ラッキースケベの再来

 つま先立ちをして、思い切り手を伸ばす。勝手にプルプルと震える、すらりとした彼女の手は目的のものまで届いていない。うーん、と限界まで頑張ってみたものの、まったくといっていいほど届かないそれに、防人は深いため息をこぼすと手を伸ばすのを諦めた。

「何してんだ?」

 自然と下がってしまっていた視線を上げると、そこにいた彼の姿に彼女は意外だとばかりに目を丸くする。

「珍しいですね、こんなところで」

「課題で必要になったからな」

ほら、とばかりに相澤は手にしていた本を防人へ差し出した。受け取った彼女は、表紙をまじまじと見てから彼を見上げる。

「レポートですか? お疲れ様です」

 じっと顔を見てくる防人に相澤はいつもの気だるそうな表情を少し気まずそうなものに変えた。

「……なんだよ」

言いたいことがあるなら、はっきりと言えばいい。何も言わずに見つめてくる黒い目は相変わらず綺麗だが、何か思っていそうで居心地が悪かった。

「いえ、図書室で相澤先輩に会うのは初めてだなって思って」

 声を潜めて話す彼女の言う通り、二人が図書室で会うのは初めてだった。言われてみればそうかと、彼も納得する。

「……消太くんに会えて凄く嬉しいです」

背伸びをして耳打ちしてきた防人の声が鼓膜を揺らし、相澤の顔が赤く染まる。ふふ、と嬉しそうに頬を緩ませる彼女を見ていると、勝手に胸がドキドキし始めた。

「大袈裟だろ……」

「どこでも嬉しいものですよ。好きな人に会えるのは」

いつもよりも小さな声でくすくすと笑う防人から相澤の目が逸らされる。自分も嬉しいと思っているのを言葉にするのは、彼にとってはハードルが高かった。

「それより、何やってたんだ?」

「ああ、あの本を取りたくって」

 彼女が指が示す先にある本は、確かに彼女の身長では背伸びをしても届かなさそうだ。試しに相澤が手を伸ばす。あっさりと届いた大きな手で本を抜き取った彼が振り返ると、赤らめた顔をした彼女がいた。

「どうした?」

「あ、えっと……」

あちこちにせわしなく動いていた目が、ちらりと相澤に戻る。あ、と短い声を漏らした防人は観念して、消え入りそうな声で答えた。

「か、カッコいいなって、思って……」

真っ赤になって俯いている彼女には見えていないだろうが、言われた相澤もみるみる顔を赤らめていく。
 ただ本を取ることの何がカッコイイというのか。そう思うのに、彼は訊いたらもっと顔を赤くすることになると、尋ねはしなかった。

「ありがとうございます」

 照れたような顔の防人は相澤が本を取る様子を思い出す。自分とは違う伸ばされた腕のたくましさや、見上げたときの首筋に男性らしさを感じた。

「ほら……」

まだ落ち着かないドキドキとした胸を押さえながら、おもむろに顔を上げる。差し出された本を受け取ると、彼女はもう一度お礼を口にして、胸元でそれをギュッと抱きしめた。

 真っ赤になって沈黙している彼女は珍しい。いつもこちらが恥ずかしくなるようなことを言って、からかってくるくせにと思いながら相澤は横目で防人をちらりと見た。

ちょうど重なり合った視線。お互いに驚いて目を離せなくなっていると、彼女が、はにかみながら微笑んだ。
 強く脈打つ鼓動に、またも彼の顔は熱くなる。決して言葉に出せないが、目の前の防人が可愛くて仕方がなかった。

「お、前、いつも届かないものがあるときは個性使ってたのに、なんで……」

 このまま彼女を意識し続けたら、場所も関係なく抱きしめてしまいそうだと思った彼は逃げるように話題を変える。そんな相澤に、防人も気づいていながら指摘せず、ああ、と苦く笑った。

「実は一昨日から授業以外では一切個性を使わないで過ごしてるんです」

なんで、と訊いてくる彼の目に、苦笑いをしたままの彼女がぽつぽつと説明する。

「自分でも個性に頼りすぎている自覚があるので、個性を使わないで出来る範囲の確認をしようと思いまして……」

なるほど、と相澤が納得していると、一歩距離を縮めた防人の体がすぐ傍に来た。

「あの、もう一冊、お願いしてもいいですか?」

「あ、ああ……」

ふわり、と香る彼女の匂い。その優しい香りが二人の距離がどれほど近いものなのかを相澤に自覚させる。

「あの上の方にある本なんですけど……」

 手近な場所に本を置いた防人の申し訳なさそうな声。それを聞きながら、彼は彼女の指の先を見上げた。防人の差す本を見た相澤は眉間にしわを寄せていく。

随分と高い位置にある本は、いくら相澤でも背伸びをしたって届きそうはない。明らかに脚立を借りてこないと取れなかった。

「無理に決まってんだろ」

「脚立が見つからないんですよ。司書さんも見当たらないので、相澤先輩に助けてほしいんです」

彼女が困っているのに放っておくつもりもなかったが、防人に助けてと言われると弱い彼は愛想のない顔を僅かに逸らす。

「じゃあ、お願いします」

「……オイ」

 背を向けてしゃがみ込む彼女にそう言わずにいられなかった彼は、じっとりとした視線を向ける。

「大丈夫です。落としたりしませんから」

「そういう問題じゃない。なんで俺が背負われる側なんだ」

首だけで振り返った防人は困ったように眉を下げて笑う。しかし、その笑みにはどこか嬉しさが混じっていた。

「だって、私が欲しい本を取るのに、相澤先輩に重たい思いをさせるわけにはいかないじゃないですか」

無言で近寄った彼の手が彼女の額に伸びる。パチン、とデコピンをされた防人は、驚きながら痛くない額を押さえた。

「ほら、早くしろ」

 "彼女に背負われるなんてまっぴらだ"と言わんばかりに背を向けてしゃがみ込んだ相澤に、防人は思わず、ふ、と笑う。

「私、重いですよ?」

「俺はそう思った事はない」

つん、とした口ぶりに笑うのを堪えながら彼女は彼の背中へくっついた。覚悟していたはずなのに、防人から伝わってくる体温に相澤の胸は、ドキッとしてしまう。

「そういうときは、"全然軽いよ"って言うものでしょう?」

相澤が一人、緊張していることなど露知らず、まったく、なんて言いながらも防人は楽し気に笑っていた。

「いいからちゃんと捕まってろ」

 声音に緊張が出ないように努めながら彼が立ち上がる。自分の身長よりも高くなった目線の真新しさに、少しだけ高揚した彼女は、すぐに目的を思い出してそれに向かって手を伸ばす。

「んーっ……!」

 整った色白の指が懸命に伸ばされても、目的の本には届かない。一言、"すみません"と相澤に断った防人は、彼の肩に手を置いて立ち上がるようにして更に手を伸ばした。

「あと、ちょっと……!」

プルプルと震えている防人の下で、相澤は硬直したまま息をすることもできない。後頭部に感じる柔らかな膨らみ。本を取ることにばかり意識がいっている彼女の胸がしっかりとぶつかっている。

 落ち着けと、彼は自身に何度も言い聞かせる。これは事故だ。他意はない。お互いの裸を知らないわけではないのだから、こんなことで一々赤面するな。激しく動揺する自分を頭の中で宥めているうちに、はぁ、と諦めるような声が聞こえた。

「すみません、やっぱりダメみたいです」

体を無理やりに動かして屈むと、防人はお礼を言って相澤の背中から下りた。そして、少し考えるような仕草をする。

「どうした?」

 やっと気持ちを落ち着けた彼が振り返ると、彼女は、す、と屈んだ。

「おんぶで取れないなら、これしかないかなって思いまして」

肩にどうぞ、と言う防人に相澤の眉間にしわが寄る。

「背負うのがダメなら肩車もダメに決まってんだろ」

まったく、と、ついしゃがみ込んでしまってから、しまったと彼の顔が強張る。彼女がどんな顔をしているか考えるだけで怖い。引かれていたらと思うと振り向くことはできなかった。

「えっと……」

 ここが学校でなければ、制服でなく私服でスカートでなければ、もっと軽い気持ちで緊張しつつもお願いできたかもしれない。そう思いながら防人はちらり、と相澤の背中を見る。

 しゃがみ込んだまま動かない彼は、純粋に本を取ることだけを考えているのかもしれない。個性を使わないで取ろうとしている自分に付き合ってくれているのに、恥ずかしいだなんてわがままは通してはいけない。
 ぎゅっと、手を握った彼女は、待っているわけではなく気まずさで動けないでいる彼の背中に触れた。

「お、願いします……」

緊張した口調で呟いた防人に相澤の体がビクッと跳ねる。彼女であれば、"私、今、スカートなんですよ"なんて軽く言って避けると思っていた。自分の考えが甘かったと心の中で狼狽えている相澤を知る由もなく、防人は彼の肩に座る。

 後頭部から頬に感じる柔らかい肌。先ほど感じた彼女の胸よりも近くに感じる肌の柔らかさと温もりに、相澤の心臓は先ほどよりずっと早く動き出す。

「相澤先輩……?」

心配そうな声をかけられて、ゆるゆると彼は立ち上がる。つい、であっても自分からやりだした以上、羞恥心を堪えて肩車に応じた防人を拒否することはできない。

 バクバクとうるさい心臓の音は耳の中でしているようだと感じながら、目を固く閉じる。この状況を変に意識したくなくてした行為は、より防人の体を意識してしまい相澤を追い詰めた。

「もう、少し……!」

 先ほど背負ってもらったときと同じく、彼女は背伸びをするように体を浮かせる。なんとか本に手が届いた防人は控えめながら嬉しそうな声をあげた。

「ありがとうございます! 取れま……」

した、と続くはずだった声は彼女の口から出ることはなかった。立ち上がるようにしたことでスカートの中にすっぽりと頭を入れてしまっていた相澤を見た防人の全身は、ぶわっと燃えるように熱くなる。

 相澤の両肩から、大してなかった重みが急激に消えた。まさか落ちたのかと振り返った彼が見つけたのは、真っ赤になった顔を本で隠して宙に浮いている防人だった。

「オ、オイ……!」

小声で注意された彼女の口は"ゴメンナサイゴメンナサイ"と繰り返していて、彼を見ようとしていない。普段はブレることなく浮いている防人だが、動揺しているせいかふよふよと浮いている。彼女を見上げた相澤は視界に入ってきたそれに気づいて、ぎょっとした。

「桜、早く下りろ……!」

「わ、私、その、わざとじゃなくって……! 消太くんが、協力してくれたから、ちゃんと本取らないとって思って……!」

恥ずかしさで混乱している彼女に彼の声は届いていない。二人きりでないこの状況で、相澤の名前を口にしている防人に、どれだけ混乱しているのか察した彼も焦りだす。だんだんと空調に流されるように動いて行く彼女は、このままだと他の生徒たちの目につくだろう。

 カッ、と目を見開いた相澤が個性を使ったことにより、防人の体が重力に従って落ちた。体が落ちる感覚に驚いた彼女だが、体はしっかりと彼に抱き留められた。
横抱きで受け止められた防人が恐る恐る相澤を見上げる。大きくため息を吐いた彼は、強く彼女を抱きしめた。

「あ、相澤、先輩?」

 どうしたのかと言外に含ませる防人の顔が見えるように体を離す。す、と伸びた相澤の指。戦闘訓練のせいか、しっかりとした指には傷がある。不思議そうに見ていたその指に彼女は額を弾かれた。

「いった……!」

額を押さえながら、うっすらと涙の張った防人の目が相澤を映す。何も分かっていない彼女に、また彼の大きなため息が漏れた。

「……見えたらどうすんだ」

「……あ」

 何が、と思ったのも束の間で、防人は相澤の言ったことを理解して、反射的にスカートを押さえる。
"スカートの中が見えたらどうするのか"
彼の頭をスカートの中に入れてしまった恥ずかしさで混乱していたとはいえ、なんてはしたないことをしたんだろうと、彼女はまた顔を覆った。

 全身が赤くなってしまったんじゃないかと思うほど、外に見える部分を赤くしている防人の珍しい反応が、同じように恥ずかしくなっていた相澤へ悪戯心を抱かせる。

 そっと口を彼女の耳元へ寄せると、彼はニヤッと小さく笑みを浮かべた。

「俺以外には見せるなよ」

「う、ぁ……」

甘い吐息を添えた低く掠れた声に鼓膜を揺らされた防人は体を大きく震わせる。ぱくぱくと口を動かしても声になっていない彼女は、やはり珍しい。
ふ、と笑った彼はその辺に落ちてしまっていた本を拾い上げる。表紙のほこりをはたいてやって差し出せば、防人は赤い顔で相澤の好きな柔らかな微笑みを見せた。

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