答えはいずれ、聞きに行きます

 カタカタカタカタ。朝からパソコンと睨めっこをして、山のような書類を切り崩していく。私の職場は雄英高校。といっても私は教職員ではなく、ただの事務員だ。

 地味でこれといった長所もない。なんとなく地元から出て職を探していたら知り合い経由で雄英高校の事務員というものと縁があっただけ。縁故採用みたいなものだけど、気を抜かずに自分にできることを精一杯やっている。

「うーん、あとはこれだけか」

 思い切り伸びをしてから書類を一束、デスクの上で整える。不備のある書類は、あとで確認に回さなければいけない。今日中に処理できるようにと、書類を抱えて事務室を出た。

 まだ仕事に慣れてなかった去年は、仕事を覚えるのに必死で午前中にこなした書類の山をこんなふうに終わらせることはできなかった。今もそうだけど、ここは仕事の量と事務員の数が釣り合っていない。こなせるようになるまでは泣きたい気持ちになりながら、毎日必死に仕事をしていたのが少し懐かしい。

「オイ。ニヤけて歩いてると、またぶつかるぞ」

 もう少しで職員室だというところでかけられた声に、思わずドキッとしてしまう。振り返れば、そこには黒いつなぎのようなヒーローコスチュームに、首に捕縛武器を巻いた相澤先生がそこにいた。だるそうな表情で小脇に出席簿を抱えているところをみると、これから職員室に戻るところらしい。

「お疲れ様です。相澤先生」

 にこっと笑って挨拶をすれば、生徒に対してするような口調で"はい。お疲れ様"と返ってくる。さて、一応挨拶はしたわけだ。笑顔を消した私は、ムスッとした顔を相澤先生にへ向けた。

「私、ニヤけて歩いてませんから、変なこと言わないでください」

「鏡持ち歩くと便利だぞ。ニヤけた自分の顔がいつでも見られる」

なんで、こう毎回一々腹が立つようなことしか言ってこないのか! 悔しいけれど言い返す言葉が見つからなくて、下唇を噛むことしかできない。

「それ止めろ。また口、切っちまうぞ」

かったるそうな目にほんの少しだけ心配を含んだ目。この目が私は苦手だ。
 つい、やってしまう唇を噛む癖。言われて止めるのは癪だけど、仕方なく噛むのを止めた。

「相澤先生が一々腹の立つこと言うからじゃないですか」

「ガキっぽいから、そろそろその癖は辞めた方がいい」

心配してるんだか呆れてるんだか分からない口ぶり。いつも言い返せないのは、向けてくる目がどことなく優しいせいだ。

「ほら、少し手伝ってやるからさっさと歩け」

 私からさりげなく取った書類で、軽くポンとして先に歩いて行ってしまう背中。初めて会ったも、思えば彼は優しかった。

***

 ちょうど去年の今頃。私は半べそになって校舎内を走り回っていた。

 朝から回された仕事の量が尋常じゃなく、一日で終わる気がしなくて絶望しながらも先輩の指示通りに動く。私が抱える紙束は、持てる限界の重さ。それを持って職員室を探す。
 先輩も忙しさで目を回しているせいか、いつもより指示が雑だ。私もいっぱいいっぱいになりすぎて質問しなくてはいけないことをし忘れた。

「職員室ってどこ!?」

 あっちへ歩き、こっちへ歩きを繰り返しても、それらしい場所に出ない。それどころか、自分がどこにいるのかさえよく分かってない。こんなときに限ってスマホは事務室の自分のデスクの上。ときどき、書類の重さで腕が痛むから、廊下に置いて休憩を挟んだりもして、誰かが通りかかるのも待った。でも、そうそう都合よく誰かが通りかかったりはしなかった。

 事務室に戻りたくっても戻れないし、放課後になってしまったせいか人も全然いない。とりあえず、この先を進んで角を曲がってみよう。このまま、ずっと誰かが来るのを待っているよりもマシなはずだ。

「よいしょ」

 隣に置いていた書類の山を抱え直して立ち上がる。本当に重くて嫌になる書類と早くさよならしたい気持ちで、歩き出すといつの間にか早足になっていた。

 角を曲がった先に、ぽつんと歩いている人が見えた。相手が学生だろうが教員だろうが、もう誰でもいい。これでやっと迷子からは抜け出せるんだと思って、少し先を猫背で歩いている人影へ駆け寄る。

 安心でうっかりと私は忘れていた。自分が持てる限界ギリギリの書類の山を抱えていることを。最初は忘れていたから走ることができた。でも、思い出した途端、何かの個性でもかけられたんじゃないかと疑いたくなるほど、両手が重くなる。

「う、わぁ!」

 自分で自分の足に蹴躓いて、前を歩いていた人の背中へ思い切りダイブした。聞こえてきた短い驚いた声は低く、こんなときだというのにいい声だな、なんて能天気なことを考えていた。

 バサバサと音を立てて廊下一面に広がってしまった書類たち。反動で、廊下に尻もちをついた私とは違い、ぶつかった人はよろめいたものの、倒れたりはしていない。気だるそうな呆れたような目で見降ろしてきた人は、無精髭に癖のある長髪のせいか小汚く、使い込まれた黒いヒーローコスチュームから受ける印象はあまりよくなかった。

「す、すみません、すみませんっ!」

 慌てて謝罪を繰り返しながら、廊下に散らばった書類を拾い集める。急いでかき集めるけど、元の数が多いせいですぐに拾い集めることはできない。

「……いえ、大丈夫ですか?」

 こんな重たい書類ごと背中から体当たりされて、怒ってもいいはずなのに、さすがはヒーローなのか彼は怒るそぶりは見せずに、一緒に散らばった書類を拾い集めてくれる。

「本当にすみません!」

「今はいいから、先に書類を拾ってください」

 冷静な声音に注意されて、まるで先生に注意された気持ちにさせられた私は、"はい!"と返事をしてさっきよりも早く手を動かす。

なんとか全部を集めたら、今度は書類が全部あるかの確認だ。一枚でも失くしたら責任問題。一枚一枚数え出した私の隣で、見かねたのか彼も半分を確認してくれる。

「あの、本当にすみません。何から何まで」

申し訳なさで顔を上げられない私に、彼は"いえ"とまたも短く返してくれた。見た目ほど怖くも悪い人でもないのかもしれない。そう思いながら、ちらっと見てみたら彼は私よりもずっといい手際で書類の枚数を数えていく。その手際の良さに驚いて、つい見入ってしまった。

「……こっち見てても終わりませんよ」

「は、はい! すみません!」

また注意されて、慌てて視線を書類に戻す。もう注意されないぞ、と集中して数えていく私の耳には、書類がたてる紙の音すら聞こえなくなっていた。

 しばらくして私が数え終えて顔を上げると、とっくに数え終えていた彼は書類を綺麗にまとめていて、こちらを見ていた。

「そっち、何枚です?」

「えっと……」

数を答えれば、彼も確認した枚数を教えてくれて、お互いの数を足してみれば私が元から持ってきた枚数とぴったり同じだ。

「よかった。全部あります。本当にありがとうございます」

「職員室の場所くらい覚えたらどうですか?」

頭を下げた私にかけられた彼の抑揚のない声。少し考えてから顔を上げると、そこにはやっぱり最初に見たときのような気だるげな表情があった。

「え? あの、初めまして、ですよね?」

「そうですよ」

「じゃあ、なんで、私が新人って分かったんですか?」

人の心を読むとかそういう個性でないことを祈りながら心臓をバクバクさせていると、彼はまた淡々とした口調で答えてくれる。

「新人の事務員が入ったという連絡は教員にも回ってます」

「あ、ああ、そうですよね」

 ここで仕事を始めて二ヵ月。職員室の場所を覚えていない方がおかしいと思われたって仕方ない。でも、私は今日初めて職員室へ向かおうとしたんだから仕方ないじゃないかという気持ちもむくむくと沸き起こる。

「すみません。実は、今日"初めて"職員室に行くようにと言われたもので」

初めての部分をほんの少し強調して言い返してみたら、彼は意外そうに目を見開いた。

「初めて? 今までちゃんと仕事してたんですか?」

「してました! 書類作業を覚えるのがいっぱいいっぱいで事務室から出られなかっただけで、そんなサボってたみたいな言い方しなくてもいいじゃないですか!」

悔しくて、ついいつもの調子で下唇を噛む。私だって職場内のどこになにがあるかくらいは把握していた方がいいと分かってる。でも、あまり正論で追い込まれると言い返せない分、悔しくて仕方がない。

「……職員室、案内します」

「いいんですか?」

「まあ、戻るついでなんで」

 背を向けた彼は小さく振り返って、私がついてくるのを待ってくれる。大慌てで、書類を抱えて立ち上がれば、彼はゆっくりと歩き出した。

「あの、ありがとうございます!」

「いえ」

見た感じ、おしゃべりなタイプではないと思ってた。でも、まったく会話がないのも気まずい。

「えっと、私は先々月から事務員としてお世話になることになりました苗字名前です。よろしくお願いします」

「相澤です」

返ってきたものはやっぱり素っ気なくて、会話を続けようとするのは無理かもしれない。私が気まずいからって、無理やり話しても相澤先生は迷惑かもしれないし、ここは大人しくしていよう。

 よいしょ、と崩れそうになる書類を抱え直すと、横目でそれを見ていた彼が足を止めた。

「半分持ちます」

「え? いやいいですよ! 自分の仕事ですし、これ以上ご迷惑をおかけするわけには」

凄くありがたい申し出だけど、書類タックルをお見舞いしたあげく、拾うのを手伝わせたあげくにこの重い書類をもたせるのは申し訳なさすぎる。

「まだ仕事残ってるんでしょう? さっさと職員室にこれを届けて、事務室に戻った方がいい」

「それは、まあ、そうなんですけど……」

もごもごと口ごもる私のことなど無視して相澤先生は書類を半分よりも少し多く取った。

「あ、ま、待って!」

スタスタと歩いて行ってしまう猫背に慌てて声をかけても、彼は止まってくれない。

「言いたいことがあるなら歩きながらお願いします。時間が勿体ない」

それじゃ量が多すぎるとか、やっぱり自分の仕事だから責任持って全部持ちますとか言うことはたくさんあったんだと思うけど、でも、相澤先生の気遣いが嬉しくて、つい笑ってしまった。

「ありがとうございます」

 まるで難しい問題を正答した生徒にするみたいな、満足そうな笑みを口元に見せた彼は、"どういたしまして"と返してくれた。

そのあとは当たり前のように会話なんかなくて、二人で黙ったまま職員室まで歩いた。

***

 あれから少しずつ相澤先生だけでなく、他の先生たちとも話すようになって、ちょっとした雑談は誰とでもできるようになった。そしていつの間にか、私の胸にはほのかな想いがある。

 隣を歩く相澤先生をちらりと盗み見る。彼は私の視線に気づいているのか気づいていないのか、平然と前を向いたまま。

(こういう人はタイプじゃなかったはずなんだけどなぁ……)

 これまでの彼氏たちと比べても、好みだと思えるところは一つもない。だけど―――

「なんかあったのか?」

「え?」

「……ずっと見てるから何かあったのかって、聞いてんだ」

―――こうした、ちょっとした優しさがとても心地いい。表情はいつもと何も変わらない相澤先生の横顔に、勝手にドキッとしてしまって、どうしてか笑みが込み上げる。

「よく見ててくれるんですね。生徒じゃないのに」

「……苗字だからな」

ちょうど職員室についてしまった今、聞き直すことはできなくて、どういった意味のか分からず私はポカンとしたまま、彼を見上げた。
 ニィッといたずらっぽく笑った相澤先生は、持ってくれた書類で先ほどと同じように私の頭をポン、とすると、そのまま自分のデスクへと行ってしまった。

 顔が熱い。これは、そういうことだって自惚れてもいいのかな。そんなことを思っても本人に直接訊くことはできなくて、私は俯いたまま書類を根津校長に届けて事務室へと逃げ帰った。

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