懐かしさと看病

 居住まいを正した雪乃は、初対面の山田への緊張から相澤と桜に安心を求めるような目を向ける。

「大丈夫だ」

相澤の大きな手に頭を撫でられた雪乃は目を閉じてから山田に向き直った。

「……雪乃です。こ、こんばんは」

 ビクビクとしている小さな体から、怖がられているのが十分に伝わる。なんとか自分が怖がらなくてもいい存在だと知ってほしくて、山田はいつもの笑みと調子で雪乃に接することにした。

「Hi! 俺は山田ひざしってーんだ! よろしくな!」

「う、うん……」

思ったよりも大きな声をかけられた雪乃は体をびくりと跳ねさせたが、相澤の背に逃げることも桜にしがみつくこともしなかった。ただ、やはり怖いのか、手が相澤の服の裾をしっかり握っている。

「シュークリーム、好きか? いっぱいもらってきてやったから、好きなだけ食えよ!」

「しゅ、しゅー?」

初めて聞く言葉に、雪乃の首が大きく傾げられる。これくらいの子どもなら喜びそうだと思っていた山田も彼女の反応に、ん?と首を捻った。

「ちょっと待っててくださいね。用意してきます」

 離れる前に雪乃へ小さく微笑んだ桜がまたキッチンへと戻っていく。すぐに戻って来た彼女は大きなトレーを持って戻って来た。

「すみません。今、コーヒー切らしてしまっていて、紅茶でいいですか?」

「ああ、急に来ちまったからな。気にスンナ」

「……うちは事前に来ること言わねぇと、絶対にコーヒーなんか出てこないぞ」

暗に桜がコーヒーを飲めないことが理由だと言っている相澤に彼女は苦笑いで目を逸らす。

「ホント、嫌いだよな。苦いモン」

「他にもあるけどな」

彼女のことはお前より俺の方が知っていると言わんばかりの言葉に山田はニヤッとせずにはいられなかった。

「お前、マジでベタ惚れだよな。雄英ンときからずっと思ってたけどヨォ」

「それ以上しゃべったら追い出すぞ」

ギロリときつく睨んでくる相澤へオーバーなリアクションで宥める山田から目を離さないように横歩きしながら、雪乃は桜の元へと近寄った。

「お、お姉ちゃん……」

「大丈夫。二人は仲良しだから、ふざけ合ってるだけですよ」

足にしがみついてきた雪乃の頭を大丈夫と、優しく撫でる彼女の手が何度も往復する。そうなの?と確かめるような幼い眼差しに相澤と山田はぐっと押し黙った。

「それより、ほら。これがシュークリームです。甘くてとっても美味しいですよ」

 皿に乗ったシュークリームを見せられた雪乃はパチパチと目を瞬かせて、思わず伸ばしかけた手を引っ込めた。

「これは雪乃のですから、いいんですよ。せっかくですから、みんなで一緒にいただきましょうね」

 "さぁ、座ってください"と、相澤の隣に座るように促された雪乃は大人しく従う。そして、相澤の服を小さく引いた。

「ねぇ、あの、ほんとにケンカじゃない? 怒ってる?」

「……ケンカじゃない。怒ってもない」

ぶっきらぼうに答えられたというのに、怯えることなく雪乃はホッと安心した表情になる。

「HEYHEY! 俺には聞いてくんねぇのか?」

「あ、えっと、怒ってない、ですか……?」

まだ警戒されるのも怖がられるのも仕方がない。こうして会話を成立させられているだけで山田は嬉しさを感じた。

「ぜんっぜん!! 相澤は昔から俺にはこうなんだ。嫁には甘いくせになァ」

「お前……いい加減にしろよ」

再び睨まれても山田はどこ吹く風でHAHAHAと笑っている。本当に怒っていないのだと理解した雪乃は、もう二人のことを気にするのは止めて自分の前に置かれたシュークリームへ目を向けた。

 大きなシュークリームは上の部分が切り取られていて、蓋のように乗っている。甘い匂いを感じるこれはどうやって食べればいいのだろうと、大人三人を見上げた。

 山田は大きく口を開けて、ぱくりと食いつき、相澤も似たような感じで食べている。向かいに座っている桜へ視線を向けると、彼女は気づいて笑みを返してきた。

「こうやって、シュークリームの蓋をスプーンみたいに使うと食べやすいですよ」

シュークリームの蓋でカスタードをすくった彼女の真似をして、同じようにシュークリームの蓋を持つ。そして、カスタードを付けたところで雪乃は、ハッとして手にしていたシュークリームを皿の上に置いた。

「雪乃?」

 不思議そうにしている桜の目が怒っていない。それにホッとしてから、雪乃は両手を合わせた。

「い、いただきます」
 
彼女が何を気にしていたのか分かった桜は、にっこりと優しく笑った。

「食べる前に、ちゃんといただきますが言えて偉いですね」

同じように両手を合わせた彼女に、相澤と山田も食べる手を止めて、気まずそうにいただきますと手を合わせた。

 褒められて僅かに頬を染めた雪乃は改めてシュークリームの蓋を手に取る。カスタードのついた部分を口に含むと、甘さが口いっぱいに広がり、バニラのいい香りがした。

「甘い……!」

美味しかったのか目をキラキラとさせながら、もう一度シュークリームの蓋にカスタードをつけて口に運ぶ。そんな雪乃の様子を大人三人は微笑ましく見ていた。

***

 シュークリームを食べ終えると、雪乃は怖がりながらも山田へ近寄る。

「あ、あの……」

「お? なんだァ? 俺に興味津々かァ!?」

「お前、何回静かに話せって言えば……」

明らかに怒っている相澤に山田は自分の口を押さえながら謝罪の言葉を繰り返す。確かに夜なのだから、あまり大きな声は近所迷惑にもなるだろう。

「あ、あの、えっと、シュークリーム、美味しかったです。ありがとうございました」

ビクビクとした視線を向けられている山田の表情に微かな寂しさのようなものが差す。一度、躊躇ったが、山田の手は雪乃に向かって迷わず伸びた。

「ちゃんとお礼が言えて偉いな、雪乃」

赤くなって俯いた雪乃の青みがかった白い髪を撫でながら、山田はフッと小さく笑う。

「でもよォ、別に俺はお前のこと取って食おうってんじゃねェんだ。仲良くしようぜ」

「仲、よく……? 雪乃と……?」

大きく目を見開いている様子から、彼女の驚きが普通のものではないのが簡単に見て取れる。どうしてここまで驚いているのか、まだ知る由もない山田は同じように驚いてしまいながらも頷いた。

「決まってんだろ? 俺と防人は同じ事務所で仲いいし、相澤なんかヒーローネームつけてやったくらいなんだ。これから俺と仲良くなんのは雪乃だ!」

ビシッと両手の人差し指を向けてやると、雪乃の目にじんわりと涙が込み上げる。嬉しそうに頬を赤くさせながら、うん、と頷いた彼女は胸の前で両手を握り締めた。
 嬉しくて堪らないのか、相澤のところまでパタパタと走っていった雪乃は彼の服を小さく引く。

「あ、あのね、雪乃と仲良くしてくれるって……!」

「聞いてた。よかったな」

 本当は仲良くする奴は選べと言ってしまいたい相澤だったが、そんなことを言われたら雪乃が困惑するのは目に見えている。こうして喜んでいる姿を見れば、最初に感じていた突然やってきたことへの腹立たしさは霧散し、山田が来てくれた感謝の方が強くなっていた。

「よかったですね、雪乃」

うん、と頷いた雪乃が桜にしがみつく。よしよしと頭を撫でている桜もどこか嬉しそうに山田には見えた。

「防人はお姉ちゃんって呼ばれてんだな」

「ああ。呼びやすいように呼べって言ったら、そう呼ぶようになった」

「んじゃ、お前は?」

 なんて呼ばれているのかと訊かれた相澤は何も答えず、考えるように下唇を前に出す。どこか不満ささえ感じられるその表情に、山田はこれまでのことを思い出した。

「まさか、"ねぇ"としか呼ばれてねェの?」

「……別に雪乃が呼びやすいなら、俺はなんだっていい」

その言葉が本当だとは、とても思えない。明らかに不満だと思っていそうな彼に、オイオイと山田は半分呆れる。

「自分から言えばいいだろ。パパって呼んでくれって」

「俺はそうやって強要するのは好きじゃない」

"ふざけんな"と強い視線を向けられた山田は半分ふざけたことを謝りながら、相澤を宥めるように、まあまあと両手を動かす。

「じゃ、提案してみんのは?」

「は?」

 意味が分からないでいる相澤を放って、彼の視線は桜に抱っこされている雪乃へ向かう。

「雪乃! お前、相澤のこと、愛想ねぇから呼びにくくて仕方ねぇんだろ?」

「え、えっと……、あの」

急に話を振られて困惑している雪乃に桜が助け舟を出す。

「まだ、なんて呼んだらいいか迷ってるだけですよね」

こく、っと頷いた雪乃に山田はニッと笑って歯を大きく見せた。

「ならよォ、"消ちゃん"とかDOよ?」

「え?」

きょとん、としている雪乃に山田はわざと自慢げな態度を取る。

「高校のときの相澤のあだ名が、"省エネ消ちゃん"だったんだよ。だから、それなら呼びやすいだろ?」

「お前が勝手につけたやつだろ」

睨む相澤にまた山田がヘラヘラと笑っている。呆けたままでいる雪乃の頭を撫でながら、桜が懐かしさで、くすっと笑った。

「懐かしいですね。消ちゃん」

「からかうな」

 彼女に"消ちゃん"と呼ばれたとたん、彼の顔が赤くなったことに雪乃は目を瞬く。先ほどから見たことのない相澤の姿ばかりを見て、これまで彼に対して感じていた少しの緊張がじわじわと溶けていくのを感じた。

「しょ、消ちゃん……」

思わず口にした雪乃に注目が集まる。何も言わずに見てくる大人三人に、急激な不安を感じて桜の服を掴んだときだった。

「……なんだ」

まだ赤くなっている頬で視線を逸らしながらも相澤から戻って来た返事。驚いたのは呼んだ雪乃だけでなく、山田も同じだった。この場で驚いていないのは、おかしそうに笑っている桜だけ。

 じわじわと広がってくる嬉しさの理由は分からない。ただ、名前を口にしたら返事をしてくれただけ。その嬉しさをもう一度感じたくて、雪乃は口を開いた。

「消、ちゃん」

「だから、なんだよ」

「怒ってるんじゃないですよ。照れてるからこっちを見られないだけです」

後ろからこっそりと耳打ちで教えてくれた桜へ振り返った雪乃は、彼女の笑みを見てから相澤へ視線を戻す。桜に、からかわれたあとによく見かけている、愛想のない表情で頭を掻いている彼の様子。
 名前を呼んだ自分と同じで、呼ばれた彼も恥ずかしいのだと思うとなんだかおかしいような嬉しいような気がしてきて、雪乃の口は勝手に動いた。

「消ちゃん、今日も寝る前に絵本読んで。雪乃、消ちゃんが読んでくれるの好き」

驚きのあまり、大きく目を見開いた相澤は顔がにやけないようにきゅっと口を結ぶ。そして、短く"ああ"と返事をするのが精いっぱいだった。

 微笑ましく見ていた桜がこぼした小さな笑い声に相澤の視線が向く。柔らかな彼女の眼差しに、自分の心の中まで見抜かれてしまっているような気持ちにさせられた彼は赤くなった顔を隠すように逸らした。桜のくすくすと笑っている声で、自分が可愛いと思われているのが分かる相澤は髪で顔を隠したまま、唇とへの字に引き結んでいた。

***

 ふと、目を覚ました雪乃の視界に最初に入ってきたのは、見慣れない人だった。誰だろうと、ぼんやりと見つめていると彼は視線に気づいて振り返った。

「どうした? 苦しいのか?」

「ううん」

聞いたことのある声であるのは間違いないが、はっきりと誰だか分からない。彼は心配そうな目で、雪乃の額に手を当てると眉根を寄せた。

「さっきより熱上がってるかもな。ちょっと熱計ろうぜ」

彼の髪がさらさらと流れているのを見て、雪乃はやっと心当たりが出来た。

「ひーちゃん……?」

「ん? どした?」

 体温計を探していた山田は呼んできた雪乃を心配して、近くへと戻って来た。返事をされたことで、やっぱり山田だったのかと思った彼女は彼の顔をじっと見る。いつも彼が来るときは仕事の終わりで髪が逆立っている。しかし、今は髪が下りていて肩にはタオルがかかっていた。

「もしかして、誰か分からなかったか?」

「……ごめんなさい」

熱で赤らんだ顔を布団に中に入れようとする雪乃に山田は片眉を上げて仕方なさそうな笑みを作った。

「お前ってホント、防人に似てるよな。アイツも俺が髪を下ろしたとこ見て誰だか分からなかったんだ」

「そうなの?」

 桜の話に彼女は布団に埋めていた顔を出す。ひょっこりと顔を出している可愛らしさに山田は、ふっと表情を緩めた。

「まったく、防人は相澤以外の男に興味ねェからなァ」

「お姉ちゃん、消ちゃんのこと大好きだもんね」

困ったように眉を下げて笑っている雪乃に山田も"だな"と返す。

「ひーちゃん、消ちゃんは?」

「俺と入れ違いで風呂。お、あったあった」

 やっと体温計を見つけた彼は、それを彼女へ差し出した。

「自分で入れられるか?」

「うん、大丈夫」

受け取った体温計を脇の下に入れた雪乃は相澤が風呂にいるならと、山田に訊いてみることにした。

「ねえ、ひーちゃん。消ちゃんはお姉ちゃんのこと好きなの?」

「んー? なんでそう思うんだ?」

 子どもの目からだと、あの二人は一体どう見えているんだろうか。面白そうな話題に好奇心がくすぐられた彼は横になっている彼女に近寄った。

「お姉ちゃんは、雪乃にも消ちゃんにも可愛いって言ってくれるけど、消ちゃんはお姉ちゃんに何も言わないから……」

「そりゃよくねェな」

なんだそんなことかと思ったことが顔に出たのか、雪乃は何か言いたげに口を引き結んでいる。感じている不満を上手く言葉にすることが出来なくてもどかしそうにしている彼女に、山田はやれやれとばかりに片眉を上げてみせた。

「相澤が防人をどう思ってるか知りたいなら、防人が返ってきたときの顔をよォく見てろ。俺んときと全然ちげェから」

「そう、かな?」

「まあ、直接聞いてみてもおもしれーかもな」

 体温を測り終わったことを知らせる電子音がこの会話も終わらせる。布団の中で、もぞもぞと動いた雪乃は体温計を取り出すと、山田に差し出した。体温計を見た山田の表情が急に真面目なものに変わる。スッと空気が冷たくなったような気がして雪乃の顔が強張った。

「……もう寝ろ。おでこに冷たいの貼ってやるから」

「う、うん……」

そんなによくなかったのかと不安になっている雪乃に山田が笑顔を見せようとしたとき、彼の手にあった体温計が後ろから引き抜かれた。

 体温計を取ったのは風呂上がりの相澤で、山田と同じように肩にタオルをかけている。怪訝そうに眉を寄せながら体温計を確認した彼は、今にも舌打ちをしそうな顔で山田を見た。

「意味ないことで怖がらせるな」

これから本当のことを言うつもりだったと弁明するタイミングをもらえなかった彼は、雪乃を挟んで向かい側に座った相澤を見ながら不満そうに下の歯を剥いていた。

「ちゃんと下がってる。心配しなくて大丈夫だ」

「本当?」

「ああ。だからちゃんと寝ろ」

頷いた雪乃は大人しく目を閉じる。優しく撫でてくれる相澤の大きな手を感じているうちに、いつの間にか雪乃は眠りについた。聞こえてきた寝息に彼は微かに口元に笑みを引いた後、からかおうとしていた山田へ振り返る。その顔にはもう、先ほど子どもに向けていた優しさはなく、明白な苛立ちしかなかった。


 そして、数日後。熱の下がった彼女は山田に言われた通り、桜が帰ってきたときの相澤の表情に注目していた。しかし、桜と同じように、いつも優しい眼差しを向けられている雪乃には普段の彼と違うのか、さっぱりと分からなかった。

「雪乃! 熱、下がったんですね! 本当に良かった!」

嬉しそうな笑顔で桜に抱きしめられた雪乃は、目を瞬いてから彼女の背に手を回す。病気になって鬱陶しがられてしまうのではないかと怖かった雪乃にとって、こうして相澤や桜に山田までもが心配してくれることが嬉しかった。

「お土産いっぱい買ってきましたから、一緒に食べましょうね」

抱き締めていた雪乃を離した桜は、山田へと振り返る。

「山田先輩、本当にありがとうございます。助かりました」

「いいって。俺が来なかったらお前が言ったとおりになったかもしんねぇしな」

そっと二人の視線が相澤へ向けられる。近寄って来た雪乃に、桜からの土産を見せている相澤は、他人の前で滅多に見せない穏やかな表情をしていた。見たことのないものが多いのか、雪乃はあれこれ指をさして相澤にこれは何かと訊いている。

 二人の様子を微笑ましそうに見つめる桜の眼差しはどこまでも穏やかだ。どこか嬉しそうにも見える彼女の表情を見てから山田は一人満足そうなため息をこぼしていた。

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