春待つ幼子

 その日、雪乃は初めて気がついた。ふとしたきっかけで気づいたそれは雪乃の中でどんどんと膨らんでいく。

(消ちゃんとお姉ちゃんは家族じゃない……?)

 考えてばかりの雪乃は昼食はまったく進まない。ぼーっと過ごしていたせいで、あっという間に昼食の時間は終わってしまった。周りの子どもたちから大分遅れて、雪乃も弁当に蓋をする。桜に作ってもらった弁当は半分も食べられなかった。

***

 そもそものきっかけは、朝、桜に送られてきたときのこと。副担任の須々木に出迎えられた雪乃が慣れた様子で靴を脱いでいる間に聞こえてきた会話で、桜が"防人さん"と呼ばれていた。

 手を振って仕事に向かう彼女を見送っていると、高い位置から深いため息が聞こえる。顔を上げてみると、須々木が桜の後ろ姿をいつまでも目で追っていた。彼女を見る目がどこか寂しそうに見えた、雪乃は首を傾げる。

「先生、お姉ちゃんがお仕事行っちゃって寂しい?」

「そりゃあ、もう少し話せたら……って、ええっ!?」

 小さく首を傾げている女の子の視線に我に返った彼は狼狽えながら言葉を探すが、じっと見つめてくる目に嘘がつけず、うん、と頷く。

「雪乃もね、前は置いてかれちゃうみたいでやだったけど、保育園で頑張ったこと話すとお姉ちゃん笑ってくれるから大丈夫になったよ。だから、先生もお姉ちゃんに頑張ったこと話せば、お姉ちゃん笑ってくれるよ」

「あ、あはは、ありがとう、雪乃ちゃん」

確かにそんなことを話したら彼女は笑ってくれるだろう。しかし、その種類は雪乃と自分とでは違う。自分に向けられるものは苦笑いだろうなと思いながら須々木は雪乃に笑い返す。

「さ、中に入って、まずは手洗いをしようか」

はい、と返事をした雪乃が室内へと入っていくのを見送った彼は、次に登園してきた子の声に振り返り、笑顔で対応を始めた。

 須々木に言われた通り、手洗いとうがいをすませた雪乃は、何をしようかと先に登園し、遊び始めている子たちを見る。おままごとに、つみき、外ではボール遊びやかけっこをしていた。
 なかなか仲間に入れてと言い出せない雪乃は、隅の方に転がっていたつみきをいくつか拾うと、それを重ねて遊び始める。

 家にはないおもちゃに触るのは、いつも新鮮で、わくわくというよりもドキドキが強い。小さな家に見立てていくつかつみきを並べたところで、次はどうしようかと考えていた時だった。

「ねぇねぇ、雪乃ちゃん」

 声をかけてきたのは同じ組の女の子。雪乃とは対照的に子どもたちの中心的存在の彼女は、今日も二つに結んだ髪がくるんとしていて可愛らしい。

「な、なあに?」

人気者の女の子に緊張した雪乃は、思わず手にしていたつみきを両手で握った。そんなことを気にせず女の子は雪乃へ内緒話を始める。

「須々木先生、雪乃ちゃんのお姉ちゃんのこと好きなんだって」

きゃーっ!とはしゃぐ女の子に雪乃は、目をぱちくりと瞬く。

「そう、なんだ」

誰にでも優しく綺麗な桜であれば誰からでも好かれる。そんな彼女が好かれる誇らしさと嬉しさで、雪乃のつみきを握り締めていた手から力が抜けた。

「だから、須々木先生が雪乃ちゃんのお姉ちゃんと結婚できるように応援してあげようね!」

「え?」

楽しそうにしている女の子へ雪乃が首をこてんと傾げる。その様子に、女の子もアレ?と不思議そうな顔をした。

「お姉ちゃん、結婚してるよ」

「そうなのっ!?」

せっかく面白いことがあったのにと言わんばかりの女の子に、うん、と頷いてから、えっと、と口を動かす。

「お姉ちゃんが来ない日に、雪乃のお迎えに来てくれる人、分かる? その人と結婚してるんだよ」

「えーっ!? あんなオジサンと!?」

酷くショックを受けている女の子は相澤を思い出したのか、ぶるりと体を震わせた。

「あんなカッコ悪い人の何がいいの?」

「……消ちゃんは、カッコ悪くないもん」

 俯いて、むぅっと不満げに下唇を突き出すその様子は誰かによく似ていたが、生憎、それに誰も気づくことはない。

「雪乃ちゃん?」

顎に指を乗せて首を傾げた女の子の巻き髪が揺れる。悪気なく聞いてるのが分かる雪乃は、困りながら顔を上げた。

「あれ? でも、雪乃ちゃんのお姉ちゃん、さっき雪乃ちゃんと違うお名前で呼ばれてたよ?」

「え? うん。うちはみんな違うよ」

 正式には相澤に保護されているという形で一緒に暮らしている雪乃の苗字は、元のまま変わっていない。

「じゃあ、結婚してないよ! 結婚してたらお名前がおんなじになるんだもん! 家族はみんなおんなじお名前なんだよ!」

 ああ、よかった!と喜ぶ女の子の声が遠くに聞こえながら、雪乃は受けたショックの大きさに動けずにいた。

持っていたつみきが雪乃の小さな手から落ちる。床にぶつかってカランと音を立てたつみきは少し離れた所へ転がった。

***

 ぼうっと過ごしていた一日はいつの間にか終わりかけ、夕暮れの太陽も少し前に沈んでしまった。

考えても考えても幼い雪乃には、本当に相澤と桜が結婚しているのか、いないのかが分からない。

(でも、消ちゃんとお姉ちゃんの結婚式の写真あった)

 以前、家にあるタブレットを桜と一緒に使ったときに見た待ち受けの写真。あれを見て雪乃は二人は結婚しているのだと思っていた。しかし、苗字が違うと結婚していることにならないのであれば、それは―――と考えたところで雪乃はハッとした。

(雪乃の、せい……?)

 急に自分があの家に来てしまったから、だから二人は結婚することができなくなってしまったんじゃないか。そんな考えが浮かび上がってくると、自分が大好きな二人の幸せの邪魔をしている恐怖で体が震え始めた。

 真っ青になった顔でカタカタと震えている雪乃の小さな肩が掴まれる。上手く動かない首をなんとか上げると、そこには焦った顔の相澤がいた。

「しょ、ちゃん……」

「雪乃、どうした。何があった?」

異様に震えている雪乃は奥歯をカチカチと鳴らしている。まさか個性を暴走させてしまったのかと頭に過った相澤は異変がないかと周囲を見回した。

 この時間まで迎えを待ってる子どもたち、周囲にぽつぽつと落ちているおもちゃたち、子ども用の小さな机とイスに変化はない。

明らかに不安や恐怖といった怯えで震えている雪乃に手を伸ばす。頭に触れる瞬間、体を強張らせたのを見逃さなかった彼は思わず手を止めた。今まで何度も見たことのある反応ではあったが、もう随分と見ていなかったせいか、相澤の胸に小さな動揺が広がる。

「しょ、う、ちゃ……」

 我慢しきれなくなってしまったのかぽろぽろと涙を流し始めた雪乃を何も言わずに抱きしめる。大きく体を震わせたことに気づかないふりをしながら、雪乃を抱いた相澤は立ち上がった。

「帰るぞ」

 二人の邪魔をしてるのが自分であれば、一緒に帰っていいわけなんかない。そう思っていても雪乃は、どうしていいのか分からずに彼にしがみついて泣いていた。

「雪乃ちゃん、どうしちゃったかな?」

声をかけてきた須々木に返事をすることもできない雪乃は相澤の肩口に顔を埋めたまま。

困り顔の須々木から一日の様子を聞いた彼は泣いている小さな背中を撫でながら保育園を後にした。

***

 電灯の明かりがぽつぽつと歩く道を照らしている。静かな道に響くのは、ひくひくとしゃくり上げる小さな声だけ。

 いつもの時間に保育園に迎えに行った相澤が見たのは、顔面蒼白で震えている雪乃だった。普通ではないその様子に、思わず彼は副担任を押しのけ雪乃の元へ駆け寄った。声をかけたとき、雪乃は目を見開いたまま、初めて会った日のように強く絶望していた。

 ひくひくと聞こえてくる小さな声に相澤は歩く足を緩め、そして、止めた。

「……雪乃、何があった?」

言ってみろと優しく促す声は、普段よりもずっと優しい。とんとん、と背中を撫でてくる手に励まされるようにして、雪乃はやっと口を開いた。

「雪乃の、こと、きら、嫌い、ならな、で……」

お願い、と今にも消えてしまいそうなか細い声に告げられたことに相澤の目が見開かれる。一体、この子は何に怯えて泣いているのかと彼は前を見ていた目を雪乃へと向けた。

「誰かに何か言われたのか?」

弱弱しく首を振った雪乃に、大きく吸い込んだ息を止める。そして、相澤はゆっくりと息を吐き出した。

「……お前が何も言わないと、俺たちは何も分からない。だから、話してくれ」

「あ、う、うぅ……」

泣きすぎて上手く話せない雪乃を少し強く抱きしめてやる。雪乃からほのかに香ったのは、自分の服からもする洗剤の匂いだった。

「頑張れ」

 強く抱きしめてくる手と違って背中に添えられた手から感じるあたたかさに励まされて、雪乃の口は震えながらもゆっくりと開く。

「消ちゃんも、お姉ちゃんも、雪乃も……みんな、家族じゃない、の……?」

 目を瞠った相澤は少し視線を下げた。本当に一体何があったのだろうかと思いながら雪乃の背中を撫でた。

「みんな、上の名前違うのは、家族じゃない……。雪乃は違っても、消ちゃんとお姉ちゃんが家族じゃないのは、雪乃が……!」

これまでよりも大きくしゃくり上げ、涙をぼろぼろと流して大きな声をあげる。

「雪乃がいるから! 雪乃は消ちゃんとお姉ちゃんの邪魔だ―――」

「―――違うッ!」

 雪乃の声を遮った大きくはっきりとした声。驚いてびくりと体を震わせた雪乃を下ろした相澤は、言い聞かせるように小さな肩に触れた。

「俺たちがお前のこと、邪魔だと思うわけないだろ」

「で、でも……」

 目も鼻も真っ赤にしている雪乃の話が、どんなものであれ最後まで聞いてやるつもりだった。それでも、あんなに震えるほど悲しんでいた様子を思い出すと僅かでも早く、否定して安心させてやりたい気持ちが相澤を突き動かした。

「覚えてるか? 桜が最初に言ったこと」

「お、お姉ちゃんが、言ったこと……?」

"ああ"と答えた彼は、あの時の彼女の声を鮮明に思い出す。

「雪乃と家族になりたいと思った。だから、俺たちはお前を呼んだんだ」

真っ直ぐに見てくる相澤の目。嘘偽りのないその目に見られることが雪乃の不安と罪悪感にまみれた恐怖心を解していく。

「ほん、と……?」

「本当だ。だから、お前は安心していい」

それに、と彼は頭をガシガシと掻いた。見慣れているこの様子は何か照れくさそうにしているときだと気づいた雪乃は目を瞬く。

「……桜とは、あいつの誕生日に籍を入れるつもりだから心配するな」

「せき……?」

いつも雪乃が分かるように言葉を選んでいる相澤だが、つい照れくささが前に出てしまい、分かりにくい言葉を使ってしまった。

「……だから、結婚する、ってことだ」

「お姉ちゃんのお誕生日に?」

小さく頷いた彼に、やっと雪乃は安心して普段の笑顔を見せる。

「そっかぁ……」

じんわりと広がる嬉しさを感じるように、俯いた雪乃は両手で胸元を握り締めた。ほうっと幸せそうに息を吐いた雪乃は、おもむろに顔を上げる。

「ねえ、消ちゃん、お姉ちゃんのお誕生日っていつ?」

「もうすぐ……。桜が咲いてる頃だ」

 桜、と近くの木を見上げた雪乃の目に、柔らかく膨らんだつぼみが映り込む。あまり見たことはないけれど、この淡く美しい色の花は彼女に似合うと思った。

 同じように桜の木を見上げた相澤も雪乃と似たようなことを考える。派手さはなく可憐で見る者の心を惹きつける花。しかし、桜に似合うのは、昼間の桜の花ではなく、月明かりに照らされる桜の花だと相澤は昔から感じていた。

 冷たくない春の風が吹き抜けていく。梢が揺れて小さな音を起こした。

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