隣にいてくれる存在

※最終話後。同棲前。モブ視点。

 何度も何度も念入りに身なりを整えて、鏡の前で最終チェック。うん、どこから見ても今日もワタシは100点満点。そんじょそこらの女になんか負けることなんてありえないほど可愛い。

「ねぇ、まだ……? オレ、そろそろ出ないと間に合わないんだけど……」

『うるさいわね、もう終わったわよ!』

 まったく男ってこれだから。レディーは支度に時間がかかるものだって何度教えたって理解しない。ハァ、とため息を吐いて、ワタシは同居人で、弟のような存在の彼が用意したバスケットへとするりと体を滑り込ませるように入った。

『いい? 今日こそ上手くやんなさいよ!』

「そんなこと言われても……」

 もじもじと情けないことを言いながら、顔を赤らめているこの子は、きっと他の人間から見たらワタシに話しかけているおかしな子に見られるんだろう。

 それもワタシがネコだから。ネコのワタシがこうしてこの子と話せるのは、この子の個性のおかげだっていうのに、彼は自分の個性が好きではないみたい。
 この子が家族と認めた動物にのみ適応する個性は、お互いしか言葉が理解できない。だから、小さな頃は嘘を言っていると信じてもらえなかったり、嫌な思いをすることも多かったらしい。

 ワタシはその個性は嫌いじゃないし、それでいいじゃないって言ったら、この子は目を丸くしてから涙を溜めていたっけ。人間ってときどきよく分からないことで泣くから本当に困っちゃう。
 このお陰で意気地がなくてくよくよしてばかりで見ていられないこの子の恋だって手伝ってあげることができるんだから、もっと自信を持ったっていいくらいなのに。

『あの子だって、なんとも思ってなかったらアンタのお願いなんて聴かないわ!』

 もっと自信を持ちなさい!と叱咤してやったところで、ワタシの入ったバスケットが持ち上げられた。

***

 二人が出会ったのは、ワタシがこの子とケンカをして部屋を飛び出したとき。飛び出したはいいけど、帰り道が分からなくなったワタシはあちこちをウロウロとしていた。

 どうせ、元野良だし、元の生活に戻るだけなんだから別に怖くなんてないと思ってたけど、半泣きので必死にワタシを探してくれた。

 だから仕方なく、本当に仕方なく帰ってあげることにした。この子は、そそっかしいし放っておけないからワタシが面倒を見てあげなきゃいけないしね。

『見つかりましたか?』

『は、はい! ありがとうございます!!』

 ワタシを抱き上げているこの子の後ろから声をかけてきた人間の声は、今まで聞いた人間の声の中でもとても心地の良いもので、ワタシたちに向けてくれた表情はとても柔らかくってなんだか春を思い出すような、そんなぽぅっと見とれてしまうようなものだった。

 この子はあの子に恋をした。とても幸せそうにあの子を見ているだけのこの子を、どうにかしたくなって、ワタシがあれこれと助言をするようになった。そして、これからするのもこの子とあの子の恋を上手くいかせるための作戦の一つ!

 ワタシたちの部屋から空き部屋を一つ挟んだ隣。そこのインターホンを緊張した指で押そうとしているこの子をバスケットの中から睨みつける。

 いくらワタシが完璧な作戦を考えて上げたって実行するこの子がしっかりしなきゃ、上手くいくことだって上手くいかない。しっかりしなさいと視線を送ってやれば、ごく、と喉を鳴らしてから、この子の震える指先がインターホンを押した。

***

 そして、今、ワタシは何度か来たことのある彼女の部屋にいる。ここはいつも掃除が行き届いているし、ご飯も美味しいし、居心地もいいのに……。

「むぎちゃん。今日もゆっくりしていってくださいね」

 笑いかけてくれるこの子だって、いつも通りなのに、と、ワタシは緊張しながら目の前の男を見た。

『一体コイツは誰なのよ!!』

 シャーッ!と威嚇してみても、長くてうねうねした髪の男は全然気にした様子もなくて、ワタシの方を見ない。

『何よっ! 無視しようっていうの!?』

 そっちがその気ならワタシだってアンタなんか気にしないんだから! ツンとそっぽを向いてやって、あの子の想い人である彼女の足元に擦り寄る。ああ、今日も優しい匂いがする。
 勝手にゴロゴロと鳴ってしまう喉だって気にならないくらい、彼女の足に何度も頬をすり寄せる。

「くすぐったいですよ」

 ふふ、と笑いながらも好きにさせてくれる彼女。ええっと、名前はなんて言ったかしらと、考えていたらワタシを無視した男が始めて声を出した。

「桜」

 ああ、そうだ。確かこの子の名前は"桜"だったわ。この男がきっかけで思い出したのは、なんかちょっと嫌だけど、まあ、今回はワタシの邪魔をしたわけじゃないし許してあげる。

「あ、そうでした。むぎちゃん、こちらは消太さんです」

 あの子と暮らし始めてから毎日話しているお陰で、ワタシはある程度なら人間の言葉が分かる。だから、桜の好きなものをさりげなくあの子に教えて、プレゼントさせたことも何度もあるくらい、ワタシは他の猫たちよりも人間のあれこれを理解しているつもり。

 そんなことより、このなんだか小汚い男は桜のなんなの? むすっとしながら、彼女が紹介してくれた男を見てみれば、彼の目はやはりワタシを見ていない。まぁ、目が合ったら合ったで、ケンカを売られているみたいで腹が立つんだけど。

「その猫、いつも預かってんのか?」

 機嫌の悪そうな口調のこの男は、愛想ってもんがないのかしら! いくら桜が優しいからって、そんな言い方していいと思ってるの!?

 人間にはぶにゃぶにゃとしか聞こえていないだろうけれど、言わずにはいられなくてワタシは男を見ながら文句を垂れる。

「時間が合うときだけです。むぎちゃんの飼い主さんが出張のときだけなので、そんなに頻繁ではないですよ」

 屈んだ桜の指が気持ちいいところをかすめた。ああ、あともうちょっとなのに。とてももどかしいのに彼女は気づいてくれなくて、キッチンの方へと行ってしまう。

 ううん、もうちょっと構ってほしかったのに……。でも、邪魔をして桜に悪い印象を持たれたくないし、我慢しなくちゃ。あの子が相手だったら絶対に我慢なんてしてやらないし、なんなら邪魔をして楽しんじゃうところだけど。

 彼女もいなくなってしまったし、と思っていたら背中から感じる視線がだんだんと気になってくる。振り返ってみたら、あの小汚い男が視線を合わせないようにワタシを見ていた。

 なんなの? ケンカなら買うわよ! ワタシはその辺のちやほやされてるだけの飼い猫なんかとは違うんだから! 

 うー、と唸りながら桜に"消太さん"と呼ばれていた男を見ていたら、すっと、ワタシの視界にピンクのふわふわしたものが入った。

 消太の手でピンクのふわふわが右に行ったり左に行ったり、同じ動きをしてると思ったらちょっとフェイントが入って止まったり。ワタシの猫の本能ってところをムズムズとくすぐってくる動き。
 相手になんかしてやらないと思ってたのに! 気づいたらワタシは消太の動かすピンクのふわふわに飛びついていた。

***

「凄く、仲良くなりましたね……」

 丸くした目をパチパチさせている桜の声でハッとする。違うのよ! 別に楽しかったわけじゃないし、ワタシはまだ消太に気を許してなんかないんだから!!

 大慌てで消太の膝から立ち上がったけど、またへにゃへにゃと座り込んでしまう。

「まあな」

 それもこれもこの男が意外とテクニシャンなせい。顎の下とか耳の辺りだとかの気持ちいいところにちょうどいい力加減で、欲しいところを撫でてくれる。

ふわぁ、気持ちいい……。じゃなかった!! 違うのよ、ともう一度桜を見上げてみたら、さっきの場所に彼女はいなくって、ワタシを膝に乗せている彼の後ろにいた。

「なんだ?」

「分かりませんか?」

 消太に覆いかぶさるように抱き着いた桜は、つまらなさそうに小さく唇を突き出している。なんだかいつもワタシが見ている彼女とは違う感じがした。

「ヤキモチ妬いてるんですよ。……消太さんが他の女の子にかまけてるから」

 難しい言葉で何を言っているのか分からないけど、なんだか寂しそうにも拗ねているようにも見えた桜はそのまま消太の肩へ顔を押し付ける。ぴくりとも動かない彼女。こんな桜は見たことがなくって、落ち着かなくなってしまう。

『ねぇ、どうしたの? お腹でも痛いの?』

 にゃあ、にゃあとしか口から出ないことが悔しい。ねえ、ワタシの代わりに何があったのか聞きなさいよ。そう言いながら振り返ったら、消太はさっきと変わらない眠そうな目をしたまま、ふぅっと息を吐き出して、彼女の頭へ手を置いた。

 ずっと何も話さないで頭を撫でているだけの消太の膝に手をつく。

『アンタ、さっきから撫でるしかしないけど、それで桜の具合が治るの?』

全然起きないじゃない! 文句を言う私の方をちらりとも見ない消太は何も言わずに桜の頭を撫で続ける。

「……今日はそんなんじゃ騙されませんよ」

「別に機嫌を取ってるわけじゃない。俺が好きでしてんだよ」

 "ずるい"と呟いた桜の髪の間から覗いた耳が赤い。やっぱり具合が悪いんじゃないの!?
 どうにかしなさい!と消太のスウェットをバリバリ引っ掻いてやれば、一度こちらを見ただけで彼はまた視線を前に戻してしまった。

 ふわっと、覆うようにワタシの頭に消太の手が乗っかる。気持ちのいい加減で撫でてくれる手に視界を遮られて自然と目を閉じた。

 その間に聞こえてきた音は何かに吸い付くようなもので、それでいてとても短くて一瞬のものだった。

 手がどいて二人を見上げてみれば、さっきと何も変わってない。でも、消太は意地悪く口元を笑わせていて、桜の耳はもっと真っ赤になってる。

『ねえ、何をしたの? ワタシにも教えなさいよ』

 やっぱりにゃあにゃあとしかでない声で話しかけてみても、二人から返事はない。ただ、ちらっとワタシを見た桜の顔は、やっぱり真っ赤なままだった。

***

 ご飯も食べて、消太ともたくさん遊んであげて、たくさん寝ていたら、聞き覚えのある足音が外から聞こえてきた。ハッと顔を上げて、玄関に向かって走れば、思った通り、その足音はこの部屋の前で止まって、インターホンの音が部屋の中に響く。

「はーい!」

 あの子が迎えに来たことが桜にも分かるのか、彼女はあの子が迎えに来たときだけ、インターホンを使わずに玄関を開ける。
 これってあの子が特別って証拠じゃない? 気づいてしまったら早くあの子に教えたくなって、いつも以上に落ち着かない。うろうろしているワタシの横を通り過ぎた足音は真っ直ぐに玄関に向かい、当たり前のようにドアを開いた。

 ドアの向こうにいたのは当然あの子で、真っ赤になった顔を俯けていた。

「あ、あの、いつもありがとうございます。防人さん……」

 この前ワタシが教えてあげた、桜の好きなお店の紙袋を持っている。よくやったわ! これならきっと桜も喜んでくれる!
 と、ワタシは思ったのだけど、あの子は顔を上げたまま固まって動かない。

『どうしたの? さっさと渡しなさいよ』

 そう声をかけてもあの子は固まったまま。どうしたのかと思ったのはワタシだけじゃなかったみたいだ。

「いつも桜がお世話になっているみたいで」

「あ、あの、いえ、オレがいつも一方的にお世話になってるだけで……」

 またいつものもじもじを始めて、消太の前のあの子は俯きがちに目を泳がせている。

『大丈夫よ! 消太は顔は怖いけど、なかなかいい子だから!』

 ひょいっとワタシが消太の肩の上に乗って声をかけてあげたのに、あの子は顔を真っ青にして口をパクパクさせ始めた。よく散歩に行く公園の池にいるコイみたい。

「す、すみません! あの、お客さんがいらしているなんて知らなくて! ご、ご迷惑をおかけして……!」

 あわあわしながら、ワタシを消太からどうやって抱き上げればいいのか分からないみたいで無駄に手を動かしている。そんなパニックになりつつあるあの子に、部屋の奥から出てきた桜が声をかけた。

「こんばんは。お仕事お疲れさまでした」

 にこっと微笑んだ桜を見たことで明らかにほっとしたあの子に、消太の眉間にしわが寄る。ああ、自分が相手にされなくて寂しいのね。
 ほら、今はワタシがいてあげてるでしょ。まったく消太も寂しがりなんだから。そう思って彼の頬を舐めてあげれば、少しだけ消太の機嫌はよくなったのか、今日一番の優しい手つきで私を撫でた。

 ぽそっと聞こえた小さな声の方を見てみる。言葉の意味は分からなかったけど、間違いなく桜の声だったのに、彼女はあの子と笑顔で話している。

「あの、本当にいつもありがとうございます。これ、少しなんですけど……」

「そんな気を遣わないでください。私も、荷物の引き取りをお願いしたこともありましたし」

 いえいえ、そんなという、ワタシにはよく分からない人間のやり取りのあと、あの子は無事に彼女に持ってきたお菓子を渡すことができた。

「最後にむぎちゃんと一緒に過ごすことができてよかったです」

「さ、最後って……」

 少し寂しそうに眉を寄せた桜はワタシとあの子を交互に見る。

「来週には引っ越しするんです」

 驚いて何も話せないでいるこの子の代わりに、ワタシが声をあげた。ねえ、どういうこと? 最後ってさよならってこと? もう会えないの?

 消太の肩からうちの子の肩の上に飛び乗って、にゃあとしか出ない口で必死に聞いてみる。

 どうして? この子のことを好きになれなかった? ワタシたちの家族にはなってくれないの?

 もう一度、どうしてと訊こうとしたら、嗅ぎ慣れた匂いのする手に口を押えられた。

「そう、ですか……。寂しくなります。お仕事の都合ですか?」

おどおどとしていない声は、不思議なほどしゃんとしていて、この子は真っ直ぐに桜を見つめている。なんだか静かにしてなきゃいけないみたいで、ワタシも口を閉じた。

「いえ、仕事ではないんです」

 言葉を切った桜は隣に立っている消太を一度見てから、ワタシたちへと向き直る。

「一緒に住むんです。この人と」

 向けてくれる笑みは、初めて会った日と変わらずにあたたかいのに、ワタシたちの知らない特別があった。
 ああ、そうか。家族っていうのは誰でもなれるものじゃないんだ。特別な相手しか選んで家族になることはできない。
 この子は桜の特別にはなれなかった。だって、桜の特別はもう消太のものだったから。

「にゃあ……」

 ワタシの口からこぼれた音は、消える寸前のろうそくのように頼りなくて、意味もない。でも、言わないとこの子が泣いてしまうんじゃないかと心配で仕方なかった。

「……おめでとうございます。幸せになってくださいね、防人さん」

 笑顔で言っていることがお別れの言葉だって分かる。すごくすごく寂しいのも伝わってくる。でも、でも……。

「にゃぁうん」

 ワタシがここにいるわ。喉を鳴らしながら、頬で頬を撫でてあげる。ワタシだって寂しいけど、この子が寂しがってることの方がワタシは悲しい。

「ありがとうございます。むぎちゃんも元気でいてくださいね」

 撫でてくれる少し冷たい手を小さく舐めて、バイバイをする。大丈夫。この子のことは私に任せて。桜も消太と元気でやりなさいよ。

 彼女が差し出してくれたバスケットに来たときと同じようにするり、と体を滑り込ませれば、桜の手からうちの子へバスケットが手渡されたのが分かった。

「それじゃあ、失礼します」

「はい。お元気で」

 パタン、と桜の部屋のドアが閉まる音が聞こえて、すぐ、歩き出す音がする。何回か歩く音がすれば、ワタシたちの家に着いた。

 玄関に入って優しくバスケットが下ろされる。静かにバスケットから顔を出してみたら、何でもない顔をしたあの子がいた。

『寂しくないの……?』

「いや、フラれたのはショックだけどさ」

 苦笑いをして、彼は私の頭を撫でる。桜とも消太とも違う、ワタシの一番好きな撫で方だ。

「あのとき、言ってくれたでしょ? "泣かないで"って、"ワタシがいるわ"って、むぎが言ってくれたから、思ったよりショックじゃないんだ」

 へへっと笑うこの子の顔を少し見てから、勝手に小さなため息が出た。仕方がないわね。今度こそ、この子が家族になってくれる女の子を見つけるまで、それまでワタシがアンタの恋人でいてあげる。

 そう思いながら、ワタシは彼に頭を撫でられていてあげた。
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