恥さらしの子

 21時を過ぎた頃、桜は仕事に出る為、玄関に立っていた。

「じゃあ、すみません。雪乃のこと、よろしくお願いします」

「ああ、心配するな」

真っ黒な私服姿の相澤を見上げた桜は少し厚い封筒を差し出した。

「なんだコレ?」

「雪乃のメモです。基本的には寝てしまったら起きないんですが、今日はお腹の調子がよくなかったので、夜に目を覚ますかもしれません。目を覚ました時に、お腹が空いて眠れないかもしれませんから、冷蔵庫に入っているお粥を温め直して少しだけ食べさせてあげてください。あと、寝つきが悪いときは、胸の辺りを優しくぽんぽんってしてあげれば―――」

「―――お前、どんだけ雪乃と離れるのが心配なんだ」

止まりそうにない彼女の話を聞いていたら遅刻させてしまいそうだと、彼は話を切る。話を止められた意味を察した桜は恥ずかしそうに顔を赤くした。

「す、すみません。ちょっと過保護ですよね」

俯いて髪を耳にかけている様子に、彼女の気持ちが分からなくはない彼は、何も言わずに引き寄せた。

「お前が行ったら、メモもちゃんと読む。何かあれば連絡するからそんなに不安そうにするな。気が散ってると、つまらないことでケガするぞ」

「……そうですね。私がいなくても消太さんがいれば心配ありませんね」

ぎゅっと、背中に回った手が離れていくのを感じた相澤は眉間にしわを寄せる。怒ったような顔をした相澤に、桜はきょとんと目を瞬いた。

「お前がいないと俺が平気じゃない。だから、つまらねぇケガとかしてくんな」

口にして今さら恥ずかしくなったのか、居心地が悪そうに目を逸らす彼に彼女はくすりと笑う。

「そうですね。それじゃあ、ちゃんとお仕事に頭を切り替えて行ってきます」

「桜」

 出て行こうとする桜の手を引く。彼女の振り返りざまに、そっと唇を奪った彼はしたり顔を見せた。

「いってらっしゃい」

「い、いって、きます……」

パタンと、ドアが閉まったのを見送った相澤は、表情は変えなかったが、今日は勝ったとばかりに小さく手を握って喜んだ。一方、ドアの外では、口元を押さえた桜が背中をドアにつけてズルズルと座り込んでいた。

(あ、あれは反則じゃ……?)

真っ赤な顔を覆ってから、やっと彼女は仕事へと駆け出した。

***

 桜を見送った相澤はコタツに足を突っ込んで、彼女からのメモを開いた。

「メモっていうか指示書だろ。コレ」

ぎっしりと便せん何枚分にも渡って書かれている内容になんだかんだ思いつつも彼は目を通していく。

 パジャマや下着を汚してしまったときの替えの場所、お粥の味が薄かったときは塩か醤油を少しだけかけてあげてほしい、寒がったら湯たんぽを入れてやってほしい、その湯たんぽの場所など。どれもこれも細かく書かれているが、相澤の知らないこともそこそこ書かれていて馬鹿にできなかった。

(心配なのは雪乃だけじゃなくて、俺のこともか)

普段から育児を手伝っていないわけではない。しかし、知らないことが多いのは、やはり家にいる時間が雪乃の起きている時間と重なっていないことが原因だろうかと、上を向いた相澤は額に腕を乗せてため息を吐き出した。

(何も言ってこない、けど……負担だよな)

 彼女一人に雪乃のことを押し付けて、ツラいことをツラいと言えなくなる状況にしたくはない。どうしたらいいのかと考えていると、ふと、時計が目に入った。
 時間は、すでに桜が家を出てから40分は過ぎていることに気付く。そろそろ雪乃の様子を見に行こうと彼はコタツから出た。


 相澤が寝室へ様子を見に行くと、雪乃は大人しく眠っていた。寝返りを打った弾みで布団が半分剥がれている。それを直してやろうとしたとき、彼女が腹巻をしていることに気が付いた。

オレンジ色に可愛らしい羊の絵が描かれている腹巻はもこもことしていて温かそうだ。

 桜との暮らしの中に、こうして雪乃がやってきてもうすぐ三ヵ月が経とうとしていた。あどけない寝顔を見せる彼女を見ながら、添い寝をしていた相澤も微睡み始める。そして、あの日のことを夢に見た。

***

 わぁわぁと小さな公園に響く幼い子どもの泣き声。母親とはぐれて泣いているようなものではなく、心の底から絶望している、子どもらしからぬ泣き声だというのに、周囲のヒーローたちは様子を見ているだけで子どもに近寄ろうとはしない。

正確には近寄ろうとしても近寄れない。近くに(ヴィラン)はいない。しかし、その現象は起きている。つまり、これは泣いて感情が乱れている子どもが個性を制御できずに暴走させてしまっているということだ。

「君! 落ち着きなさい!! 必ずおうちに送って行くから!!」

 様子を見ていたヒーローたちの中の誰かが声をかけても、子どもは大きく首を振った。宥めるつもりの言葉が更に子どもの個性を暴走させてしまう。

 どうしてヒーローたちが近づけないのか。この状況ではナンバーワンヒーローであるオールマイトもお手上げだろうと集まっているヒーローたちの一人が口にした。規制線を張り、一般人を完全に遠ざけているヒーローたちも難しい顔をする。

彼らが得ている情報は、泣いている子どもが女の子で、個性は得体が知れないということ。

 初めに子どもを見つけたヒーローが植物を操る個性で、子どもを抱き上げようとした。しかし、子どもの少し前のところで操っていた植物が綺麗さっぱり消えた。何度試しても変化はなく、他のヒーローたちの個性も泣いている子どもの前までは決して届かない。

 だんだんと強くなっていく個性で、地面や落ち葉、近くの遊具も消えていく。

「クソ! 一体どうすれば……!!」

苦しそうな泣き声が一層強くなり、物の消えていく範囲が広がっていく。その時だった。

 ぷすん、とスイッチが切れてしまったように子どもの個性が止まる。びっくりしてきょろきょろとしている子どもの前に、黒いヒーローコスチュームの男が歩いてきた。

「個性を消した。今は何をしてもお前は個性を使えない」

 髪を逆立て、目を赤くしているヒーロー、イレイザーヘッドは、女の子の視線と合わせるためにしゃがみ込む。視線を合わせた彼は、その子どもの顔立ちに内心、驚いていた。

「なんで、こんなことになったのか説明してもらう。まずはおうちに連絡を―――」

「ダメ!!」

泣きすぎて掠れた声で叫んだ子どもに驚いて目を見開いた相澤は、すぐに小さく息を吐き出す。

「そういうわけにはいかない。どうしてこうなったのか話してくれれば、お父さんとお母さんに怒られないように説明するから」

ブンブンと顔を左右に振った子どもは、また涙をボタボタと流し出す。

「うえぇ、ご、ごめん、なさい……。いなく、なれなくて、ごめん、なさい……!!」

地面に蹲って泣き出した様子に怯えのようなものが含まれている。どこか異様な光景に相澤だけでなく、駆け寄ってきたヒーローたちも困惑していた。

***

 警察署の休憩所に置かれた、病院の待合室にあるようなソファーに彼女はちょこんと小さく座っていた。
 取り調べの結果、公園で泣きじゃくっていた子どもの名前は、雪乃。年齢は4歳。届け出を確認した警察は子どもの個性に頭を抱えた。

「まいったな。これ、なんにでも有効ってことか?」

「こんなの発動されたらたまったもんじゃないぞ」

相手が子どもだから分からないと思っているのか、数人の警察官が雪乃の前で迷惑そうに話している。俯いて萎縮している彼女の隣に立っていた相澤が話している警察官を睨む。しかし、そんなことに気付かない警察官はベラベラと余計なことばかり話していた。

 "消去"という彼女の個性は、彼女の意思があればありとあらゆるものを消してしまう。今、精神状態が不安定な雪乃は、いつ、また個性を発動させてしまうか分からない。その為、話がつくまで個性を消すことのできる相澤が付き添うことになっていた。

 俯いたまま、目に一杯の涙を溜めている彼女。やはり顔立ちが彼の最愛の人によく似ている。そのせいか、彼はこの子どもを放っておけなくなってしまう。諦めたように小さく息を吐き出した相澤は頭を一つ掻いて、俯いている彼女の為に目の前でしゃがみ込んだ。

「……あんなところで何をしようとしてたんだ?」

 ぴく、と体を跳ねさせた雪乃は相澤に話しかけられたのが意外だったのか、恐る恐る顔を上げる。愛想のない彼におどおどとしながら、彼女は上目で様子をうかがった。

「別に怒ったりしないから、話してごらん」

じっと見てくる目をどう思ったのか分からないが、戸惑った様子で雪乃は口を開く。

「……消えようと思った、から」

 呟くような小さな声は、署内の騒がしさに埋もれてしまい聞き取りづらい。

「なんで?」

ちらり、と相澤を見た彼女はしばらく目を見てから、困ったような顔をして黙り込む。彼は何も言わずに雪乃が話すのを待っていた。

「……わ、わたし、ダメ、だから……なんにもできない……」

勢いを取り戻した涙がボロボロと零れだす。両手で涙を拭う彼女はもうそれ以上、話してはくれなかった。

***

 その日の午後、相澤とこの仕事を押し付けられた若い警察官が雪乃を家に送り届けることになった。前を向かず、下を向いたままついて歩くだけの彼女は警察官に手を引かれていた。

 一般的な一軒家よりもずっと広いその家は武家屋敷と言い表した方がしっくりとくる。事前に連絡を入れていたこの家の敷地に足を踏み入れると、母親と思しき女性が玄関から顔を出す。

「おか、さん……」

求めるような目で見られた母親は、嫌悪感を隠さず雪乃を一瞬見下ろした。それに気づいた相澤は、この親子の歪んだ関係が見えて舌打ちをしたい気分にさせられる。

「ご迷惑をおかけして申し訳ございません。まったく、本当に出来の悪い子で……」

 しおらしい態度を見せる母親に警察官の方は、何も気づいておらず、"これからは公共の場で個性を使わないでね"などと、雪乃に注意をしている。
諦めたように無表情になった彼女へ母親の声がかけられた。早く家に入れと促されても、雪乃は動かず、もう一度母親から強い声がかけられると、大袈裟なほど体を震わせた。

「……それでは、我々はこれで」

 警察官を促し帰ろうとする相澤へ母親の作り物のような愛想のいい笑みが向けられる。そして、彼女の諦めたような目を見てから、彼はそこから目を逸らして敷地の外へと踏み出した。

「ちょっと待ってください」

 門の外に出た相澤は警察官を引き留める。振り返った警察官は不思議そうにしながらも相澤の隣に立った。

 そして相澤の予想通り、5分もしないうちに屋敷の中から大きな物音がしてきた。

「なんで満足に消えることもできないの!!」

ヒステリックな金切り声が聞こえてくるが、子どもの泣き声は一切聞こえてこない。

「私たちに迷惑かけることばかりして、アンタはどうしてあの子みたいにちゃんとできないの!!」

バチン!!と大きく聞こえた音の後、倒れ込む音がした。急いで雪乃の家の玄関を開けば、先ほどの品の良い母親の姿はなく、そこには髪を乱し鬼のように目を吊り上げた女と玄関の三和土(たたき)に倒れて動かない小さな子どもがいた。

 なんとか動けた子どもが起き上がろうとしているのを手伝う相澤の横では、若い警察官がおろおろと子どもと母親の間を行ったり来たりと視線を彷徨わせている。

「倒れたとき、頭打ったか?」

首を振る子どもに相澤はアレコレと質問を繰り返していき、目立った外傷は顔の腫れだけで、後は特に問題はなさそうだと一先ずは安堵した。

「あの、これはどういうことか説明していただけますか?」

戸惑いながらも問い質す若い警察官を母親は、ふん、と乱れた髪を撫でつけながら顔を逸らした。

「どうもこうも……。ただの躾です」

 小さな手に袖を掴まれた彼は視線をそちらへ向ける。悲し気な顔をしている雪乃は泣きもせず、叩かれた頬を腫らし、鼻血を垂らしていた。ハンカチなんて気の利いたものは持っていない相澤は、応急処置用に持ち歩いているガーゼを取り出す。彼女の鼻にそれを当ててやるとみるみる白い部分は赤く染まっていった。

「玄関先で何を騒いでいらっしゃるんです?」

 廊下の奥から現れた着物を着た男の声に、雪乃の体が異常なほど強張る。カチカチと奥歯が噛み合っていない音をさせている彼女の小さな肩を相澤の無骨な手が守るように包んだ。

「あの子、帰ってきたんです」

 さして興味のなさそうに言った母親と同じように、着物の男はつまらないものを見る目で雪乃を見下ろす。

「ご迷惑をおかけしたようですね。……どうぞ、おあがりください。お茶くらいしかお出しできませんが」

温度のない冷たい口調で招かれたことに若い警察官は戸惑いの目を相澤に向ける。どうすればいいんですかと言わんばかりの目に、相澤は頷いた。そして、中へ上がる前に雪乃へと視線を戻す。

「まだ垂れてくるだろうから、これでもう少し押さえて」

 小さく首を縦に振った彼女の頭をそっと撫でる。子どもの髪とは思えないほどに傷んだ髪はきしきしとしていた。

「……どうぞ」

最初の愛想はどこに行ったのか、迷惑そうにしながら母親が背を向ける。確信を得るために、立ち上がった彼は雪乃の手を取った。

 取られた手を見上げた小さな彼女は、こんなにも大きな手が優しく握ってくることを不思議に思う。大人の男の人に、こうして優しく手を握ってもらったことよりも、疎まれて払われたことの方が多い。どうして、この人はこんなに優しく手を握ってくれるのだろう、と雪乃は繋いでいる手から目が離せなかった。

 きっと、これからよくないことが起こる予感がしているのに、相澤に手を引かれながら歩く自宅の廊下は初めて歩く場所のようで、どうしてか彼女の胸の中心はぽつん、と一つ温かかった。

***

 通された客間では、すでに雪乃の父親である着物の男が座って待っていた。その向かいに座ると、大きくため息を吐かれる。

「そこの恥さらしが大変ご迷惑をおかけしました」

仕方がなさそうに頭を下げる男は、顔を上げる際に彼女を睨みつけた。体を縮こませる雪乃は俯いて顔を上げない。さすがにあからさま過ぎる態度に若い警察官も気づいたようで、あの、と口を挟む。

「まだ、小さい子なんですからそんな言い方をしなくても……」

「歳は関係ありません。それは我が家の恥さらしです」

 襖の向こうから現れた母親の持ってきたお茶を啜った男は、大袈裟なため息を吐く。

「……彼女が問題を起こしたのはあなた方の態度が原因なのでは?」

冷静な相澤の目に男は不快そうに顔を顰めた。まるで自分たちには何の非もないと信じ切っている様子が簡単に見て取れる。

「それは我が家の個性を継げなかったのですよ。出来のいい姉と違って、むしろ正反対の個性なんて持って生まれて」

嘆かわしいと吐き捨てるように言った男に、相澤の眉間にも薄っすらとしわが刻まれる。

「個性?」

「我が家は、かつては名門と言われた家の分家なのですが今は本家も力を失い、我々は我々だけで立て直してきたのです」

ふぅ、と短く息を吐き出すと、男はどこか誇らし気に語りだす。

「ご存じありませんか? 付加という個性なのですが、これを施された物体は施されていないものとは比べ物にならない性能を持ちます。昨今の社会で大分お役に立てていると自負しているのですが」

「それが、この子とどう関係があるのか話が見えません」

お前の自慢話には興味がないとばかりに切り捨てた彼に、男はふん、と鼻を鳴らした。

「その子の個性はその真逆。価値を与えるべきものすら消してしまう」

きつい眼差しでギロリと雪乃を睨みつけた男は、深々と嫌味なため息を吐く。そのタイミングで男の後ろの襖が少し開いた。その間から顔を覗かせた女の子は雪乃より、いくつか年上のようで、話に出てきた姉だというのが分かる。彼女の姉は、妹が親に悪く言われているのが分かったのか嬉しそうに歪な笑みを浮かべた。

「それだけも恥だと言うのに、こうして世間で迷惑までかけてきて……。お前はどれだけ私たちを不愉快にするんだ」

それまで黙っていた母親も男に頷いて口を開く。その言葉はあまりにも残酷で、相澤も若い警察官も自分の耳を疑った。

「自ら消えることも満足にできないなら、いっそ私たちの記憶の中から消えて頂戴」

「い、いくら何でも酷すぎます!! なんで、そこまで!!」

思わず食って掛かった若い警察官を宥めようとした相澤の後ろで雪乃はぎゅっと唇を噛みしめる。涙を腕で拭った彼女は、片手を向かい合う両親へと向けた。そして、そのまま真横へそっと払う。すると、これまで、よく話していた二人は呆然としたまま動かなくなった。襖の奥にいる姉も同じ様子で呆然した目でこちらを覗いている。

「も、もしもし?」

 何が起きたのかと相澤と若い警察官が雪乃の両親を見ている間に、彼女はぽてん、と座り込んだ。その音に気づいた相澤が俯いている雪乃に声をかけようとすると、困惑気味に声がかけられる。

「あの、すみません。これまでなんのお話を……?」

「は?」

 これまでの高圧的な態度は鳴りを潜めた二人の態度に、若い警察官はおかしなものでも見るように眉を寄せた。

 まさかと雪乃を見た相澤が彼女へ声をかけようとすると、母親の声が先にかけられる。

「あら、お嬢さん鼻血が出てしまわれたの? 服にもついてしまって……。娘のものでよければ着替えがありますわよ」

「ああ、気の毒だから早く持ってきてあげなさい」

部屋を出て行った母親と同じく、着物の男も先ほどの威圧的なものとは打って変わって、親切な態度を見せる。その態度に嘘がないことが分かった相澤は、確信をもって雪乃を見た。

「君がやったのか?」

 小さく頷いた彼女が具体的に何を消したのか分かった彼の目は大きく見開かれていた。

「そういえば、どうして我が家に警察の方とヒーローが?」

 男に訊かれた若い警察官が狼狽えて口をまごつかせている。ええっと、と何を言おうか迷っている警察官に代わって相澤が説明を買って出た。

「この子の家を探しています。迷子なのですが、こちらの前を通りかかったときに転んでしまいまして、奥様に手当てをと勧められてお邪魔しています」

「そうでしたか。申し訳ありません、少しぼうっとしていたようではっきりと覚えていなくて……」

咄嗟についた相澤の適当な説明に納得した男は、雪乃の顔を見ると可哀そうにと顔をしかめる。

「本当だ。顔が腫れてしまって可哀そうに。でも、擦り傷がないようでよかった。女の子の顔に何かあっては大変ですからね」

「……まったくです」

感情のこもっていない返事をした相澤に気づかず、うんうんと頷く男に警察官は、やはり信じられないような目を向けている。

「お嬢さん、着替えの用意ができましたよ。こちらにいらっしゃい」

さぁ、と呼ぶ母親によろめきながら立ち上がった雪乃は小さく首を振った。

「おうち、思い出しました。さようなら」

 頭を下げた彼女の気持ちを理解した相澤も居住まいを正して頭を下げる。

「本人が大丈夫だと言っていますので、私たちはこれでお(いとま)致します。ご協力、ありがとうございました」

「あ、ありがとうございました」

相澤に倣って慌てて頭を下げた若い警察官と一緒に、雪乃の両親だった二人に見送られて屋敷を出る。
 その間、相澤は決して雪乃の手を離さなかった。ずっと俯いていた彼女はしばらく歩いたところで、小さな声を漏らし始める。

「う、うぁ……あ」

ボロボロと涙を流し始めた雪乃の手を強く握った彼は隣に立ちながら何も言わない。

 どうして彼女が泣き出してしまったのか、どうしてそれをあやさないのか、そして、先ほど雪乃の家では何が起きたのか。疑問だらけの警察官はたまらず相澤に尋ねる。

「イレイザーヘッド、あの、この子はどうして泣いているんですか? それにさっきのご両親の様子は……」

 泣いている彼女の小さな後頭部を見下ろしながら、相澤はまだ予想でしかないことを確かめる。

「家族から、自分の記憶を消したんだろ?」

ボロボロの服の袖で涙を拭いながら頷いた雪乃に警察官は目を見開いた。

「そ、そんなことが、本当に……? こ、効果はどれくらい?」

答えず泣き続ける彼女の代わりに、確信を持った相澤は警察官へ視線を向ける。

「……戻らない。だから泣いてんだ」

ぐっと唇を噛みしめる。どうして、この子の前で言葉にさせるんだと思いながら、相澤はやり切れない気持ちで、しゃくり上げて泣き出した雪乃の手を握った。

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