朝食を終えてしばらく経った頃。相澤は仕事に行く為、玄関で靴を履いていた。
「じゃあ、あと頼む」
「はい。気を付けてくださいね」
にこっと笑顔を向けてくれる彼女、防人桜の見送りを未だに照れくさく感じてしまい、目を逸らしたくなる。しかし、いつまでもそんなことでいたら慣れるものも慣れないような気がして、相澤は努めて彼女から目を逸らさなかった。
ふっ、と目元を和らげた桜に、顔が赤くなってしまったのを感じながら相澤はすぐ、彼女の腕に抱かれた存在へ目を移す。4歳か5歳ほどの女の子は抱き上げている桜にしがみつくようにしている。
「ほら、雪乃。行っちゃいますよ」
相澤の方へ小さく振り返った雪乃と呼ばれた女の子は戸惑いながらおずおずといった感じで桜によく似た口元を動かした。
「いって、らしゃい……」
「ああ。行ってくる」
ぽん、と相澤の手が雪乃の頭を包むように撫でる。そして、桜が彼女の小さな体をぎゅっと抱きしめた。
「上手に言えました。頑張りましたね」
よしよしと青味がかった白い髪を撫でられた雪乃は上手く笑えないながらも嬉しそうに頬を染めている。
目を伏せて撫でていた桜は長いまつ毛を揺らして、ゆっくりと目を開けた。その様子に見入っていた相澤へ彼女は優しく微笑んだ。
「いってらっしゃい、消太さん」
「お前も、何かあったら連絡しろよ」
結局、照れくささで目を逸らした相澤は、くすくすと桜に笑われながら見送られた。
***
事務仕事を終え、外が暗くなってきた頃。相澤は街中へパトロールに出ていた。
まだベロベロに酔うには早い時間だというのに、向かいからは千鳥足で歩いているサラリーマン姿の中年男。なんとなく嫌な予感がした相澤は自販機の横に立って中年男の様子を見た。
中年男の後ろの方から飛び出した人影。それは思い切り中年男にぶつかって走り去っていく。よろめいた中年男は危うく、電柱にぶつかりそうになるが、寸前で相澤の捕縛武器に体を捕まえられて助かった。そこでホッとすることなく、彼は間髪入れずにぶつかっていった人影を追いかけた。
相澤が捕まえた人影の正体はまだ若い男だった。体を捕縛武器で締め上げられた男は苛立っているものの諦めているようで大人しく座り込んでいる。彼のポケットから財布を取り出した相澤は、電柱へ話しかけている中年男に近寄った。
「これ、貴方のもので間違いないですか?」
「んんっ!? これはアテクシのお財布ちゃんではありませんか! まったく勝手にお外に遊びに行っちゃ〜、メッ!!」
思った以上に酔っ払っている男に呆れながら、相澤は関係機関に連絡を取り始める。その間もこの酔っ払いの中年男は財布に説教をしていた。
はあ、っと大きなため息をこぼした相澤は酔っ払いの中年にやっと解放され精神的な疲労を感じていた。
「YO! お疲れ!」
一人やっと相手をし終わったというのに、また面倒くさいのに捕まったと思った相澤は嫌そうな顔を隠さない。
「なんつー嫌な顔してんだよ! 忘れたのかァ? 誰がお前とお前の嫁の間、取り持ってやったのか!」
「今、その話は関係ない」
仏頂面で歩き出した相澤の隣を山田は当たり前のように歩き出す。
「おい、なんでこっちにくるんだよ」
「俺もこっちに用があんだからしかたねーだろ。なあ、それより、あの子どうしてる?」
山田のいうあの子とは、雪乃のことだ。家を出る前の様子を思い出しながら相澤は口を開く。
「どうも何もまだ二か月だ。そんなにすぐ変わったりしない」
「……そうだよなァ」
上を向いて、ため息を吐いた山田の気持ちも理解できなくはない。相澤もできれば早く雪乃に安心して生活ができるようになってほしいと思っている。
吹き付けた冷たい冬の風に首をすくめる。捕縛武器の中に鼻先を埋めながら、相澤は雪乃と初めて会った日のことを思い出していた。
***
夜も19時を少し回った頃、相澤は桜と雪乃の待つ家に帰った。
「ただいま」
そう言いながら靴を脱いでいると、リビングの方から視線を感じて顔を上げる。見つかったことに驚いたのか、小さな影はリビングに引っ込んでしまった。
なんだ?と思いながら廊下を歩き始めた相澤に、桜が洗面所からひょっこりと顔を出した。
「すみません、お出迎え出来なくて」
お帰りなさいと微笑む彼女に彼の目はみるみると丸くなる。
「なんだ、ソレ……?」
「え? ああ、これですか? 香山先輩にもらったんです」
風呂上がりのいい匂いをさせた桜が着ているのは、フードに猫の耳がついたパーカー。子どもっぽく感じられるが、妙にそれが似合っている。
「あ、ほら、雪乃! 消太さん、帰ってきましたから見せてあげてください」
またリビングのドアから顔を覗かせた雪乃はもじもじとしていて、なかなか出てこない。仕方ないなぁと苦く笑った彼女に手を引かれて、相澤はリビングへと入る。
「ほら、消太さん、可愛いでしょう?」
今の自分の姿を見られてしまった雪乃は真っ赤になって桜と同じ猫耳パーカーのフードを深くかぶった。フードの脇から覗く青みがかった白い髪。その白い髪と同じ、白猫のパーカーを着ている雪乃の頭を相澤は優しく撫でた。
「よく似合ってる」
「可愛いって言ってるんですよ」
相澤の頬を軽く摘まみながら笑っている桜を見上げる。その視線に気づいた二人は、小さく笑いかけた。
「ね? 言った通りでしょう?」
「う、うん……」
風呂上がりにパーカーを着せられる前、桜に"消太さんもきっと可愛いって言ってくれますよ"と言われていた雪乃はその言葉が当たったことに驚いていた。驚きと恥ずかしさが混ざって落ち着かなくなった雪乃はパーカーの裾を握ってもじもじしているが、先ほどよりもずっと嬉しそうだ。
「外には他にも可愛い服が売ってますから、早く雪乃と一緒に見に行きたいな」
「一緒……? 行っていいの?」
そんなことが許されるのかと確かめるような目に、桜は"雪乃と一緒に行きたいんです"と微笑んで小指を差し出す。
「信じられないなら、約束しましょう」
「うん……」
決まり文句を歌いながら繋いだ小指を上下に振っている彼女に合わせて雪乃の小さな手が揺れる。照れくさそうにしてる様子に相澤はホッとして微かな笑みを口元に浮かべた。
「消太さん、消太さん」
「ん?」
振り返った彼の前では、雪乃の手を取ってにゃんポーズをしている桜。恥ずかしさで真っ赤になった雪乃がきつく結んでいた口をゆっくりと開く。
「に、にゃあ……」
そう雪乃が声をだした瞬間、パシャっと相澤の手の中にあったスマホがシャッターを切った。驚いたのか目を丸くさせている雪乃の様子も一枚、写真に収められる。
「雪乃が可愛いから、写真を撮ったんですよ」
放心している雪乃の頭を一撫でして、桜はスマホの画面を見入っている相澤の横に立つ。
「わぁ、可愛く撮れてますね! 私にも送ってください。あ、でも、その最後の写真は消してください」
「ヤダ」
「ヤダじゃありません。私しか映ってないじゃないですか!」
「ヤダ」
ヤダと消してくださいを繰り返している二人を見てから雪乃はフードについている猫の耳を触る。
(可愛い……)
きっと二人が言っているのは自分ではなく、この白い猫のパーカーのことだと思う。それでも、この可愛い猫のパーカーを着させてもらえるだけで十分、嬉しくて、雪乃はフードについている猫耳を何度も撫でた。
「雪乃?」
いつの間にか膝を抱えてしゃがみ込んでいた桜に顔を覗き込まれていた雪乃は驚いて目をパチパチと瞬いた。そして、きょろきょろと視線を走らせる。
「消太さんなら、お風呂行っちゃいましたよ」
「あ、うん……」
目を泳がせている雪乃に、何を考えているのかピンときた桜はくすりと目元を和らげた。
「私たちが言ってる可愛いは、雪乃のことですよ」
「う、え……?」
零れ落ちてしまうんじゃないかと思うほどに大きく目を見開いた雪乃は信じられない気持ちで桜を見つめる。
「本当です。可愛い雪乃が、この猫さんの可愛いパーカーを着たから、もっと可愛く見えます」
「お、お姉ちゃんも」
ん?と首を傾げた桜に、雪乃は胸の前で指をもじもじと動かしながら落ち着かない様子だ。何か言いたげにしてる彼女を急かすことなく待っていると、雪乃はやっと話し出す。
「か、可愛い、よ」
目を瞬いて何も言わない桜にやっぱり言うんじゃなかったと後悔し始めたとき、ぎゅっと抱きしめられた。
「な、なに!?」
「雪乃にそう言ってもらえて嬉しいんです。ありがとう」
耳元から聞こえてくる楽しそうな桜の声がくすぐったい。頬が熱くなってしまうのを感じながら、雪乃も彼女に抱き着いた。
「……オイ」
リビングに響いた低い声。どこか不満を含んでいる声に雪乃の体はびくりと震えあがる。
「あ、お風呂どうでした? 今日は、頂き物の入浴剤を使ってみたんです」
疲れがよく取れるそうですよ、という彼女をじっと睨むように見ている彼はむぅっと下唇を突き出していた。
「入浴剤じゃない。なんだコレは」
「とってもよく似合ってます。可愛いですよ」
にこっと笑う桜の視線の先にいる相澤は、用意されていた服になんの疑いもなく袖を通した。そして洗面台の鏡に映った自分を見て、彼女にヤラれたと思わされた。
「前にネットで買ったんですけど、メンズの大きなサイズで届いてしまってクローゼットの奥にしまってたんです。よかった、サイズぴったりですね」
「サイズはな」
相澤が着ているのは黒いパーカー。それにも、もちろん彼女たちが着ているものと同じく猫の耳がついている。
「雪乃は白猫、私は白黒のハチワレ、消太さんは黒猫。みんな違うんですけど、お揃いっていいですね」
楽しそうにしている桜に文句を言いたい気持ちが失せてしまう。彼女が笑うのであれはそれでいいと思わされてしまった相澤は悔しさでまた下唇を突き出していた。
せっかくだから三人で写真を撮ろうと言い出した桜から逃げるように立ち上がった相澤だが、それも一足遅い。並んだ二人が、自分が隣に来るのを待っている目を見てしまえば、彼は嫌だなんて言い出せなくなってしまう。仕方なくため息を吐き出してから、相澤は桜の隣に座る。
「じゃあ、雪乃はここですね」
大人二人の間に座るように指示された雪乃は、大人しく指定された場所へ座る。こっそりと相澤と桜を見上げると、二人からは自分と同じボディソープの匂いがすることに気づいた。
「あれ? おかしいですね」
上手く写真を撮ることができず、首を捻る彼女に彼が呆れたような声をかける。
「それ動画になってないか?」
「あ、本当だ」
あはは、といつもの誤魔化し笑いをする桜にやれやれと思った相澤は、雪乃の視線に気づいて顔を向ける。その横では桜がまだスマホの設定に苦戦していた。
「どうした?」
「あ、え、えっと……」
まさか気づかれると思っていなかった雪乃は目を泳がせながら迷っていた。言うなら早く言わなくてはと思うけれど、緊張で上手く口が動いてくれない。口を開いては閉じてと繰り返していると、大きな手が何も言わずに雪乃の頭を撫でる。
愛想のいい顔ではないけれど、とても優しい彼が自分が何か話すのを待ってくれている。そう思うと雪乃の口はすんなりと動いた。
「消ちゃん、あのね、あの、雪乃もお揃いで嬉しいんだけど、消ちゃんは……?」
先ほどの桜の"お揃い"という言葉に彼女も喜んでいたのだろうと察した相澤は、フッと表情を和らげる。
「そうだな。俺もだよ」
食い入るようにその表情を見た雪乃は"そっか"と俯いた。胸に湧き上がる温かくて、くすぐったい気持ちをこぼさないように、きゅっと唇を噛みしめる。
「で、できた!」
今の今までスマホの設定に手こずっていた桜の顔いっぱいに達成感が見て取れる。
「随分、時間かかったな」
「この前変えたばかりで、まだ上手く使えないんです」
疑いの目を向ける相澤に気づかないふりをして、"さ、写真を撮りましょう"と、とぼけた桜は、外れかかっていたフードをかぶり直した。
「じゃあ、撮りますよ。ここを見てくださいね」
レンズの位置を指さした彼女へ、バカにするなと含んだ声がかかる。
「それくらい分かる」
「消太さんに言ってるんじゃありません、雪乃に教えてるんです」
まったくと言いながら桜の表情は柔らかい。同じように相澤の表情も優しいことが分かる雪乃は、どうしてか自分も嬉しくなっていた。
シャッター音が数回した後、確認の為にスマホの画面を覗き込んだ桜は、あっと短い声を漏らして目を丸くする。
「桜?」
何かあったのかと心配する彼に彼女は動揺した顔を上げる。その動揺は不安や困惑といった負の感情にもたらされたものではなく、喜びに満ちていた。
「消太さん、コレ……」
差し出された画面を見た相澤も目を見開く。
「お姉ちゃん? 消ちゃん?」
自分が何か失敗してしまったのかと、おろおろしている雪乃へ二人の視線が向けられる。びくり、と体を強張らせた彼女へ桜は今日一番の笑みを見せた。
「すっごく可愛く撮れてますよ」
恐る恐る覗き込んだ画面には、撮ったばかりの写真が表示されている。その写真には、愛想のない顔をしている相澤と、にこにこと笑っている桜。そしてその間で雪乃が赤くなった顔で嬉しそうに小さく笑っているように見えた。
「これ、印刷して部屋に飾りましょうね」
初めて会った日の怯えきって部屋の隅で小さく蹲っていることが多かった雪乃のことを思い出すと、あの頃の心配や不安に初めて抱っこをさせてくれた日のことなどが、次々と桜の胸に去来する。感慨深そうに目を閉じた彼女は楽しそうに、ふふっと口元を笑わせた。
「なあ―――」
自分にも送ってほしいと言いかけた相澤のスマホが通知で震える。仕事かと、すぐに確認した彼は彼女から送られた写真を見て僅かに嬉しそうな顔をした。
「ほら、雪乃が可愛いものだからニヤけてますよ」
見られていたことに気づいた相澤がバッとスマホから顔を上げる。くつくつと笑っている桜の腕の中で雪乃は目を閉じていた。
「寝たのか?」
「今日はいつもより少し夜更かししてますから」
普段は20時ごろには寝ている雪乃にとって、この時間まで起きていることは珍しい。それほど楽しかったというのであれば、相澤と桜は喜ばしかった。
「明日も何か雪乃の好きを見つけましょうね」
小さな優しい声をかけられても、すでに寝入っている雪乃には聞こえていない。無防備に眠る小さな背中を愛おしそうに撫でながら寝室へ連れて行こうとする彼女へ彼は手を伸ばした。
「俺が運ぶ」
「お願いします。私はその間にご飯の用意をしておきます」
そっと、雪乃の体を相澤に丁寧に渡す。桜から彼女を受け取った彼は起こさないように注意しながら寝室へと歩いて行った。
***
彼女の用意してくれた食事。大人の口には合わないような、まったく辛くないカレーは雪乃に合わせただけではないことに相澤は気づいていた。
「甘いな」
「まあ、そう言うとは思ったんですが……」
苦笑いをしながらお茶を淹れている桜が、辛かったり、苦かったり、熱かったりするものが苦手なことは、よく分かっている。それでも、これはカレーと呼んでいいのか疑問に思うほど甘く感じられた。
「砂糖じゃないですよ。リンゴと蜂蜜を入れたんです」
「よく子ども向けのカレーにあるやつか?」
辛さはないが、確かにコクがある。これで辛さがあればかなり美味しいカレーになっただろうと思いながら相澤はスプーンを動かし続ける。
「そうです。雪乃がカレーを食べたことがないと言うので、初めは辛くない方がいいかなって」
誤魔化し笑いをする彼女を彼が咀嚼しながら見ていると、まいったとばかりに、はぁっとため息をついた。
「今度は消太さん用にお鍋を別にします。大人のカレーと私たち用のカレーに」
「お前も大人だろ。別に俺はお前たちに合わせられるから、鍋も分けなくていい。洗うの面倒だろ」
意外そうに目を瞬いた桜は、赤らめた頬を緩める。
「面倒なんかじゃありませんよ。消太さんが美味しいと思ってくれるものを作りたいですから。あと、次はちょっと辛いものにします。私も消太さんが美味しいと思うものを知りたいから……」
気恥ずかしそうな彼女に、彼のスプーンが止まる。口の中のカレーを飲み込むと代わりに思った事が口をついた。
「あんまり、可愛いことばっかり言うな……」
桜の気恥ずかしさが移ったように赤くなった相澤は誤魔化すようにカレーを口へ運ぶ。それに気づかないわけのない彼女は、とても幸せそうな笑みを食べている彼へと向けていた。