夢うつつ


 ぼんやりとする意識の向こうから鼻歌が聞こえる。とても優しい旋律に、眠りが深くなることはなく、不思議と目が少しずつ覚めてきた。
 最初に見えたのは厚手のタオルケット。手元にあったはずの読みかけの本は座っていたソファーの隣に置かれている。はっきりとしない頭で周りを確認するように見てみれば、彼女の姿を見つけた。

「苗字?」

向かいに座っていた彼女が俺の声で顔を上げる。名前を呼ばれてこちらを見るなんて当たり前なのに、胸がじんわりと温かくなるのを感じずにいられない。

「おはよう」

にこっと微笑んだ苗字は、静かに俺の近くにやってきた。

「隣、いいかな?」

「ああ」

 一々訊かなくても、断ったりしねえのに。いくら俺がそう思っていても、苗字にはなかなか伝わらない。どうすれば伝わるのかは理解していても、苗字を見るのに夢中になっていて頭が働かないこともあったりして、俺はまだそれをできずにいる。

「外は寒くても、ここはあったかいね。私も眠くなっちゃいそう」

「寝るなら起こしてやるぞ」

"大丈夫だよ"と言った苗字に、もしかしてと俺にかかっていたタオルケットを手に取る。微かに香った洗剤の匂いが、時折、苗字からするものと似ている気がした。

「これ、苗字が?」

「うん。ちょうど洗濯が終わったところだから」

さっきまで彼女が座っていたところには、丁寧に畳まれた洗濯物がある。ぼんやりとした意識の中で聞こえてきた鼻歌は、これを畳んでいたからだったのか。

「わりぃ。せっかく洗ったばっかだったてのに」

「ううん。轟くんの為に使えてよかったよ」

 立ち上がった苗字に向かって手が勝手に伸びる。俺に手を掴まれた彼女は驚いて目を丸くさせていた。

「轟くん? どうしたの?」

大きな目を瞬かせる苗字に、自分でも驚いてる。何も考えてなかった。ただ、離れてほしくないと思ったら動いただけだ。

「もう、行っちまうのか?」

「え?」

 いきなりこんなことを言われたら困るに決まってる。分かっていても、どうしても苗字を引き留めたい。少しでも長く俺の傍にいてほしい。きっと、はっきりとこの気持ちを口にしなければ伝わらないのに、苗字を前にすると心臓は早く動くくせに口はまったく動いちゃくれない。

「苗字、俺……」

***

 ぴたり、と頬に何かが触れた。それがとても優しくて気持ちのいい手だと気づいて、目を開ける。視界いっぱいに入ってきたのは、少し心配そうな顔をした苗字で、どうやら俺は夢を見ていたらしい。

「苗字……」

「随分、懐かしい呼び方だね」

 くすりと柔らかに微笑んだ苗字に、頭がだんだんとはっきりしてきた。夢の中と同じように周りを見れば、ここは間違いなく俺の部屋で、近くの畳の上には取り込まれたばかりの洗濯物が置かれていた。

「名前」

「どんな夢見てたの?」

"焦凍"と名前を呼ばれた嬉しさに顔が熱くなる。優しい表情で俺の顔を撫でる名前の手が気持ちよくて目を閉じてすり寄った。

「……高校の頃、寮のソファーで寝ちまったときに名前にタオルケット掛けてもらったときの夢」

「そんなこともあったね」

懐かしそうに小さく笑って、名前の手が俺から離れていく。それがなんだか急に寂しくて、夢と同じように手を掴んだ。

「焦凍?」

 あの時と同じだ。洗濯物のところに戻ろうとする名前を引き留めて、俺はあのとき―――

「苗字が好きだ。だから、もっと一緒にいたい」

―――必死になって、つい本音を口にした。一瞬、目を丸くさせた名前は小さく笑うと、俺にかけていたタオルケットを手にして、二人で頭からすっぽりと包むようにかけた。薄暗いタオルケットの中で、目の前には名前の顔がある。うるさいくらいに早く動く心臓の音が聞こえてしまうかもしれない。

「ごめんね」

そう困ったように言う名前に、不安で喉が強張った。俺は名前に何か嫌われれることでもしちまったのか。どうしたら、お前の傍にいられる?
 あんまし、思っていることが顔には出ない方だと思うが、どうやら名前相手だと違うらしく、俺が必死に考えていることは筒抜けらしい。ふんわりと俺の好きな顔で微笑んだ名前の手に頬を包むように触れられる。

「私、もう"苗字名前"じゃなくて"轟名前"だから、名前でもう一度やり直し」

 口元に添えられた名前の左の薬指にに光るものがある。自分でもなにやってんだと思う。ここのところ忙しくて睡眠をしっかりとれなかったから、こんな風に寝ぼけたのか。

「名前、好きだ。告白した日よりも、結婚した日よりもずっと」

「うん。私も焦凍が好きだよ」

 お互いに顔を寄せ合って唇が重なる。数えきれないほど繰り返した行為でも、名前とするキスはいつだって特別で、これからもずっと特別のまま変わらないんだろう。
 俺たちを包むタオルケットを剥ぎ取って、名前の顔を見る。部屋の中に入ってきた柔らかくなった陽の光に照らされた名前は顔を真っ赤にさせていた。
-1-
[*prev] [next#]
top