三人の苗字が全員相澤になったことが、すっかり当たり前になった頃。彼にはまた大きな悩みが出来ていた。一人で考えても考えても答えが見つからなかった相澤は、仕方なくスマホを操作する。
『一杯、驕る』
そう一言送れば、相手からはOKのスタンプのみが返ってきた。そうして、相澤は相手を前回と同じ居酒屋へと呼び出した。
「相澤くんよォ〜……いー加減にしてくんなァい?」
既に酔いが回り、真っ赤になった山田は、ほぼ空になったビールジョッキを掴んだままテーブルに頬をくっつけている。
「話聞いてくれってお前が言うから時間作ったんだぞ、俺ェ」
熱を持つ頬にテーブルのひんやりとした冷たさが心地いい。気を抜けば瞼が重くなってしまいそうな、ふわふわとした感覚の中、山田は向かいの席で同じくビールジョッキを手にしている相澤へ目をやった。
言いにくいのか、なかなか口を開かない彼はちびちびとビールを口に運んでいる。こんな相澤の様子を以前にも見たことがある山田は、言われずとも彼が何に悩んでいるのを察していた。
「ほら、早く言えよ。どーせ、防人のことなんだろォ?」
"ったく、変なとこ面倒だよなァ、お前"と言われたところで、相澤は重い口をやっと開く。
「……指輪って必要だと思うか?」
「ゆびわァ?」
新しいビールを届けてくれた大学生の男の子に軽くお礼を伝えた山田は、テーブルの上の焼き鳥を手に取る。そして、はたと、思い当たり、くわえていた焼き鳥を口から離した。
「お前、まさか、マリッジリングのこと言ってんじゃねーよな?」
難しい顔で口を引き結んだ相澤の様子が図星であることを語っている。呆れと驚きのあまり、山田の手から焼き鳥がぽとり、と取り皿の上に運よく落ちた。
***
そもそもの始まりは、桜宛に届いた一通の手紙だった。見たことのない綺麗な封筒に雪乃は目を離すことができない。
「お姉ちゃん、綺麗なお手紙だね」
花をあしらった封筒に書かれた差出人の名前を見ていた彼女は、雪乃が見やすいようにと座って隣に招いた。
「これは結婚式の招待状です」
封筒の中から取り出した招待状に、雪乃は小さく感嘆の声を漏らす。渡された招待状を両手で受け取った雪乃は、瞬きも忘れて見入った。
「なんて書いてあるの?」
こてん、と首を傾げて見上げてきた雪乃に、小さく笑った桜は招待状の中へと視線を落とす。
「結婚式をするので、来てくれますか?って書いてあります」
手書きで書かれた一文に、くすっと笑った彼女へ雪乃の首がまた小さく傾いた。
「いつ行くの?」
「結婚式は、二か月後ですね。でも、まだ行くかどうかは……」
出席するのであれば、雪乃のことを考えなくてはならない。二次会に参加するつもりはないが、行けば雪乃を一人にしてしまうかもしれない。
まだ、時折、眠りながら涙を流す雪乃に寂しい思いをさせたくない桜は迷わず、欠席を決めていた。
「行ってこい」
声の方へと振り返った桜に、寝室から出てきた相澤のまだ眠そうな目が向けられる。どこから話を聞いていたのかと目を丸くさせている彼女へ近づいた彼は寝ぐせのついた髪を掻きながら、近寄ってきた雪乃の頭を撫でた。
「その日は俺が雪乃といる」
「でも、消太さんだって仕事があるのに……」
「前もって分かってれば調整くらいつけられる。それに―――」
ちらりと見えていた差出人の名前を見て相澤は相手が桜にとって親しい友人であると確信する。中学まで一緒だった彼女の友人の話は、これまで何度か聞いた覚えがあった。
「会える時に会っといた方がいいだろ」
この言葉に深い意味はなかったのかもしれない。見上げてくる雪乃へ目を向けている彼の横顔を見ながら、桜の脳裏には会えなくなってしまった相澤の友人であり自分の先輩の後ろ姿が過った。
「……では、お言葉に甘えて」
にっこりと普段と変わらぬ美しい笑みに、どこか影があるのを感じながらも相澤は何も訊かずに頷く。
「消ちゃん? お姉ちゃん……?」
僅かに感じた暗い空気に敏感に反応した雪乃は、不安から相澤の服の裾を掴んだ。表情を微かに強張らせている雪乃を安心させるように頭に手を乗せた。
静かに撫でてくれる大きな手はまだ寝起きのせいかあたたかい。そっと、上目で彼を見てから、奥にいる彼女へと目を向ければいつもの安心できる柔らかな笑みが向けられた。
「まだ少し先ですけど、消太さんとお留守番してくれますか?」
「……結婚式の日、おうち帰ってくる?」
不安げな顔の雪乃に目を見開いた桜は、ゆっくりと微笑む。
「もちろんです。雪乃にも消太さんにも会いたいですから」
「雪乃もお姉ちゃんに会いたいっ!」
相澤の隣から桜の胸の中へと飛び込んだ雪乃は、ぎゅっと抱き着いた。いつも包み込んでくれる優しい匂いに、雪乃の不安は溶けていく。小さく頭を押し付ければ、ふふっと笑う声が彼女から漏れた。
「くすぐったいです」
仕返しとばかりに、桜が雪乃の小さな脇腹をくすぐれば、きゃっきゃとくすぐったそうな笑い声が上がる。二人の笑う声が響くリビングで、相澤は大きくあくびをしていた。
そして、午後になったとき。寝室からひょっこりと顔を出した彼女は少し悪戯っぽい表情で雪乃を手招きした。
「雪乃、雪乃」
きょとん、と首を傾げた雪乃は、お気に入りのタオルケットを抱きしめたまま桜へと近寄る。
「なぁに?」
ふふ、と笑った彼女は両腕にかけるように持った着物を差し出すように見せた。目を丸くした雪乃の白い頬がみるみると赤く染まりだす。
「わぁ……」
感嘆のため息が混じった声を溢した雪乃の目は瞬きも忘れて、着物に釘付けになっていた。
「綺麗でしょう?」
「うん……」
サーモンピンクの生地に桜や梅に菊の花車が上手く取り合わせた着物の美しさに雪乃はまたため息を溢す。
「結婚式に着て行こうと思うんです」
着物から顔を上げた雪乃は、桜がこの着物を着た姿を想像した。このとても綺麗な着物を、優しく美しい彼女が着たら、それはどんなに美しいのだろう。考えるだけで、わくわくとするような、胸の中がキラキラとした気持ちで満たされていった。
「あ、あの、雪乃にも見せて! お姉ちゃんがお着物着たところ!」
必死に強請る雪乃に驚いた彼女は、懐かしさ含んだ目を細める。
「ええ。雪乃にも見てもらいたいです」
ちらりと顔を上げた桜の目が、タブレットでニュースを読んでいる相澤の背中へ向けられた。
「消太さんにも」
微かに、ぴく、と動いた背中を、彼女がくすくすと笑う。気づかれた気恥ずかしさで、頬に熱を帯びたのを誤魔化すように彼は咳ばらいをした。
***
翌日。午後からの仕事の前にと彼女は、相澤と雪乃がくつろいでいるリビングへ入った。
「消太さん、雪乃」
声をかけられた二人がゆっくりと桜へと振り返る。そして、揃って目を丸くさせた。
「どう、ですか?」
気恥ずかしいのか、薄紅に頬を染めている彼女は例の訪問着を纏っている。長い黒髪が結い上げられ、上品で華やかな着物に袖を通した桜に、相澤は時間が止まってしまったかのような錯覚を起こしていた。
元々着慣れているのか、淑やかな仕草で襟もとに指先を乗せた彼女は不安から伏し目がちに彼を見る。ドクドクと強く早く脈打つ心臓を押さえることもできず、相澤は桜を見つめたまま薄く口を開いたり、閉じたりしていた。やっと声が出るというとき、先に我に返った雪乃が彼女の前に飛び出した。
「お姉ちゃん、綺麗! お着物凄い似合ってる!!」
興奮で頬を真っ赤にさせている雪乃は上手く言葉にできなかった興奮を、握り締めた両手を上下に振って表している。もどかしそうにも見えるその様子が可愛らしく、桜はいつものように、にっこりと笑った。
「ありがとうございます。母様のように似合うか不安だったので、凄く安心しました」
手を取り合って笑みを交わしていた雪乃は、正月にテレビで見た着物のことを思い出す。
「お正月のテレビで見たお着物とは違うんだね」
正月にテレビで見た華やかな着物たち。あれもとても綺麗だと思っていた雪乃は彼女の着物の袖を見た。
「袖の長い着物ですか? あれは振袖です」
「振袖?」
雪乃が生まれた家でも着物はよく着られていたが、自分にはボロばかりが回って来ていたし、綺麗な着物は姉、着古したものが自分のものということくらいしか雪乃は覚えていない。
こてん、と首を傾げた雪乃に袖を見せるために桜は、そっと床へ膝をついた。
「結婚していない女の人が着るお着物です。私はもう消太さんと結婚しているので、振袖は着られません」
へーっと感心している雪乃の声で、ようやく桜に見惚れていた相澤の思考が回りだす。既婚女性が振袖を着られないことは知っている。だが、周りに未婚者ばかりの結婚式に参加する男たち全員がそれを知っている可能性はどれほどなのだろうかと気になった。
気になってしまえば、一目で桜が既婚者であると知らせる方法を相澤は考えていた。そして、どんなに無知な男でも結婚指輪であれば理解できるはずだと思い至ったのだった。
***
「ぬぁにを今さら。んなこと、分かってただろォ?」
口の中に放り込んだイカを咀嚼する山田は、酔って重そうな目で相澤を呆れたように見る。
「いらねぇって言われた……。柄と指の間はなにもないほうがいいって」
「まあ、ヒーロー活動のときはアイツ刀振り回してっけどよ、普段はしてたっていいだろ?」
既婚者ヒーローの中にも、活動中に結婚指輪を外しているヒーローはいる。彼女だってそうすればいいと思う山田に、相澤は不機嫌そうな顔した。
「料理するときに指輪すんのも抵抗があるし、家事して傷つけるのも気になるから、その分は何か遭ったときの貯金にって……」
「あー、アイツそういうとこ気にスンノな」
確かに相澤のことを好きすぎる彼女であれば、彼からもらったものは何よりも大切にするだろう。
「でもヨォ、結婚した証明ってだけじゃねぇだろ」
大きくため息をついた山田の言いたいことが理解できる相澤は頷いてからビールを煽った。空になったビールジョッキをテーブルに戻した彼は、俯きがちに山田に目をやる。
「……どうすればいい」
ニィッと大きく口元を笑わせた山田は立ち上がった。
「No problem!! 俺に任せれば問題はnothing!!」
酔ったせいか普段よりも大きな声を出した山田に店中の視線が集まる。うるさいと苛立った相澤の髪が逆立つ前に、山田の腕が彼の肩に回されていた。
***
暗い空に星が輝いている。深夜になって人の気配が遠ざかり、夜らしい静けさに外は包まれいた。
すやすやと眠る雪乃の胸が上下しているのを見ていた桜の目は、部屋に差し込んでくる月明かりのように柔らかい。青みがかった白い髪を彼女の手が撫でれば、雪乃はくすぐったそうに顔をぬいぐるみに埋めた。
微笑ましくそれを見ていた桜に、彼が風呂から上がった音が聞こえる。眠る娘を起こさないよう、静かに立ち上がった。
「お疲れ様です」
「ああ」
照明のついていない暗いリビングで、濡れた髪をタオルでガシガシと拭う相澤に寄った彼女は、そっと手を伸ばす。
彼の頭にかかっているタオルを手にした桜が、相澤の濡れた髪を拭き始める。されるがままの彼は、彼女がやりやすいように背をかがめた。
「いい子ですね」
「………」
鼻で小さくため息を吐きつつ、諦めたような目を向ける相澤に桜はまたおかしそうに笑っている。
「はい、いいですよ」
タオルを放して見上げてくる彼女に、緊張を覚えた彼は小さく息を止めた。
「……消太さん?」
緊張した面持ちの相澤に、桜は心配そうに眉を寄せる。今日の仕事で何かあったのだろうかと彼女が考えていると、彼は緊張を含んだ息を長く吐き出した。
「手、出せ」
「手、ですか?」
言われた通り、右手を差し出した桜に相澤は眉根を寄せる。そうじゃないと言わんばかりの表情に彼女は小首を傾げた。
「そっちじゃない。左手だ」
「左ですか?」
ゆっくりと差し出された桜の手を、下から丁寧に相澤の手がすくい上げる。自分のものとは違う、白くすべらかな手は華奢で、整っている指先を見ていると、プロポーズしたときの緊張が蘇ってきた。
じっと指を見つめたままの彼に、"消太さん"と彼女の声が控えめにかけられる。おもむろに視線を上げた相澤に桜の胸はドキドキと早鐘を打ち出す。
静かで真剣であるのに、とても優しい眼差しは、今、相澤の顔を照らす月明かりのようだ。
「本当は、もっと早く渡すつもりだった」
ぽつりと小さく呟いた彼は、喉が渇くような、締まるような緊張を感じながら用意したそれを彼女の細い指に通した。
「これ……」
自分の左手を見る桜の黒い目は大きく見開かれている。彼女の左の薬指には石も何もついていないシンプルなシルバープラチナが輝いていた。
薬指に収まっているものが信じられない桜は、ゆっくりと顔を上げる。俯きがちに顔を小さく背けている相澤の頬はしっかりと赤い。
「どうして……。私、あんなに可愛くないことを言ったのに……」
近場とはいえ引っ越しの費用や、部屋を借りるときの敷金礼金は相澤持ちだった。自分も出すといくら桜が言っても、彼は同棲を言い出したのは俺だと折れなかった。二人だけで挙げたフォトウェディングはなんとか費用を出させてもらえたが、それだって相澤の方が少し多く出している。
「好きな人と一緒にいられるだけで、私は幸せなのに……」
「分かってる」
引き寄せた桜を腕の中に閉じ込めた彼は、涙声になっている彼女の頭を包むように手を乗せた。
「金銭面で俺にばっか負担かけてるって気にしてたのも、分かってた。全部俺の見栄だ」
ぎゅっと強く抱きしめて、艶やかな黒髪に顔を埋めるように相澤は桜に頬を寄せる。
「俺がお前にしてやれることなんて、ほとんどない。だから―――」
「―――そんなわけないでしょう」
言葉を遮った彼女は彼から体を離すと、反論は許さないとばかりに人差し指を相澤の唇に乗せた。
「消太さんは何も気づいてないだけです。貴方がいてくれるだけで、私がどれほど幸せなのか。こんなに私を幸せな気持ちにさせてくれるのは貴方だけなのに」
"困った消太さんですね"と笑った彼女の目尻に溜まった涙を、彼の親指が撫でるように拭う。
「気に入ったか?」
「ええ。凄く、嬉しいです。ありがとうございます」
指輪に右手を添えながら、柔らかに微笑む桜の頬を相澤の両手が包む。彼女の顔を覗き込む彼の眼差しは、穏やかで柔和なものだった。
自然と近づいた距離。二人の唇は触れ合うことなく、こつん、と額が重なり合った。
「本当はお前が選んだ方がいいって分かってた」
「そんなことありません。凄く気に入りました。それに、消太さんが私の為に選んでくれたのが凄く嬉しくて」
幸せそうに頬を緩ませる桜に改めてお礼を言われた相澤はようやくホッとする。
「普段はしなくてもいい。でも、明後日の結婚式、忘れずにして行けよ」
考えるように数回目を瞬いた彼女の左手が口元に添えられる。嵌めたばかりの指輪が小さな存在感を放っていた。
「外に出るときも必ず」
目を見つめながら桜の手を、包むように相澤の手が握る。まだ何かを考えている顔をしている彼女の耳に彼は触れてしまいそうなほど近く、唇を寄せた。
「そいつはお前に男が寄ってこない為の虫よけだからな」
じわじわと桜の耳に熱が集まっているのを感じた相澤の口元が笑う。吐息の混ざった掠れた声で名前を呼んでやれば、ぴくん、と彼女の体は震えた。
***
窓ガラス越しに入ってくる暖かい日差し。そこで一緒に昼寝をしていたはずの雪乃がいないことに気が付いた相澤は、起き上がって周囲へ眠い目を向けた。
「雪乃なら、出かけちゃいましたよ」
くすっと笑った桜は、読んでいた本に栞を挟む。本をローテーブルに置くと、そっと相澤の隣へと近寄った。
「少し前に、香山先輩が美味しいケーキを買いに行こうって連れて行ってくれたんです」
「ああ、なんとなく聞こえてた」
夢じゃなかったのかと思いながら、顔にかかった髪をかき上げたとき、彼は違和感を覚えた。髪をかき上げた左手を見てみれば、寝る前にはなかったものがある。
驚いている彼を、くすくすと笑う彼女の口元に添えられた左手には同じものが光っていた。
「お前、いつ……」
「消太さんと同じですよ。寝ている間にサイズ測ればいいって、山田先輩に教えてもらいました」
いたずらっぽく笑う桜を見れば、先日の結婚指輪を用意する話の経緯を山田から聞いただろうことは簡単に想像できる。長く息を吐き出した相澤は、俯いた顔に手を覆ったまま動かない。
「お互い、仕事のときはできませんけど、お休みの日に出かけるときはできますよね」
指の間から彼女を見れば、自分の左手を両手で包み嬉しそうに頬を緩ませている。
「……虫よけですから、忘れないでくださいね」
言葉に詰まって唇を引き結んだ相澤に、彼女が得意げな顔をすれば、彼は参ったとばかりにまた息を吐き出した。顔を背ける相澤が照れているのに気がついている桜はまたおかしそうに肩を震わせた。