桜が咲いてる

 朝食を用意している音が聞こえたような気がして雪乃は薄っすらと目を覚ました。相澤と桜と三人で寝ている寝室のカーテンの隙間から朝日が入り込んでいる。
 隣を見てみると、もう彼女はいない。反対側を見てみれば、彼がぐっすりと眠っていた。

「消ちゃん、消ちゃん」

寝ている相澤を起こすことに罪悪感を覚えながら、雪乃は彼の体を揺する。

「ん……どした? トイレか?」

 眠そうな目を少しだけ開けた相澤はぼんやりとしながら、覗き込んでくる雪乃をぼうっと見た。

「ううん、違う。あの、お姉ちゃんにお願いしてくれた?」

桜?と何か考えてから、彼は、ああ、と雪乃との約束を思い出す。

「後でしておく。心配するな、安心しろ」

「うん、ありがとう。消ちゃん、起こしてごめんね」

気にするなと頭を一撫でしてやると、相澤の手から力が抜ける。夜勤明けの彼はそのまままた眠りに落ちた。
そっと、彼の手を布団の中に入れてから、雪乃は静かに寝室を出る。そして、そこにいるであろう彼女に会うためにキッチンへ向かった。

「あ、おはようございます。そろそろ起こしに行こうと思ってたんですよ」

「おはよう、お姉ちゃん」

 今日も一人で起きられて偉いですね、と頭を撫でられた雪乃は嬉しそうに小さく笑う。

「ご飯できてますから、おトイレ行ってきてくださいね」

うん、と頷いた雪乃はいつも通りにトイレへと向かった。小さな背中を見送ってから、桜はまたキッチンへと戻る。雪乃の為にあらかじめ骨を取り除いた焼き鮭に味噌汁、納豆、そして昨日の夕飯の残りを、リビングのローテーブルへと運んで行った。

***

 雪乃を保育園に送り届けた桜は、帰宅してすぐに洗濯物を干し始める。ベランダから見る空は今日もよく晴れていて気持ちがいい。
風に乗ってどこからか飛んできたそれが干したばかりの洗濯物に落ちる。薄く色づいた花びらを手のひらに乗せて微笑んだ彼女は、強く吹いた風に顔を上げた。

「わぁっ!」

 空に舞う、大量の桜の花びらに思わず声を上げて見入っていると、背中でカラリと窓の開く音がした。

「……凄いな」

隣に立った相澤も空に舞い上がる花びらを見上げる。風に髪を揺らしている彼の横顔に桜の頬が柔らかに緩んだ。

「ええ、凄く綺麗ですね」

相澤の横顔から空へと視線を動かした彼女は風で乱れてしまう髪を押さえた。

 空に広がる桜の花びらのように、淡く頬を染めている桜のよく整った横顔。それを横目に見た相澤は、目を瞠った。ドクドクと脈打つ心臓は学生時代、彼女に恋をしてからというもの強く主張するようになり、何度も相澤に桜への気持ちを自覚させてきている。

「桜」

「はい?」

振り返った彼女に目を細めた彼は今感じたことをそのまま口にした。

「好きだ」

「な……」

 唐突な告白に目を開いた桜の顔はみるみる真っ赤になっていく。その様子に、フッと小さく笑った相澤は目を伏せた。

「きゅ、急にからかわないでくださいよ」

もう、とサンダルを脱いだ彼女はリビングへと逃げるように戻って行く。その後をすかさず追いかけた彼は、その手を捕まえた。

「からかってるわけないだろ」

「だ、だって、笑ってたじゃないですか……」

むすっと上目で見てくる桜を引き寄せると、そのまま抱きしめる。ふわっと香ったシャンプーの匂いに、また相澤の鼓動は早くなった。

「……高校の頃のこと、思い出した」

「え?」

 付き合って初めての春。花びら舞う桜の木の下で見た彼女の姿は、あまりにも美しく忘れられない。あの春を思い出した彼はぎゅっと強く抱きしめた。

「桜が作った花見弁当食ったときのこと」

「……私も、お花見弁当を食べたあと、寝ている消太さんの顔を見て大好きだなって思ってたんですよ」

 同じように昔を思い出した桜は、ふふっと笑うと相澤を抱きしめ返す。

「あのとき寝転がりながら見た桜の花も凄かった」

「ええ、私もよく覚えてます」

あのときに作ったお花見弁当のことを思い出した彼女は、そうだと彼から体を離す。

「今年は三人で見に行きましょう。またお花見弁当を作りますから」

「手繋いでないと、雪乃のやつ、はしゃいで転ぶか迷子になるな」

 顔を見合わせた状態で、花見に出かけた雪乃の様子を思い浮かべた。相澤の言う通り、はしゃいで転んだり、ちょっと目を離したすきに迷子になったりする様子を想像して桜は苦く笑い、相澤はククッとおかしそうに口元笑みを引く。

「一緒に見ていないと危なっかしいですね」

「そうだな」

口元に手を添えてくすくすと笑う彼女の額に自分の額をコツンと合わせた彼は、先ほどは違い柔らかに微笑んだ。

「……誕生日、おめでとう」

「ありがとうございます。覚えていてくれたんですね」

 この日をずっと待ちわびていた相澤にとって、忘れられていると思われたことが気に食わない。先ほどの笑みを消し、不満そうに眉間にしわを寄せた。

「忘れるわけないだろ」

「ほら、去年の消太さんの誕生日のときは、私、最初に顔を合わせてすぐに言ったじゃないですか。だから、忘れられちゃったのかと思ってました」

確かに彼の誕生日のとき、夜勤を終えた彼女は、待っていた相澤へ開口一番"お誕生日おめでとうございます"と言ってきた。相澤だってそれを考えなかったわけではない。しかし、今回の桜の誕生日は別の意味もあって、いつになく緊張していた。

「そんなわけねェだろ」

 いつものちょっとしたからかいのつもりだったというのに、明らかに相澤は不機嫌で、どことなく怒っているようにも見える。

「消太さん……?」

どうして機嫌が悪いのかとばかりに戸惑う桜の腰を引き寄せて、相澤は上から彼女の顔を覗き込んだ。

「お前、忘れてるわけじゃないよな」

「何を、でしょう……?」

見上げてくる彼女の顔を包むように手を添えた彼は、じっとその黒い目を見つめる。嘘偽りがないことを確かめるような相澤の目に見つめられた桜は戸惑いながらも胸がドキドキとしていた。

するりと一撫でしていった彼の手はあっさりと彼女から離される。そして相澤は、桜に背を向けローテーブルの方へと歩いて行った。

「あ、あの、消太さん?」

 普段の様子ではない彼を恐る恐る追いかけた彼女が声をかけようとしたところで、目的のものを手にした彼は振り返る。

「……一度しか言わない。だからよく聞いとけ」

「は、はい」

真剣な様子の相澤につられて桜も背筋が伸びる思いだった。何を言われるのかとドキドキとしていると、彼は大きく深呼吸をして意を決したように顔を上げた。

「俺たちはヒーローだ。仕事中に何かあってどちらかが先に死ぬことだって考えられないわけじゃない。……でも、それでも俺は」

おもむろに伸ばされた彼の大きな手が、彼女の細い手を包むように優しく握る。

「桜を隣に感じてたい。この世界で桜を一番に愛してるのは俺だ。……だから」

握られていない方の手で差し出されたものに、桜はハッとして見上げた相澤の顔は、真っ赤に染まっていた。

「……結婚してください」

 ある程度記入が済んでいる婚姻届けが、思わず込み上げてきた涙で見えなくなる。繋いだままの手はそのままに、片手で口元を押さえた桜は頷くことも"はい"と答えることもできずに、涙をこぼさないように耐えていた。

溢れそうになる涙を押さえる彼女から目を逸らさずに、彼は見つめ続ける。断られないと分かっている。それでもこんなに緊張するものなのかと、相澤は自分の口の中が急激に乾いていくような感覚を味わっていた。

「私は……消太さんを幸せにできますか?」

 珍しく不安げな顔をする桜に相澤は目を瞠る。もしかしたら、彼女の不安は今自分が感じている緊張と似たものなのかもしれない。そう考えたときには、彼の唇は彼女の唇へ重なっていた。
 ゆっくりと離れていった触れるだけのキスは、驚くほど桜の心を穏やかにさせる。

「桜しかいないんだ、俺には……」

合理主義の彼にとって、家庭を持つということは自分の為に時間を使えなくなるという意味では非合理的だろう。ずっと心のどこかで気にしてきたことを聞くチャンスは今しかないと、彼女は微かに震える唇を開いた。

「……ずっと、知りたかったんです。どうして、私と付き合ってくれたんですか?」

「何が言いたい?」

 不機嫌でなく疑問で眉間にしわを寄せた彼に、彼女は拳で胸元を押さえながら顔を逸らして俯く。相澤から見る横顔には、また不安が強く見て取れた。

「相手に時間を使うということは、合理的……とはいかないでしょう?」

だからと、視線を彷徨わせる桜の言いたいことを理解した相澤はそういえば言葉にしたことはなかったかと目を伏せる。

「そうだな。合理的じゃない。でもな―――」

抱き寄せた彼女の耳元に口を寄せた相澤は、桜にだけ聞こえる声で囁いた。

「合理的じゃない感情に振り回されちまうのも仕方ないって思うくらい、俺はお前に惚れちまったんだ」

小さく頬をすり寄せてきた彼に、ついに我慢しきれなくなった彼女は抱きしめ返しながら涙をこぼし始める。

「好き……大好きです。消太さんだけを、愛してます……」

間近で聞こえてくる桜の涙混じりの声に、誰にも見えないところで相澤はとても優しい表情をしていた。

「……知ってる」

 お互いに顔を見るために体を離す。目を合わせてすぐ、泣き顔を見られたくない彼女は顔を伏せた。その頬に手を添えて上を向かせた相澤は、言葉なく優しく桜の目元を拭う。いつもの愛想のない、なんでもないような顔をしているというのに、その目元は照れて赤らんでいる。

 どちらともなく笑い合う。受け取った婚姻届けがぐしゃぐしゃにならないように、でも、しっかりと桜の手に握られていた。

***

 夕暮れが始まるよりも前。いつもよりもずっと早く迎えに来てくれることを知っていた雪乃は、園庭に彼の姿が見えるのを今か今かと待っていた。

「あっ!」

ずっとずっと待っていた姿を見つけた雪乃は嬉しさ余って立ち上がり、相手に向かって手を振った。

「消ちゃんっ!」

 こんなに明るい時間に雪乃へ迎えが来ることは珍しい。園庭で遊んでいる子どもたちの間を抜けるように歩いていた相澤は、自分の前を横切ろうとした子どもが目の前で蹴躓いたのを見て片手で受け止めた。

「おっと」

「きゃあ!」

 驚いた声をあげたのは、先日、桜と副担任である須々木をくっつけたいと張り切っていた、クラスの中心的な女の子。今日も彼女は二つに結った髪をくるんと巻いている。

「大丈夫か?」

転ぶと思って目をぎゅっとつむっていた女の子はかけられた声にドキドキとしながら目を開けた。じっと自分の顔を見下ろしている相澤の表情はいつも通り気だるげで、一緒に遊んでいた子どもたちは怖がって近寄れない。しかし、受け止められた女の子は、ぽぅっとしていたかと思えば、一気に顔を赤らめた。

「う、うん……」

もじもじしている様子になんだ?と思いつつ、女の子を立たせ、膝や腕を見てケガがないことを確認した相澤は立ち上がる。

「気をつけてな」

歩いて行ってしまう猫背をぽっとした顔で見ていた女の子は、我に返って慌てて顔を振った。あんなオジサンに自分は何を思っていたのか。自分の好みの異性を考えて勢いよく頭を振る。

(違う違う!! 背はおっきくないとイヤだし、顔もカッコよくなきゃイヤ!)

睨むように相澤を見ていれば、彼はそんな視線などお構いなしに抱き着いてきた雪乃を抱き留めていた。

「消ちゃん、お姉ちゃんと約束した!?」

「ああ、これから急いで買い物して帰るぞ」

 うん!と元気よく返事をした雪乃は、女の子が見ていることに気づいて駆け寄っていく。保育園では見せない嬉しそうな雪乃の笑顔に、女の子は思わず目を瞬いた。あのね!と声をかけた雪乃はこの前、女の子にされたように内緒話を始める。

「あのね、お姉ちゃんと消ちゃん、同じ名前になるんだよ。だから、もう本当に家族だよ」

「あ、うん……」

歩いて追いかけてきた相澤に呼ばれた雪乃は女の子にまたねと手を振って、彼へと駆け寄っていった。
 手を繋いで歩き出した二人を見ていた女の子は、ムッとしたかと思うとフンッ!鼻を鳴らしてそっぽを向く。何気なく感じた淡すぎる感情が実らなかったような気がして面白くない女の子は八つ当たりで転がっていたボールを蹴飛ばした。

 もう一つボールを蹴飛ばした足で、雪乃の迎えに来たのが桜でなかったことにがっかりしている須々木の元へ近寄った女の子は、不機嫌な顔で彼を見上げる。

「先生もフラれたんでしょ? 仕方ないから大きくなったら結婚してあげてもいいよ」

「え、ええ? なんのこと?」

突然の話に困惑している須々木にもフンッと鼻を鳴らした女の子は、帰るまで機嫌が悪いままだった。

***

 保育園の帰り道にあるスーパーで買い物をすませた二人は急いで準備を始める。いつも桜が立っているキッチンで、あれこれと食材や調理器具を並べていく。

 最近、桜に買ってもらったエプロンをした雪乃が腕をまくる隣では、相澤が自分の髪をまとめていた。簡単に一括りにされた黒い髪を見た雪乃は、自分の青みがかった白い髪を摘まむ。

 ぼさぼさに痛んで伸びていた髪は、ここに来る前の児童養護施設で肩に触れるくらいの長さに切られた。その髪も相澤と桜に丁寧にケアされ続けたことで綺麗に伸び、最近では結えるほどの長さになった。まだ一度も髪の毛を結ったことがない雪乃は、自分の髪も、相澤と同じようにしてみたいと思ったがなんと言えばいいのか分からなくて俯く。

 自分の髪を取り、毛先を見ている雪乃の様子に相澤は何気なく声をかけた。

「まとめるか?」

「いいの?」

待ってろと他のヘアゴムを探しに行った相澤の背中を見てから、雪乃はわくわくとししすぎている自分の気持ちを落ち着けようと、ぎゅっと握った手を胸の前に押し付ける。
 
これからすることはすべてが初めてで自信がない。でも、彼女が喜んでくれるなら、不安で仕方ない初めてに挑戦してもいいと思えた。

「雪乃」

噛みしめていた興奮が溢れないようにしていた雪乃が顔を上げれば、相澤がヘアゴムを見つけて戻って来ていた。

"ほら"と差し出したつもりのヘアゴムを受け取ることなく、雪乃はくるりと背中を向けて今か今かとそわそわしている。結ってもらうのを待っているのだからと、特に何も考えずに髪を結んでやると、雪乃は嬉しそうに振り返った。

「ありがとう」

 結った髪を何度も触る雪乃は、嬉しそうに赤らめた顔で相澤を見上げる。

「消ちゃんとおんなじ?」

「ああ、括っただけだからな」

見てくる!と洗面所に走って行ったと思ったら、すぐに戻ってきた雪乃は嬉しさ余って相澤に抱き着いた。言葉が出ないほど嬉しいのか、嬉しそうな声を漏らしながらぐりぐりと顔を押し付けてくる雪乃の頭をわけも分からず彼は撫でてやる。

「そんなに嬉しいのか?」

「うん、初めて髪結んでもらったのも、消ちゃんと同じのも嬉しい!」

「え?」

 まさか初めてだとは思っていなかった相澤は嬉しそうにしている雪乃を目の前に固まった。初めてだと知っていれば、もっと女の子が喜ぶような結い方をしてやるべきだったのではないか。そもそも、そんな髪の結い方は知らないし、出来もしない自分より、初めては桜に任せた方が良かったのでないかと気まずさで口を引き結んでいた。

「今日は、消ちゃんと初めていっぱいで嬉しいな」

 そんな相澤の気持ちなど知らずに、にこにこと楽しそうにしている雪乃に、自分がしてやってよかったのだと思えた彼は、フッと表情を和らげる。

「頑張ろうな、雪乃」

「うん!」

 まずはと二人はキッチンの流しに置かれているハンドソープで念入りに手を洗う。そして、レシピを見ながら調理を始めた。

***

 一口よりも少し小さく切った鶏肉に、粗みじん切りにしたにんじんと玉ねぎ。それぞれ綺麗にバットに分けて入れられているそれらを雪乃がうっとりと見ている。

たくさんは手伝えなかったけれど、一緒に包丁を持ってもらい切った、にんじん。それを嬉しそうに見ている雪乃を横目に、相澤はフライパンに油を引いた。油が温まると、鶏肉や野菜を入れて炒めていく。

 レシピ通り手際よくドンドンとこなしていく彼を見ていた雪乃は次に必要になるものに気づいて食器棚から一番大きな皿を取り出した。そっと、フライパンを使っている相澤の傍に皿を置くと、火の近くは危ないからと言いつけられたことを守って静かに離れる。

「助かる」

完成したそれを大皿に乗せた彼は、次を作ろうとフライパンをサッと洗い、水気をしっかりと拭き取った。そして、たまごを手にすると雪乃を見る。

「なあ、コレ」

 白いたまごを指さす相澤に雪乃は首をこてんと傾げた。唐突に思い付いたことを本当に言うか、少し迷ってから彼は言うだけ言ってみることにした。

「割ってみるか?」

「雪乃にできる……?」

難しそうだと尻込みしている雪乃の目の前で相澤は試しに一つ割ってみせる。見事に割れた殻の中から出てきた白身と黄身は、綺麗にボウルの中へと落ちた。

「こんな感じだ」

ボウルの中のたまごを見ながら考え込んでいた雪乃が顔を上げる。ばっちりと視線が合った彼に、うん、としっかり頷いだ。

「やってみる」

 コンコンと相澤がやって見せてくれたように、たまごにヒビを入れる。そしてボウルの上で殻を開くようにして中身を落とした。

「あ……」

大方上手くいったものの、いくつか殻がボウルの中に落ちる。白身の中に取り込まれたように沈んでいる白いたまごの殻。どうやったらこれを取り除けるだろうかと考えている雪乃の横で相澤が菜箸を取り出し、何事もなかったかのように簡単に殻を取り出した。

「ねえ、消ちゃん……」

「ん?」

言いにくそうにしてる雪乃は、何度も"あの"を繰り返してから、やっと顔を上げて相澤を見る。

「も、もう一度やってみてもいい?」

 少し前の雪乃であれば、失敗を怖がってもう一度とは言い出さなかっただろう。今は桜の為に頑張りたい気持ちで突き動かされての、やってみたいだとしても、その変化が喜ばしく、相澤は目を伏せて小さく笑った。

「ああ。頼む」

うん、と張り切って頷いた雪乃の手がたまごを取る。丁寧にコンコンとヒビを入れる様子を彼は、そっと見守っていた。

***

 ローテーブルに出来上がったばかりの食事をちょうど並べ終えた頃。玄関のドアの開く音が聞こえた雪乃は立ち上がって走り出す。

 パタパタと足音を響かせながら出迎えた先には、ケーキの箱とハトメ紐のついた封筒を持った桜がいた。

「お姉ちゃん! おかえりなさい!」

「ただいま、雪乃」

にこっと笑ってくれる彼女がまだ何も気づいてないのだと思うとおかしいような、わくわくするような気持ちになって雪乃はそわそわとし出す。

「ね、早く手洗って、一緒に来て!」

「え? あ、はいはい」

 乞われるように手を引かれた桜は、そのまま手洗いを済ませ、雪乃と一緒にリビングに入った。

ふんわりと香るバターのいい匂い。それは、ローテーブルに並べられたものからだと気づいた彼女の目が丸められる。

「これ……雪乃と消太さんが?」

「うん。あのね、お姉ちゃんお誕生日でしょう? だから」

もじもじとしている雪乃と、何も言わずにこちらを見ている相澤へ視線を向けてから桜は嬉しそうに目を細めた。

ゆっくりと膝をつくと、目の前の雪乃を抱きしめる。昼間と同じように嬉しさで目には涙が溜まっていた。

「お姉ちゃん?」

「ごめんなさい、嬉しくって……」

ぎゅっとしっかり抱きしめると、雪乃もしっかりと彼女を抱きしめ返す。もう、その手には初めの頃のような戸惑いはなかった。

「喜んでくれた?」

「うん、凄く嬉しいです。ありがとう、雪乃」

 体を離して、にっこりと笑い合う二人の横顔を見ていた相澤も、フッと表情を和らげる。桜を喜ばせることができたのはもちろん、雪乃が嬉しそうにしてることも微笑ましかった。

 雪乃に自分たちは家族ではないのかと泣かれた日。桜の誕生日を知った雪乃に相澤はお願いを二つされていた。

 一つは、彼女の誕生日に、いつも食事を作ってくれるお礼も兼ねて夕食を作りたいということ。もう一つは、桜が先に夕飯の支度をしないようにしてほしいということだった。

 後者のお願いは、比較的簡単だった。ただ、誕生日だから何か頼もうと言えばいい。しかし、問題は前者だ。基本的に調理など、調理実習でしか経験のない相澤にとって難問ともいえる。

そこで彼は夕食は"簡単なものにする"という条件を付けて雪乃を納得させ、自分でもできそうで雪乃が喜びそうなメニューを探すことになった。

 そして、何度も動画を見て作り方を覚えたのが、このオムライスだった。

「消太さんも、ありがとうございます。凄くいい匂いでお腹が空いてきちゃいました」

「大したことじゃない」

照れから顔を背けた彼に近づいた彼女は、"でも"とケーキの箱を彼に押し付ける。

「事務所に行くついでだからって、本人に誕生日ケーキを取りに行かせるのはどうなんです?」

「思ったより作るのに時間がかかった。お前の足止めもできて、外に出る時間も取らなくていいなら合理的だろ」

「消太さんらしいですね」

くすくすと笑った桜は、ふと、雪乃の視線に気が付く。早く食べてほしいと落ち着かない目をしている雪乃に、くすりと笑うといつもの席に腰を下ろした。

「冷めないうちに頂いてもいいですか? せっかく二人が頑張って作ってくれたんですから、美味しいうちに食べたいです」

「うん!」

嬉しそうに頷いた雪乃も自分の席に座り、相澤を見上げる。早く座ってと待っている雪乃に気づきながらも、彼は先にケーキを冷蔵庫に入れようとキッチンへ足を向けた。

「消太さん、ケーキなら私がしまいますよ」

 にこっと笑った桜はケーキの箱を個性によってふわりと浮き上がらせ、吸い込まれるように冷蔵庫へと入れた。それを便利だと思いながら見ていた相澤は、くいくいと手を引いてくる雪乃に従ってようやく座る。

 手を合わせて三人でいただきますと食事を始める。大袈裟なほど美味しいと喜ぶ桜と、喜んでもらえて嬉しそうにしている雪乃。笑みを交わす二人の顔立ちは、本当によく似通っている。

 雪乃を放っておけなかった一つには彼女によく似た顔立ちもあった。しかし、今は、それも関係なく、この女の子がどこまでも可愛らしく感じている。それこそ、実の子のように相澤も思うようになってきていた。

 二人の笑い合う声が聞こえる。つられるように彼も小さく微笑んでいた。

***

 オムライスを食べ終えると、桜はすぐにローテーブルを拭く。その間に相澤がキッチンでケーキを用意していた。

「雪乃、お皿運ぶ」

「気を付けて運べよ」

彼から渡されたケーキ皿とフォークを運んだ雪乃は、今日は誕生日だからと座らされている桜の隣にぴったりとくっついて座る。

「さっきのオムライスね、消ちゃん玉ねぎ切るのすっごい速かったんだよ」

「そうなんですか?」

「うん。でもね、雪乃は目が痛くなって涙出た」

おかしそうに笑っている二人の前に、ろうそくのたてられたケーキが運ばれてくる。まさか、ろうそくに火をつけるところまでやると思っていなかった桜は目を瞬いた。

「そこまでするんですか?」

「誕生日だからな」

 ニヤリと意地悪い笑みは昨年の彼の誕生日ときに丸っと同じことをした仕返しなのだろう。そんな顔すら好きだと思う桜は頬を染める。目を逸らしていると、カチッとライターで火をつける音が聞こえてきた。

顔を前に戻したタイミングで部屋の明かりが落ちる。暗くなった室内でろうそくの灯りがゆらゆらと照らしている。

「ふーってして」

 片腕にぴったりとくっついている雪乃にせがまれた彼女は髪を押さえながら、ろうそくの揺れる火に息を吹きかけた。

真っ暗になった部屋の中。ふと、感じた温もり。すぐに離れていったそれにポカンとしている間に部屋の照明がつけられた。

「お姉ちゃん、お誕生日おめでとう」

 にこっと笑みを向けた雪乃は、こてんと首を傾げる。呆けていたかと思えば、桜はみるみる真っ赤になっていくと、突然、口元を押さえた。

「お姉ちゃん?」

不思議そうにしている雪乃の耳に、クツクツと堪えるような笑い声が聞こえてくる。振り返ってみれば、照明のスイッチの前で顔を逸らして笑っている相澤だった。

 何が起こったのか分かっていない雪乃がまた桜の袖を引く。

「あ、ああ。ありがとうございます」

まだ顔を赤らめたまま苦笑いを雪乃に向けた彼女は、ケーキを取り分けている彼を見ると恥ずかしそうに目を伏せた。そして、ゆっくりと嬉しそうな目で微笑む。

「雪乃、先に報告したいことがあるんです」

「ほう、こく?」

目を瞬いている雪乃に見えるように広げられた一枚の紙。その紙には雪乃にはまだ読めない漢字がいくつも書かれていた。

「一緒にケーキを食べたら、三人で出しに行きたいんです」

「お手紙なの?」

 雪乃にとって外へ出す紙といえば、手紙くらいしか思いつかない。そんな様子に、おかしそうに小さく笑った桜は、教えるような口調を添えて指をさす。

「ここに、消太さんの名前と私の名前が書いてあるでしょう? これを区役所に出すと私と消太さんは結婚したことになるんです」

「ほんと!?」

思わず立ち上がってしまった雪乃は、そわそわとする気持ちが押さえられずに桜に抱き着いた。
 大好きな二人が本当の家族になる。それが嬉しくて嬉しくて声にならない雪乃は抱き着いたまま、何度も桜に頬をすり寄せる。

「……雪乃、ありがとうございます」

 抱きしめ返すと零れた嬉しそうな声。一緒に暮らし始めた短い時間の中で、もうこの子が愛おしくて堪らなかった。視線を感じて、ちらりと目を向ける。雪乃越しに視線を交わした桜が頷くと、相澤も同じように頷き返す。

「雪乃。雪乃にも私たちから話があるんです」

「……なに?」

 真剣な声音に緊張と不安を感じながら体を離した雪乃へ向けられる真っ直ぐな黒い目が優しい。緊張も不安も、ここに来てからずっと溶かしてくれた優しさに、雪乃の体から無駄な力が抜けていった。

「これから話すことは雪乃に決めてほしいんです。でも、突き放すつもりも、雪乃を一人にしてしまうこともありません」

小さな深呼吸をした桜は緊張を吐き出して、雪乃の髪から頬を撫でる。

「私も消太さんも、雪乃のことが凄く可愛いんです。恥ずかしそうにしているところも、褒められて照れているところも、嬉しそうに笑ってくれる顔も、全部全部大好きです」

言葉を切った彼女に見えるのは大きく目を見開いて顔を赤くしている小さな女の子。ここに来るまではもらえなかった愛情は、雪乃がずっと欲しかったもの。それを改めて言葉にされると嬉しさも喜びも大きすぎて受け止めきれずに、雪乃の体は小さく震えた。

「だから、本当に私たちの子になってくれませんか……?」

「え……?」

 受け止めきれない感情が思考も鈍らせてしまったような感覚だった。目を瞬いている雪乃に、これまで黙って様子を見ていた相澤が口を開く。

「俺たちの子になると、雪乃の苗字も俺と同じになる」

「消ちゃんの苗字?」

"上の名前ですよ"と桜に教えられて、やっと雪乃は彼女たちに何を話されているのかを理解し始めた。

「でも、いいことばかりじゃない。俺たちと同じ苗字になるってことは、もう前の家族との繋がりが完全に切れちまうってことだ。だから、よく考えてくれ」

「前の、家族……」

 俯いた雪乃の脳裏に、実父や実母、そして実の姉の姿が浮かぶ。彼らとの思い出はすべてが嫌なものだったわけじゃない。個性が発現するまでは、母もよく頭を撫でてくれた。父だって手を繋いでくれた。姉だって一緒に遊んでくれた。

 そのあたたかな思い出が、嫌われてしまってからの雪乃を苦しめた。あの人たちが大好きだった。その人たちをガッカリさせてしまった自分が大嫌いだった。

『その個性で自分を消せばいい。私たちの迷惑にならないところで』

そう言われたとき、もう自分はこの家にいてはいけないんだと痛感した。もう、家族には好きになってもらえないならせめて、家族が望むように個性で自分を消そうとした。でも、上手く扱うことができず、最期に家族から頼まれたことすら満足にできない自分に絶望した。泣くことしかできない自分をもっと大嫌いになっていた。

そんな自分に待っていたのが、こんなにも優しく温かい場所だとは夢にも思っていなかった。

「雪乃、そっちに行っても、いいの……?」

 胸元を握り締めて俯く雪乃の頬を、少し体温の低い手が撫でる。何も言わずに触れてくるその手は、雪乃に顔を上げる勇気をそっと持たせてくれた。

向けられる二人の目には優しさと同じくらいの心配が見える。

「今、無理に考えることはないんですよ。私たちの気持ちを知っていてほしいだけですから」

「……ずっと、好きでいてくれる?」

ぽつりと零れた声と一緒に、一つそれが流れ落ちた。

「雪乃のこと、嫌いにならないでくれる……?」

 この二人に愛されることを知ってしまったから、もう戻りたくないと強く思う。どうか受け入れてほしいと願ってしまう。

ぽろぽろと勝手に溢れてしまう涙を拭っていると、包むように雪乃は抱きしめられた。前と後ろから挟むように抱きしめられ、いつも以上のあたたかさを感じる。

「なれません。もう何があっても雪乃のことが大好きです。ね、消太さん」

「……ああ」

 いつもなら俺に振るなと言う相澤も、とても穏やかな声で答える。雪乃を抱きしめている桜に回された彼の腕。声をあげて本格的に泣き始めた雪乃が泣き止むまで、相澤と桜は、ずっと二人で雪乃を抱きしめていた。

***

 大泣きした後に食べたケーキの味は、不思議なほど美味しかった。目も鼻も真っ赤にした雪乃にケーキを食べさせている桜を見て、相澤は一人、口元に微かな笑みを引いていた。

 その後、約束通り、ケーキを食べた三人は区役所へ向かう。婚姻届けを出したことで、相澤と桜は正式に夫婦となった。夫婦になった二人に挟まれた雪乃が嬉しそうに笑っている。その無垢な笑顔は、相澤と桜の表情も綻ばせた。

 そして―――

「雪乃、急いでください! 保育園、遅刻しちゃいますよ!」

「うんっ!」

声をかけられるまで、ずっと見ていたのは通園バッグに書かれた新しい名前。これまでたくさんの宝物を相澤と桜からもらってきた。その中でも雪乃にとっては、コレが一番の宝物のように思える。ぎゅっと通園バッグを抱きしめてから、雪乃は桜と手を繋いで保育園へと向かった。
- 14 -
[*prev] | [next#]
top