ドアの向こうから出てきた顔は、いつも通りの愛想のない気怠そうなものだが、普段のそれに少し心配や不安が混ざっているように見えた。
「ヨォ、お疲れサン。雪乃の調子どうだ?」
「さっき目が覚めて、まだ寝つけてない」
いつもハイテンションな山田も今回ばかりは大きな声は出せない。静かに迎え入れられた玄関で彼は相澤に持ってきたものを差し出す。
「とりあえず、使えそうなモンは買ってきた」
「悪いな」
コンビニのビニール袋を受け取った相澤は山田に洗面所で手を洗うように促すと、先にリビングの中へ戻っていった。
手を洗ってリビングに入ると、子ども用の小さな布団が敷かれていて、そこに雪乃が寝かされていた。近寄って来た山田に気づいた雪乃は熱で赤くなった顔で嬉しそうに頬を緩める。
「あ、ひーちゃん…」
「ヨォ、まだ熱高いのか?」
額に乗せた濡れタオルを外して、しっとりとしている額に触れてみる。
「まだアッチーな」
「でも、もう苦しくないよ」
片方の頬を腫らしている雪乃の頭を山田が撫でていると、キッチンから相澤が戻って来た。
「雪乃、なんか食えるか?」
トレーに乗せられているのは、普段彼が愛飲しているゼリー飲料に、山田の買ってきたヨーグルト、そして桜が作っていったプリン。体を起こした雪乃は迷うように、一つ一つを見ていく。
「これ、お姉ちゃんが作ってくれたプリン?」
「ああ。まだ冷蔵庫にある」
うーんと、悩んでいる雪乃に山田は自分の買ってきたヨーグルトを指す。
「これは今、俺が雪乃の為に買ってきたヤツ」
「雪乃に……?」
二ッと大きく歯を見せて笑った山田を、目をパチパチとさせで見た雪乃は、もう一度相澤の持つトレーを見てからヨーグルトに手を伸ばした。その表情から、自分の為に買ってもらえたというのがどれだけ嬉しいのかが窺える。
「それにするのか?」
「うん、あと、プリン」
自分に関するものだけ選ばれなかったことに、いささか不満を感じながらも彼はスプーンと一緒に雪乃へプリンとヨーグルトを渡した。
「これは、ひーちゃんにあげる」
「お? いいのか?」
うん、と頷いた雪乃はまだ使っていない自分のスプーンと瓶に入れられたプリンを山田に差し出した。
「お姉ちゃんのプリン、美味しいんだよ」
「気持ちはマジ嬉しーんだけどよ、雪乃が食って早く元気になった方が、防人も喜ぶぜ?」
「あ、えっと……」
困ったように視線を掛け布団に落とした雪乃に、山田は片眉を上げて小さく笑う。少し前に会ったよりも自分からあれこれと話せるようになっている彼女に安心にも似た嬉しさを感じていた。
そんな彼の頭にバン!と大きな音を立ててトレーがぶつけられる。突然の衝撃と痛みに、山田はトレーを手にしていた相澤に振り返った。
「イッテェ!! なにSOON―――」
「いいから食え。雪乃がいいって言ってんだ、なんも問題ねぇだろ」
有無を言わさず、突き出されたスプーンを受け取った山田は納得のいかない目を相澤へ向ける。
「本当にいいのかよ。俺が食っちまって」
「まだ数がある。早く食わないと悪くなるだろ」
ハァ?と思いながらも、自分に向けられている雪乃の視線に山田は、ぐっと言いたいことを押し込める。明らかな期待の込められた目は、早く食べてほしいと訴えていた。
「ンジャ、いただきマス……」
雪乃の手前、きちんと食べる前に手を合わせた山田はスプーンでプリンをすくった。そのまま子ども用スプーンを一口運ぶと彼は目を見開く。なめらかな口触り、ちょうどよい甘みにほのかなバニラの香り、どれをとっても絶妙だ。口元を押さえながら、山田は相澤へ振り返る。
「……何アイツ、店でも開く気なの?」
「あんま洋食とか菓子作りは得意じゃなかったんだけどな」
昔、言っていた通り、少しずつ練習を重ねた桜は、相澤や雪乃を喜ばせるためにと、レパートリーを日々増やし続けている。いくつかのものはプロに習いに行くほど、力を入れていた。
「ひーちゃん、美味しい?」
自分が作ったわけでもないのに、感想を期待しているキラキラとした雪乃の目。この子にとって桜が自慢の存在であることが分かった山田は、微笑ましさに目を細めた。
「ああ、スゲーな! いくらでも食えちまいそうだ!」
嬉しそうに、えへへと笑う雪乃の前でプリンを口に運ぶ山田に、もういくつか同じものが相澤によって運ばれてきた。
「それじゃあ、いくらでも食っていけ」
「え? いやいや、え?」
先ほどと同じ瓶に入れられたプリンが三つ乗せられたトレーを、ずいっと突き出された山田は固まった。
「いやいやいや、なにこんなに出してきてんだ。雪乃の分、なくなっちまうだろ」
「雪乃のはたくさんあるんだよ」
「ああ、一番下の段が埋まるくらい冷蔵してあるから安心して食っていけ」
なんでそんなに作ってあるんだと顔に出ている山田に相澤は、ふいっと視線を逸らす。
「……心配で仕方ないんだろ。家を空ける間、何もしてやれないからって気にしてたしな」
以前から決まっていた出張で、どうしても休むことができなかった桜は家を出る前にできる限りの準備をしていった。このプリンもそうだが、一人で看病をする相澤も心配で、ここに山田が呼ばれている。
「まあ、電話してきたときもそんな感じだったぜ。お前のことも心配してたしな」
口を開けるのが痛いのか慎重にヨーグルトを食べている雪乃には、小声で話している二人の会話は聞こえていない。
ふと、彼女からの電話を思い出した山田は、雪乃を見ている相澤の横顔を見た。
『消太さん、心配で夜通し看病しそうですから申し訳ないんですが、ちゃんと休むように見張ってもらえますか? 雪乃も山田先輩にいらしてもらえれば、安心すると思うので……』
いつもの愛想のない表情をしているが、彼の視線には心配が多分に含まれている。それが分かる山田は、桜の言う通りだと思いながら、やれやれと肩をすくめた。
「あ」
何かを思い出したとばかりにぽつりと零れた小さな声。その声は雪乃の小さな口から飛び出した。
「どうした? トイレか? どっか痛いのか?」
すぐに彼女の近くに寄り添った相澤に、山田の少し呆れた視線が向けられる。初めて雪乃が熱を出したことが心配で堪らないのは理解できるが、ここにいない彼女といい彼も過保護なのではないかと山田は思った。
「ううん、あのね、消ちゃんとひーちゃんもおたふく風邪になったことある?」
「え? ああ、ガキの頃にな」
こてんと首を傾げている雪乃に山田が答えた後、相澤も同じように頷く。
「よかったぁ」
胸に手を当てて、ほっと安堵している彼女に今度は山田が首を捻った。
「なんでそんなこと気にしてんだ? かかってなくても予防接種しときゃ大丈夫なんだぜ?」
「そうなの?」
初めて聞いたのだろう雪乃は何度も目を瞬いてから、あのね、と話し始める。
「保育園でね、おたふくになった男の子が言ってたんだ。"大人になってからおたふくになると種なしになるんだよ"って」
ピシャリ!と空気に音を立てて大人二人は凍り付いたが、安心しきっている雪乃はまったく気づいていない。
「男の人が種なしになると大変なんだって、だから消ちゃんとひーちゃんが大丈夫でよかった」
安心からにこにこと笑っている雪乃に、気まずさを誤魔化す為、相澤が横になるように促す。
「……食ったら少し寝てろ。早く治さねぇと、桜が帰って来ても遊べないぞ」
「うん。分かった。おやすみなさい」
素直に頷いた雪乃は、そっと目を閉じる。いい子だとは口にしなかった相澤は彼女の髪を何度も繰り返し撫でた。薄っすらと目を開けた雪乃は、自分を覗き込んでくる相澤の優しい目を見ると、安心したように表情をして、そのまま寝息を立て始める。
「……少し明るくなったな」
「ああ。嫌なことがあると、嬉しいことと楽しいことは見つけにくくなるから、いつでも楽しいことを見つけられる練習だって、毎日、桜と楽しいことを探してるうちに少しずつ笑うようになった」
眠っている雪乃の頭の撫でている彼の目は、まるで自分の子を見るような優しさがあった。まさかこんな相澤の表情を見る日が来るとは思ってもみなかった山田は、小さな笑みをこぼす。
「防人らしいな。他のヤツに前向かせるのが上手いって感じが」
「そうかもな」
ここにいない桜のことを想うと、相澤の眼差しは更に優しさを帯びる。言葉にされていないというのに惚気られた気分にされた山田は、目を伏せながら口元に笑みを引いた。
以前、拗らせ、すれ違って苦しんでいた二人を知っているからこそ、惚気なんてものを嬉しく感じてしまうのかもしれない。すっと、目を開けて相澤と同じように、眠っている雪乃の顔を見ていると、山田の脳裏に彼女と初めて会った日が蘇っていた。
***
"お先に失礼します!"と防人が急いで事務所を出て行ったのは10分ほど前のことだった。長いすれ違いを続けていた相澤と彼女が一緒に暮らし始めてしばらく経つ。やっと、一緒にいられるようになったのだから、仕事が終われば急いで帰りたくなるもの仕方がないと、山田は事務机の前で大きく伸びをした。
自分も今、取り掛かっている書類を終わらせたら帰ろうと、そう思った時だった。
「サイキッカーいるか!?」
挨拶もなく、事務所のドアを開けた大男に見覚えがある。何度か防人を連れて行った近所の定食屋の主人だ。
「今日はもう帰りましたよ。なんか用事でもあったんすカ?」
「なんだ、少し遅かったか」
仕方ないと腕を組んだ主人は、まあいいかとばかりに山田へ紙袋を突き出した。
「じゃあ、プレゼントマイクにやろう」
「え? なんすかコレ?」
大男の主人には似合わない、ポップで可愛らしい絵がプリントされた
「娘が洋菓子屋で働いていてな。そこのシュークリームだ。あいつ、最近、甘いものをよく食べているだろう。この間の礼も兼ねてもってきた」
白い歯を見せてニカッと笑った彼の言う、この間の礼に覚えのある山田は同じようにニッと笑った。
「もう客の前であんな夫婦喧嘩はやめてくださいヨォ?」
「ま、まあ、もうそれはサイキッカーにも約束させられたしな……」
居心地が悪そうに視線を彷徨わせた定食屋の主人は乾いた笑いをしてから、山田に持たせた紙袋を指した。
「それな、消費期限が今日までなんだ。だから、ささっと食っちまったほうがいいぞ」
「……コレ、結構、入ってません?」
「娘にサイキッカーの胃袋を掴ませようと思ってな! その気にさせたら、この量になっただけだ!」
大口を開けて笑っている目の前の男も、どうやらサイキッカーを男だと思っているらしい。山田のHAHAHAと乾いた笑みの意味に気づかず、満足した定食屋の主人は"サイキッカーによろしくな!"と言い残して帰っていった。
「………」
紙袋へ視線を落とした山田は少し考えた後、事務机の前に戻る。そして、テキパキと仕事を終わらせると、受け取ったばかりの紙袋を持って事務所を後にした。
(まだ新居に行ってねーしな)
とりあえず、届けついでに相澤のことをからかってやろう。そんな軽い気持ちで、山田は相澤と防人の自宅へと向かったのだった。
元の鞘に収まった二人から結婚するつもりだと聞いた時は、話の早さに少しだけ驚いた。いずれそうなるだろうと思ってはいたが、まさか、関係が修復してすぐその話が出るとは、一体どんな流れだったのか。これからじっくりと聞き出してやろう。面白そうな話が聞けそうだとわくわくしながら山田はインターフォンを押した。
はーい、と少し間延びした返事と共にドアを開けられる。出てきたのは私服姿の桜だった。
「山田先輩?」
驚いて目を丸くさせている桜に、山田はニッと笑って持ってきた紙袋を彼女の視線の辺りまで持ち上げる。
「ヨォ、さっきぶり。コレ、定食屋の親父が持ってきたから届けに来てやったぞ」
「あ、ありがとうございます」
思わずといった様子で紙袋を受け取った桜は、紙袋へ考えるような視線を落とした。ちらりとリビングの方へ視線を向けた彼女は、ふっと表情を和らげる。
「お急ぎでなければ、お茶でもどうですか? 消太さんももう帰ってますから」
「ん? ああ、じゃ、エンリョなく」
なんとなく何かあるように感じたが、さほど深く考えず山田は招かれるまま、彼女と相澤の新居へと上がった。
***
家に上がった山田は目の前の光景に言葉を失っていた。
「こ、子ども……?」
リビングで相澤の膝の上に座り、本を読んでもらっていた雪乃は入って来た山田に驚いて体を強張らせている。
「オイオイオイ!! DOOOOOOいうこっ―――」
遠慮のない大声が唐突に消える。自分の個性が髪を逆立てている相澤によって消されたのだと分かった彼は喉を押さえながら視線で戸惑いを訴えた。
「説明するから大声は出すな」
冷静な声音の相澤にしがみついている女の子は怯えて震えていた。目を閉じて山田の個性を戻した相澤は、怖がっている雪乃の体を撫でて宥めている。
「大丈夫だ。怒鳴ったわけじゃない。無駄に声がデカいだけだ」
自分が驚かせてしまったのだと理解した山田の口が気まずさで閉じる。そんな彼の隣へキッチンから戻って来た桜が、そっと声をかけた。
「すみません。大きな声はまだ苦手みたいなので、そっと声をかけてあげてください」
お湯を沸かしている間に様子を見に来た彼女は苦笑交じりの視線を相澤と雪乃へ向ける。桜の視線に気づいたのか、不安げな目を向けてきた雪乃に山田はニッと笑ってみせた。
「ソーリーソーリー! さっきは驚かせて悪いな。俺も驚いちまったもんだからよォ」
彼にしてみれば抑えているつもりだが、それでもその声量は傍からみれば大きい。イラついた視線を相澤に送られて、山田は自分の声がまだ大きかったことを知る。更に怖がらせてしまったかと内心困り果てていると、雪乃は相澤から少し顔を離して初めてちゃんと山田の顔を見た。
「………」
顔がちゃんと見えたのは雪乃だけではなく、山田からも同じだった。そして、その顔立ちに驚かずにいられなかった。
「雪乃、こちらは消太さんのお友だちです。ご挨拶しましょうか」
いつの間にか相澤の隣にいた桜に頭を撫でられて気持ちが落ち着いたのか、雪乃は小さく頷く。恐る恐る山田を見上げた少女の顔は桜に非常によく似ていた。