もっと君が欲しい

 ちらりと視線を向ければ、彼女はすぐに彼に気づいてにこっと笑みを返す。普段は嬉しく感じるそれも、今の相澤には躱されているような気がして面白くない。

 そういうのも、先日、帰りが重なった名前と家までの競争を行い、負けてしまった相澤に"一週間、キスの禁止"というペナルティが課せられているからだ。自分から彼女へキスをしてはならず、名前からのキスを待ち続けなくてはいけない。

 これまでは好きだと思ったときや、したいと思ったときにしていたキスが、まったく許されないというのは彼にとって思った以上にストレスだった。

「待っててくださいね。もう少しでご飯できますから」

キッチンにいる名前は相澤に笑みを向けると、また顔を伏せて調理へと戻ってしまう。食事の催促ではないことに気づいているくせに、と彼は不満で下唇を突き出した。

「消ちゃん、これ読んで」

 読んでもらいたい絵本を寝室から選んできた雪乃が戻って来る。これでキスをするタイミングがなくなったなと思うと、ため息が込み上げてくるが飲み込んだ。見上げてくる雪乃の頭を数回撫でた彼は、雪乃を膝に乗せてから絵本を開いた。

「遠い遠い―――」

 何度も読んでやったこの絵本は雪乃のお気に入り。途中のケガをする展開が苦手なのか、毎回同じシーンになると雪乃は決まって相澤にしがみついた。
"大丈夫"の意味を込めて撫でてやると、そろそろと顔を上げた雪乃が相澤を見る。いつもと変わらない愛想のない表情に、小さくホッと息を吐くと彼の服を握ったまま絵本の続きを待つ。

絵本を見ている雪乃の顔を上から見た相澤は、また続きを読み始めた。

***

 食事の後に出されたデザートをよほど気に入ったのか、風呂に入っていても雪乃はご機嫌だった。湯船に浸かっている今も、鼻歌が止まらない。大分聞きなじんだそれは、教育番組のもの。楽しそうに歌う雪乃とは対照的に、相澤はふぅ、とため息をこぼした。

「消ちゃん、どうしたの?」

「何がだ?」

 ついこぼしてしまったため息を気にさせないように、彼が普段通りに答えてみれば、雪乃は、風呂の壁に貼ってある数字とあいうえおのポスターから目を離す。

「今日、いっぱい、はぁってしてるから」

「……ちょっと疲れてるだけだ」

まさか指摘されるほどため息を吐いていたとは思わなかった相澤は誤魔化すように濡れた髪を掻き上げた。彼が動いたことで音を立てるお湯を聞きながら、雪乃は何気なく相澤を見上げる。

「じゃあ、雪乃、早く寝るね」

「は?」

 早く寝ろと言われるなら理解できる。しかし、どうして雪乃が早く寝ると言い出したのか理解が出来ず、彼は眉根を寄せた。一般的に見れば、怖く見える眉間にしわを寄せた相澤の顔に、既に慣れてしまった雪乃は怖がらずに平然としている。

「あのね、この前ひーちゃんとお留守番したときに教えてもらったの。消ちゃんは雪乃が寝た後に、お姉ちゃんと仲良しすると元気になるって」

「………」

目を見開いて驚いたまま動けないでいる相澤に構わず、雪乃はニコニコしながら同じことを繰り返す。

「だから、雪乃は早く寝るね」

「……いいか、雪乃。山田のする俺と名前の話は信じるな」

不愉快だと言わんばかりな目をしている彼は、舌打ちをしたい気持ちを抑えながら雪乃を真っ直ぐに見つめる。

「え?」

 きょとんとした雪乃は真剣に見てくる相澤が何を言ってくるのかと、目をパチパチと瞬かせた。
 雪乃が寝た後でなんて、まるで雪乃のことを除け者にしているようで、山田にそういう意図がなかったにしても、彼には不快だった。

「俺は、お前と名前が笑ってれば、疲れてたっていいんだ」

まとめていた洗ったばかりの髪が一筋、雪乃の顔に垂れる。それを小さな耳にかけてやった相澤に、雪乃は立ち上がり、ぎゅっと抱き着いた。

「ど、どうした?」

思わぬ行動に驚いている彼に抱き着いている雪乃の声が、静かに風呂場に響く。

「消ちゃんとお姉ちゃんが、ぎゅってしてくれると、雪乃、嫌なこととか、怖いことも無くなるから……。だから、消ちゃんの疲れたも無くなるかなって」

 夕食前に抱き着いてきたときよりも、優しく、直接感じる温もりに、相澤はフッと目を閉じて抱きしめ返した。

「ありがとな……」

この子が少しずつ優しく育っていることが誇らしく、それを思うと疲れはどこかへと消えてしまう。このときは確かにそう思っていた。

***

 風呂の中では確かに、雪乃のお陰で疲れが吹き飛んだ。しかし、不満という名のストレスは解消されていない。
 普段通りの時間に雪乃を寝かしつける為に、一緒に寝室へ行った彼女を待ちながら、彼はここ最近のことを思い出していた。

 キスの禁止。それが始まった初日や二日目までは、すれ違いざまや、寝る前や寝起きなど、雪乃の目に入らないところで名前からキスをされていた。こうして彼女からのキスを待つのもいいかもしれないと、相澤もまんざらでもなかった。

三日目と四日目ははお互いの仕事で一緒にいる時間が殆どなく、二、三回ほどしかキスはなかった。これは仕方のないことだと理解している。

五日目になると何を考えているのか、名前は触れる直前で、何かに気づいたような顔をしたと思えば、離れてそれっきり唇を重ねることはなかった。雪乃が見ていたのかと思ったがそれもない。一体なんでと思っても、にこっと笑って躱されてしまう。

そして、最終日の今日は、朝から一緒にいるというのに一度もない。彼女がしてくれないのであれば自分からしたい。しかし、それはまだ禁止されている。もどかしくて、フラストレーションばかりを募らせているのに気づいているだろう名前は相澤が目でそれを訴えても、とぼけたように微笑むだけ。

最初に感じていた不満は徐々に寂しさへと姿を変え、相澤の表情を曇らせていた。

(自分からしたいって言ったくせに、なんなんだ……)

本当はやっぱりするのが嫌なのか、それともだんだん飽きてしまったのか、なんてよくない考えばかりが彼の頭の中でもやもやとしていたときだった。

「消太さん?」

 雪乃を寝かしつけ、寝室から出てきた彼女が、こてんと首を傾げている。顔を上げた相澤の表情を見ると、目を見開いた後、苦しそうに目を逸らしてから、そっと隣に腰を下ろした。

「……ごめんなさい」

一体何に対しての謝罪なのか分からない。ただ、それは彼の背中を不安で寒くさせるには十分だった。もう自分とはそういうことができないと言われるんじゃないかと嫌な想像に飲み込まれそうだ。

 何も言えないでいる相澤に名前の手が伸ばされる。頬に添えられた流れで、彼女と彼の唇は重なっていた。
久々に触れることができた唇から伝わる温もりに酔いしれるように、相澤はゆっくりと目を閉じる。いつもよりも長く合わせた唇が離れると、名前は彼の頬を撫でながら、また謝った。

「ごめんなさい。意地悪して」

「やっぱり、わざとか」

 やっと触れることのできた嬉しさから目元を赤らめている相澤に彼女は小さく頷く。

「一昨日、キスしようとしたら、消太さんが強請るような顔をしてたから……。だから、もう少し焦らしたら、どんな顔するのかなって気になっちゃって」

でも、と名前は泣いてしまいそうなほど顔を歪めた。彼の頬に触れている少し体温の低い手が何度も撫でる。

「消太さんにこんな顔をさせるつもりじゃなかったんです。本当にごめんなさい」

 相手が自分を求める顔が見たいというのは相澤にも分からないことでもない。彼も、彼女にキスをせがまれると、意地悪をしてみたくなったり、もっと求められたいという欲がある。

「……それだけじゃないだろ?」

「え?」

撫でられる心地よさに閉じていた目を開けた相澤は、申し訳なさそうな顔をしている彼女の揺れる目の奥を覗いた。そして確信を持って、口を開く。

「いつも俺に焦らされる仕返しもあったんだろ?」

 図星をつかれビクッと体を跳ねさせた名前を抱き寄せた相澤は、少し低い位置にある細い肩へ顎を乗せた。

「……分かってる。だから、そんな顔はしなくていい」

 何も言わず抱きしめ返してきた彼女は、ぎゅうっときつく彼にくっつく。フッと小さく口元に笑みを引いた相澤は名前に頬を寄せた。

「なあ、キスしたい」

「今は、ダメです……」

頬に触れている彼女の耳から伝わる熱さ。きっと赤くなりきった顔を見られたくないのだろうと分かっていながら、相澤は名前へ、なあ、と強請る。

「仕方ないですね」

 少し体を離した彼女の顔は彼が思った通り、赤く染まっていた。愛おしいと雄弁に語ってくる目は優しく細められ、それだけで相澤の胸はドキドキと早くなっていく。

確かめるように何度も撫でると、彼女はそっと唇を重ねた。すぐに離れてしまったことに、物足りないのだと相澤が手を引いて訴えるも、名前はただ頬を撫でてくるだけ。

「好きです。大好き……」

 やはり赤くなった自分の顔を見られるのが恥ずかしかった彼女は、頬を撫でていた手で彼の目を覆う。両手で目を隠された状態で唇が触れてくると、すべての感覚が名前の唇にだけ向かう。それが不思議なほど心地いい。
何度か触れると、また簡単に離れる。彼の目元から手を外した彼女は、また愛おしそうに相澤の頬を撫で始めた。

「名前……」

"もっとキスがしたい"そう言外に匂わせると、名前は目を細める。

 音もなく重なっただけの唇は、あっけなく離れた。もう一度、彼女が彼の顔を見ようとする。しかし、先ほどよりも手を強く引かれた名前はまた相澤の唇に触れてしまった。

「ダメじゃないですか。まだ禁―――」

「―――もう終わった」

 ニヤリと笑う彼が指さす先へ、彼女がゆっくりと振り返る。そこにあったのはリビングの壁掛け時計。短針は真上に上がり、長針は僅かに右にずれている。0時01分。相澤に課せられていた一週間という期間が終わった。

「あっ」

 名前が時間を確認した瞬間、視界は反転する。リビングの天井を背にした相澤の口元が意地悪く弧を描いた。

「一週間分、今から取り返す」

「何言って―――!」

 まるで飢えていた獣が久々の食事にありついたような、荒々しい口づけに彼女の声がかき消される。逃げられないように名前の後頭部には相澤の大きな手が回り、何度も角度を変えてキスを繰り返した。

「は、んんっ……!」

苦しそうに息をする彼女から彼は顔を上げるものの、唇は僅かに重なり合ったまま。

「お前に惚れてる男を煽りすぎると、どうなるか。分かってただろ?」

しっとりと濡れている相澤の声に、名前の体がゾクゾクッと震える。声から与えられる快感に彼女は、きゅっと目を閉じた。

「好きだ……」

 口の中に侵入してきた彼の舌が彼女の舌に絡みつく。くちゅくちゅと可愛らしい音でなく、激しいぐちゅぐちゅとした水音。相澤の長い長いキスに名前の息は続かず、呼吸をしようと大きく口を開く。

 彼の胸板を押した彼女の手が取られ、さらに口づけは深く激しくなっていく。顔に集中的に集まっていた名前の熱は今、全身に広がっていた。いつの間にか彼女は彼から与えられるキスに夢中になって応えている。

 お互いの口周りが唾液で濡れる頃、ようやく相澤は名前の唇から口を離した。そして、ちゅっちゅっと音をさせながら彼女の首筋に唇を這わせていく。

 我慢できず名前の声が短く上がるようになると、相澤はやっと顔を彼女の首から上げた。そして、どこまでも意地の悪い笑みで彼女を見下ろした。

「今晩は寝れると思うなよ」

「ちょっと、待っ―――」

 強引に重なった彼の唇で、また彼女の声が口の中に押し込められる。強く握り締められた手から、ここ数日の相澤の不安や寂しさを感じ取った名前は、ぐっと顔を上げて唇を彼に押し付けた。

驚いて顔を離した相澤に、肩で息をしながら名前はくすりと笑う。

「やっぱり、私、消太さんから、キス、してもらう、のも好き、みたいです」

ワガママでごめんなさいと謝る彼女の首筋に彼は顔を押し付けるように埋めた。香ってくる優しい匂いのよさに、くらりとする。

「そのワガママも、俺にだけならいい」

本当は"俺にだけなら"ではなく、"俺だけが"だと思いながら相澤は彼女の匂いを吸い込んだ。名前の細い首筋に一度唇を触れさせると、止められなくなって何度もそこに口を這わせる。

「消太、さんっ……」

 身をよじる彼女に顔を上げると、彼の両頬は痛くないように摘ままれる。

「くすぐったいです」

もう、と言わんばかりの口調であるものの、名前の顔は赤く染まり、目もわずかに潤んでいた。その顔を包むように相澤の手が添えられると、無骨な指が愛おし気に頬や唇を撫でる。

「―――ない」

「え?」

 呟いた声は小さくほとんど掠れていて聞き取れなかった彼女が聞き返すと、唐突に唇を塞がれた。

「足りないって言ったんだよ」

「ん、んんっ……」

長く執拗に口を塞がれてしまっては、元々上手くキスの合間に息をすることができない名前が苦しくなっていくのは当たり前。分かっていながら、相澤は彼女を追い込むような激しいキスを繰り返す。

 苦しくて彼のTシャツを引くと、やっと口元が解放される。酸素を求めて大きく息を吸い込む為、開かれた名前の形のいい口。呼吸の度に動く唇を、じっと見つめていた相澤は彼女の呼吸を邪魔しないようにしながら下唇に舌を這わせた。

「ちょ、ちょっと、待って……」

「待たない」

はっきりと言い切った彼は、彼は彼女が喋りにくそうにしているのにも構わずチロチロと唇を舐めている。

「お、お願い、ですから……」

苦しさで名前の目元から涙が一筋落ちるのを見て、相澤はガバッと顔を上げた。そして、申し訳なさそうに彼女の頭を撫でる。

「悪い。やりすぎた」

 心配そうに何度も撫でてくる彼に、彼女は小さく笑ってゆるゆると首を振った。ゆっくりと長く息を吐き出し、同じように息を吸い込む。数回それを繰り返した名前の息は整い、ほっとしたような顔で相澤を見上げた。

「死因がキスになるところでした」

「悪かった……」

 ばつが悪そうな顔を背ける彼に、でも、と言いながら彼女は頬を撫でる。触れてきた手に逆らえず、相澤はまだ顔を赤くしている名前を見た。

「好きな人のキスで死ねるなんてロマンチックかもしれませんね」

「どこがだ」

拗ねたような声を出した彼は、つまらないとばかりにむすっとしている彼女へ仕方なさそうなため息をこぼす。

「キスで惚れてる相手を殺すなんて冗談じゃない」

 言われてみれば確かに、と名前は目を瞬く。そしておかしそうに、くすくすと笑った。

「私は消太さんになら殺されたっていいくらいですけどね」

「俺は嫌だって言ってんだろ」

不機嫌そうな顔をする相澤の目元を撫でると、彼女はそっと唇を重ねる。

「それくらい、消太さんを愛してるって言ってるんですよ」

ふふっと笑いながら、もう一度唇を触れさせた名前の顔を、まともに見ることのできない相澤は顔を腕で隠すようにして視線を逸らしていた。
 赤らめた顔を隠している彼のたくましい腕に、そっと触れた彼女は少し恥ずかしさを感じながらも軽く引く。

「もう、足りちゃいました?」

暗に、もっとキスがしたいと強請ってくる名前に、一度目を瞠った相澤はフッと表情を和らげる。

「全然足りねぇよ」

 こつん、と額を重なり合わせて微笑み合うと、小さく唇を合わせた。そしてまた徐々に二人のキスは深くなっていく。何度も何度もキスだけを交わしているうちに、相澤と名前はリビングで揃って眠ってしまった。

***

 朝になって起きてきた雪乃はリビングで抱き合うように寝ている二人を見つけた。もう眠くはないけれど、あまりにも相澤たちが気持ちよさそうに寝ているのを見ていると、そこに行きたいと思ってしまう。

(どうしよう……)

その場で迷ってそわそわしていた雪乃は意を決して、きゅっと手を握り締めた。

 ちょうど自分が入れそうなくらいにあいている二人の間。そこに小さな体を滑り込ませた雪乃は二人が目を覚ますんじゃないかとドキドキしていた。

しかし、それも束の間のこと、二人の間から感じる温かさが優しい微睡みを運んでくる。気づけば雪乃の瞼は重くなっていた。

***

 ふと、目を覚ます。ぼんやりとしていた意識がはっきりしてきた相澤は、自分と彼女の間で寝ている雪乃に気が付いた。

自分たちが、キスだけで朝を迎えてしまったのは覚えている。しかし、雪乃は一体いつの間に、やってきて一緒に寝ていたのだろうか。

 ガシガシと彼が頭を掻いていると、雪乃は小さく寝返りを打って名前にぴったりとくっついた。顔立ちが元々よく似ている名前と雪乃は、寝顔までよく似ている。

同じタイミングで、身じろぎをした二人に向けられる相澤の眼差しは、滅多にお目にかかれないほど優しく穏やかなものだった。

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