静かに寝室の様子を窺う彼の気配を感じ取った桜が目を覚ます。ゆっくりと寝返りを打つようにして彼女は振り返った。
「おかえりなさい。お疲れさまでした」
「ああ。遅くなって悪い」
いいえ、と返事をした彼女は隣で眠っている女の子を気にしながら、布団を抜け出す。小さな寝息を立てている雪乃は、お気に入りのタオルケットとクマのぬいぐるみを傍に置いていた。
寝返りを打ってクマのぬいぐるみを抱きしめた女の子の頭を優しく一撫でした桜は、相澤と一緒に寝室を出た。
「今からだとあまり眠れませんけど、大丈夫ですか?」
「雪乃を送ったらまた寝る。だから心配するな」
心配そうにしている彼女に、フッと笑みを浮かべた彼は、ぎゅっと力強く抱きしめる。
「消太さん?」
ここのところ時間の合わなかった相澤と桜は入れ違うように家を出ていた。会えたとしても雪乃が起きている時間で、こうして抱きしめることができたのは、いつぶりだろうかと相澤は彼女の匂いを感じながら目を閉じる。
「……半月ぶりですね。こうして、消太さんに抱きしめてもらえるのは」
「そんなにか?」
ええ、と答えた桜も強く相澤を抱きしめる。彼女も久々に感じることができた彼の匂いに強い安心感と喜びを覚えていた。
しばらく抱きしめ合うと、二人は示し合わせたように体を離す。嬉しそうに細めた目で見つめてくる桜の頬を撫でる相澤の目も、彼女から向けられているものと同じく優しい。当たり前のように二人の距離はなくなり、唇が重なる。離れるたびに微笑み合い、また唇を重ねた。
「もっとこうしていたいんですが、私もそろそろ出ますね」
「分かってる。無茶すんなよ」
頷いた彼女を一度強く抱きしめてから、そっと回していた腕を解く。
「朝はお願いします。お迎えは私が行きますから、それまでゆっくり休んでくださいね」
ああ、と短く返事をした相澤に、くすっと笑った桜は彼の肩に両手を置いた勢いを利用して、普段、少し高い位置にある頬に、そっと唇を押し当てた。
「それじゃ、行ってきます。少しでも、ちゃんと寝てくださいね」
「……分かってる」
赤くなってしまった顔を見られないように背けている彼に、くすくすと一しきり笑った彼女は、まとめていた荷物を持ってリビングを出た。
靴を履いた桜は、見送りで玄関までついてきた相澤へ、長い髪を揺らして振り返る。そして、にこっといつもの笑みを見せた。
「いってきます、消太さん」
「気をつけてな」
頷いた彼女がドアを開けて外へ出る。閉まる直前まで笑って手を振っていた桜に応えて上げた相澤の手も、彼女が見えなくなると自然と下ろされていた。
そこから急いで汗を流した彼は、寝室に戻ると大人しく寝ていた雪乃の隣に横になる。先ほどまで、桜が横になっていた場所からは、抱きしめたときと同じ匂いが残っていた。
(桜……)
優しい匂いに包まれているようだと感じた頃には、もう相澤の瞼は重く、すっと眠りに落ちていた。ここのところ、仕事の激しさのわりに十分に睡眠を取ることができていなかった彼の眠りはとても深くもあった。
***
「……ちゃ」
ぼんやりした意識の中で、微かに聞こえる声は彼女のものではない。弱弱しく体が揺すられているような気がした彼は、顔をしかめながら薄っすらと目を開けた。
「消ちゃん、消ちゃん」
「雪乃……?」
ようやく自分を呼んでいるのが、雪乃であることに気が付いた相澤は、どうしたとばかりに眠そうな目を持ち上げる。
「どうした……? トイレか?」
「ううん。おトイレはさっき行ったよ」
首を振った雪乃は不思議そうに首を傾げながら、まだ横になっている彼の顔を覗き込む。
「じゃあ、どうした……?」
「今日、保育園お休みなのかなって思ったの」
目を見開いて固まった相澤に、"消ちゃん?"とまた雪乃の声がかけられると、彼は勢いよく枕元の目覚まし時計を確認した。時刻は保育園に余裕をもって出る時間、10分前だ。
「違う! 雪乃、着替えて顔洗ってこい!」
「お顔は洗ったよ。お洋服もお姉ちゃんが、明日来てねって昨日言ってたの着た」
飛び起きた相澤に驚いて目をパチパチとさせている雪乃をよく見れば、身支度はしっかりと済まされている。
「……助かる」
ガシガシと荒っぽく頭を撫でられた雪乃は、きゃあと楽しそうな声をあげた。
「急いで出るぞ。朝メシは?」
「お姉ちゃんが、冷蔵庫のたまごサンドと野菜サンド食べてって言ってたよ」
「食ったか?」
「ううん、まだ。消ちゃん、寝てたから」
これで朝食をすませていてくれたらと思ってしまったが、寝入って起きられなかった自分が悪いと相澤は額を押さえながら、ため息を長く吐き出す。
「消ちゃん……?」
「いや、何でもない。悪いな雪乃、急いで食わないと間に合わない」
彼の表情から、この状況をなんとなく感じ取った雪乃は両手を、きゅっと握り締めた。
「頑張って食べる! 消ちゃんも急いで!」
「ああ、本当に悪いな」
もう一度、頭をガシガシと撫でてやってから、相澤は雪乃をリビングに連れ出した。
***
リビングに置かれているローテーブルには、すでに桜が作り置きしたサンドイッチが並べられていた。どうやら、雪乃が一人で朝食の用意をしてくれていたらしい。
朝食を食べだした雪乃へ飲み物を出してやったついでに、忘れ物がないかの確認で何気なく彼はそれを訊いてみた。
「今日って弁当いるのか?」
「うん。今日はね、おっきい公園でお弁当食べるんだよ」
その返事に、相澤の表情が明らかに固くなる。これまで弁当作りは桜に任せきりだった。その彼女に何か言われた記憶はない。一瞬、今日は休ませてしまおうかと思ったが、楽しみだなぁとニコニコしている雪乃を見ればそんなことも言っていられない。
「食い終わったらすぐに出るぞ。急げ」
「うん」
もぐもぐと一生懸命に急いでいる雪乃の食べるペースと残りを見れば、あと5分もかからないだろう。
空っぽの小さな雪乃の弁当箱を引っ張り出してきた彼は、この空白を短い時間でどう埋めるべきかと睨みつける。
「ごちそうさまでした」
両手を合わせた雪乃が片付けようと皿を運んだキッチンでは、彼が小さな弁当箱を包み終えたところだった。
ほっと息を吐く間もなく、相澤は間に合うか間に合わないかのギリギリに、雪乃を抱えて自宅を飛び出した。
***
なんとか保育園に間に合った雪乃は、午前中に移動した大きな公園で空を見上げていた。何気なく見上げていただけだったのだが、近くを通りかかった女の子が何を見ているのかを気にして声をかける。
「何見てるの?」
「あの雲、にゃんこみたいだなって思ってたの」
あそこと指さした雪乃の小さな指をたどって雲を見た女の子は、本当だと目を大きく開いて興奮したように飛び跳ねた。
「凄いね! どうやって見つけたの?」
「え? えっと……」
洗濯物を干すときに桜が空を見て、ときどき何か考えるような遠い目をしていることを思い出して真似してみただけだった雪乃は、どうやって見つけたのかと聞かれて困ってしまう。
いつも話しかけてもらえても緊張して上手く話せない。そんな自分が嫌だなと思いながら、雪乃は視線を落とした。
「……教えてくれないの?」
「ううん、そうじゃなくって……、どうやってか覚えてなくて」
何となく桜の姿を思い出してやっただけだとは説明できなかった雪乃に女の子は"もういいや"とどこかへ行ってしまった。せっかく話しかけてくれたのに、と自分が情けなくなった雪乃は小さくため息を吐きながら下を向く。
「はーい、そろそろお弁当にしますよー!」
引率の先生の声に俯かせていた顔を上げると、周りの子たちが一斉に荷物を置いているところへ走っていく。通り過ぎていく自分と同じくらいの背中を見ていた雪乃も遅れて歩き出した。
***
雪乃を送り届けて帰宅した相澤は、布団の中で寝息を立てていた。寝返りを打つたびに感じる桜の匂い。それが心地よくて、いつまでも眠れる気がしていた。
帰宅した彼が眠り始めて四時間程が経った頃。微かに聞こえてきた音に相澤の意識はぼんやりと浮かび上がってくる。スマホが鳴っていると気づいた彼はすぐに体を起こすと、着信で震えているそれを手に取った。
『あ、もしもし、まだ休んでましたか?』
「ああ。もう昼か?」
電話の向こうから聞こえてくる彼女の"ええ"という声で、相澤の目ははっきりと覚める。顔にかかっていた髪を掻き上げて、寝室の壁時計を見上げると、時間は12時を少し回ったところだった。
「なんかあったのか?」
『いえ、家を出るときに伝え忘れたことを、メッセージで送っておいたんですが、消太さんからの既読がつかないので心配になって……』
「メッセージ?」
スマホを耳から離して確認してみると、新着メッセージが来ている。開いてみれば、送ってきた相手は桜で、そこに書かれている内容に彼の目は大きく見開かれた。
『……やっぱり、気付かなかったみたいですね』
困ったような声から、彼女が苦笑いをしているのが分かる。ため息をこぼしながら、髪を掻き上げた相澤は気まずそうな表情をしていた。
「悪い」
『いいえ。お疲れだったんです。仕方ありませんよ』
それから数回、やり取りをすると二人の通話が終わる。スマホを耳から離した桜は待ち受け画面の、相澤と雪乃と三人で撮った猫耳パーカーの写真を見て目を細めた。
幸せそうに微笑んでいた彼女は、先ほど相澤から聞いた話を思い出すと、堪らなくなって一人でプッと噴き出す。ビルの屋上で風に吹かれている桜はおかしそうに肩を震わせていた。
***
木陰の下に入った雪乃たちは、一斉に両手を合わせて"いただきます!"と元気よく挨拶をすると、それぞれ弁当箱を開いた。サンドイッチや、キャラクター弁当など可愛らしいものが次々と蓋の下から顔を出す。
誰ちゃんのお弁当が可愛い、このおかずが好き!といった声が聞こえてくる中、雪乃も遅れて弁当箱の蓋を開く。
いつもこうした特別なときのお弁当は、普段よりもかわいいものを桜が作ってくれているのを知っていた雪乃はドキドキとしていた。
「あれ?」
保冷バッグの中に、いつも入れられているお手拭きが入っていない。それに箸も、フォークもスプーンも入っていなかった。不思議に思いながらも包みを開いてみるが、やっぱりどれも入っていない。
しかし、いつもの弁当の蓋を見つけると嬉しさが込み上げた。どきどきワクワクしながら蓋を開けた雪乃は目を瞬いた。
「ゼリー?」
雪乃の開けた弁当の中にぴったりと収められていたのは、いつも相澤が仕事の合間に飲んでいるゼリー飲料。それを弁当箱から取り出すと、下には一枚のメモが入れられていた。可愛らしい黒猫のイラストが印刷されているメモ帳に書かれている文字を、雪乃は一文字づつ読んでいく。
「ご、め、ん、ね」
たまに桜が入れてくれる手紙と同じメモ帳に書かれている文字は、彼女の文字ではないような気がした。
「消ちゃん?」
そういえば、これはいつも相澤が仕事に持って行っているものと同じだと気が付いた雪乃は、彼が家でこれを口にしているのを見たことがあったのを思い出す。記憶の中の相澤の真似をするように、雪乃は小さな手で飲み口のキャップを開けた。
***
雪乃が公園でゼリー飲料を食べ始めた頃。自宅にいた相澤は冷蔵庫を開けていた。
桜が用意してくれていた自分の昼食の隣には、小さな子ども用の弁当箱が入れられている。はぁっとため息を漏らした彼はそれも取り出すとレンジにかけた。
ほどよく温め直された昼食たち。その中でも雪乃の為に用意されていた新しい弁当箱に詰められているものを見ると、相澤は申し訳なさと気まずさでなんとも言えない気分になる。
(これだったら雪乃のやつ、喜んだだろうな)
額に手をあててため息をこぼす彼を、小さなハンバーグで作られたクマと、猫の形をしたおにぎりがにこにことして見ている。
この可愛らしい弁当を雪乃に持たせてやれなかったことも、これだけ手の込んだ弁当を作った桜にも申し訳ない。
ローテーブルに肘をつきながらもたれるように髪を掻き上げた彼は、ふんわりと温かさに乗って香ってきた食事の匂いで食欲を刺激され、急速に空腹を感じた。はぁ、と短くため息を吐くと、姿勢を正した相澤は小さく手を合わせる。
雪乃の手前、きちんと挨拶をさせるには自分たちも同じようにしなければならない。そう心掛けて行動するようになってから、家にいるときはこの習慣が染みついてしまっていた。
きっと、今頃は桜も同じように昼食を摂るために手を合わせているんだろうと思うと、相澤は少しだけ笑みを浮かべていた。
***
「本当にすみませんでした」
迎えに行った保育園で桜は担任の保育士に向かって深々と頭を下げていた。
「次からはきちんとした内容のものにしてくださいね。いくらヒーローが忙しいからって、あんなものじゃ雪乃ちゃんがかわいそうでしょう!」
ごもっともですと頭を下げる桜の隣では雪乃がきょとんとしていた。頭を下げた先で雪乃と目が合った彼女は、苦い笑みを見せる。
「防人さん! 貴女、ちゃんと聞いてますか!」
「はい! 今後はこのようなことがないように気を付けます!」
これだから若い親は嫌だと言わんばかりの保育士へ、他の保育士の声がかけられた。"今行きます!"と返事をした保育士が職員室へと歩いて行く。担任の保育士が職員室に入ったのと入れ違いで、男性の保育士が桜たちの前にひょっこりと現れた。
「こ、こんにちは。防人さん」
「こんにちは。今日はご迷惑をおかけしてしまってすみません」
副担任である彼にも頭を下げた桜に、彼は慌てて手を振った。
「そんなそんな! 忙しいときは誰にでもありますよ。いつも防人さんは雪乃ちゃんのお弁当をしっかり作っていらっしゃるじゃないですか」
ここでようやく大人たちが話している内容が弁当のことだと分かった雪乃は、桜の手を引いた。
「今日ね! 消ちゃんがお手紙くれたの! お弁当に入っててね、でもなんで"ごめんね"なのか分かんなかった。雪乃の好きなヨーグルトの味だったのに」
なんでかなぁ、と首を捻る雪乃に、桜はくすりと笑う。
「じゃあ、おうちに帰って消ちゃんに直接訊いてみましょうか」
あの雪乃の為に作ったあの弁当を食べる相澤を想像した桜は、ふっと顔を背けて小さく肩を震わせた。
「お姉ちゃん?」
「いえ、なんでもないんです。気にしないでください」
男性の保育士に向き直った彼女は、笑みを浮かべたまま軽く頭を下げる。
「それじゃあ、先生。今日もありがとうございました」
「
ぽぅっと桜に見とれていた彼は、呆けたまま雪乃に手を振り返す。話しながら園庭を出て行く二人の様子を彼はいつまでも見ていた。
***
帰宅した雪乃は急いで手を洗うと、リビングのドアを開いた。ローテーブルの前に座っている相澤を見つけた雪乃は、嬉しそうに笑って彼に抱き着く。
「消ちゃん!」
驚きながらも抱き留めた彼は、優しく小さな頭を撫でた。
「雪乃、今日は悪かった」
くすぐったそうに笑っていた雪乃は、申し訳なさそうな相澤にこてんと首を傾げた。
「どうして? ヨーグルトのゼリー、美味しかったよ? あと雪乃ね、消ちゃんのお手紙嬉しかった」
なのに、ごめんねなんて変なのと雪乃は彼の膝の上に顔を乗せる。そして、目がトロンとし始めた。
「雪乃?」
こくこく、と小さく舟をこいだかと思えば、雪乃はそのまま相澤の膝で眠り始めた。
「お昼までは上手くお友達と遊べなかったみたいですが、消太さんのお弁当を食べてからは、かくれんぼとか駆けっこに誘ってもらって上手く遊べたみたいですよ」
後ろから相澤に抱き着いた桜は、彼の膝で眠り始めた雪乃を優しい目で見つめる。
「いいなぁ。私も消太さんからのお弁当が欲しいです。お手紙付きで」
「………」
ムスッと機嫌が悪そうに下唇を突き出した彼は、彼女の頬が触れていない方へと顔を逸らした。
「……寂しい」
一言漏れた桜の声が本気じゃないと分かっているのに、それを無視することが相澤にはできない。惚れた弱みってやつかと思いながら彼は彼女の頭に手を置いた。
「弁当は勘弁しろ。……手紙は、考える」
精一杯の相澤からの答えに、桜は嬉しそうに笑って顔をすり寄せる。
「楽しみにしてますね」
一体どんな手紙を彼からもらえるのだろうと思っていた彼女だが、まさか、その日の風呂上がりにもらえるとは思っていなかった。
『須々木って誰だ』
彼女のスマホの上に置かれていたメモ帳に荒っぽく書かれた文字。明らかに嫉妬しているのが見て取れるそれを手に桜は相澤に視線を向ける。
じぃっと何か言いたげに見つめ返してくる彼は、どうやら風呂の中で雪乃から須々木先生のことを訊いたようだ。
突き刺さるような視線からも"そいつは誰なんだ"と訴えてくる相澤に、桜は困ったように口元に薄い笑みを引いていた。