小さなヒーロー

 張り切って家を飛び出したときの元気は、風に吹かれている枯葉のように、ぴゅうっと飛んで行ってしまった。
 不安そうに胸元で猫の手を模したマフラーの裾を握りながら、見覚えのある場所はないかと雪乃は右へ左へと視線を巡らせる。しかし、どこも見たことのあるような、ないような建物ばかりが見えるだけ。自分がどこから来たのか、どうしたら相澤と桜の待つ暖かな家に帰れるのか、今の雪乃には分からない。

「しょ、消ちゃん、お姉ちゃん……」

心細さで動けなくなってしまった小さな女の子はその場にうずくまり、しくしくと泣き始めた。

***

 雪乃が迷子になる一時間ほど前のこと。料理をしていた桜はリビングに聞こえるような声で、はっきりと"困ったなぁ"と言った。

「どうしたの?」

お絵描きをしていた雪乃は使っていたクレヨンを置いて、キッチンにいる彼女の元へ駆け寄った。こてんと首を傾げている女の子が、こうして来てくれることが分かっていた桜は、くすりと口元を笑わせる。

「実はですね、買い忘れたものがあって……」

うーん、と困った仕草を見せる彼女に、雪乃の表情はどこか明るくなった。ちらりとその様子を見た桜は、視線を寝室のドアへ向ける。

「まだ手が離せないので消太さんにお願いしようと思ったんですが、まだ寝ていますし……どうしましょうか」

「何を買うの?」

食いついてきた雪乃に向かって困った顔を作っていた彼女は、口元にまた笑みを引いた。

「りんごです。いつもの八百屋さんで買おうと思うんですが―――」

「―――雪乃、おつかい行きたい!」

目をキラキラとさせている女の子に、桜は驚いた顔を作って見せた。

「え? いいんですか? 本当にお願いしちゃいますよ?」

「うん!」

「それじゃあ、いつもの八百屋さんで買ってきて欲しいんですけど、道は分かります?」

「だいじょうぶ!」

小さな両手をぎゅっと握り締めている雪乃に向けられる桜の視線はとても優しい。

「じゃあ、これ。お買い物したものを入れるリュックです。お金は、ちょっと待っててくださいね」

一体、いつから用意していたのか、にゅっと出してきたものを受け取る。それは、いつも買い物に使っているトートバッグではなく、初めて見るリュックサック。シンプルながらウサギの耳のようなリボンが、とても可愛らしいリュックを雪乃は、じっと見つめていた。

「お待たせしました。はい、これでお願いします」

「かわいい……」

彼女に差し出されたのは、黒猫の小さながま口財布。小さな両手で受け取った財布を食い入るように見つめる目は嬉しそうにキラキラとしている。

「気に入ってもらえてよかったです。雪乃も猫が大好きですもんね」

 相澤が毎晩のように読み聞かせている絵本のことを考えると、多少の刷り込みもあるだろう。
この家に置いてある絵本には大抵、猫のキャラクターが出てくる。まだすべての文字は読めないものの、雪乃がある程度一人で文字を読めるようになったのが嬉しかったのか、物を置きたがらない相澤には珍しく何冊も絵本を買ってきた。そのため、雪乃の為に用意したカラーボックスの一角は絵本でいっぱいになりつつある。
 そのことを思い出した彼女は、くすっと笑うと小さな頭を撫でた。

「大丈夫そうですか? 一応、地図を描いておきましたから、これも持って行ってください」

「うん」

受け取った地図を見てみると、猫の親子を見た場所、いつも声をかけてくれるお婆ちゃんのおうち、落ち葉を拾った公園など、女の子の印象に残っている場所が描き込まれていた。
 もらったばかりのリュックに財布と地図を入れた雪乃は玄関に向かって歩き出す。お気に入りの靴を履いて、振り返った女の子は桜にぎゅっと抱きしめられた。

「怖くなったり、不安になったら、すぐ、ここに帰って来てきてください。道が分からなくなって困ったりしたら、周りの人に助けてってちゃんと言うんですよ」

彼女の優しい匂いを感じて目を伏せた雪乃は、小さく頷きながら抱きしめ返す。二人の体が、そっと離れると小さな手が玄関のドアノブにかかった。

「いってきます」

ドアが閉まる寸前まで、笑顔で見送った彼女は、バタンと音を立ててドアが閉まると、顔に影を落とした。

「……おつかいなんてまだ早かったんじゃないか?」

 寝室で寝ていることになっていた彼はぼさぼさに乱れた髪の毛を掻きながら彼女の後ろに立っていた。

「あの子がやりたいと思うことを私の心配で邪魔したくなかっただけです。お店の人には協力してもらえるように連絡していますし、通り道にあるおうちの何件かにも協力をお願いしていますから……」

しっかりやれることは全部やってるじゃねぇかと、相澤は心配から俯いている桜を横目で見る。

「……俺の方も手を回してるから、そんなに心配するな」

「え? そうなんですか?」

 雪乃の初めてのおつかいに否定的だった彼がまさかそんなことをしてくれているとは知らなかった彼女の目が丸くなる。そんな桜に、フッと口元に笑みを引いた相澤がリビングに戻っていく。

「ちょ、ちょっと、何をしてくれたのか教えてください!」

追いかけてくる彼女の足音を聞きながら、相澤は笑みを深くさせて冷えた廊下から暖かいリビングへと入っていった。

***

 いつも、相澤や桜と一緒に来る八百屋さんで頼まれたりんごを買うことはできた。お店の人に"おつかい、頑張って"とおまけをしてもらい、きちんとお礼も言えた。しかし、風に吹かれて飛んでしまった地図を追いかけたところで、状況は冒頭に戻る。

「う、うえぇぇ……」

 どうしてもっとちゃんと地図を持っていなかったんだろう。どうして、きちんと道を覚えられなかったんだろう。後悔と見知らぬ場所から感じる怖さで、どんどんと雪乃の涙は増えていく。

「ど、どう、したの……? お腹、痛い……?」

 おどおどとした声に自信は、まったくない。涙を拭いながら振り返った雪乃が見たのは、同じように不安そうな顔をした耳のとがった男の子だった。不安の中に心配を多大に含んだ彼の口は波が打ったように引き結ばれている。

「お、なか、いたく、ない……」

 少し前に腹痛を起こして、朝まで桜が腹をさすってくれたときのことが脳裏に蘇った雪乃は、酷く悲しくなって声を上げて泣き始めた。

「あ、ああ……。えっと、その、な、泣かないで……」

 おろおろとして困り果てた声を出した男の子は、女の子の隣にしゃがみ込む。迷って目を彷徨わせた男の子は、ごくっと唾を飲むと雪乃の背中を撫で始めた。

「だ、大丈夫、だから……泣かないで」

宥めるように何度も背中を撫でる男の子の手は、雪乃の手よりも少しだけ大きい。緊張でぶるぶると震わせていながらも触れてくる手の優しさに雪乃は慰められて、涙は落ち着いていった。

「……大丈夫?」

「うん……、あの、ありがとう」

覗き込んでいた男の子と、顔を上げた女の子の距離が近い。みるみると真っ赤になった男の子の顔は今は真っ青になっている。

「ご、ごごごごごめん!!! オレなんかの顔が、ち、近くにあって、嫌―――」

「―――どうして謝るの? 近くにいてくれて、嬉しかったよ?」

 泣いて鼻を赤くさせた顔を小さく傾げた雪乃に、男の子は耳まで真っ赤にさせてから顔を背けた。

「い、嫌じゃないなら、よかった……」

先に立ち上がった男の子を見て、雪乃は家を出る前に桜に言われたことを思い出す。
 伸ばした手で男の子の服を掴む弱弱しさは、今、不安でいっぱいになっている女の子の心のようだった。

「た、すけて……」

大きく見開いた釣り目で雪乃を見た男の子は、自信のなさが表れている口元を、ぎゅっと引き結んだ。

「なにが、あったの?」

「おつかい、して、帰ろうと思ったら、おうち、わかんなくって……」

また涙をぽろぽろとこぼし始めた女の子の頭を、ぎこちなく撫でた男の子の手は、もう震えていなかった。

「……そっか。どっちから来たか覚えてる?」

ううん、と首を振った雪乃に男の子は考えるように視線を下げる。

「えっとじゃあ、どこにおつかいに行ってきたの? そこまで行ったら帰り道、思い出せる?」

「や、八百屋さん……。そこからなら、お姉ちゃんが地図かいてくれたから、へいき」

やっと女の子を助ける手がかりを見つけた男の子は、ほっと息を漏らす。

「あの、その地図、見せてくれる? もしかしたら、オレの知ってる場所かも」

「ほ、ホント? これ、分かる……?」

風に飛ばされて、やっと捕まえた地図を男の子に渡す。手描きの地図を見ると、男の子の顔からじわじわと安堵が広がった。

「この八百屋さん、カエルの人形が出てる薬屋さんの近く、だよね?」

「うん、そう……。知ってるの?」

こくんと頷いた男の子は、とりあえずその場所まで行こうと立ち上がる。そして、まだしゃがんだまま、涙を拭っている雪乃の様子が弱弱しいあまり、手を差し出した。

「……大丈夫。君がおうちに帰れるまで一緒にいるよ」

 自分に向けられた手を見つめてから、女の子は男の子の顔を見上げた。長めの濃紺の髪を風になびかせている男の子は、きつい印象を受けそうな釣り目を下げて、口元も自信がなさそうに引き結んでいる。それなのに、どうしてか頼りない印象を受けず、男の子から優しさを感じ取った雪乃は、そろそろと差し出された手を受け取った。

「ありがとう」

 立ち上がった女の子に微笑まれた男の子は、また耳まで真っ赤にさせて俯く。ドキドキと脈打つ心臓の動きは、これまでの緊張や不安、恐怖で早くなっていたものとはどこか違う。それを感じながらも、具体的に何が違うのか、それがどういうものなのか、男の子にはまだ分からなかった。

「あの、お名前は? 聞いても嫌じゃない?」

「い、嫌じゃない。た、環。……その、君は?」

「雪乃……」

 もじもじとしながらも繋いだ手に視線を落として話していた二人の顔が、どちらともなく、そろそろと上がる。目をパチパチとさせたのも同時で、雪乃はだんだんとおかしくなって笑みが込み上げた。

「雪乃、ちゃん……」

泣いて赤くなった鼻と目で笑う女の子に環は瞬きを忘れる。微動だにしない男の子に首を傾げた雪乃が"環くん?"と声をかけると、勢いよく顔を逸らされた。

「い、行こう……。遅くなるといけない」

「あ、待って」

 何かあったのかと環が歩き出そうとするのを止めると、雪乃は両手で男の子の手を包み込む。自分の手よりも少し大きい手。指先は寒さのせいか赤くなっていた。
目を伏せた女の子の顔が自分の指先に寄せられていくたび、男の子の釣り目はみるみる見開かれる。はぁっと吐きかけられた息のあたたかさに驚いて体を強張らせた環に気づかず、雪乃は手をこすり合わせて冷えた手を温めようと繰り返す。

「雪乃、ちゃん、あの、これは……」

「環くん、凄く手が冷たいよ。あのね、雪乃も手が冷たいとき、お姉ちゃんと消ちゃんにやってもらうんだ」

 女の子の言うお姉ちゃんは、きっと地図を描いてくれた人のことだろう。でも"消ちゃん"とは誰だろうと環の表情は曇る。

「お姉ちゃんの手が冷たいときはね、消ちゃんがあっためてあげるんだけど、そうするとお姉ちゃん、凄く嬉しそうな顔するんだ。それで、お姉ちゃんが笑うと消ちゃんも嬉しそうな顔してるの」

一生懸命に手を擦ってくる雪乃に、もしかしてと環は首を傾げた。

「その、消ちゃんって人は……」

「消ちゃんはお姉ちゃんと結婚してる人だよ」

息を吐きかける間に答えた女の子は少しだけ顔を上げて男の子を見る。その答えで自分が無意識に安堵していることに、環はまったく気づいていなかった。

「冷たいの、大丈夫?」

「だ、大丈夫……。あ、ありがとう」

 両手が暖かいのは、小さな手で温めてもらったせいだけではない気がしながらも、まだ幼い環に理由は分からなかった。お礼を言われて嬉しそうに頬を緩めた女の子にドキドキしているのを感じながら、男の子は繋いでいる手とは反対の手で胸元を握る。一体、自分に何が起きているのか、混乱しながらも懸命に目的の八百屋を目指す。

「環くんの手って大きいね。雪乃の手も大きくなるかなぁ?」

 環と一緒にいることで安心しているのか、雪乃の口は随分と軽くなっていた。

「た、多分、そうじゃないかな。……でも、その」

消え入りそうな小さな声は雪乃の耳には届いておらず、代わりに嬉しそうな笑顔が返ってきた。

「そっか。そしたら、環くんとおそろいになるね」

自分の手よりも大きくなるのはちょっとだけ嫌だと思っていた環の気持ちは泡のように消えていく。何か言いたげに薄っすらと開いていた男の子の口は嬉しそうに閉じた。

「うん。おそろいになるよ、きっと」

 柔らかに目を細めている環に、今度は雪乃の目が釘付けになる。真っ直ぐに向けられる目に、居心地が悪そうに環の眉が下がった。

「えっと、何か変……?」

「ううん、環くんが笑ってるから嬉しいの」

ふふっと笑う女の子。目の前の女の子は、ただ笑っているだけだというのに、その周りがとても綺麗に色づいているように環には見えた。
 真っ赤になって俯いた環の隣では、何も気づかないでいる雪乃がにこにこと笑っている。

「あら、雪乃ちゃん。なにかおつかいし忘れたものでもあった?」

 声をかけてきたのは八百屋のおばさんだった。気が付けば、二人は目的の八百屋の前まで来ていた。もうここまでくれば、手を繋いでいる理由がない。どこかガッカリとしている自分に気づいた男の子は動揺する心を持て余しながら、まだ繋いでいる手を離したくないと思っていた。

「ううん、道に迷っちゃって助けてもらったの。ここからおうちに帰るんだよ」

ね?と見てきた雪乃に、環が感じていた寂しさは喜びに変わる。嬉しそうに目元を赤らめて頷くと、女の子もにこっと笑った。

「そうなの! それじゃ、気を付けて帰るのよ」

 八百屋のおばさんに手を振り返しながら、二人は歩いて行く。きちんと道路の端を歩いて行く後ろ姿を見送ったおばさんは、店の電話を手に取るとすぐに心配している彼女へとかけた。

「もしもし? 今、雪乃ちゃん、同い年くらいの男の子と一緒に戻って来て、これから一緒に帰るって言ってたわ。だから、もう心配しなくて大丈夫よ」

電話の向こうから聞こえた安堵のため息に、おばさんが笑う。

「うん、だから安心して待っててあげてちょうだい。あ、お礼とか持ってこなくていいからね。そのかわり、今後ともごひいきに」

電話を終わらせたおばさんは、まだ少しだけ見える二人の後ろ姿を見た。そのまま見えなくなってしまう少しの間、おばさんは見送り続けていた。

***

 八百屋のおばさんや、いつも声をかけてくれるお婆さんなどから連絡を受けていた桜は、スマホを握ったままマンションの外に立っていた。男の子と一緒に雪乃が歩いてくるはずの方向を見つめながら、桜は胸元でスマホを握り締め、少し前のことを思い出し始める。

 子どもの足でも、とっくに戻って来ておかしくない時間。それが過ぎても帰ってこない雪乃に桜の胸は不安で、はち切れてしまいそうだった。
雪乃がやりたいと言っても、まだおつかいに行かせるのは相澤の言うように早かったのかもしれない。おつかいに行く先が近所の八百屋だからと油断していたのかもしれないと後悔で真っ青になっていた彼女の肩をたたいた彼は自分のスマホの画面を見せた。

『俺も手を回してるって言っただろ』

『コレ……』

相澤のスマホの画面に映し出されている位置情報は、ゆっくりだが動いている。どうやら、おつかいに行った八百屋へ戻ろうとしているらしい。

『GPSを雪乃のマフラーの中に入れておいた』

 念には念を入れていた彼の前で、安堵から彼女は足から崩れ落ちた。

『ありがとう、ございます……』

『礼なんか言わなくていい。……雪乃は俺たちが育ててんだ。それだけは忘れんな』

そっと、隣にしゃがみ込んだ相澤の横顔はどこか照れくさそうで、それが桜には酷く愛おしく見えた。

『はい……!』

 いつも通り、嬉しそうに目を細めた彼女を目の端で捉えた彼は、照れくささを誤魔化すようにすぐに視線を逸らす。

『心配なら道路まで迎えに行ってやれ』

『え?』

前を見たまま相澤は頭を一つ掻く。その仕草は、不器用な優しさを隠そうとしているようだった。

『一緒に行ったらさすがに怪しまれる。だから俺はここで待つ』

『そうですね。そうします』

本当は出迎えに行きたいのは彼も同じだろうに、譲ってくれる優しさは不器用以外の何物でもないだろう。感じている嬉しさを押し込めて、微笑んで頷いた彼女は立ち上がる。
そして、そのまま外に出ようとする桜を相澤は玄関まで追いかけた。

『おい、上着くらい着ていけ』

『あ、ああ。そうですね』

あはは、と笑っている彼女は心配で冷静になり切れていない。落ち着かせようと彼が口を開きかけたとき、彼女のスマホが着信を知らせて鳴り出した。
 画面を見て、すぐに通話を始めた彼女は何度も相手にお礼を言い、頷いている。通話が終わったかと思えば、すぐに次の着信があり、桜は同じように返事とお礼を繰り返す。その様子で、相澤には彼女のスマホにかけてきているのが、今回のおつかいの協力者たちからだと分かった。

『雪乃、同い年くらいの子に助けてもらって、八百屋さんからウチに戻って来てるみたいです。通りのお婆さんからも連絡があって、今、家の前を通ったって……』

『なら、必要以上に心配すんな。お前、雪乃を信じてるから一人で行かせたんだろ』

言われるまで気づいていなかったのか、彼女はハッとした顔を彼に上げる。

『そう、でした』

 想定していたはずなのに、動揺してしまった自分を恥じながら目を伏せた桜の肩が大きなものに包まれる。

『消太さん?』

『着てけ。貸してやる』

彼女の体を包む、相澤のコート。大きすぎるそれに目を閉じた桜は鼻を埋めた。

『……消太さんのいい匂いがします』

まるで彼に抱きしめられているようだと思うと、彼女の心は自然と、そうであることが当たり前であるように落ち着いていった。

『ありがとうございます。ちゃんと、雪乃を出迎えてきますね』

『ああ、任せる』

相澤が手を上げて見送ってやれば桜も嬉しそうに手を振り、スカートの裾を翻して外へと出た。彼女が出る間際に見せた笑みを思い出して、小さく笑った相澤は手の中のスマホに視線を落とす。

『……心配ばっかかけるとこは桜に似てきたな』

やれやれと言わんばかりに地図上を歩いているポインターに目を伏せると、彼はリビングのコタツへと歩いて行った。


 見つめていた道路の先に小さな影が二つ、仲良く歩いてくるのを見つけた桜は、ハッとする。

「あ、お姉ちゃん!」

大きく手を振っている雪乃に彼女も大きく手を振り返す。駆け寄って行ってしまいそうな足を、ぐっと押さえつけて堪えた桜は代わりに、スマホを持っていた手を握り締めた。

「おかえりなさい、雪乃。遅いから心配したんですよ?」

 自分のところにまで歩いてきた雪乃を、彼女は安堵に突き動かされて抱きしめる。

「お姉ちゃん? どうしたの?」

「ううん、何でもないんです。無事に帰って来てくれてよかった……」

いつもよりも強く抱きしめてくる桜に、雪乃も何かを感じたようで、同じように強く抱きしめ返す。目を閉じると、普段の彼女の優しい匂いと一緒に別の匂いも感じて、ゆっくりと目を開いた。

「消ちゃんの匂いがする……」

「ああ、これ、消太さんのを借りてきたんです。すっごくあったかいんですよ」

 雪乃を放して借りたコートを見せるように立ち上がった桜は、じっと様子を見ている男の子に気がついて慌てて向き直った。

「すみません、気が付かなくって。雪乃のお友だちですか?」

「あ、う、えっと……」

 急に注目を浴びたように感じた環の口は緊張で動かなくなってしまう。もじもじと両手の指を絡ませている環に代わって雪乃が口を開いた。

「あのね、お姉ちゃんに描いてもらった地図が風に飛ばされちゃって追いかけたら迷子になってね、困ってたら環くんが助けてくれたんだよ」

「そうだったんですか。雪乃を助けてくれてありがとうございます」

お礼と共に向けられた桜の笑みに、環は照れくささで俯いた。声をかけたのは泣いているのを見かけて心配だったからなのは間違いない。ただ、ここまで来たのは雪乃から離れがたくなってしまったからだとは言い出せなかった。

「い、いえ、その……。じゃあ、これで……」

ペコっと頭を下げた環が歩き出す前に、待ってと彼女の声が引き留める。

「お礼をさせてください。お茶くらいしか出せませんが、帰りはおうちまで送って行きますから」

「環くん、うちに来てくれるの?」

 もう少しだけ雪乃と一緒にいられるんだろうかと思った環はどこからか向けらる強い視線に気が付いて、ぶるぶるっと体を震わせた。悪寒を感じた方へ環が恐る恐る顔を向けると、そこには上下とも真っ黒なスウェットを着た男が髪をゆらりと立ててこちらを見ていた。

「ひぃっ!?」

「あ、消ちゃん!!」

 嬉しそうに手を振っている雪乃を見た環は、何を想像したのかどんどんと顔色を悪くしていく。

「た、環くん、大丈夫ですか?」

カクカクと震えだした環へ心配そうな声がかけられるものの、その震えは止まらない。視線を送ってくる相手へ、彼女のムッとした視線が向けられると、渋々といった様子で彼は家の中へ引っ込んだ。

「環くん、あの、お茶は……」

 ブンブンと取れてしまいそうな勢いで首を振った環に、桜はやっぱりと苦く笑う。ここまで怯えてしまっている環を無理に自宅へ招く方が気の毒だ。

「じゃあ、今度。私と雪乃だけがいるときに遊びに来てください。待ってますから」

「……は、はい」

これは来ないかもしれないなと思いながら桜は彼に視線を合わせるようにしゃがみ、頭を下げた。

「本当にありがとうございました。環くんがいなかったら、雪乃はまだどこかで泣いていたかもしれません」

「い、いえ、そんな……」

胸の前で控えめに手を振る環に雪乃が近寄る。

「環くん、ありがとう。これ、あげるね」

 うさぎの耳のようなリボンのついたリュックから取り出したりんごを雪乃は環へと差し出した。

「これ、おつかいで買ったんでしょ? いいの……?」

もらってしまったら後で雪乃が怒られてしまうんじゃないかと心配した環は、ちらりと桜を見る。その視線に気づいて、にこっと笑ってくれた彼女なら怒ったりしないんだろうと思ったが、あのベランダから睨んでいた"消ちゃん"は違うかもしれないと、環はまた体を震え上がらせた。

「大丈夫。これ、八百屋のおばさんが、おつかい頑張ってって応援でくれたやつだから」

後ろで話を聞いていた桜が、これはまたあとで八百屋さんにお礼の電話をしなくてはと思っている間も、環は悩んで受け取れないでいた。

「せっかく、雪乃ちゃんの為におばさんがくれたのに、オレなんかが受け取ったら悪いよ……」

そうなのかと雪乃が俯く。二人の顔が下を向いてしまうと、見ていられなくなった桜がそっと近づいた。

「そうですね。おばさんのくれた気持ちは大切にしないといけません」

「お姉ちゃん、雪乃、環くんにお礼したい。ありがとうじゃ足りないから……。どうしたらいい……?」

 必死なせいか、普段よりも一生懸命に気持ちを言葉にしてくる雪乃に瞬かせた目がとても穏やかに細められる。

「頂いたときの雪乃が嬉しかった気持ちを環くんにもあげたいんですよね?」

「うん……」

そろそろと上がった二人の顔を見ながら、桜は口元に笑みをこぼす。

「そういうときは、おばさんの気持ちだけきちんと頂いてから、環くんにあげましょう。そうすれば、きっと、おばさんも悪い気持ちにはなりませんよ」

じっと、手の中のりんごに目を向けた雪乃は、ゆっくりと環へそれを差し出した。

「環くん、雪乃の気持ち、もらってくれる?」

ほんのりと頬を赤らめた雪乃に上目がちに見られた環はこれまでにないほど胸が強く脈打つのを感じた。どくどくと耳の先まで脈打っているような感覚にどきまぎしながら、環はやっとの思いで両手を伸ばす。
 震える手にりんごが渡ると雪乃はさらに嬉しそうに笑った。

「りんご好き?」

「う、うん、好き、だよ……」

ぱっと表情を明るくさせた雪乃は環の手に思わず触れる。

「雪乃も! 大好き!」

ぼんっ!と音でもしたんじゃないかと思うほどに環は、余すことなく急激に全身を真っ赤にさせた。

「ちょ、ちょっと、雪乃……!」

 先ほどから言い方がまずいんじゃないかと思いつつ、見守っていた桜は声をかけずにいられなかった。

「なあに?」

不思議そうに首を傾げている本人に他意はない。それはよく分かっているが、これはどうしたものかと、桜は真っ赤になって震えている環に目を向ける。

「あ、の、りんご、ありがとう……。それじゃ……」

ぽつぽつと小さな声でお礼を言った環はよろよろと歩き出した。あまりにも心許ない歩き方に不安を覚えた桜が声をかける。

「あ、環くん! 待ってください!」

追いかけようとして一歩踏み出した彼女は、すぐに雪乃へ振り返った。

「雪乃、先に部屋に戻ってください! 私は、環くんを送って行きますから」

「うん、わかった」

頷いた雪乃は慣れた様子でマンションの中へと入っていく。ここまでくれば、雪乃のことは何も心配ない桜は、まだすぐ近くを歩いている環を追いかけた。

 真っ赤になったまま、家路を歩く環の横で桜はくすりと笑う。時折、りんごを見つめている環は、見つめているものと同じように頬を赤くさせていた。
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