水の中で見る君は

 普段と変わらぬ昼の屋上。そこで2Aの三バカと呼ばれる白雲、山田、相澤に並んで、苗字も弁当を広げていた。

「苗字とメシ食うの久しぶりだよな! 普段、どこで食ってんだ?」

「普段は、中庭が多いですよ」

 本当は今日も中庭で食べる予定だった苗字を昼食に誘ったのは白雲だった。弁当を持ち、どこかへ行こうとしている彼女を強引にここまで連れてきたというのに、苗字が嫌だと感じている様子はない。それも白雲の人柄ゆえだろう。

 ちらっと、彼女の黒い目が隣でショートブレッドをかじる相澤に向けられる。同じタイミングで苗字を見た彼も驚いたのか目を軽く見開いていた。

 ふわっと微笑んできた彼女をまともに見てしまい、顔が一気に熱くなる。耳まで赤くなってしまってるような熱のこもり方に、相澤は顔を逸らした。

「そういや、昨日、一年見かけたけどよォ、水難訓練でもしてたのか?」

「ええ、そうです。昨日は暑かったので涼しくてちょっと得した気分でした」

そう答えた苗字に、違和感を覚えた山田は首を捻る。昨日のことをよくよく思い出すと、その違和感の正体は簡単に見つかった。

「涼しいって、お前濡れてなかったろ。他は、みんな濡れてたのに」

「濡れないで水難訓練やったのか?」

どうやって?と言わんばかりに、会話に入ってきた白雲から彼女は視線を逃がす。

「ええっと、個性使えば濡れずにすみますから」

「溺れてる奴はどう助けたんだ?」

興味があるのか、ただ疑問なのか、首を傾げている白雲は未だに目を逸らしている苗字を、じっと見つめた。

「それは、ほら、岸辺から相手が確認できれば私の場合、個性で浮かせることがきますから……」

「ああ、そっか。便利だよな、苗字の個性」

納得して頷いている白雲にホッとした瞬間、彼女の安堵は泡のように消えてしまう。

「名前の個性は凄いが、あんまり個性に頼りすぎない方がいいんじゃないか?」

「確かになァ」

相澤と山田の言うことは、昨日の水難訓練でも教師から指摘されたこと。苗字自身も個性の頼り過ぎはよくないと理解している。

 あははと苦笑いをしている彼女が何かを誤魔化そうとしているのに気づいた相澤は、そこで、はたっと気がついた。

「もしかして、お前泳げないのか?」

「え、ええ?」

目を合わせようとせず、乾いた笑いをしている苗字に、白雲がまさかと笑う。

「苗字が泳げないわけないだろ」

彼女にできないことはないと思っているのか、大きく口を開けて笑う白雲に、苗字は気まずそうに誤魔化し笑いを繰り返している。

「名前」

 どことなく真剣な相澤の声で呼ばれてしまった彼女は、上手い誤魔化しを考えていたが思いつかず、観念して小さくため息をこぼした。

「泳げるのか?」

「いいえ……」

意外そうに目を瞬く山田と白雲の視線よりも、相澤のやっぱりといった視線の方がツラく、苗字は俯く。自分でも言分けがましいと思いながらも、彼に努力をしていないと思われる方が嫌だと口を開いた。

「あの、これでも毎年、夏には泳ぐ練習はしてるんですよ……?」

「イヤイヤ、夏来る前に練習しとかねぇと単位とれねぇだろ」

「中学は水に顔がつけられればOKだったので、なんとか。それに夏は短期のプール教室もありますから」

 納得して、なるほどなァと頷いた山田の横にいた相澤が彼女の方へ顔を向ける。

「それで? どのくらい習って、どのくらい泳げるんだ?」

まったく泳げないわけではないだろうと思っての質問に、苗字は言いにくそうに小さく口を動かす。

「始めたのは中一からで、泳げるのは、その……15メートルくらいです」

あはは、と苦笑いをしている彼女を見る三人の顔はいずれもポカンとしている。なるべくなら言いたくなかったなぁと、恥ずかしさで下を向いた苗字に、一足先に我に返った山田が声をあげた。

「Why!? 中一から始めてなんでそんなもんしか泳げねぇんだ!?」

「お、大きな声出さないでください! 私だって恥ずかしいとは思ってます!」

 ムスッとした顔で見上げられた山田は、つい顔を赤らめる。恋愛感情はまったくなくとも、可愛らしいと思わされてしまった。

「オイ、何赤くなってんだ」

あからさまに不機嫌な声音と同じように相澤は眉間にしわを寄せている。やれやれと思いながら山田は彼に向き直った。

「ンなの、苗字が可愛かったからに決まってんだろ」

「そうそう。可愛い子の前じゃ男は誰でもこうなるもんだ!」

 わざとふざけた返事をした山田に白雲も乗っかると、相澤は隠すように苗字を自分の背に入れる。無言で睨みつけてくる彼に、白雲は面白そうに笑い、山田は焦ったように両手を宥めるように動かした。

「悪かったって! だからそんなに睨むなって」

 くすくすと聞こえてくる小さな笑い声。それは彼の背中に入れられた彼女のもので、おかしそうにしてるというのに、どこか嬉しそうにも見える。

「……お前もヒーロー科なら、泳げるようにくらいなった方がいいぞ」

「はい……」

照れくさいような気恥ずかしいような気持ちを誤魔化すように相澤が言ってみれば、苗字はしゅんっと肩を落としてしまった。

「にしても、どこのプール教室通ってたんだ? そんなに通って伸びないってヤベェだろ」

「最初は、家の近くで習ったり、市民プールとかで習ってたんですが、どこもおしゃべりが長くて……」

「おしゃべり? おばちゃんとかが多いのか?」

 弁当をかき込みながら聞いてきた白雲の頬にはご飯粒がいくつもついている。リスのように頬を膨らませている白雲に、彼女はちらりと相澤に視線を向けると困ったように眉を寄せてから答えた。

「えっと、なんて言うんでしょう。一緒に参加してる子だったり、コーチから彼氏はいるかとか、好きな人はいるかとか、恋愛に興味があるかとか、そういう話ばかりで」

「プール教室で口説かれてんのかよ!」

大笑いする山田とは対照的に相澤の機嫌は急降下している。こうなることが何となく分かっていた苗字は"でも!"と両手を握った。

「ほら、今年は相澤先輩がいますから、お付き合いしてる人がいるって言えば、しつこくされないでしょうし、ちゃんと泳げるようになると思います」

自信を持って答えた彼女に白雲は大きくため息を吐く。そして、真剣な目で苗字を見た。

「苗字。お前は男を舐めている」

「え?」

目を瞬く彼女は、どういうことかとゆっくり首を傾げる。さらり、と長い黒髪を流す様子は誰が見ても目を引く美しさがあった。

「いいか。世の中にはな、彼氏がいるって言われてもしつこい奴がいるんだ」

「そう、なんですか?」

 きょとんとしながら苗字は相澤や山田に確かめるような視線を向ける。その視線に先に答えたのはニッと笑う山田だった。

「俺は彼氏いるって言われたら様子見。別れそうなら待つな」

「……俺は諦めるし、そもそも自分から声をかけにはいかない」

続けて答えた相澤は苗字の方を見ない。彼女の前で女性へのアプローチの仕方なんて話したくはなかったが、知りたいと目で訴えられてしまうと拒否することができなかった。

「うーん、つまり、山田先輩みたいにしつこい人がいるってことですね」

「そうそう。ひざしみたいなのが一番厄介だ!」

よく分かったなと彼女を褒める白雲に山田も黙ってはいない。先ほどまでよりも意地の悪い笑みを浮かべた。

「朧は彼氏いるって言われたら、落ち込んで帰ってくるけどな!」

「そもそも脈があるかないかも分からない状態で告ったりするからだろ」

「なんでショータまで、そんなこと苗字にバラすんだよ!」

 ギャアギャアと騒ぐ白雲を山田がからかい、相澤が少し呆れている。でも、それがとても楽しそうに見える苗字は微笑ましさと同時に疎外感も覚えていた。

 後輩の、それも女の子にバラされた恥ずかしさで真っ赤になった白雲を山田がまあまあ、と落ち着かせている。

「……今年も習いに行くのか?」

疎外感からの寂しさで胸がヒリヒリしていたのを見透かすような相澤の目に見つめられていた苗字は静かに驚いた。三人の中に入っていくことはできなくても、彼が傍に寄り添ってくれていることを感じた彼女は嬉しそうに目を細める。

「ええ、その予定です。来週から募集が始まるんです」

 またそこで口説かれないとも限らない。白雲の言う通り、彼氏がいると言ったって、しつこい男はいくらでもいるだろう。ヒーローになるのであれば泳げる方がいい。しかし、そんな口説かれる可能性のある場所に行ってほしくない。その二つの気持ちに挟まれた相澤は下唇を突き出すように口を引き結んだ。

「なら、それに参加すんのはキャンセルだ!」

 いつの間にか仲直りしたのか肩を組んでいる白雲と山田はニッと楽しそうに笑っている。意味が分からないとばかりに疑うような目をする相澤と、小さく首を傾げる苗字に山田は二枚の紙を取り出した。

「ほら、コレ。コレ使って苗字が泳げるようにしてやろうぜ」

 ピッと山田の指で弾かれたそれが相澤の元に落ちる。それがなんなのか見ようとした彼女の顔が自然と近寄ってきたことに、内心、相澤はどきりとしていた。

「……ウォーターパラダイス。これ、この前リニューアルオープンした大きな屋内プールですよね?」

「なんで招待券なんか持ってんだ」

普通、持っていても割引券くらいだろうと目で訴えてくる相澤に山田は人差し指で彼の持つチケットをさした。

「ネットで応募したら当たった」

「運がいいんですね」

感心したようにまたチケットへと目を落とす彼女に、"まあ日頃の行いってやつだ"と山田は軽いノリで胸を張る。

「というわけだ。行こうぜ」

 泳げない自分が行くよりも三人で行った方が楽しめるだろうと考えているだろう苗字に、相澤が小さくため息をこぼす。表情は暗くもないし、至って普通でも彼には彼女が何を考えて気にしているのかが分かった。

「気にす―――」

「―――苗字!」

相澤の声を遮った白雲の声。相澤が驚いている間に苗字へかけられた声は底抜けに明るかった。

「楽しみだな!」

 よく晴れた空を背景に歯を見せて笑う白雲は、太陽に負けないほど輝いていて眩しい。いつもその笑顔を清々しく感じているはずの相澤はちくりと胸に痛みを感じながら、隣に座る苗字を盗み見た。目を見開いていた彼女はゆっくりと形のいい唇に笑みを引く。

「……はい!」

そよ風に髪を揺らしながら笑顔で答えた苗字に見惚れた。ほんの一瞬の短い出来事だったというのに、僅かに感じていた胸の痛みを忘れた相澤の顔を十分赤くする。

「どうぞよろしくお願いします」

綺麗に頭を下げた彼女は、ゆっくりと顔を上げる。そして最初に見えた相澤へとても柔らかに目を細めた。

***

 約束の日曜日。待ち合わせより40分も早い時間に彼らは集まっていた。

「相澤よォ。お前こんなにジェラシーつええと、苗字に振られちまうぞ」

「うるせぇ」

呆れ半分な口調の山田に応える相澤は不機嫌丸出しだ。その隣では白雲が何を想像しているのか、うっとりとした顔でどこかを見ている。

「羨ましいよなぁ。苗字がお待たせしました〜って駆け寄ってくるとこ、毎回見てんだろ?」

「……どうだかな」

待ち合わせは、ほとんどが同時か、ほんの少しどちらかが待つだけ。それに本当のことなんて教えてやりたくはない。苗字が自分にだけ見せる顔は自分だけのものにしておきたかった。

 彼らがどうしてこんなにも早い時間に集まっているか。理由は一つ。白雲の言った苗字のお待たせしましたが見たい為だった。そしてあわよくば他が来るまで彼女と二人きりになって相澤の反応を見ようと思っていた。

しかし、なんとなくそんな気がしていた相澤が早く来てしまったことで、来ていないのは苗字だけになり、男三人で虚しく並んで彼女を待つことになっている。

 はあ、っと相澤の吐いたため息が駅前の喧騒に紛れる。下がっていた視線を上げれば、駅から出てきた一人の少女に彼の視線は吸い寄せられた。長い髪を揺らして歩く彼女は相澤に気が付くと、表情を和らげて駆け寄ってくる。そして、他に二人の姿を見つけると目を瞬かせた。

「あ、あれ? すみません、時間間違えちゃいました?」

 約束の20分前にやってきた苗字は並んで待っていた、白雲、相澤、山田、それぞれを順番に見て首を傾げる。

「いや、ちょっと見たいもんがあって早く来たんだけどよォ」

ちらりと相澤を見た山田は、先ほど駆け寄ってくる苗字を見ていた彼の嬉しそうな横顔を思い出す。間違いなくあの顔は無意識なんだろう。まさかあの"省エネ消ちゃん"が恋をするとは。そう思うとおかしくなってきて、山田はニヤっと笑った。

「なあ、苗字、俺たちに言うことない?」

 わくわくとしている白雲に彼女が小首を傾げる。艶やかな髪がさらりと流れただけなのに、不思議とそれは魅力的に見えた。

「あ、おはようございます」

挨拶がまだだったと、丁寧に頭を下げた苗字に山田が声を上げて笑いながら隣に立っている相澤の背中をバンバンと叩く。叩かれた彼は強く苛立った顔で山田を睨みつけた。

「ちがっ、くない! おはよう!!」

 何かを堪えるようにした白雲が、苗字に挨拶を返す。それも大事だけど、なんてどこか悔しそうにしている白雲を不思議そうに見た彼女は、腹を抱えて震えている山田へと視線を移す。イマイチ笑われている理由が分からず、苗字は相澤に答えを求めて目を向けた。

「あの、私、何かしちゃいました?」

「いや、こいつらがおかしい」

ほっとけと言う彼に彼女は、えっと、と窺うように三人を見た。

「もしかして、結構待ちました?」

「……勝手に時間より早く来ただけだから、気にするな」

「いえ、お待たせしてしまったのは違いません。もう少し早く来ればよかったですね」

苦く笑う苗字に、じゃあと一歩前に出た白雲は頬を掻きながら照れたような顔をする。

「あれ、言ってみてくれよ。おまたせって」

「え?」

きょとんとしている彼女の前で、山田が強引に白雲の肩を組む。ニカリと大きく歯を見せて笑う山田は、ついでとばかりに相澤とも肩を組んだ。

「ほら、相澤にだけ言うと思って、言ってみてくれよ。俺たちそれが見たくって待ってたんだからよ」

「オイッ!」

不快そうに眉間に力を入れる相澤に睨まれても、どこ吹く風でいる山田と、へへッと笑っている白雲に、苗字は眉を下げて困ったように笑う。そして、吹いてきた風に揺れる髪を押さえながら相澤を見た。

「……お待たせしました」

 僅かに頬を染めた彼女に思わず胸が跳ねる。それは相澤だけでなく、山田や白雲も同じ。恥ずかしそうにしている苗字の様子を相澤は食い入るように見つめていた。

***

 苗字と別れ、更衣室へ入った三人は並んでロッカーの前で着替え始める。着替えを済ませた相澤がスイミングゴーグルを荷物から取り出していると、山田と白雲が彼を挟むようにして脇を小突きだした。

「ったく、なんだよ、ショータ! さっきのアレ!!」

「何のことだよ」

「とぼけんなって、俺たちのこと忘れて見つめ合ってただろ!?」

話が彼女に"おまたせ"と言わせたことかと気づいた相澤は、鬱陶しいとばかりに山田と白雲へ眉間にしわを寄せた顔を向ける。

「見つめ合ってなんかない」

「ウソつけよ!!」

白状しろと、さらに横腹を小突いてくる山田を引き剥がそうとする相澤の耳に明るい笑い声が聞こえた。その声は山田にも聞こえていたようで、彼も相澤を小突く手を止める。

「ショータは本当に苗字のこと好きだよな」

 否定するのもおかしいし、肯定するのが照れくさかった相澤は苦し紛れに"悪いか"とだけ小さな声で言い返した。顔を背けている相澤の頬が赤い。その様子に白雲は、苗字のことを思い出しながら、へへッと笑った。

「苗字もよォ、なんだかんだ分かりやすいよな。最初(ハナ)っから俺たちなんか見えてなくて、相澤一直線。嫌ンなっちまうよな」

 今日の待ち合わせのことだけでなく、最初に出会ったときから彼女が相澤だけを見つめ、好意を寄せていたことを見抜いていた山田は、相澤から離れると懐かしむように頷きながら腕を組んだ。

「にしても、俺たちの中で最初に彼女作ったのが相澤っていうのが信じらんねー」

「……俺もそう思う」

 別に"彼女"が欲しいと思った事はない。ただ、苗字名前という存在に隣にいてほしいと思ってしまい、それが世間一般でいう"彼女"というものだっただけだと相澤は考えていた。
 俯きがちな相澤を意外そうに見ていた山田の口元にゆっくりと笑みが広がる。そして、それは白雲も同様だった。

「よかったな、ショータ!」

ニカッと夏の太陽を思わせるような眩しい笑みには、相澤に苗字がいることへの喜びしかない。その笑みが面映ゆいあまり、相澤は顔を逸らした。

「ああ……」

小さな返事に白雲と山田はこっそりと顔を見合わせて笑う。照れている相澤を二人はもう一度小突いて、プールの方へと出て行った。

***

 大きな室内施設の中に、やはり、というべきか、女性の着替えには時間がかかるものなのか、苗字の姿はなかった。ドームのようになっている室内は温室になっているせいか蒸し蒸しとしていて、じんわりと暑い。この施設の目玉であるウォータースライダーに騒いでいる白雲と山田の隣で、何気なく視線を他へと移した相澤は何かに気づき走り出した。

「なんだァ!? DOしたァ!?」

「トイレか?」

走っていく相澤の背中の先を見た山田が、どうして彼が走り出したのかに気づく。ニヤニヤとしだした山田の視線を追いかけて白雲も納得したように、ああ、と笑い出した。

 相澤が駆け寄っていった先には、苗字がいる。彼女は彼の姿を見つけると嬉しそうに微笑んだ。

「すぐに見つかってよかったです」

長い黒髪を、桜を思わせる薄紅色のシュシュでポニーテールでまとめた苗字は、周囲の男性の視線を集めている。

「お、お前、なんでそんな水着……!」

「変、ですか? 香山先輩が選んでくれたんですけど」

体を捻って自分の水着を確認した彼女は、口をもごもごとさせている相澤へ顔を上げた。

「変、じゃない……」

それだけをやっと口にした彼は香山を思い出し、余計なことをと思わずにいられない。舌打ちをしたい気持ちを抑えつつ、チラッと苗字の水着を見た相澤はすぐに目を逸らした。

 はっきりといえばよく似合っているとは思う。決して派手ではない白いビキニの胸元や両腰にあるリボンが可愛らしい。そこから伸びるすらりとした手足に衆目が集まるのも分からなくはない。しかし、それを他の男に見せたいとは絶対に思えなかった。

「コレ着てろ」

 羽織っていたラッシュガードを、そっぽを向きながら苗字へと突き出す。目を瞬くばかりでなかなか受け取らない彼女に痺れを切らすと、彼は強引にラッシュガードを着せて手早くファスナーを閉めた。
 ムスッとしている相澤の表情で、これがどういうことなのか理解した苗字は、嬉しそうにふふっと微笑む。

「消太くんのだから凄く大きいですね」

こっそりと二人だけのときに呼ぶ名前を口にした彼女は、ラッシュガードの襟の辺りを持ち上げると鼻を埋めた。

「いい匂い……」

 目を閉じている苗字が自分の服を着ている。サイズが合わない為、服に着られてしまっている彼女の姿は、理由の分からない庇護欲をかきたてた。

「ヤキモチ妬き」

ぽつりと聞こえてきた彼女の声は、その表情と同じように悪戯っぽい。整った見た目に反して、行動が可愛らしいせいかこうして時折、少し幼く見えた。

「うるせぇ」

くすくすと笑った苗字は、じっと相澤の姿を見つめる。しっかりと鍛えられた上半身は触れたこともあるというのに、明るい場所で見るのはどきどきとして目を伏せた。

 お互いの姿を見ることができず、顔を反らしながら歩いてきた二人を、ずっと見ていた白雲たちはニヤニヤとしながら待っていた。そして、やっと自分たちの元へやってきた相澤たちを楽しそうにからかい始めるのだった。

***

「ショータ、あれ行こうぜ!」

「行かない」

 白雲が指す先をちらりと見た相澤は考えることもせずに拒否した。彼が誘われているのは、この施設の目玉ともいえる巨大なウォータースライダー。キャーッと聞こえてくる悲鳴のような楽しんでいる声から、その迫力をうかがい知ることができるが、相澤が断った理由はそこではない。

「言うと思った。あんな長蛇の列に相澤は並ばねえよなァ」

山田の言う通り、相澤が拒否した一番の理由はそこだった。あんなにも長い列に並ぶ気には到底ならない。行きたいなら一人で行ってくれとばかりに、相澤は人の少ない25mプールの方へ視線を移した。

「んじゃ、行こうぜ苗字!」

「え? うわっ!」

 隣にいた苗字の手を掴んだ白雲と一緒に、彼女の背中を押す山田が走り出す。ぎょっとして振り返った相澤に構わず、白雲と山田は苗字を連れてウォータースライダーの列の中へ紛れてしまった。

 伸ばしかけていた相澤の手が行き場なく落ちる。彼女に泳ぎ方を教えに来たはずなのに、どうして最初に遊びに行ったのかと不満に思った。しかし、一番の不機嫌の理由は、そこではない。

 はぁっとため息をこぼした彼は、設置されているビーチパラソルの下に座った。聞こえてくるキャーキャーと騒ぐ声の方がどうしても気になってしまう。気にしないように努めても、目が三人の向かったウォータースライダーへと行った。

ガシガシと頭を掻いた彼は、もう一度ため息をつくと立ち上がり、ウォータースライダーの方へと歩き出す。きっと水に慣れていない苗字は気が進まないだろう。そこに気づいた相澤の足は、先ほどよりも少しだけ早くなっていた。

***

 目的地の長蛇の列はすぐに見つかったものの、彼らの姿は見つからない。人混みを分けるようにしながら少しずつ進んでいた相澤の手を、他の手が掴んだ。ハッと振り返るとそこにいたのは探していた一人。

「さっきから声かけてんのに、どこ行くんだよ」

 彼の手を掴んだのは、どこか焦ったような山田だった。近くには白雲も苗字の姿も見えず、山田はどうやら一人のようだ。

「お前、一人か?」

なんでと言わんばかりの相澤に山田は気まずそうに目を逸らす。そして、苦笑いをしながら、彼の手を離した。

「いや、この人混みだろ? はぐれちまってさ」

「……誰と?」

嫌な予感がして睨むように眉間にしわを寄せた相澤に、山田は乾いた笑いを漏らしながら小さく答えた。

「苗字……」

 大きな舌打ちを残し、彼は山田を無視して彼女を探し始める。少し離れたところで周囲を見渡している相澤に山田は、きっと見つかった後、白雲と一緒に文句を言われることは避けられないだろうなと渋い顔をしていた。

***

 この人混みの中で苗字を一人にしたら、浮ついた男が声をかけるのは間違いない。彼女なら上手くあしらいそうな気がするが、この場に自分がいて守ってやれないことが嫌だった。

 微かに聞こえてきた困った声。その声が彼女のものだと分かった相澤は、どこから聞こえてくるのかと周囲に視線を配った。

「あの、本当に、はぐれてしまっただけなので大丈夫です」

「じゃあ、他のオトモダチが見つかるまで一緒に探してあげるって」

チャラチャラとした二人の男に声をかけられている苗字の姿を見つけると、先ほどまで感じていた焦りは激しい苛立ちへと変わる。

「自分でなんとかしますので大丈夫です。遠慮します」

はっきりと言い切り、ついて行くことも、流されることもない凛とした様子。それが、相澤に冷静さを取り戻させた。

「名前」

 聞き逃さなかった彼女は彼の声をした方へ顔を向ける。見つけた相澤の姿に、彼女は淡く頬を染め、嬉しさでどこまでも優しい表情になった。

胸の跳ねた音を感じながら、彼はちらりと男たちに目を向けてから、苗字だけを真っ直ぐに見た。

「悪い、探した」

「いえ、見つけてくれて嬉しいです」

見つけてくれた相澤に微笑んだ彼女は、声をかけてきた男たちへと振り返る。

「それでは、失礼しますね」

 さりげなく腕を組んできた苗字に、先ほどよりも強く心臓が脈打つ。わざとなのか、そうではないのか、彼女がぴったりとくっついてくる腕に柔らかなものを感じている相澤はどんどんと赤くなっていた。

「すみません、助かりました。あの人たち、結構食い下がってきて……」

 しばらく歩いたところで、彼の腕から離れた苗字は申し訳なさそうな顔をしている。ブカブカのラッシュガードを着ているせいか、俯く彼女は怒られて落ち込む子どものようだ。

「何もなくてよかった」

小さく呟いたというのに、彼の小さな声は周囲の喧騒に紛れることなく苗字の耳に届く。優しく気遣う響きを持ったそれは、言外に"もう気にするな"と言っていた。

「もっと気をつけますね。消太くん、ヤキモチ妬いちゃいますから」

 ふふっと、冗談めかして言う彼女の手を、相澤の手が取る。

「消太くん?」

答えることのない彼を不思議に思いながら苗字は手を引かれていく。

「……妬いて悪いか」

 前を歩く相澤の耳が赤くなっているのを見た彼女は、また小さく笑うと、繋いでいる彼の手をギュッと握った。

「いいえ。消太くんに想われて幸せです」

穏やかな声に相澤が振り返ると、苗字は緩めた頬を赤くさせている。言葉通り幸せそうにしている彼女に、彼の胸も幸せであたたかくなっていた。

「ウォータースライダー、行きたかったか?」

「本当は全然。だって、水に慣れてないんですもん。怖いです」

肩をすくめて困ったように笑う苗字に、ホッと安堵の息をついた相澤は、ならと彼女を見る。

「今、25mプールが空いてる。だから……」

「消太くんが、教えてくれるんですか?」

照れ臭さでそっぽを向きながらだが、コクッと頷いた彼は横目で彼女を見る。嬉しそうに、にっこりとした苗字に相澤も、どことなく嬉しそうに目を細めた。

***

 初めに、彼女がどのくらい泳げるのかを確認するため、一人で泳がせる。水中から、プハッと顔を上げた苗字に相澤は静かに近寄った。

「けのびとバタ足はできてる。次、クロールのフォーム。分かるか?」

「えっと、こうでしたっけ?」

こんな感じですか?と腕を動かす彼女に頷いた彼は、息継ぎなしでクロールをさせる。

 懸命に泳いで息の続かなくなったところで、足をついた苗字は相澤へと振り返った。肩で息をしながら、真っ直ぐに見つめてくる彼女の黒い目は、いつもの穏やかさは鳴りを潜め、真剣さと必死さを感じさせる。

「もっと力抜け。動きが硬い」

「分かりました」

繰り返し繰り返し、何度も練習をしている苗字に相澤が、時折、近寄っては手本を見せる。息継ぎが上手くできないでいる彼女に助言をしている彼を、いつの間にかプールサイドに来ていた白雲と山田が微笑ましそうに見ていた。

***

 相澤に付きっ切りで教えてもらったお陰で、苗字はその日のうちにクロールで25mまで泳げるようになった。初めて25m泳ぎ切った彼女は、感動と嬉しさの混じり合いで体を震わせ、今にも泣き出しそうな喜びの溢れた顔で彼へと微笑む。

 今日何度目か分からない胸のときめきを感じながら、相澤も小さく俯いて口元を笑わせる。照れくささを誤魔化すように濡れた髪を掻き上げた彼に、彼女も今日何度目か分からない胸のときめきを感じていた。

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