その後、警察に再び保護された雪乃はそこから児童福祉施設へと引き取られた。
感情が不安定な彼女は個性のコントロールができなくっており、たびたび個性を暴走させてしまう。物体も個性の効果も消してしまう雪乃に手を焼いた施設と、この個性を悪用されることを恐れた国は公安に彼女を預けようとしていた。事前にその情報を手にしたのは、あの日、相澤と一緒に雪乃の家に行った彼だった。
「イレイザーなら、あの子をなんとかできるでしょう? 自分はもう、子どもがあんなに悲しい思いをするのは見たくありません。あんなふうに育てられたら、きっと自分の個性だって嫌いでしょうし……」
「俺に何ができると?」
相澤だって、できれば雪乃を助けてやりたい。しかし、自分にできることなど何もないだろうと彼は思っていた。
「公安に引き取られたら、ずっと個性訓練を受けさせられます。ゆくゆくは国の都合で働かされるでしょう。あの子がそれを望むなら、自分はなにも言いません。でも、あんなに自分の個性を嫌がってるのに、そんなの、あの子には残酷すぎる……」
「だから、イレイザーさんに引き取ってもらいたいんですね」
警察署内の休憩スペースにある自販機の前で話していた二人の前に、ひょっこりと姿を見せたのはマントコートのフードをすっぽりとかぶったヒーローだった。驚きのあまり、固まっている警察官に、にこっと笑みを向けてから桜は相澤に向き直る。
「お前……、いつから聞いてた」
知らない人間が見れば機嫌の悪そうに見える相澤の表情だが、彼女には迷いと不安のある顔にしか見えなかった。
「いつからって、後からいらしたのはそっちです。私はずっとここで休憩していましたから」
持ち上げて見せたホットミルクティーの缶には飲んだ跡がある。猫舌な桜のことだから、冷ましていた時間はかなり長かったことが分かる彼は気まずそうに目を逸らす。
「それで、どうされるんですか? 引き取るんですか?」
「……引き取るって、そんな簡単に言うな。子ども一人引き取って育てるのは、猫飼うのとは違うんだぞ」
「当たり前です。その子の個性が誰にも利用されないように、個性で不幸にならないようにしてあげたいじゃないですか……」
目深にかぶられたフードで桜の目元は見えないが、きっと悲しそうに目元を細めているような、そんな気が相澤はしてならなかった。
「イレイザーさんなら、その子の個性が暴走しても止めてあげられる。暴走させないための個性訓練だってつけてあげられる。だから、貴方はこの話を持ってきたんでしょう?」
「そ、そうなんです! だからこの話をイレイザーに知らせようと思ったんです」
ずいっと相澤に一歩迫った彼に桜は、そういえばと首を傾げた。
「貴方はどうして、その子が公安に引き取られるかもしれないと知っているんですか? 彼女の個性を悪用されないように公安に引き取らせようと国が考えているなら、この話は機密扱いなんじゃないですか?」
「確かに、なんでこの話を知ってる?」
純粋に疑問としている桜はいいとしても、疑うような目を向けてくる相澤が話を聞き逃してくれるはずはないと、彼は大きくため息を吐いて肩まで落とす。他言しないでくださいねと前置きをしてから、彼は周囲に誰もいないか今度はしっかりと確認してから話し出した。
「自分、警察の上層部に親がいるんです。でも、それを話すといろいろと面倒なので、今は母方の苗字を使っています」
「なるほど、つまり警察の上層部にいらっしゃるのはお父様なんですね」
"ああっ!?"と大袈裟に両手で自分の口を押えた彼はその態度で桜に言い当てられたと証明している。機密を話す前に周囲の確認を怠ってしまうところといい、この分かりやすい態度といい、警察官に向いてないんじゃないかと相澤は思う。
面白そうに笑っている桜に"このことは絶対に誰にも言わないでください!"と縋っている彼を見て、相澤は短く息を吐き出した。
「……少し考える。いつまでに返事をすればいい?」
「返事はなるべく早い方がいいです。自分に連絡をいただければすぐに彼女のいる児童福祉施設に連絡を入れて引き取れるように処理します」
からかわれて焦っていた表情を引き締めた彼は、相澤によろしくお願いしますと頭を下げて自分の仕事へと戻っていった。
「……どうすんだ」
「おや、それは私に訊いてるんですか?」
"まだ仕事中です"と答えた彼女に、彼は頭を一つ掻く。
「なるべく早く答えを出したい。待たせて期待をさせるのは酷だ」
眉間にしわを寄せて悩んでいる様子の相澤を見ながら、この優しいところが何よりも好きだと感じた桜はフードの下で微笑んでいた。
「私はこれで上がりなんですが、そちらは?」
「俺はまだもう少しかかる」
一緒に帰れないことを残念に思いながらも、彼女はそれなら彼の帰りを待つ準備をしようと決める。
「じゃあ、先に帰ってご飯の支度をしてます。気を付けて帰って来てくださいね」
「ああ。お前も気を付けて帰れよ」
別々でも帰る家が同じであることをお互いに嬉しく感じながら、二人は警察署の前で反対の道へと歩き出した。
***
「いいのか?」
「いいも何もそうしてあげたいんでしょう?」
食後のお茶を飲みながら肩を寄せ合っていた二人は、警察署内で話していた雪乃を引き取るかどうかを話していた。
目を伏せて口元に笑みを引いている桜に相澤はムッとして体を彼女へ向ける。
「俺がしたいからだけで決められることじゃない。桜の気持ちも大事だろ」
まるで相澤がそう言うのを分かっていたように彼女は一つ小さく笑ってから、体を彼に寄せた。
「消太さんのそういう優しいところ、大好きです。これなら、女の子がウチに来てもヤキモチ妬かなくて済みそう」
「お前、嫌じゃないのか?」
無理をさせているんじゃないかと彼が気にかけてくれているのが分かる彼女は、目を伏せて"ええ"と短く返す。
「その子、他の人のところには絶対に行けないでしょう? 家に居場所のないツラさは知らないわけでもないですから、助けてあげられる場所がここにしかないなら助けたいって思います」
首を傾げながら覗き込んでくる目を相澤も見つめ返す。
「俺たちはヒーローだ。でも、全部を助けてやれるなんてことはない。そんなのは思い上がりだ」
「そうですね。そう思います」
頷いた桜の手に自分の手を重ねた相澤は、そのままゆっくりと包むように彼女の手を握った。
「俺たちにだって生活はある。まだ籍も入れてないし、子どもだっていない。それなのに、軽い気持ちで子どもを引き取ったら、その子も、いずれ生まれてくる俺たちの子も不幸になる」
分かってないなァとおかしそうに笑った彼女は、彼を見つめて穏やかに目を細めた。
「いいじゃないですか、血が繋がってなくても家族にしてしまえば」
「血が繋がってないって、結構な問題だろ」
きょとんとした桜はまたおかしそうに笑う。
「そんなこと言ったら、私と消太さんだって血は繋がってませんよ?」
「そりゃ、そうだけど……」
ふ、と短い息を笑みともに吐き出した彼女は、相澤のまだ知らない穏やかな表情をしていた。
「本当に大切なのは助けたいよりも、その子と私たちが家族になりたいかどうかだと思います。消太さんはどうなんです?」
「俺は……」
保護するかしないかばかりで、そこに考えが及んでいなかったと相澤は口ごもる。そんな彼の頭を桜は優しく撫でた。
「少しですが時間はあります。だから、そこを大事に考えてみてくださいね」
いつもなら、子ども扱いするなと言っているところだが、今日はそうも言い返せないなと思った相澤は素直に"分かった"と頷いた。
「素直ですね。いい子、いい子」
よしよしと頭を撫でる桜を相澤は気まずく思いながらも上目で不満の目を向ける。
「ガキ扱いするな」
「やっぱり消太さんはそうでないと」
ふふっと笑う彼女につられて、彼も小さく笑う。支えられている実感を覚えた相澤は言葉なく桜を抱きしめた。
***
そして二人は一度、雪乃の様子を見る為、児童福祉施設を訪れた。あくまでもこっそりと様子を見に来た二人は直接彼女に会うのではなく、取り付けられた小窓からこっそりと室内を窺った。
誰もいない室内に一人、雪乃は置かれていた。個性を暴走させる可能性の高い彼女は、他人との接触を禁止されている為、仕方がない。
部屋におもちゃなどが用意されているが、それらが遊ばれた様子はない。ただ一冊だけ、絵本が彼女の近くにポツンと落ちていた。
何をするでもなく、俯いている幼い彼女の姿は痛ましい。ちらりと隣へ視線を向けた桜は、じっと雪乃の様子を見ている相澤の横顔に自分と同じ感情があるように思えた。
児童福祉施設からの帰り道、二人の間に会話はなかった。きっと彼はあれこれと考えて、どうしたらいいのかを探しているのだろうと彼女は目を伏せる。吹き付けられた風になびく黒髪を桜は押さえた。
あの少女のことも気になるが、それよりも相澤が後悔のない選択ができるようにと桜は祈っていた。
***
更に話し合った結果、二人は雪乃を引き取ることにした。例の警察官の彼に連絡を入れると、すぐに手続きを済ましてくれ、数日もしないうちに雪乃は、相澤と桜の暮らすマンションの一室に連れてこられた。
初めに会った時も感じていたが、桜と雪乃は不思議なほどよく似ている。放っておけなく感じたのは、二人の顔立ちがあまりにも似ているせいかもしれないと相澤はしみじみと感じていた。
二人は似ていると彼が言えば、彼女は"無意識にどこかで産んできちゃったんですかね"なんて笑った。
「どこの男との子だ……?」
「嫌だなぁ、冗談じゃないですか」
くすくすと笑う桜が怖い顔をしている相澤の頭を撫でる。その間に雪乃は部屋の隅のカーテンの中に入り込んでしまい、出てこなかった。
「……雪乃ちゃん、そこは寒いですからこっちに来ませんか?」
首を振る彼女に、桜はじゃあ、と続ける。
「お腹空きませんか? おだんご買ってあるんです」
また雪乃は顔を振ったけれど、お腹は正直で、きゅう、と小さく鳴った。誰かを彷彿とさせる腹の虫の音に、相澤は訝し気な目を桜へ向ける。
「本当にお前の子じゃないよな?」
「これからそうするんです」
何言ってるんですか、とむすっとした顔を彼に見せてから、彼女はカーテンの中の小さな膨らみを見つめる。カーテンに包まって動かない雪乃を、しばらく黙って見ていた桜は個性を使ってカーテンを捲った。
「わぁ!?」
驚いている雪乃の前に出た彼女は、すっと手を伸ばす。反射的に縮こまった小さな女の子の頭へ桜の手が乗せられた。
「あなたのこと、私はまだ全然知りません。だからこれからたくさん教えてください」
初めて向けられた慈愛に満ちた表情に雪乃は目が離せなくなる。これは本当に自分に向けられているものなのだろうかと、確かめるように伸ばした小さな手が桜の頬に触れた。
「手、冷たいですね」
ハッとして引っ込めようとした雪乃の手は彼女の手に押さえられる。
「あなたが寒いときは私たちが温めます。だから、少しずつでいいですから―――」
言葉を区切った桜は柔らかな笑みを見せた。
「―――一緒に家族になりましょう」
「か、ぞく……?」
雪乃にとって家族とは、自分以外の、父と母と姉だけのものだった。ずっと、仲間に入れてほしかったそこに自分も行っていいのだろうかと、不安だらけの目を桜に向けると、そんな不安を溶かしてしまうような穏やかな表情を向けられた。
「私たちは雪乃ちゃんと家族になりたくて呼んだんです。すぐにはきっと無理だから、お互いの好きなところを見つけるところから始めましょう?」
ね?と促されて、どうしてか雪乃は"うん"と頷いてしまった。
「……話、終わったか?」
かけられた低い声に思わず体を強張らせた雪乃の頭を、安心させるように桜は撫でながら声のした方へ振り返る。
「お待たせしました。今、お茶の用意をしますね」
「それは俺がやった」
コタツの上には相澤が淹れたお茶と桜が買ったお団子が用意されている。嬉しくなって頬を緩めた彼女を見た彼は照れくさそうに目を逸らした。
「さ、一緒に食べましょう。甘いものは一緒に食べるともっと美味しいですよ」
手を引かれながら、雪乃はぎこちなく頷く。隣に座るように勧められた桜の横で、雪乃は初めてみたらし団子を口にした。その味は、これまで知ることのなかった美味しさだった。
***
人の気配がして、相澤は目を覚ました。起き上がろうとすれば、いつの間にか雪乃が胸元にくっついて眠っている。
「ただいま」
とても小さくて微かな声であっても聞き違えるはずはなく、彼は寝室の入口へ目を向けた。
「おかえり」
眠っている雪乃を起こさないように気を配りながら声をかけた相澤に、部屋着姿の桜はふわりと微笑んで近寄って来た。
「先に寝ててくれてよかったんですよ?」
「たまたま目が覚めた」
ふーん、と言いながら近寄って来た彼女は、相澤の背中にぴったりとくっつくように横になった。
「待っててくれなかったんですか……」
口先だけの不満だと分かっている。まったくと思いながら相澤は小さな声で話す。
「お前、いつも先に寝ろって言うだろ」
「言わなかったら待っててくれるんですか?」
寝ちゃうくせにとおかしそうに笑う彼女に相澤は首だけで振り返る。何か言いたそうにしている彼に、くすっと笑って桜は額を相澤の背に押し付けた。
「いい子に待ってたから、ご褒美をあげたかったんですが残念です」
「ないのか?」
「雪乃がくっついているから無理でしょう?」
反対側で相澤にくっついて寝ている雪乃のことを覗き込もうと体を起こした桜は目を瞬いた。この部屋に入ってきたときにはそこにいたはずの雪乃は、いつの間にか反対の布団の端に寝転がっている。
「今ならいいってことだな」
しまったとばかりに彼から体を離そうとしたが、それも少し遅かった。視界が反転した桜の目の前には天井を背景にした相澤がいる。
「え? あ、あの、ダメですよ? 隣で雪乃が寝てるんですから……!」
「なら」
起き上がった彼に軽々と抱き上げられた彼女は声が漏れそうになった口を咄嗟に両手で押さえた。
「いい子だな」
耳元で囁かれた声に、桜の顔が一瞬で燃えたように熱くなる。背中の中心を走ったくすぐったさに彼女は彼の胸元にしがみついた。耐えるようにぎゅっと目を閉じている桜に相澤は満足そうな笑みを口元に浮かべる。そして、彼は彼女を隣の部屋へと運んだ。
この部屋は雪乃が来るまでは寝室として使われていて、今でもベッドが置かれている。
そのベッドの上にゆっくりと桜を寝かせた相澤は覆いかぶさるようにして、彼女の横に手をついた。
「悪い」
「え?」
罪悪感を覚えている表情の彼は、予想もしていない言葉をかけられて目を丸くさせている彼女の顔を何度も撫でる。
「ほとんど、雪乃の面倒をお前に任せてる」
見つめてくる目で相澤が何を気にしているのか分かった桜は、おかしそうに口元を隠した。
「私、雪乃と一緒にいることを負担だと思った事なんて一度もありませんよ? むしろ、逆です」
「逆?」
笑うのを止めた彼女は口元から手をどかして、彼を見つめ返す。
「凄く嬉しいんです。あの子がいることが。誰かのいる家に帰ることなんて久しぶりだったし、何か教えるたびに嬉しそうにしてくれるから、私も嬉しくって。これまでより、ずっと楽しいんです」
だから、とゆっくりと伸びた桜の手が相澤の頬に添えられた。細められた目に、彼の胸は思わず、どきりと脈打つ。
「そんなに心配しないでください。私もツラいときはちゃんと消太さんに言いますから」
「……絶対だぞ」
「はい」
返事と同時にきつく抱きしめられた彼女は、彼の匂いを感じて目を閉じる。それだけで、仕事の疲れを忘れられた。