだと、子どもながらに雪乃はぼんやりと理解していた。

「ああ。でも、練習は俺がいるときだけだ」

真剣な相澤の目を見つめ返した雪乃は、こくん、と頷く。

「また雪乃が個性止められなくなっちゃったら、消ちゃんが助けてくれる?」

 自分が個性を暴走させてしまったら、どうなってしまうか分かっている発言に彼の胸が痛まないわけではない。それでも、自分を助けてくれると信じている雪乃に、相澤の表情は優しいものになった。

「ああ。俺と名前でお前を守る。だから、安心してろ」

 胸に広がるポカポカとした気持ちの名前が分からない。嬉しいだけじゃない何かに突き動かされて雪乃は相澤に抱き着いた。

「消ちゃん……」

首に回された小さく細い腕と、頬に触れる幼い肌。全身で幸せだと訴えてくる雪乃を軽く抱きしめ返しながら、彼は何度も頭を撫でてやった。

***

 お粥を飲み込んだ名前の眼差しはどこまでも優しい色を帯びている。

「そうですか。雪乃が……」

目を細める彼女の思っていることが、なんとなく理解できる彼の目も優しいものになっていた。

「個性訓練は雪乃が小学生くらいになってからでいいと思ってたんだけどな」

「本人にやる気があるなら、早く始めてもいいと思います」

 きっと怖い気持ちもまだまだ強いだろう。それでも雪乃の気持ちが前を向き始めていることが喜ばしい。

「ほら、最後」

 最後の一匙を差し出された名前は素直に口を開けた。彼女が食べている間に、薬を用意した相澤は水と一緒に手渡す。

「ありがとうございます」

「それ飲んだら、また寝てろ。後で買い物に行ってくるから、何か欲しいモンとかあれば言え」

欲しいものを考えながら薬を飲み込んだ名前は、ちらりと相澤を見た。

「なんでもいいんですか?」

「……消化に悪い菓子、裁縫道具、調理器具はダメだ」

「なんで分かるんですか……」

つまらないとばかりに口を突き出した彼女の額を小突く。イタッとのけ反った名前を、そのまま彼は布団に戻した。

「お前の言いそうなことなんて分かるに決まってんだろ」

「お見通しでしたか」

 苦笑する彼女にやれやれと相澤は頭に手を当てる。まったく、と思いながらも名前の笑う声を聞いていると、安堵と共に嬉しさが込み上げた。

「……他のものならいいですか?」

 口元を布団で隠しながら訊いてくる彼女は普段よりも幼く見える。手招きしてくる名前に相澤は顔を寄せた。耳打ちする為に布団から顔を出した彼女は、彼の髪を掻き上げてから囁く。

「消太さんが欲しいです」

 目を見開いている相澤の頬に、そっと唇を寄せた名前は固まっている彼を見ておかしそうにくすくすと笑いだした。

「風邪、治したらいくらでもやる」

ちゅ、と彼女の額に唇を落とした彼は、ククッと喉で笑う。真っ赤になりきった名前は悔しそうな目を相澤に向けていた。

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