好きなものと怖いもの

 雪乃と暮らし始めて以来ずっと、夜と休日は必ず相澤か桜が家にいた。しかし、どうしてもどちらかが家にいられない日が、ついに来てしまった。

「本当にすみません、山田先輩。助かります」

 相澤と桜、そして雪乃が住んでいるマンションの一室。そこで、ぺこぺこと何度も頭を下げる彼女に山田はヘラっとした笑みを返した。

「いいって、気にスンナ! ドーンと任せとけって!! なァ、雪乃」

 桜と違って、ここから仕事に出るつもりなのかヒーローコスチュームを着た相澤に抱っこをされている雪乃は、"うん"と頷く。しかし、本音は離れたくないのか、小さな手は彼の黒いヒーローコスチュームをしっかり握っていた。

「なるべく早く帰ってくる」

「ほんとう?」

"ああ"と相澤が答えると、雪乃は両手を伸ばして抱き着く。離れがたく感じてくれているのだと分かった彼は嬉しさを浮かべた口元を隠すように小さな体を抱きしめ返した。

「あ、そうだ。雪乃、これ、山田先輩と一緒に食べてください」

 くっついていた相澤から顔を離した雪乃は、桜の顔を見る。そして、見えるように持ち上げられた紙袋に視線を移した。

「なあに? それ」

「美味しいものですよ」

不思議そうにしている幼い表情を見て、くすくすと笑う彼女。ずっと抱っこをしてくれていた彼から下りた雪乃は、なんだろうと興味を持って彼女へと近寄る。
そっと目を細めた桜が、雪乃に見えるように紙袋に印刷されたイラストを指す。その見覚えのあるイラストにハッとした雪乃の表情が明るくなった。

「ドーナツ!?」

「正解です。いい子にして、山田先輩と仲良く食べてくださいね」

 元気よく返事をした女の子の頭を彼女は何度も撫でた。笑い合っている二人はとても微笑ましいが、山田はどこか納得いかない気分で相澤へ話しかける。

「……なあ、最近俺までガキ扱いされてる気がすんだけど、気のせいか?」

「気のせいだ。お前に言ってるわけじゃねェんだから、いちいち反応すんな」

 桜に子ども扱いでからかわれたくないと思っているくせに、それが他人に向くのは嫌だと思ってしまう彼は、あきらかに不機嫌だ。彼女は自分以外を子ども扱いして、からかったりしないと分かっているからこそ、そんな勘違いをした山田が少しだけ腹立たしかった。

「分かったから、んな目で見んなよ。お前、防人のことになるとホント、ヨユーねェな」

フン、と小さく鼻を鳴らしてそっぽを向いた相澤に、山田はやれやれと片眉を持ち上げる。最近、ますます余裕がなくなっているような気がするが、それも彼が彼女への気持ちを強めている証拠なのだろう。

「すみません、それじゃあ、お先に失礼します」

 時間を見て、荷物を持ち直した桜が山田へと頭を下げた。行ってこいと手を振る山田から、彼女の視線が隣の相澤へと移る。

「気をつけろよ」

「消太さんも」

にこっと笑った彼女は最後に、膝を折って雪乃へと視線を合わせた。

「雪乃、私もなるべく早く帰れるように頑張りますね」

「うん、ひーちゃんと待ってる」

ぎゅっと、抱きしめられた雪乃が桜を抱きしめ返す。これは彼女が仕事に出る前には必ず行われていることだった。

 最後にもう一度よろしくお願いしますと山田に頼んでいった桜は、時間がギリギリになっていたのか、急いで玄関から出て行った。

「俺も行く。雪乃のこと頼む」

「んな心配そうな顔すんなって、なんならちゃんと風呂にも入れておいてやるって!」

 風呂という一言に相澤は眉間に深いしわを寄せる。

「頼んでない余計なことはするな。風呂は、俺か桜が入れる」

「へーへ。ワカリマシタ」

 彼の嫉妬はこんなところにまで向かうようになったのかと、感慨深さの一方、呆れも山田の中に込み上げた。チッ!とはっきり聞こえた舌打ちからは、どうしてもじゃなきゃお前に頼むこともなかったのにと含まれているように聞こえる。

「消ちゃん、怒ってる……?」

相澤の裾を小さく引いてきた雪乃に、彼は気まずそうに視線を逸らす。自分が悪いことをしたんじゃないかと、おろおろし始めた雪乃の頭を撫でると相澤は短くため息を吐いた。

「怒ってない。ただ、心配なだけだ」

「雪乃、いい子にするから、だから……」

 強く握り締める小さな手が痛々しく見えて、彼も先に出て行った彼女と同じように視線を合わせるように膝を折る。

「お前がいい子にしててくれるなら、俺も桜も心配ないな」

「うん……!」

嬉しそうに笑った雪乃の顔はやはり桜に似ていた。ぎゅっと抱き着いてきた雪乃を片手で抱きしめ返しながら、青みがかった白い髪を撫でてやる。

「いってくる」

「うん、いってらっしゃい」

「イッテラッシャーイ」

プププと笑いを含んでいる山田を雪乃に見られないように抱きしめたまま、ギロッと睨みつけて、相澤はそっと雪乃を放した。

「いいか。余計なことすんなよ。雪乃にも必要以上にベタベタすんな」

「分かったから、さっさと仕事行けよ。消太パパ」

 ふざけている山田を思い切り睨みつけようとしたが、にこにこと手を振っている雪乃が視界に入ると怒ることはできない。不満げに口を引き結んだ相澤は、山田のことを気にしつつも雪乃に手を振って外へと出て行った。

 ふと、何かに気づいたように雪乃は隣で肩を震わせている大人を見上げる。

「ひーちゃん、どうしたの?」

口を押えてプルプルと震えている山田は、もう我慢できないとばかりに大声で笑いだす。想像以上の大きな声に、小さな肩が跳ね上がった。

「ひ、ひーちゃん……?」

「わ、わりぃ、わりぃ……」

 ぽんぽん、と頭を撫でてやると、雪乃から"わっ!"と驚いた声上がった。

「今日は相澤も防人もいねぇけど、まァ楽しくやろうぜ」

「うん!」

にこっと笑った雪乃に、山田の表情が和らぐ。しばらく会わなかった間に、一体この子は何を好きになり、何を面白いと思うようになったのか。答え合わせをするような感じを覚えていた。

***

 いつも何をして遊んでいるのかと訊かれた雪乃は、スケッチブックとクレヨンを山田の前に持ってきた。

「これね、お姉ちゃんが買ってくれたんだよ」

36色も入ったクレヨンのケースと大きなスケッチブックの表紙には、綺麗な字で雪乃の名前がひらがなで書かれている。嬉しそうに自分の名前を見ている様子で、これが大切にされていることが分かった。

「へー。雪乃は普段、何描いてんだ?」

えっとね、とスケッチブックを捲った雪乃は一番最初のページを山田の前に開いて見せる。

「猫と、団子と、ケーキか?」

「うん。お姉ちゃんがね、好きなものいっぱい書いてねって」

 恐らく桜の言った"好きなもの"とはその言葉のままではなく、"自由に"という意味だったんだろうと山田は苦く笑う。

「にしても、めちゃくちゃ猫描いてんな! そんなに好きなのか?」

「えっと……」

もじもじとして悩むように視線を彷徨わせた雪乃は、首を傾げている山田に近寄ると耳元に手を添えた。

「あのね、内緒にしてね」

耳にかかる小さな声が、くすぐったい。こうした内緒話だなんて本当に子どもの頃以来な山田は懐かしさを感じずにはいられなかった。

「任せろ。雪乃と俺だけの秘密にしよーぜ!」

うん、と頷いた雪乃は、また山田の耳元へと手を添える。

「雪乃ね、本当はにゃんこ怖くて嫌だったの。シャーッて言うから。でもね、消ちゃんもお姉ちゃんも好きって言うから、好きって言ってたんだ。消ちゃんたちに嫌われちゃうのはもっとヤだったから」

目を見開いた山田に気づかず、雪乃の内緒話は続く。

「でもね、にゃんこも見てたら凄く可愛いのわかった。だから、今は本当ににゃんこ好きなんだ」

ふふっと面映ゆそうに笑っている雪乃に山田は伏せがちになっていた目を開いて、ニッと明るく笑って見せた。

「好きなモン増えてよかったな雪乃」

片手ですっぽりと覆えてしまう小さな頭を撫でてやると、きゃっきゃと嬉しそうな声が上がる。子どもらしい笑い声を聞きながら、山田の胸の中にはまだ痛々しく感じたものの余韻があった。

 この子がこの家にいる経緯は詳しく聞いている。実の両親からの愛情を受けられず、寂しさばかりを募らせた自信のない臆病な女の子。その寂しさも、この家にきたことで少しずつ解きほぐされつつある。負の感情が凝り固まる前に相澤と桜に出会えたことで、雪乃は素直に愛情を受け入れられ、山田が会うたびに明るく、笑顔を見せるようになってきていた。
 猫を好きだと嘘を吐いたのも、嫌われて居場所を失くしたくなくて必死だったのだろう。それを思うとやはり、山田の胸には切なさが広がった。

「ひーちゃんは何が好きなの?」

「ン? 俺かァ、そうだなァ……」

 クレヨンを持っている様子から、自分が好きだと言ったものを描こうとしてくれているのが分かる。そわそわとしている雪乃が可愛らしく見えて、山田がこれまで感じていた切なさなど、どこかに消えてしまった。

「リンゴ」

「りんご! 雪乃も大好き! あのね、環くんも好きなんだよ!!」

 たまたま思いついただけのものの名前を出しただけだったのだが、雪乃は嬉しさで顔を赤らめている。そんなにりんごが好きなのかと思った山田は、今度来るときは買ってくるかと秘かに考えた。

「ふーん、保育園の友達か?」

「ううん、違うよ。でもね、雪乃のこと助けてくれたんだ」

ローテーブルに広げたスケッチブックに赤いクレヨンで丸が描かれていく。歪に見えた丸の中を綺麗に赤く塗った雪乃は拙いながらも、少しずつりんごに近づけていった。

「ひーちゃんは他に何が好きなの?」

「雪乃は俺に興味津々だな!」

「うん!」

 冗談にしっかりと頷かれた山田は"え?"と短い声を上げて固まる。興味津々だなんて言葉を、こんな子どもが理解しているとは思えない。しかし、自分に興味があると言われて嫌な気持ちになるわけもなく、幼い雪乃を相手に照れくささを感じていた。

「そうだなァ、ラジオとかTVは外せねェよな」

「らじお?」

 こてんと首を傾げた動きに合わせて青みがかった白い髪が揺れる。雪乃が一体何に首を傾げているのか分からず、山田は口元の笑みを強張らせた。

「ラジオ、知らねぇの?」

「……美味しい?」

「マジかァァアア!? あいつらどんな子育てしてんだよ!!!」

頭を抱えて大きな声をあげた山田に驚いた雪乃はまた大きく肩を跳ねさせる。ぽかんとしている雪乃の両肩を山田の両手が、がっしりと捕まえた。

「いいか、雪乃。まだ世界は面白いモンで溢れかえってんだ。こんな小せェ部屋が全部だと思うなよ」

「う、うん……?」

サングラスの向こうに見える瞳の真剣さと勢いに飲まれて訳も分からず、雪乃は頷いていた。

「だから、今度は俺んちに遊びに来い。もっと面白いモン見せてやる!」

「ひーちゃんち? いいの?」

「オウ! 相澤は俺が説得してやるよ」

ニッと白い歯を見せた山田につられるように、呆けていた幼い顔に笑みが広がる。遊びに来てもいいと言われたことが嬉しくて、浮かれてしまいそうな雪乃はそれを誤魔化すように描きかけだったりんごを完成させる。
 ふわふわとした気持ちはそれだけでは落ち着かなくて、いつもの猫とケーキを描き足していった。

「雪乃ね、にゃんこ可愛く描けてるって保育園で褒められたんだ」

「確かに上手く描けてるぜ、ケーキもな」

ふふっと小さく笑った雪乃は、描いたばかりのトラ猫を指す。

「にゃんこはね、消ちゃんが好きなんだよ。ケーキとかお菓子はね、お姉ちゃんが好きなの」

「……雪乃は何が好きなんだ?」

 猫の体を描いていた手が止まる。ゆっくりと見上げてきた幼い目に映る山田の表情はどことなく真剣だった。

「雪乃は……」

一度口を閉じた雪乃は、自分の好きなものについて考える。うーん、と言ってから、ぽつぽつと話し出した。

「お姉ちゃんがくれたタオルケットと、もこもこ腹巻と、消ちゃんの買ってくれた絵本と、お姉ちゃんと消ちゃんが選んでくれたにゃんこの帽子とマフラーと、みんなでお揃いのお洋服も好き」

「結構いっぱいあんな。まだあんのか?」

「えっと、あ、ひーちゃんがくれたくまさん!」

パッと顔を上げた雪乃は山田に向かってにっこりと笑う。その屈託のない笑みに、山田は目を見開いた。

「あのね、くまさん大事にしてるよ! 毎日、雪乃と一緒に寝てくれるの」

嬉しそうに、ふふっと笑っている雪乃の頭を撫でてやる。なぜ撫でられているのか分からない雪乃はくすぐったそうに目を閉じていた。

「よかったなァ、雪乃」

 彼が何をよかったと言ってるのかもわからないが、それでも撫でてくれる手が相澤や桜のように優しいことが嬉しくて雪乃は笑っていた。

「でもね、一番好きなのは……」

恥ずかしそうに目を伏せた雪乃の頬が淡く染まっている。頬が赤いのは恥ずかしさだけでなく、嬉しさも混じっているように山田には見えた。

「消ちゃんとお姉ちゃん……」

真っ赤になってしまった雪乃の手はクレヨンを持つことはなく、胸の前できゅっと握られている。

「お姉ちゃんも、雪乃のこと大好きって言ってくれるし、消ちゃんは凄く優しくしてくれるから。だから大好き」

「あいつらは雪乃の家族だもんな」

 パチパチと目を瞬いた雪乃は、驚いた目で山田を見上げる。そして、そっかと胸に沸く何かを噛みしめるように、微かに笑いながら俯いた。

「それ、あいつらに言ってやれよ。たまにでいいからよ」

「で、でも、雪乃がそんなこと言ったら嫌にならないかな?」

先ほどまでの表情を消し、困った顔をする雪乃に山田はチッチッと指を振る。

「ンなわけねーだろォ? 防人の奴は実際雪乃のこと大好きって言ってんだし、雪乃だって嫌な気持ちになんかなってねェんだから、言ってみろよ。消ちゃんなんか嬉しさで固まっちまうかもしんねェぜ?」

「そう、かな?」

半信半疑といった面持ちで首を傾げる雪乃に、山田は片眉を持ち上げる。

「誰でも嬉しいモンだぜ。好きって言われんのはよ」

そうかとばかりに雪乃は顔を上げる。そして視界に入ってきたものを、何気なく見つめた。雪乃の視線の先には、以前、三人で撮った写真が飾られている。

「あのね、ひーちゃん」

「ん?」

 フォトフレームから目を離して、雪乃はにこっと山田に笑いかけた。

「雪乃、ひーちゃんのことも好きだよ」

「う、えぇっ!?」

驚きのあまり変な声を出した彼は、年甲斐もなくどきどきとしてしまった胸に手を当てていた。

「消ちゃんとお姉ちゃんの次だけど、好きだよ」

「……お前、その歳で上げて落とすなんて恐ろしいモン知ってんのか」

末恐ろしいと床に手をついた山田の声は聞き取れなかったが、その長い髪が揺れるのを見て、あの、と迷うような声がかけられた。

「あの、ひーちゃんの髪、触ってもいい?」

 顔を上げた山田の視界には、緊張で顔を強張らせている雪乃が入ってきた。両手をもじもじとさせている女の子に、彼はフッと小さく笑う。

「俺の髪を触れんのはイイ女だけなんだぜ?」

困ったように視線を落として、しゅんとした雪乃に山田はニッと歯を見せて笑った。

「だから雪乃なら触ってもOKだ!!」

 ほら触れ触れ、と言った山田に雪乃の表情は一気に明るくなる。うん!と頷いた雪乃の小さな手が、そっと山田の髪に触れる。その優しく触れていた手は山田の頭を撫でることなく、本当に触れただけで離れて行ってしまった。

「とれたよ、ひーちゃん」

「なにが―――」

 小さな手の中に収まっているそれを目にした瞬間。山田の全身は鳥肌が立ち、余すことなく冷や汗が噴き出し、ガクガクと震えだす。
 その一方、何も気づかずベランダへ、とことこと歩いて行った雪乃は、窓から山田の髪についていたカミキリムシを外へと逃がしてやった。

 ゆっくりと室内を振り返った雪乃は、見たものがなんなのか分からず何度も目を瞬く。彼女が見たものは、恐怖のあまり、声にならない叫び声をあげた山田がクッションの下に頭を入れるところだった。

「ひ、ひーちゃん……?」

 どうしたの?と慌てて駆けよった雪乃はクッションの下に頭を入れ、ガクガクと震えている山田の背中を恐る恐る撫でる。

「雪乃……俺はもうダメだァ……」

情けない声を出して震えている山田がどうして、こんなふうになってしまったのかは分からない。しかし、彼が怯えていることだけは分かった雪乃は、きゅっと口を引き結んでから、自分のものよりも大きな手を握った。

「大丈夫だよ。ひーちゃんのことは雪乃が守るから……」

 すべてに濁音をつけながら雪乃の名前を呼んだ山田は、その小さな体を抱きしめた。というよりも縋りつくように抱き着いた。

***

 夕暮れも終わり、そろそろ夜が始まりそうな時間。帰路の途中、相澤と桜は、ばったりと出くわした。

「お疲れ様です、消太さん」

「お前も、お疲れ」

 彼の隣を歩く彼女は嬉しそうに小さく笑う。その笑みを見た彼も捕縛武器の中に隠した口元に笑みを引いた。

「雪乃、いい子にしてますかね?」

「平気だろ。俺が出る前も、いつも通りだった」

そうですかと言いつつ、二人の歩くペースは普段よりも速い。

 不意に何か思いついたように桜は相澤をちらりと見る。

「……競争しましょうか。うちまで」

「ガキか」

くすくすと笑った彼女は、まあまあと彼に見えるように買い物袋を持ち上げた。

「消太さんが勝ったら、夕飯は消太さんの好きなものにしますよ」

 別に桜の作るものに嫌いなものなどない相澤は、それじゃあ景品にならないなと横目で見ていた彼女から正面に視線を戻す。

「俺が負けたら?」

「一週間、キス禁止で」

勢いよく桜の方へ相澤の顔が向けられる。本気かとばかりに見てくる彼に、彼女は整った口元ににこっと笑みを引いた。

「おい、冗談―――」

「じゃあ、行きます! よーい」

ドン!と、先に走り出してしまった桜の背中を見て、相澤も追うように駆け出す。一般人ではなく、ヒーローである彼女の足は速い。簡単に追い抜かせてはくれないであろう桜が顔だけで振り返り、くすっと笑う。その笑みに普段の柔らかさはなく、少し挑発的に見えた。ムッとした相澤は走る速度を上げる。じわじわと彼女との距離は縮んでいった。

 拮抗していた駆けっこは、二人の住むマンションの前で決着がついた。

「あはは! 私の勝ちですね!!」

「ふざけんな。個性使うのは反則だろ」

 本来であれば、追い抜いた相澤が先にゴールするはずだった。しかし、ゴール直前で彼の体はぴたりと動かせなくなった。すぐ背後にいた彼女の個性で動けなくなったのだと分かっても、姿を見ることのできない相澤は対抗することができなかった。

「負けは負けです。約束は守ってくださいね」

 納得がいかない彼は眉間に深いしわを寄せ、不満そうに唇を引き結ぶ。その際にいつも突き出してしまう下唇が可愛らしくて桜は頬を染めて微かな笑みを見せた。

「さ、雪乃が待ってますから、帰りましょう」

 先に歩き出した彼女の後ろを彼もついて行く。少し沈んだようにも見える顔の相澤は、どうして桜が"一週間のキスの禁止"などと言い出したのか考えていた。

(言い出せないだけで嫌だったのか?)

そうでなければ、あの勝ちにこだわらない彼女が個性を使ってまで勝とうとするはずはない。
 エレベーターホールでエレベーターが下りてくるのを待っている桜の横顔を見ながら、は相澤はどんどんと深みにはまるように考え込んでいく。

「消太さん、エレベーター来ましたよ」

「ああ……」

乗り込んだエレベーターに人はおらず、二人きり。ゆっくりと上がっていくエレベーターの中で、彼女は表示される電子パネルで上昇する数字をじっと見ている。その横では、彼女とは対照的に彼が俯いていた。
 考え込むように俯いている相澤を横目に見た桜は、くすっと笑うと彼の首に巻かれている捕縛布に手をかける。個性も使って優しく引き寄せられた相澤の体は、あまりにも唐突で踏ん張ることができずに桜の方へと傾いた。そして、彼の頬にそっと彼女の唇が触れる。

「な……!?」

 頬に残る感触。思わずそこを押さえた相澤の驚いた顔を見て、桜は堪えきれず顔を逸らしてくつくつと笑った。

一しきり笑うとポカンとしている彼へと向き直った彼女は、目尻に溜まった涙を指先で拭う。

「一週間、キスは禁止じゃなかったのか?」

「ええ、そうですよ。"消太さんからは"ですけど」

「は?」

意味が分からないとばかりに眉間にしわを寄せる相澤に、桜は悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「なんで私が我慢するんです? 嫌ですよ、そんなの」

「じゃあ、なんでだよ」

ふふふ、と小さく肩をすくめて笑った彼女は目を伏せる。

「私からしたいと思うのに、消太さんがいつも先にしちゃうんですもん。だから―――」

纏う雰囲気までも柔らかにさせて微笑んだ桜に、相澤の胸は強く脈打った。

「―――しばらくは、私からするのを待っててくださいね」

 開こうとして微かに動いた彼の口は声を発することなく閉じられる。次の瞬間には、相澤の手が桜の顔の横すれすれを通り、壁につけられた。彼と壁の間に閉じ込められた彼女は目を瞬いている。

「催促するのは禁止じゃなかったな」

近寄ってきた相澤の顔に、桜の顔は一気に赤く染まった。しかし、何かに気づくと、くすり、とおかしそうに笑う。

「残念。時間切れです」

 目的の階に着いたことを知らせる音がエレベーターの中に響く。仕方がなさそうに手を下ろした彼の横を通り過ぎた彼女は、黒く艶やかな髪をさらりと動かして振り返った。

「さ、おうちに帰りましょうね」

「ガキ扱いすんな」

桜に手を引かれて歩く相澤は口元を隠すように捕縛布を引き上げる。

 最近は彼女をからかうことも、少ないとはいえできるようになっていた。今日だってからかわれたりしたら、からかい返す気でいた。しかし、家を出る前に山田に対して思った通り、こうして桜にからかわれるのは自分だけがいいと相澤は耳を赤くさせながら目を逸らした。

 自分たちの住む部屋のドアに差し込まれた鍵が、カチャンと音を立てる。二人一緒に玄関に入ると、桜がリビングにいるであろう雪乃に向かって"ただいま"と声をかけた。

「……おかしいですね?」

こてん、と首を傾げた彼女の言う通り、普段であれば雪乃が出迎えにくるはずだ。しかし、その様子はなく、リビングからは話し声が漏れている。
 どうしたのだろうと、顔を見合わせた相澤と桜は、そっとリビングのドアを開いて中へと入った。

 そこで見たものに桜は目を瞬き、相澤はあからさまに苛立った顔をする。

「あ、お姉ちゃん、消ちゃん、おかえりなさい」

立ち尽くしている二人へ顔を向けた雪乃に、小刻みに震えている山田がしがみついている。

「ひーちゃん、もういないから大丈夫だよ」

「雪乃、大きくなったら俺と結婚して虫から守ってくれ……」

 髪にくっついていた大きなカミキリムシがよほど怖かったのか、山田は未だに震えて雪乃にしがみつき、雪乃もよしよしと小さな手で山田の体を撫で続けていた。

「結婚って、消ちゃんとお姉ちゃんがしてる結婚?」

うんうん、と頷いていた山田の首根っこが思い切り引かれる。引き剥がしたのは、もちろん相澤で、酷く機嫌の悪い顔で山田を強く睨みつけていた。

「言い訳なら聞いてやる」

髪の毛を逆立てている彼に、山田は、パクパクと素早く口を動かし、必死に両手を動かしている。声を出すことのできない山田を横目に、桜は解放された雪乃へと近づいた。

「何があったんですか?」

「あのね、ひーちゃん、虫が怖くってね」

 虫?と首を捻る桜に、えっと、と雪乃は詰め寄る相澤と必死に何かを伝えようとしている山田を、ちらりと見る。おかしそうに、ふふ、と笑った雪乃に、よく理由は分からないけれど桜も同じように笑う。

 バタバタとせわしなく大きく手を動かして弁明しようとしてる山田と、その彼の胸倉を掴んで凄んでいる相澤を見ながら雪乃と桜は笑い合っていた。

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