幻月に結ぶ邂逅
※こちらの作品は、相互サイト『月の歌』の管理人、Ayunaさんとの共同作品です。一部内容が重複しておりますが、プロローグ、エピローグは、こちらと『あちら』で異なります。二つで一つのお話になっておりますので、よろしければ、どちらもご覧ください。
その日は朝から不思議な予感がしていた。部屋のカーテンの隙間から差し込んでくる朝日は昨日と変わらない。ただ、普段の寝起きよりもぼんやりとする感じだった。
それでも朝に淹れた緑茶には二本も茶柱が立った。何かいいいことがありそうだと、同棲している相澤に見られないように猫舌の桜にしては急いで飲んだ。しかし、仕事に向かう途中、縁側で碁を楽しんでいた老人たちの盤面に三コウという不吉とされるものを見た。
(運がいいのか、悪いのか……)
よく分からない日だなと、空を見上げる。視界に入ってきたのは街路樹の鮮やかな緑と、昨夜、空を照らしていた白い月が浮かんでいる光景だった。
***
マントコートのフードをすっぽりかぶって、パトロールに出ていた桜は一つ仕事を終えて大きく伸びをする。ふぅっと、息を吐き出した彼女が歩き出すと、すぐに後ろから声をかけられた。
「おい」
間違えもしないその声に振り返ると、そこには相澤、もとい仕事中のプロヒーロー、イレイザーヘッドがそこにいた。
「こんにちは、イレイザーさん」
フードから覗く口元に、にこっと微笑まれた相澤は思わず口を引き結ぶ。そうでないと、つい笑みを返してしまいそうだった。
ヒーローネームで呼んだ彼女の方が、きちんと公私を分けているようだと思わされた彼は微かに感じた情けなさで目を伏せる。
「どうされました?」
フードの奥にある桜の顔が困ったように笑ったのが分かる相澤は、気持ちを整えるように小さく息を吐き出した。
「手が空いてるなら手伝ってくれ」
「何をです?」
小さく首を傾げる仕草を見せた彼女に、彼は簡潔に状況の説明を始めた。
「この周辺に敵 が逃げ込んだ。個性の詳細はまだ把握できてないが、行方不明者が出てる」
「分かりました。微力ですが、お手伝いさせていただきます」
短い説明で一般人に危害が及ぶ前に捕まえたいという意図を理解してくれた桜に相澤は上出来だと言わんばかりの笑みを浮かべる。
「頼むぞ、サイキッカー」
プロとしてこうして彼に頼られる日を夢見ていた彼女は目を瞠った後、嬉しそうに頷いて見せた。
「よろしくお願いします。イレイザーヘッド」
ああ、と短い返事をして相澤は背を向ける。彼女にならば背を預けるのも怖くはないと、捕縛武器の中に隠した口元で、彼は一人笑みを引いていた。
***
さて、こういう場合どこから探すのが効率的かと考えた桜は、小さなビルの上に、ふわりと降り立つ。ヒーローから逃げている敵 であれば、きっとどこかで様子を見ているだろう。それならば、自分の姿は見せず、相手の様子を見られる場所がいい。
人は自分の目よりも高いところに視線が行きにくい。それを知っているからこそのこの場所だった。
見つからないように気を配りながら、異変はないかと見ていた彼女は近くの公園で中学生くらいの数人の子どもが騒いでいるのを見つけた。距離があるため、さすがに声は聞こえてこないが、その様子に嫌な予感がした桜はビルから公園へ向かって飛び降りた。
「どうされたんですか?」
「あ、ヒーロー!」
声をかけた彼女へ中学生たちが振り返る。会釈をした桜に一人の中学生が40cmほどの大きな箱を持って近づいた。
「俺たち、いつもここでゲームしたり集まってるんですけど、気が付いたら荷物がなくなってて、代わりにコレが置いてあって」
最初は仲間の誰かのいたずらだと思ったが、本当に誰も知らない。じゃあ、誰がこんなことをするんだと騒いでいたところに、ヒーローである彼女が声をかけてきたところだった。
「何か高価なものが入っていたんですか?」
「いや、別に……。財布は制服に入れてるし、ゲームもここにあるし、鞄なんか大したモン入ってないんですけど」
なあ、と顔を見合わせた中学生たちが頷き合う。あからさまに怪しいその箱。紙でできているその箱は一見、大きなプレゼントのようにも見える。
逃走中の敵 と何か関係があるかもしれないと、目深にかぶったフードの下で桜はスッと目を細めた。
「その箱、お預かりしても?」
「え? あ、ああ、別にいいですけど」
差し出された箱を受け取ろうとしたしたとき、彼女の視界に小さな子どもが飛び込んできた。子どもは茂みの中から、中学生たちと同じ箱を見つけて、興味深そうに箱の蓋を開けようとしている。
「待ってください! その箱を開けないで!!」
驚いた子どもが頭の上に掲げていた箱を落とす。ぐらりと落とした箱は、そのまま地面に落ちることはなく、蓋もしっかりと閉じたまま桜のテレキネシスで空中に留まった。
安堵の息を吐くこともなく、流れるような動きで怪しげな箱を自分の方へ引き寄せた彼女の後ろで、中学生の男の子が大きなくしゃみをした。
くしゅんっ!!と唐突な大きなくしゃみをした友人に驚いた中学生は大きく体を跳ね上げた。そしてその弾みで箱の蓋が外れて地面に落ちた。
地面に落ちていく箱の蓋は、まるでスローモーションのようにゆっくりと彼女の目には映った。
咄嗟にサイコキネシスで少年たちを箱から遠ざけたものの、桜自身は間に合わなかった。
「うわぁ!?」
突然、強く体が後ろに引き込まれる。強くもなく弱くもない特殊な引き込まれる感覚にふんばることもできず、彼女は箱の中に吸い込まれるように消えて行った。
***
短いような長いような、おかしな感覚とともに落ちてきた桜はやっと見えた地面にぶつかる直前で個性を使い、ふわりと体を浮かせる。落ちている間、使えなかった個性がなんとか使えたことに、ほっと胸を撫で下ろしたとき、こちらに向けられている視線に気が付いた。
ぽかんと口を開けている少女を桜もフードの下できょとんと見つめる。見つめ合ったまま、ゆっくりと地面だと思っていた床に下り立った桜は、えっと、と考え始めた。
見覚えはないが、和装をモチーフにしたヒーローコスチュームに身を包んでる様子から、彼女もヒーローのようだ。
「えっと、初めまして、ですよね? 私はこの辺りで活動をしています、サイキッカーです」
零は突然現れたサイキッカーと明かす一人の姿に、暫く空いた口が塞がらなかった。
数秒間呆然と見つめた後、ハッと我に返り慌てて何か返そうと必死に言葉を探した。
『は、初めまして…。“朧”といいます。 私もこの辺りで活動してるヒーローなん、ですけど…。』
初めて目の当たりにするヒーローに聞きたい事は山ほどあるのに、上手く言葉が出てこない。
それは零の目に映る少女から、純粋な人の温かさを表す気配を強く感じるからだった。そんな姿に魅入る零の心はつられて和んだのか、妙にぽかぽかと温かい気持ちになる。もはや今、頭の中は真白同然と言ってもいいくらいだ。
何か言いたげに見える零の様子に桜は、にこっと口元に笑みを引いて見せる。
「同じ地区の担当だったんですね。私、メディアとか苦手で露出してないので、ご存じないかもしれません」
『わ、私もなんです。訳あって、メディアとかは控えてて…。同じ、ですね。』
緊張しているのか、それとも違う理由なのか分からないが、零の目はなかなかこちらを向かない。なんとか緊張を解いてあげられないものかと考えた桜は目深にかぶっていたフードを外した。
「じゃあ、ここで知り合えたのは凄い偶然なんですね」
“改めて、よろしくお願いします”と頭を下げると、高く結った黒髪がさらりと流れる。顔を上げてフード越しではなく、直接、零へ微笑みかけた。
零は自分に向けられた優しげな表情に吸い込まれるように、目を合わせた。
自分とは対称的な綺麗な艶のある黒い髪と、ごく自然に浮かべる柔らかい笑み。
それを見た瞬間ふと、以前どこかの女子達がきゃっきゃと話していた、ある内容を思い出した。一目惚れをする瞬間は、ドキッと心臓が飛び跳ねて、身体中に熱をともしているような感覚になる、と。
それと近いしいものを体感した零は頬を真っ赤に染めては首を左右に振り、冷静さを強引に取り戻す。
そしていつもの調子を装って、桜に言葉を返した。
『偶然とはいえ、自分と同じようにここへやってきたのが貴方のような方で良かったです。…でも正直、呑気に喜んでいる場合でもないんですよね…。』
それもそうだと、桜は目の前の彼女から視線を周囲へと向ける。どこもかしこも真っ白な空間に手を伸ばしてみれば、何の変哲もない壁に触れた。
「これ、何か個性を試してみたりしたんですか?」
『えぇ、しました。直接的な攻撃も加えてみましたが…何の効果も得られませんでした。』
零はそう答えて、腰にある刀に手を添えながら視線を下ろした。
自分と同じように左腰にある刀を見ている零を横目に、桜は顎に手を添えて考え始める。彼女がどんな個性を持ち、どんな攻撃を加えたのか分からないが、プロヒーローの攻撃が通じないのであれば、攻撃以外の脱出方法を考えた方がよさそうだ。
「……とりあえず、座りましょうか。それから考えましょう」
その場にそっと腰を降ろした桜は、立ち尽くしている零にも座るようにと勧める。
零は戸惑いながら、桜の向かいに腰を下ろす。
しかし、立っていた時よりいっそう距離が縮まったような気がして、またしても緊張感が走る。零は気を紛らわすように、何か考え込んでいるように窺える桜に恐る恐る訊ねた。
『あの、聞いてもいいですか…? 』
「ええ、もちろん」
一体何を訊かれるのだろうと、桜はこれまで考えていたことを一旦止めて零へと顔を向ける。
零は彼女の目線がこちらに向いたことでさらに体が強張るも、ぐっと紡いだ口を解いた。
『ここに来たきっかけって、どんな感じでした? 実は私、個性で作られた奇妙な箱の蓋を開けて、気付いたらこの状況だったんですけど…。』
「私もこのくらいの紙製の箱に吸い込まれるようにして、ここに来てしまったんです」
手で箱の大きさを表した桜は、ふと気付いてポケットに入れている物に触れる。あまり期待せずに取り出したスマホはやはり圏外だった。
「ダメですね。私はここに来る直前、周囲に人がいたので他のヒーローへ連絡が行くと思うんですが、貴女は?」
『私も、ここにくる直前まで人と一緒にいました。個性に吸い込まれていった瞬間を見た彼なら、恐らく今頃慌てて何か動いて下さっているとは思います…』
零は頭の中でもう一度塚内の事を思い出し、彼の心境を察しては眉を下げた。
彼女の申し訳なさそうな表情に、目を伏せた桜はフッと微かに笑う。
「なら、心配することはないですよ。必ずその人が助けてくれます。だから、そんな顔をしないで。助けてもらったら、次は私たちが返せばいいだけです」
そうでしょう?と零に同意を求めて目を向けた桜は、頭の隅で彼にまで連絡が言ったのだろうかとぼんやりと思った。
零は小さく笑って、“そうですね”と答える。反面、本来“助けを待つ”という思考には至らないものの、桜に言われるとなぜか妙に素直に受け入れられる事。そしてやんわりとした口調と表情で話す桜と、もっといろんな話がしてみたい、という珍しい欲が生まれた自分を不思議に思いながら、自然と声に出した。
『あの…サイキッカーさんがもしよければなんですけど…。その助けが来るまで、時間潰しと言うのも何ですが、少しお話しをしませんか?』
勇気を振り絞って、提案を持ち掛ける。
思わぬ申し出にきょとんとした桜は、もじもじとした様子の零に目を瞬く。不安そうな金の目に、彼女が精一杯の勇気を持って聞いてくれたのだと分かると、微笑ましくなってしまう。
「もちろんです。私も朧さんとお話したいなと思っていたんです」
何から話しましょうかと考え出した桜は、ハッとして零を見た。
「あの、お腹空きませんか?」
そう聞かれた零は、ふとお腹に手を当てて最後に何か食べたのがいつだったかを振り返ってみる。
そういえば、今日は任務につくため夕食を取っている暇はなかった。
言われてようやくその事を思い出すと、何だか本当にお腹が空いた感覚になり、恥ずかしながら正直に返した。
『…空いてます…』
「よかった。私もここに来る前、ちょうど昼時だったのでお腹が空いてきちゃって」
普段から非常食を入れている腰のポーチから、取り出した一つを零へ差し出す。それはいつも桜の想い人である彼が愛飲しているゼリー飲料だった。
零は“ありがとうございます”と丁寧にそれを受け取って、頭の中である人物を連想させた。
今日帰りを待つと言っていた“彼”は、今頃どうしているだろうか。もしかしたら塚内が連絡して現状を知り、この箱の向こうに来ているかもしれない。
何気なく受け取ったゼリー飲料に口を付けながらそう考えると、何だか妙に安心感を覚え、自然と頬が緩んだ。
ふと、向かいに座る桜の顔に目を向ける。彼女もゼリー飲料を見て何かを連想しているのか、苦笑いを浮かべている様子だった。
『…どうかしたんですか?』
不思議に思った零は、彼女にそう訊ねた。
小さく首を傾げている零に、ああ、と桜はこれまで思い起こしていたことを話し出す。
「これをくれた人、その人もプロヒーローなんですけど、今頃怒ってるだろうなって思って」
愛想のない顔を顰めている様子を思い浮かべて、また桜は苦笑いをするが、その目には他人には向けられないものがあった。
そんな桜の柔らかい表情を見て、零はこれを彼女に授けたヒーローは、彼女にとって大切な存在なのだろう、と悟る。
かく言う自分も、このゼリー飲料からどうしよもなく大切な人を連想してしまう。
普段から“ちゃんと食事を取れ”といつも口癖のように叱る彼がもしこの状況を見たら、やっぱり怒るんだろうな…と考えると、彼の顰めっ面が自然と思い浮かび、フッと小さく微笑んだ。
「お好きですか? このゼリー」
ゼリー飲料を見つめている零の眼差しが、これまで見てきたものとは違うことが分かる桜は、彼女の視線を意味を理解していた。このゼリー飲料を通して零が見ているのは、きっと彼女にとって特別な相手なのだろう。無理やり聞きたいわけではないが、その相手がどんな人なのか興味はあった。
『えぇ。…というか正直言うと、これを口にしたのは今が初めてなんです。…でも、私のよく知っている人は、これを主食のように飲む人で。今までは、“こんなんじゃお腹膨れないし、栄養も偏りますよ!”って、どちらかと言うと否定してたんですけど…まさかそんな事を彼に言っていた自分が飲む日が来るなんて、思ってもみなくて。』
頭の中で思い浮かべる人物のせいか、咄嗟に“彼”と呼んでしまう零は、しばらく余韻に浸った後、ハッと我に返る。
『…って、私出会ったばかりのサイキッカーさんに、何て恥ずかしい事を話してるんでしょうね…』
そう小さく零して顔を真っ赤に染めては、恥ずかしさ故に目を背けた。
「好きな人なんですね、朧さんの」
真っ赤に染まり切った彼女が可愛らしくて、桜の目は柔らかに弧を描く。
「これをくれた人も、これをしょっちゅう飲んでて、”便秘になっちゃいますよ”って言ったら、凄く怒った顔したんですよ」
あの時の相澤の顔を思い出した桜は堪らなくなって、肩を震わせて笑い出す。一しきり笑ってから、彼女は目元の涙を拭って零の方へ顔を上げた。
「もしよろしかったら、朧さんの好きな方がどんな方か聞かせてもらってもいいですか?」
零はそう言われて、最初は恥ずかしくて戸惑った。それでも何故か桜には素直に話せそうな気がして、意外にもその質問に返す答えは自然と声に出た。
『愛想がなくて、不器用で…でもそれでいて、誰よりも些細な事に気づいてくれる優しい人、ですかね。普段は面倒くさがりな素振りを見せるのに、何だかんだ面倒みがとても良くて。……あの、良ければサイキッカーさんの好きな方の事も、教えて頂けませんか?』
頭の中で相澤をイメージしていた零は、視線を桜へと戻す。すると、それまで、うんうんと頷いて聞いていた彼女は目を大きく開いて驚いた様子を見せていた。
「え? へっ!?」
唐突に言われたことに全身が動かなくなる。顔中に熱が集まるのを感じた桜は零を見たまま瞬きも出来ずにいる。
「な、なんで、分かりました? その、好きな人がいるって……」
隠していたわけではないが、他人から簡単に見抜かれてしまうほど分かりやすい顔をしていたのかと桜は両頬を手で覆った。
零はそう言われて、いつもの癖で無意識に表情から心を読み取ってしまった事に気づく。サッと顔は青ざめていき、慌てて両手を前に出しては何度も左右に振った。
『ごごご、ごめんなさい!その…さっきサイキッカーさんが話していた時の表情があまりにも愛おしそうな雰囲気をしていたもので、そうかなぁって。…私、昔から人の感情や気配に敏感で。…気を悪くさてれしまいましたか?』
桜と少しだけ近づけたと思った距離感を、まさか自分の無意識な発言で遠ざけてしまったらどうしよう、と零は必死に謝った。
あまりに必死に謝る彼女に違和感を抱いた桜は、静かに零へ近寄る。
「どうして、そんなに申し訳なさそうな顔をするんですか?」
どこか怯えているようにも見える零の両手を取った桜は、見上げてきた彼女の顔を見つめた。
「私が分かりやすかっただけかもしれませんが、朧さんにとって、その観察眼は武器の一つでしょう? 誇れるものじゃないですか」
謝ったら勿体ないですよと、躊躇なく触れてくる桜に零は激しく動揺し、印象的な金色の瞳を揺らす。
この時、“読心”の個性が発動しなかった事に密かにほっとしては、彼女の言動に心打たれた。
何も知らないとはいえ、引け目に感じているこの眼を“誇れるもの”と言ってくれた事。そして当たり前のように触れてくれたその手のひらから伝わった体温は、感じたもの以上に温かだった。
『…ありがとう、ございます。』
少し気を抜けば涙が零れそうな状態を必死に悟られぬよう、零は微かに震えた声でそう返した。
小さな返事は彼女の心境をしっかりと桜に伝える。その気持ちを汲み取って桜は何も気付かないふりをすることにして、僅かに視線を下げる。そして、小さく空気を吸い込んで、彼女の訊いてきたことを考え始めた。
「……私の好きな人は、朧さんの好きな方に似ているように思います」
顔を見られたくなさそうな零の方へ目を向けないようにしながら、桜は片手を放さず、すぐ隣へと座り直す。俯きがちな隣を感じながら、顔を上げた彼女はこれまで見てきた相澤の姿を思い浮かべた。
「誰よりも細かなところに気が付く人です。愛想はないけど、本当は誰よりも優しくて。でも、考えすぎて優しさが不器用なんです。だから、他人にはその優しさが伝わりにくくって」
勿体ないなって思うんですけど、と言葉を切った桜は、くすっと一つ笑う。
「私は彼のその優しさをとても愛おしく思ってます。誰も気付いていないなら、私だけがその優しさを一人占めにできているようにさえ感じられるんです。おかしいでしょう?」
眉を下げて困ったような笑みを零へと向ける。すると彼女はいつの間にか俯いていた顔を上げ、何度も瞬きを繰り返していた。
桜の好きな人の話が自分の中で想う相澤ととても似ている事にも勿論驚いたが、彼女が躊躇なく零した“愛おしい”という言葉は、零にとってあまりにも聞き慣れないもので、また自分が彼を想うこの名前の知らない不思議な気持ちに、妙にしっくりきたような気がしたからだ。
そして数秒間桜を見つめた後、零も小さく笑みを浮かべて左右に首を振った。
『“おかしい”だなんて、全然思いません。むしろ、その考えが少し分かるような気がして、そんな自分に驚いてしまったくらいです。』
この時零は初めて、桜が繋いでくれている手のひらを少しだけ力を込めて優しく握り返した。
弱弱しくも感じられる握り返してきた手に目を軽く見開いた桜は嬉しそうに頬を緩める。
「不思議ですね。初めて会ったのに朧さんはとても話しやすくて、素直に言葉が出てきてしまいます」
零から時折窺える、何かに怯えるような表情や、動揺している様子。それらは零が想い人のことを話す間だけ鳴りを潜めることに気付いていた桜は、軽く目を伏せる。
彼女の心を救う存在がいてくれたことに安堵した。そして、自分も同じように想い人の存在に救われているのだと、髪を結ぶそれにそっと触れた。
(貴方が助けてくれると信じてますから、私は私のままでいられていますよ)
そう心の中で相澤に話しかけた桜は、そっと目を開く。
『私も、不思議な気持ちです。初めてお会いしたはずなのに…サイキッカーさんといると、安心してとても心が落ち着くんです。』
零は、桜と繋いでいる手から伝わってくる体温をを確かめるように、目を閉じた。
つい先程までは一刻も早くここを出たいと思っていたのに、今や傍に居てくれる桜と離れがたいとも思ってしまう。
そんな考えを抱く一方、ふと零の頭の中に一つの不安が浮かび上がり、小さな声で“あの……”と声を漏らした。
『ここって、個性で作られた空間ですよね?よくありがちな話ですけど…例えば、この場から脱出できた時に、この場での記憶が残らない…なんて可能性はあるんでしょうか。』
不安そうな声で訊ねられたことに、桜も”あっ……”と目を見開く。安心すると言ってくれた零にこんな顔をさせたくはない。
どうしたものかと考えていると、彼女の刀に目が留まった。
「確かに、この空間で起きていたことを覚えていられる保証はありません。だから……」
脇に置いていた自分の刀を取った桜は慣れた手つきで鞘から下げ緒を外す。捕縛にも使う為、普通よりもずっと長い紺の下げ緒を零に差し出した。
「持っていてください。私の刀の下げ緒です。この長さで使われている方は、あまりいないので、もし、忘れてしまっても、話しかけるきっかけにはなってくれるはずです」
零の繋いでいた方の手を取り、紺の下げ緒を乗せる。少し体温の低い両手で、下げを持たせた手を包むようにして握らせた。にこっと笑ってから桜は両手を彼女から離す。
零は両手で壊れ物のようにそっと包んだ“それ”を見て、数秒間ポカンと口を開けたまま固まる。
無意識に受け取った下げ緒を見つめる金の瞳には潤いがあり、頬は軽く赤くなっていた。
初めて知り合った日に、その人の大切な物を受け取る…それがどれだけ貴重な事かを、零は身をもって感動していた。
その様子が、泣き出してしまいそうに見えた桜は、ぎょっとして慌てだす。
「お、朧さん? あの、ごめんなさい……! な、泣かないでください」
無理に持っていて欲しいわけではないんです!と慌てふためく桜に、零はハッと我に返って必死で誤解を解いた。
『ちっ、違うんです!ごめんなさい…人から物を貰うという経験があまりなくて…知り合ってまもないサイキッカーさんから、まさかこんな大切な物を頂けるなんて思ってもみなかったから…感動のあまりつい…。』
零は早口でそう話しては、恐る恐る桜の顔を見つめ、消えそうな声でもう一度だけ訊ねた。
『本当にこれ……私が受け取ってもいいんですか…?』
「……もちろんです。朧さんに持っていてほしいんです」
訳あってメディアに出られなかったり、妙に自分に自信がなかったり、物をもらうことにここまでの反応を見せたりする彼女の背景には他人には簡単に話せない理由があるのかも知れない。
こんなただの下げ緒一つが彼女の救いになることはないだろう。しかし、何か些細な助けになればと、もう一度、零の手を両手で取った桜は、穏やかな表情を向ける。
「受け取ってもらえますか?」
桜の声、表情から伝わってくる優しさに、零は目から涙が零れ落ちそうになるのをぐっと下唇を噛んで堪えつつ、それなら…と自分の刀に手をかけ、素早く白の下げ緒を解く。そして同じように、桜に差し出した。
『私の下げ緒、サイキッカーさんと同じで通常より長めなんです。だからこれなら、勝手が変わらず使って頂けると思うんですが……。受け取って頂けますか?』
恐る恐る下げ緒を差し出してきた零の目には強い緊張が見えた。下げ緒の乗った手も強張っているようだ。目を丸くさせていた桜は彼女の気持ちを思うと、自然に笑みが込み上げた。
「ありがとうございます。とっても嬉しいです」
受け取ってすぐに下げ緒を結んだ彼女は零に見えるように鞘を持ち上げる。
「とても綺麗な白ですね。なんだか使うのが勿体ないくらいです」
『気に入って頂けたようで良かったです。サイキッカーさんから頂いた紺の下げ緒も、とても素敵です!』
零は桜から受け取った下げ緒を素早く結んで、彼女と同じように鞘を持ち上げ、きらきらと目を輝かせて見つめながらそう返した。
喜んでくれている零と同じように、桜も嬉しさで頬が緩む。
「これで、何があっても私たちは友人でいられますね」
嬉しさで、ふふっと小さく笑った桜は零からもらったばかりの下げ緒を見た。
『…そうですね。これを見る度に、友人であるサイキッカーさんとの繋がりを感じられると思うと、何だかとても心強いです。』
そう言った零は、桜に“友人”と言われた事があまりにも嬉しくて、はにかんだ笑みを浮かべた。
やっと見られた零のちゃんとした笑みに、桜は目を細めたまま見入っていた。
「やっと笑ってくれましたね」
嬉しいと思う気持ちもあるが、彼女のはにかんだ笑みはとても可愛らしいと桜は強く思う。この笑みが、いつでも自然に出せるようになることを心の中で誰にでもなく祈っていた。
お互いの顔を見ていると、不意に空間がぐにゃりと歪み始めた。驚く間もなく、だんだんと歪みが強くなっていく。
「うわっ!」
『わっ、!』
その場に座っていることすらできないほど床だったところが、大きく波打つように曲がり、二人の間に距離が出来る。
「朧さん!」
伸ばしたところで届かないことは分かっていたがそうせずにはいられず、桜は零に向かって手を伸ばす。
『サイキッカーさん…!』
桜が精一杯伸ばした手を取りたくて、零もできる限り腕を伸ばす。触れていた彼女の体温が一瞬で離れてしまった事に不安が押し寄せた。
しかし、二人の手が触れることはなかった。ぐにゃぐにゃと形が変わっていく空間の中で桜も零も、その気配に気が付いた。そして、お互いが違う世界からここへ迷い込んだことも同時に理解する。
「朧さん! 私、桜っていうんです!!」
せっかく友人になれたのに、名前も知らないだなんてあんまりだと思った桜は零に向かって叫んだ。
『…っ、桜さん! 私は零です!』
自分にこんな大きな声が出せたのかと驚くほど、零も桜に届くように叫んだ。
どんどんと引き離されていった二人の体が背後から何かに引き寄せられる。桜の体に絡まるように巻き付いたのは、彼女の髪を結っている物と同じ。そして、その捕縛武器に染みついた彼の匂いが桜の胸に安心感を広げた。
信じていた彼が助けに来てくれたのだと体に巻き付く捕縛武器に触れた桜は、向かいにいる零の体を力強く抱き寄せようとしている腕に気付く。
その腕を見間違えたりはしない桜が大きく目を見開くと、零も向こうで同じように目を見開いていた。
くすっと笑った桜は口元にかかっていた捕縛武器を強引に下げると、大きく息を吸い込んで零に向かって大きな声をかける。
「零さんっ!! そっちの消太さんのこと、お願いしますね!!」
聞こえたかどうか分からないけれど、相手のことばかりに気にかける優しい彼女であれば向こうの世界の相澤を幸せにしてくれるだろう。そして、向こうの相澤も零のことを支え、幸せになってくれるだろうと、桜は直感的に信じていた。
零は見慣れた捕縛武器に身を包む桜の姿を見つめては、彼女が想っていた相手が相澤だったことに妙に納得して、安堵の笑みを浮かべた。
そして桜に届きもしない小さな声で、彼女に語りかけた。
『桜さん…例え記憶が無くなったとしても、貴方の温かさだけは絶対に忘れません。ありがとう。』
このまま桜を名残惜しく見つめていては、彼女が心配してしまうと思った零は、そっと静かに目を閉じた。
閉じ込められていた空間が目も開けられないほど白く発光するなか、二人は互いに知らないまま笑顔を交わし合っていた。
***
ベッドに寝かされている彼女は、家にいるときと同じように眠っているようにしか見えない。規則正しく上下する胸元を見ていた相澤は、頭を下げるように体を倒して大きくため息をついた。
病室で桜が目を覚ますのを待つだなんて、あの時のようだと組んだ両手にぐっと力を込める。
紙製の箱を使い、人を異空間に閉じ込めてしまう敵 は相澤が既に捕まえ、警察に引き渡した。その際、箱の中から引きずり出した桜は、意識はなく体も冷たかった。あの冷たくなった体を思い出すと、全身が凍るような思いだった。
白い頬に落ちるまつ毛の影が揺れる。ゆっくりと長いまつ毛の下から現れた黒い目はぼんやりとしていた。
「桜……」
聞こえてきた声が最後のきっかけになり、桜は、はっきりと目を覚ます。覗き込むように自分を見ている相澤はいつものしかめ面ではなく、心配で泣き出してしまいそうな顔をしていた。
「酷い顔、してますよ……」
伸ばした彼女の手が彼の頬に触れる。その手を自分の手で包むように触れた相澤の目が感じ入るように閉じられた。
「大丈夫なのか?」
「記憶がぼんやりしちゃってるんですが、体はなんともなさそうです」
そうかと返した彼は、医者も目を覚ませば問題ないと言っていたことを思い出すと、ほっと息を吐き出す。
起き上がろうとする彼女の背に手を回して座らせると、すぅっと息を吸い込む。そして、カッと髪を逆立てながら思い切り睨みつけた。
「このっ、バカ野郎!!」
驚いてビクッと体を縮こませた桜に構わず、相澤は睨み続ける。これまで何度か不機嫌そうに不満を言われたことはあるが、こんなに怒られたのは初めてだった。
「なんで、あの箱を見つけたときに、すぐ俺に連絡しなかった!!」
「あ、あの、そうしようと思ったんですが、事故で蓋が開いてしまって、それで取り込まれてしまって……」
あれ?と、彼女は気づく。箱に取り込まれてしまってからの記憶がどうも曖昧だ。ただ、とても大切なことがあって、これからも大事にしたいと思っていることには違いない。
「……説教されてる途中でよそ見とは、反省してねぇな」
凄むように顎を上げる彼に、彼女はぶんぶんと両手を振って否定した。今は心配をかけてしまったことを許してもらう方が先だ。
「い、いえいえ! してます!! ごめんなさい!」
頭を下げた桜の頬に相澤の無骨で大きな手が触れる。その手に誘導されるように彼女の顔が上がった。
「なんで謝ってるんだ?」
「なんで、って、心配をかけた、から……」
真剣に見つめてくる彼から目を逸らすことができず、桜は動揺した。困惑で揺れている黒い目を見つめながら、相澤はくいっと彼女の顔を引く。
「それだけじゃねぇよ」
迫ってくる彼は片方の膝を彼女のベッドに乗せて、さらに距離を詰めた。広い個室のはずが、目の前の相澤で桜の視界はいっぱいになっていた。
「俺を不安にさせるな」
え?という声が彼女の口から出ることはない。相澤に抱きしめられたことによって、ようやく彼が怒っていた理由を理解した桜は、すっと目を閉じて受け入れた。
「……ごめんなさい」
「どこにも行くな。ずっと、傍にいてくれ」
頷いた彼女からも彼を抱きしめる。しばらくして、体を離すと桜の視界にそれが入った。
丁寧にたたまれたヒーローコスチュームの傍に立てかけられた彼女の刀には、紺の下げ緒はない。美しい白い下げ緒が結ばれていた。それを見ていることに気づいた相澤は、彼女に、なぁ、と助け出したときから気になっていたことを口にする。
「刀につけてるの、あんな色だったか?」
「いえ、頂いたんです。とても大切な友人に」
夢の中の出来事のようで、もうはっきりと思い出すことは難しそうだが、あの下げ緒の白よりも美しい白い髪と金色の目、が記憶に残っている。そしてはっきりとしない、はにかんだ笑顔を思い出すと自然と桜の目は柔らかに細められた。
「……男じゃないよな?」
むすっと機嫌の悪そうな相澤の顔に目を瞬いた桜は、何気なく手を伸ばすと彼の頬をつねった。
「何すんだ……」
さらに不機嫌そうに目を吊り上げた相澤に桜は混乱しつつも、つねるのを止められない。
「あ、あれ? すみません、なんでか分からないんですけど、"この浮気者"って思ったら勝手に手が動いちゃって」
あはは、と笑って謝っているものの、つねってくる指は離れない。決して強い力ではないけれど、少しは痛みもあり、何よりも"浮気者"と言われたことが相澤は許せなかった。
「誰が浮気者だ」
そう言われた瞬間、手を取られ、彼女の口は彼の口で塞がれる。驚きのあまり呆然としている桜に相澤は機嫌が良さそうに意地悪く笑った。
「俺には桜だけだ」
その言葉を聞くと、自分の知っている"相澤消太"は彼だけなのだと実感する。じわじわと胸から広がるあたたかみに頬を赤らめた桜の目は僅かに潤んでいた。
彼の首に腕を回すと、助け出されたときに感じた捕縛武器に触れる。そのまま引き寄せると相澤は抵抗することなく腰を折り、顔を近づけた。二人の唇が重なったとき、コンコンと病室をノックする音が響く。
慌てて離れた二人は、お互い背けた顔を真っ赤に染まらせていた。
-47-その日は朝から不思議な予感がしていた。部屋のカーテンの隙間から差し込んでくる朝日は昨日と変わらない。ただ、普段の寝起きよりもぼんやりとする感じだった。
それでも朝に淹れた緑茶には二本も茶柱が立った。何かいいいことがありそうだと、同棲している相澤に見られないように猫舌の桜にしては急いで飲んだ。しかし、仕事に向かう途中、縁側で碁を楽しんでいた老人たちの盤面に三コウという不吉とされるものを見た。
(運がいいのか、悪いのか……)
よく分からない日だなと、空を見上げる。視界に入ってきたのは街路樹の鮮やかな緑と、昨夜、空を照らしていた白い月が浮かんでいる光景だった。
***
マントコートのフードをすっぽりかぶって、パトロールに出ていた桜は一つ仕事を終えて大きく伸びをする。ふぅっと、息を吐き出した彼女が歩き出すと、すぐに後ろから声をかけられた。
「おい」
間違えもしないその声に振り返ると、そこには相澤、もとい仕事中のプロヒーロー、イレイザーヘッドがそこにいた。
「こんにちは、イレイザーさん」
フードから覗く口元に、にこっと微笑まれた相澤は思わず口を引き結ぶ。そうでないと、つい笑みを返してしまいそうだった。
ヒーローネームで呼んだ彼女の方が、きちんと公私を分けているようだと思わされた彼は微かに感じた情けなさで目を伏せる。
「どうされました?」
フードの奥にある桜の顔が困ったように笑ったのが分かる相澤は、気持ちを整えるように小さく息を吐き出した。
「手が空いてるなら手伝ってくれ」
「何をです?」
小さく首を傾げる仕草を見せた彼女に、彼は簡潔に状況の説明を始めた。
「この周辺に
「分かりました。微力ですが、お手伝いさせていただきます」
短い説明で一般人に危害が及ぶ前に捕まえたいという意図を理解してくれた桜に相澤は上出来だと言わんばかりの笑みを浮かべる。
「頼むぞ、サイキッカー」
プロとしてこうして彼に頼られる日を夢見ていた彼女は目を瞠った後、嬉しそうに頷いて見せた。
「よろしくお願いします。イレイザーヘッド」
ああ、と短い返事をして相澤は背を向ける。彼女にならば背を預けるのも怖くはないと、捕縛武器の中に隠した口元で、彼は一人笑みを引いていた。
***
さて、こういう場合どこから探すのが効率的かと考えた桜は、小さなビルの上に、ふわりと降り立つ。ヒーローから逃げている
人は自分の目よりも高いところに視線が行きにくい。それを知っているからこそのこの場所だった。
見つからないように気を配りながら、異変はないかと見ていた彼女は近くの公園で中学生くらいの数人の子どもが騒いでいるのを見つけた。距離があるため、さすがに声は聞こえてこないが、その様子に嫌な予感がした桜はビルから公園へ向かって飛び降りた。
「どうされたんですか?」
「あ、ヒーロー!」
声をかけた彼女へ中学生たちが振り返る。会釈をした桜に一人の中学生が40cmほどの大きな箱を持って近づいた。
「俺たち、いつもここでゲームしたり集まってるんですけど、気が付いたら荷物がなくなってて、代わりにコレが置いてあって」
最初は仲間の誰かのいたずらだと思ったが、本当に誰も知らない。じゃあ、誰がこんなことをするんだと騒いでいたところに、ヒーローである彼女が声をかけてきたところだった。
「何か高価なものが入っていたんですか?」
「いや、別に……。財布は制服に入れてるし、ゲームもここにあるし、鞄なんか大したモン入ってないんですけど」
なあ、と顔を見合わせた中学生たちが頷き合う。あからさまに怪しいその箱。紙でできているその箱は一見、大きなプレゼントのようにも見える。
逃走中の
「その箱、お預かりしても?」
「え? あ、ああ、別にいいですけど」
差し出された箱を受け取ろうとしたしたとき、彼女の視界に小さな子どもが飛び込んできた。子どもは茂みの中から、中学生たちと同じ箱を見つけて、興味深そうに箱の蓋を開けようとしている。
「待ってください! その箱を開けないで!!」
驚いた子どもが頭の上に掲げていた箱を落とす。ぐらりと落とした箱は、そのまま地面に落ちることはなく、蓋もしっかりと閉じたまま桜のテレキネシスで空中に留まった。
安堵の息を吐くこともなく、流れるような動きで怪しげな箱を自分の方へ引き寄せた彼女の後ろで、中学生の男の子が大きなくしゃみをした。
くしゅんっ!!と唐突な大きなくしゃみをした友人に驚いた中学生は大きく体を跳ね上げた。そしてその弾みで箱の蓋が外れて地面に落ちた。
地面に落ちていく箱の蓋は、まるでスローモーションのようにゆっくりと彼女の目には映った。
咄嗟にサイコキネシスで少年たちを箱から遠ざけたものの、桜自身は間に合わなかった。
「うわぁ!?」
突然、強く体が後ろに引き込まれる。強くもなく弱くもない特殊な引き込まれる感覚にふんばることもできず、彼女は箱の中に吸い込まれるように消えて行った。
***
短いような長いような、おかしな感覚とともに落ちてきた桜はやっと見えた地面にぶつかる直前で個性を使い、ふわりと体を浮かせる。落ちている間、使えなかった個性がなんとか使えたことに、ほっと胸を撫で下ろしたとき、こちらに向けられている視線に気が付いた。
ぽかんと口を開けている少女を桜もフードの下できょとんと見つめる。見つめ合ったまま、ゆっくりと地面だと思っていた床に下り立った桜は、えっと、と考え始めた。
見覚えはないが、和装をモチーフにしたヒーローコスチュームに身を包んでる様子から、彼女もヒーローのようだ。
「えっと、初めまして、ですよね? 私はこの辺りで活動をしています、サイキッカーです」
零は突然現れたサイキッカーと明かす一人の姿に、暫く空いた口が塞がらなかった。
数秒間呆然と見つめた後、ハッと我に返り慌てて何か返そうと必死に言葉を探した。
『は、初めまして…。“朧”といいます。 私もこの辺りで活動してるヒーローなん、ですけど…。』
初めて目の当たりにするヒーローに聞きたい事は山ほどあるのに、上手く言葉が出てこない。
それは零の目に映る少女から、純粋な人の温かさを表す気配を強く感じるからだった。そんな姿に魅入る零の心はつられて和んだのか、妙にぽかぽかと温かい気持ちになる。もはや今、頭の中は真白同然と言ってもいいくらいだ。
何か言いたげに見える零の様子に桜は、にこっと口元に笑みを引いて見せる。
「同じ地区の担当だったんですね。私、メディアとか苦手で露出してないので、ご存じないかもしれません」
『わ、私もなんです。訳あって、メディアとかは控えてて…。同じ、ですね。』
緊張しているのか、それとも違う理由なのか分からないが、零の目はなかなかこちらを向かない。なんとか緊張を解いてあげられないものかと考えた桜は目深にかぶっていたフードを外した。
「じゃあ、ここで知り合えたのは凄い偶然なんですね」
“改めて、よろしくお願いします”と頭を下げると、高く結った黒髪がさらりと流れる。顔を上げてフード越しではなく、直接、零へ微笑みかけた。
零は自分に向けられた優しげな表情に吸い込まれるように、目を合わせた。
自分とは対称的な綺麗な艶のある黒い髪と、ごく自然に浮かべる柔らかい笑み。
それを見た瞬間ふと、以前どこかの女子達がきゃっきゃと話していた、ある内容を思い出した。一目惚れをする瞬間は、ドキッと心臓が飛び跳ねて、身体中に熱をともしているような感覚になる、と。
それと近いしいものを体感した零は頬を真っ赤に染めては首を左右に振り、冷静さを強引に取り戻す。
そしていつもの調子を装って、桜に言葉を返した。
『偶然とはいえ、自分と同じようにここへやってきたのが貴方のような方で良かったです。…でも正直、呑気に喜んでいる場合でもないんですよね…。』
それもそうだと、桜は目の前の彼女から視線を周囲へと向ける。どこもかしこも真っ白な空間に手を伸ばしてみれば、何の変哲もない壁に触れた。
「これ、何か個性を試してみたりしたんですか?」
『えぇ、しました。直接的な攻撃も加えてみましたが…何の効果も得られませんでした。』
零はそう答えて、腰にある刀に手を添えながら視線を下ろした。
自分と同じように左腰にある刀を見ている零を横目に、桜は顎に手を添えて考え始める。彼女がどんな個性を持ち、どんな攻撃を加えたのか分からないが、プロヒーローの攻撃が通じないのであれば、攻撃以外の脱出方法を考えた方がよさそうだ。
「……とりあえず、座りましょうか。それから考えましょう」
その場にそっと腰を降ろした桜は、立ち尽くしている零にも座るようにと勧める。
零は戸惑いながら、桜の向かいに腰を下ろす。
しかし、立っていた時よりいっそう距離が縮まったような気がして、またしても緊張感が走る。零は気を紛らわすように、何か考え込んでいるように窺える桜に恐る恐る訊ねた。
『あの、聞いてもいいですか…? 』
「ええ、もちろん」
一体何を訊かれるのだろうと、桜はこれまで考えていたことを一旦止めて零へと顔を向ける。
零は彼女の目線がこちらに向いたことでさらに体が強張るも、ぐっと紡いだ口を解いた。
『ここに来たきっかけって、どんな感じでした? 実は私、個性で作られた奇妙な箱の蓋を開けて、気付いたらこの状況だったんですけど…。』
「私もこのくらいの紙製の箱に吸い込まれるようにして、ここに来てしまったんです」
手で箱の大きさを表した桜は、ふと気付いてポケットに入れている物に触れる。あまり期待せずに取り出したスマホはやはり圏外だった。
「ダメですね。私はここに来る直前、周囲に人がいたので他のヒーローへ連絡が行くと思うんですが、貴女は?」
『私も、ここにくる直前まで人と一緒にいました。個性に吸い込まれていった瞬間を見た彼なら、恐らく今頃慌てて何か動いて下さっているとは思います…』
零は頭の中でもう一度塚内の事を思い出し、彼の心境を察しては眉を下げた。
彼女の申し訳なさそうな表情に、目を伏せた桜はフッと微かに笑う。
「なら、心配することはないですよ。必ずその人が助けてくれます。だから、そんな顔をしないで。助けてもらったら、次は私たちが返せばいいだけです」
そうでしょう?と零に同意を求めて目を向けた桜は、頭の隅で彼にまで連絡が言ったのだろうかとぼんやりと思った。
零は小さく笑って、“そうですね”と答える。反面、本来“助けを待つ”という思考には至らないものの、桜に言われるとなぜか妙に素直に受け入れられる事。そしてやんわりとした口調と表情で話す桜と、もっといろんな話がしてみたい、という珍しい欲が生まれた自分を不思議に思いながら、自然と声に出した。
『あの…サイキッカーさんがもしよければなんですけど…。その助けが来るまで、時間潰しと言うのも何ですが、少しお話しをしませんか?』
勇気を振り絞って、提案を持ち掛ける。
思わぬ申し出にきょとんとした桜は、もじもじとした様子の零に目を瞬く。不安そうな金の目に、彼女が精一杯の勇気を持って聞いてくれたのだと分かると、微笑ましくなってしまう。
「もちろんです。私も朧さんとお話したいなと思っていたんです」
何から話しましょうかと考え出した桜は、ハッとして零を見た。
「あの、お腹空きませんか?」
そう聞かれた零は、ふとお腹に手を当てて最後に何か食べたのがいつだったかを振り返ってみる。
そういえば、今日は任務につくため夕食を取っている暇はなかった。
言われてようやくその事を思い出すと、何だか本当にお腹が空いた感覚になり、恥ずかしながら正直に返した。
『…空いてます…』
「よかった。私もここに来る前、ちょうど昼時だったのでお腹が空いてきちゃって」
普段から非常食を入れている腰のポーチから、取り出した一つを零へ差し出す。それはいつも桜の想い人である彼が愛飲しているゼリー飲料だった。
零は“ありがとうございます”と丁寧にそれを受け取って、頭の中である人物を連想させた。
今日帰りを待つと言っていた“彼”は、今頃どうしているだろうか。もしかしたら塚内が連絡して現状を知り、この箱の向こうに来ているかもしれない。
何気なく受け取ったゼリー飲料に口を付けながらそう考えると、何だか妙に安心感を覚え、自然と頬が緩んだ。
ふと、向かいに座る桜の顔に目を向ける。彼女もゼリー飲料を見て何かを連想しているのか、苦笑いを浮かべている様子だった。
『…どうかしたんですか?』
不思議に思った零は、彼女にそう訊ねた。
小さく首を傾げている零に、ああ、と桜はこれまで思い起こしていたことを話し出す。
「これをくれた人、その人もプロヒーローなんですけど、今頃怒ってるだろうなって思って」
愛想のない顔を顰めている様子を思い浮かべて、また桜は苦笑いをするが、その目には他人には向けられないものがあった。
そんな桜の柔らかい表情を見て、零はこれを彼女に授けたヒーローは、彼女にとって大切な存在なのだろう、と悟る。
かく言う自分も、このゼリー飲料からどうしよもなく大切な人を連想してしまう。
普段から“ちゃんと食事を取れ”といつも口癖のように叱る彼がもしこの状況を見たら、やっぱり怒るんだろうな…と考えると、彼の顰めっ面が自然と思い浮かび、フッと小さく微笑んだ。
「お好きですか? このゼリー」
ゼリー飲料を見つめている零の眼差しが、これまで見てきたものとは違うことが分かる桜は、彼女の視線を意味を理解していた。このゼリー飲料を通して零が見ているのは、きっと彼女にとって特別な相手なのだろう。無理やり聞きたいわけではないが、その相手がどんな人なのか興味はあった。
『えぇ。…というか正直言うと、これを口にしたのは今が初めてなんです。…でも、私のよく知っている人は、これを主食のように飲む人で。今までは、“こんなんじゃお腹膨れないし、栄養も偏りますよ!”って、どちらかと言うと否定してたんですけど…まさかそんな事を彼に言っていた自分が飲む日が来るなんて、思ってもみなくて。』
頭の中で思い浮かべる人物のせいか、咄嗟に“彼”と呼んでしまう零は、しばらく余韻に浸った後、ハッと我に返る。
『…って、私出会ったばかりのサイキッカーさんに、何て恥ずかしい事を話してるんでしょうね…』
そう小さく零して顔を真っ赤に染めては、恥ずかしさ故に目を背けた。
「好きな人なんですね、朧さんの」
真っ赤に染まり切った彼女が可愛らしくて、桜の目は柔らかに弧を描く。
「これをくれた人も、これをしょっちゅう飲んでて、”便秘になっちゃいますよ”って言ったら、凄く怒った顔したんですよ」
あの時の相澤の顔を思い出した桜は堪らなくなって、肩を震わせて笑い出す。一しきり笑ってから、彼女は目元の涙を拭って零の方へ顔を上げた。
「もしよろしかったら、朧さんの好きな方がどんな方か聞かせてもらってもいいですか?」
零はそう言われて、最初は恥ずかしくて戸惑った。それでも何故か桜には素直に話せそうな気がして、意外にもその質問に返す答えは自然と声に出た。
『愛想がなくて、不器用で…でもそれでいて、誰よりも些細な事に気づいてくれる優しい人、ですかね。普段は面倒くさがりな素振りを見せるのに、何だかんだ面倒みがとても良くて。……あの、良ければサイキッカーさんの好きな方の事も、教えて頂けませんか?』
頭の中で相澤をイメージしていた零は、視線を桜へと戻す。すると、それまで、うんうんと頷いて聞いていた彼女は目を大きく開いて驚いた様子を見せていた。
「え? へっ!?」
唐突に言われたことに全身が動かなくなる。顔中に熱が集まるのを感じた桜は零を見たまま瞬きも出来ずにいる。
「な、なんで、分かりました? その、好きな人がいるって……」
隠していたわけではないが、他人から簡単に見抜かれてしまうほど分かりやすい顔をしていたのかと桜は両頬を手で覆った。
零はそう言われて、いつもの癖で無意識に表情から心を読み取ってしまった事に気づく。サッと顔は青ざめていき、慌てて両手を前に出しては何度も左右に振った。
『ごごご、ごめんなさい!その…さっきサイキッカーさんが話していた時の表情があまりにも愛おしそうな雰囲気をしていたもので、そうかなぁって。…私、昔から人の感情や気配に敏感で。…気を悪くさてれしまいましたか?』
桜と少しだけ近づけたと思った距離感を、まさか自分の無意識な発言で遠ざけてしまったらどうしよう、と零は必死に謝った。
あまりに必死に謝る彼女に違和感を抱いた桜は、静かに零へ近寄る。
「どうして、そんなに申し訳なさそうな顔をするんですか?」
どこか怯えているようにも見える零の両手を取った桜は、見上げてきた彼女の顔を見つめた。
「私が分かりやすかっただけかもしれませんが、朧さんにとって、その観察眼は武器の一つでしょう? 誇れるものじゃないですか」
謝ったら勿体ないですよと、躊躇なく触れてくる桜に零は激しく動揺し、印象的な金色の瞳を揺らす。
この時、“読心”の個性が発動しなかった事に密かにほっとしては、彼女の言動に心打たれた。
何も知らないとはいえ、引け目に感じているこの眼を“誇れるもの”と言ってくれた事。そして当たり前のように触れてくれたその手のひらから伝わった体温は、感じたもの以上に温かだった。
『…ありがとう、ございます。』
少し気を抜けば涙が零れそうな状態を必死に悟られぬよう、零は微かに震えた声でそう返した。
小さな返事は彼女の心境をしっかりと桜に伝える。その気持ちを汲み取って桜は何も気付かないふりをすることにして、僅かに視線を下げる。そして、小さく空気を吸い込んで、彼女の訊いてきたことを考え始めた。
「……私の好きな人は、朧さんの好きな方に似ているように思います」
顔を見られたくなさそうな零の方へ目を向けないようにしながら、桜は片手を放さず、すぐ隣へと座り直す。俯きがちな隣を感じながら、顔を上げた彼女はこれまで見てきた相澤の姿を思い浮かべた。
「誰よりも細かなところに気が付く人です。愛想はないけど、本当は誰よりも優しくて。でも、考えすぎて優しさが不器用なんです。だから、他人にはその優しさが伝わりにくくって」
勿体ないなって思うんですけど、と言葉を切った桜は、くすっと一つ笑う。
「私は彼のその優しさをとても愛おしく思ってます。誰も気付いていないなら、私だけがその優しさを一人占めにできているようにさえ感じられるんです。おかしいでしょう?」
眉を下げて困ったような笑みを零へと向ける。すると彼女はいつの間にか俯いていた顔を上げ、何度も瞬きを繰り返していた。
桜の好きな人の話が自分の中で想う相澤ととても似ている事にも勿論驚いたが、彼女が躊躇なく零した“愛おしい”という言葉は、零にとってあまりにも聞き慣れないもので、また自分が彼を想うこの名前の知らない不思議な気持ちに、妙にしっくりきたような気がしたからだ。
そして数秒間桜を見つめた後、零も小さく笑みを浮かべて左右に首を振った。
『“おかしい”だなんて、全然思いません。むしろ、その考えが少し分かるような気がして、そんな自分に驚いてしまったくらいです。』
この時零は初めて、桜が繋いでくれている手のひらを少しだけ力を込めて優しく握り返した。
弱弱しくも感じられる握り返してきた手に目を軽く見開いた桜は嬉しそうに頬を緩める。
「不思議ですね。初めて会ったのに朧さんはとても話しやすくて、素直に言葉が出てきてしまいます」
零から時折窺える、何かに怯えるような表情や、動揺している様子。それらは零が想い人のことを話す間だけ鳴りを潜めることに気付いていた桜は、軽く目を伏せる。
彼女の心を救う存在がいてくれたことに安堵した。そして、自分も同じように想い人の存在に救われているのだと、髪を結ぶそれにそっと触れた。
(貴方が助けてくれると信じてますから、私は私のままでいられていますよ)
そう心の中で相澤に話しかけた桜は、そっと目を開く。
『私も、不思議な気持ちです。初めてお会いしたはずなのに…サイキッカーさんといると、安心してとても心が落ち着くんです。』
零は、桜と繋いでいる手から伝わってくる体温をを確かめるように、目を閉じた。
つい先程までは一刻も早くここを出たいと思っていたのに、今や傍に居てくれる桜と離れがたいとも思ってしまう。
そんな考えを抱く一方、ふと零の頭の中に一つの不安が浮かび上がり、小さな声で“あの……”と声を漏らした。
『ここって、個性で作られた空間ですよね?よくありがちな話ですけど…例えば、この場から脱出できた時に、この場での記憶が残らない…なんて可能性はあるんでしょうか。』
不安そうな声で訊ねられたことに、桜も”あっ……”と目を見開く。安心すると言ってくれた零にこんな顔をさせたくはない。
どうしたものかと考えていると、彼女の刀に目が留まった。
「確かに、この空間で起きていたことを覚えていられる保証はありません。だから……」
脇に置いていた自分の刀を取った桜は慣れた手つきで鞘から下げ緒を外す。捕縛にも使う為、普通よりもずっと長い紺の下げ緒を零に差し出した。
「持っていてください。私の刀の下げ緒です。この長さで使われている方は、あまりいないので、もし、忘れてしまっても、話しかけるきっかけにはなってくれるはずです」
零の繋いでいた方の手を取り、紺の下げ緒を乗せる。少し体温の低い両手で、下げを持たせた手を包むようにして握らせた。にこっと笑ってから桜は両手を彼女から離す。
零は両手で壊れ物のようにそっと包んだ“それ”を見て、数秒間ポカンと口を開けたまま固まる。
無意識に受け取った下げ緒を見つめる金の瞳には潤いがあり、頬は軽く赤くなっていた。
初めて知り合った日に、その人の大切な物を受け取る…それがどれだけ貴重な事かを、零は身をもって感動していた。
その様子が、泣き出してしまいそうに見えた桜は、ぎょっとして慌てだす。
「お、朧さん? あの、ごめんなさい……! な、泣かないでください」
無理に持っていて欲しいわけではないんです!と慌てふためく桜に、零はハッと我に返って必死で誤解を解いた。
『ちっ、違うんです!ごめんなさい…人から物を貰うという経験があまりなくて…知り合ってまもないサイキッカーさんから、まさかこんな大切な物を頂けるなんて思ってもみなかったから…感動のあまりつい…。』
零は早口でそう話しては、恐る恐る桜の顔を見つめ、消えそうな声でもう一度だけ訊ねた。
『本当にこれ……私が受け取ってもいいんですか…?』
「……もちろんです。朧さんに持っていてほしいんです」
訳あってメディアに出られなかったり、妙に自分に自信がなかったり、物をもらうことにここまでの反応を見せたりする彼女の背景には他人には簡単に話せない理由があるのかも知れない。
こんなただの下げ緒一つが彼女の救いになることはないだろう。しかし、何か些細な助けになればと、もう一度、零の手を両手で取った桜は、穏やかな表情を向ける。
「受け取ってもらえますか?」
桜の声、表情から伝わってくる優しさに、零は目から涙が零れ落ちそうになるのをぐっと下唇を噛んで堪えつつ、それなら…と自分の刀に手をかけ、素早く白の下げ緒を解く。そして同じように、桜に差し出した。
『私の下げ緒、サイキッカーさんと同じで通常より長めなんです。だからこれなら、勝手が変わらず使って頂けると思うんですが……。受け取って頂けますか?』
恐る恐る下げ緒を差し出してきた零の目には強い緊張が見えた。下げ緒の乗った手も強張っているようだ。目を丸くさせていた桜は彼女の気持ちを思うと、自然に笑みが込み上げた。
「ありがとうございます。とっても嬉しいです」
受け取ってすぐに下げ緒を結んだ彼女は零に見えるように鞘を持ち上げる。
「とても綺麗な白ですね。なんだか使うのが勿体ないくらいです」
『気に入って頂けたようで良かったです。サイキッカーさんから頂いた紺の下げ緒も、とても素敵です!』
零は桜から受け取った下げ緒を素早く結んで、彼女と同じように鞘を持ち上げ、きらきらと目を輝かせて見つめながらそう返した。
喜んでくれている零と同じように、桜も嬉しさで頬が緩む。
「これで、何があっても私たちは友人でいられますね」
嬉しさで、ふふっと小さく笑った桜は零からもらったばかりの下げ緒を見た。
『…そうですね。これを見る度に、友人であるサイキッカーさんとの繋がりを感じられると思うと、何だかとても心強いです。』
そう言った零は、桜に“友人”と言われた事があまりにも嬉しくて、はにかんだ笑みを浮かべた。
やっと見られた零のちゃんとした笑みに、桜は目を細めたまま見入っていた。
「やっと笑ってくれましたね」
嬉しいと思う気持ちもあるが、彼女のはにかんだ笑みはとても可愛らしいと桜は強く思う。この笑みが、いつでも自然に出せるようになることを心の中で誰にでもなく祈っていた。
お互いの顔を見ていると、不意に空間がぐにゃりと歪み始めた。驚く間もなく、だんだんと歪みが強くなっていく。
「うわっ!」
『わっ、!』
その場に座っていることすらできないほど床だったところが、大きく波打つように曲がり、二人の間に距離が出来る。
「朧さん!」
伸ばしたところで届かないことは分かっていたがそうせずにはいられず、桜は零に向かって手を伸ばす。
『サイキッカーさん…!』
桜が精一杯伸ばした手を取りたくて、零もできる限り腕を伸ばす。触れていた彼女の体温が一瞬で離れてしまった事に不安が押し寄せた。
しかし、二人の手が触れることはなかった。ぐにゃぐにゃと形が変わっていく空間の中で桜も零も、その気配に気が付いた。そして、お互いが違う世界からここへ迷い込んだことも同時に理解する。
「朧さん! 私、桜っていうんです!!」
せっかく友人になれたのに、名前も知らないだなんてあんまりだと思った桜は零に向かって叫んだ。
『…っ、桜さん! 私は零です!』
自分にこんな大きな声が出せたのかと驚くほど、零も桜に届くように叫んだ。
どんどんと引き離されていった二人の体が背後から何かに引き寄せられる。桜の体に絡まるように巻き付いたのは、彼女の髪を結っている物と同じ。そして、その捕縛武器に染みついた彼の匂いが桜の胸に安心感を広げた。
信じていた彼が助けに来てくれたのだと体に巻き付く捕縛武器に触れた桜は、向かいにいる零の体を力強く抱き寄せようとしている腕に気付く。
その腕を見間違えたりはしない桜が大きく目を見開くと、零も向こうで同じように目を見開いていた。
くすっと笑った桜は口元にかかっていた捕縛武器を強引に下げると、大きく息を吸い込んで零に向かって大きな声をかける。
「零さんっ!! そっちの消太さんのこと、お願いしますね!!」
聞こえたかどうか分からないけれど、相手のことばかりに気にかける優しい彼女であれば向こうの世界の相澤を幸せにしてくれるだろう。そして、向こうの相澤も零のことを支え、幸せになってくれるだろうと、桜は直感的に信じていた。
零は見慣れた捕縛武器に身を包む桜の姿を見つめては、彼女が想っていた相手が相澤だったことに妙に納得して、安堵の笑みを浮かべた。
そして桜に届きもしない小さな声で、彼女に語りかけた。
『桜さん…例え記憶が無くなったとしても、貴方の温かさだけは絶対に忘れません。ありがとう。』
このまま桜を名残惜しく見つめていては、彼女が心配してしまうと思った零は、そっと静かに目を閉じた。
閉じ込められていた空間が目も開けられないほど白く発光するなか、二人は互いに知らないまま笑顔を交わし合っていた。
***
ベッドに寝かされている彼女は、家にいるときと同じように眠っているようにしか見えない。規則正しく上下する胸元を見ていた相澤は、頭を下げるように体を倒して大きくため息をついた。
病室で桜が目を覚ますのを待つだなんて、あの時のようだと組んだ両手にぐっと力を込める。
紙製の箱を使い、人を異空間に閉じ込めてしまう
白い頬に落ちるまつ毛の影が揺れる。ゆっくりと長いまつ毛の下から現れた黒い目はぼんやりとしていた。
「桜……」
聞こえてきた声が最後のきっかけになり、桜は、はっきりと目を覚ます。覗き込むように自分を見ている相澤はいつものしかめ面ではなく、心配で泣き出してしまいそうな顔をしていた。
「酷い顔、してますよ……」
伸ばした彼女の手が彼の頬に触れる。その手を自分の手で包むように触れた相澤の目が感じ入るように閉じられた。
「大丈夫なのか?」
「記憶がぼんやりしちゃってるんですが、体はなんともなさそうです」
そうかと返した彼は、医者も目を覚ませば問題ないと言っていたことを思い出すと、ほっと息を吐き出す。
起き上がろうとする彼女の背に手を回して座らせると、すぅっと息を吸い込む。そして、カッと髪を逆立てながら思い切り睨みつけた。
「このっ、バカ野郎!!」
驚いてビクッと体を縮こませた桜に構わず、相澤は睨み続ける。これまで何度か不機嫌そうに不満を言われたことはあるが、こんなに怒られたのは初めてだった。
「なんで、あの箱を見つけたときに、すぐ俺に連絡しなかった!!」
「あ、あの、そうしようと思ったんですが、事故で蓋が開いてしまって、それで取り込まれてしまって……」
あれ?と、彼女は気づく。箱に取り込まれてしまってからの記憶がどうも曖昧だ。ただ、とても大切なことがあって、これからも大事にしたいと思っていることには違いない。
「……説教されてる途中でよそ見とは、反省してねぇな」
凄むように顎を上げる彼に、彼女はぶんぶんと両手を振って否定した。今は心配をかけてしまったことを許してもらう方が先だ。
「い、いえいえ! してます!! ごめんなさい!」
頭を下げた桜の頬に相澤の無骨で大きな手が触れる。その手に誘導されるように彼女の顔が上がった。
「なんで謝ってるんだ?」
「なんで、って、心配をかけた、から……」
真剣に見つめてくる彼から目を逸らすことができず、桜は動揺した。困惑で揺れている黒い目を見つめながら、相澤はくいっと彼女の顔を引く。
「それだけじゃねぇよ」
迫ってくる彼は片方の膝を彼女のベッドに乗せて、さらに距離を詰めた。広い個室のはずが、目の前の相澤で桜の視界はいっぱいになっていた。
「俺を不安にさせるな」
え?という声が彼女の口から出ることはない。相澤に抱きしめられたことによって、ようやく彼が怒っていた理由を理解した桜は、すっと目を閉じて受け入れた。
「……ごめんなさい」
「どこにも行くな。ずっと、傍にいてくれ」
頷いた彼女からも彼を抱きしめる。しばらくして、体を離すと桜の視界にそれが入った。
丁寧にたたまれたヒーローコスチュームの傍に立てかけられた彼女の刀には、紺の下げ緒はない。美しい白い下げ緒が結ばれていた。それを見ていることに気づいた相澤は、彼女に、なぁ、と助け出したときから気になっていたことを口にする。
「刀につけてるの、あんな色だったか?」
「いえ、頂いたんです。とても大切な友人に」
夢の中の出来事のようで、もうはっきりと思い出すことは難しそうだが、あの下げ緒の白よりも美しい白い髪と金色の目、が記憶に残っている。そしてはっきりとしない、はにかんだ笑顔を思い出すと自然と桜の目は柔らかに細められた。
「……男じゃないよな?」
むすっと機嫌の悪そうな相澤の顔に目を瞬いた桜は、何気なく手を伸ばすと彼の頬をつねった。
「何すんだ……」
さらに不機嫌そうに目を吊り上げた相澤に桜は混乱しつつも、つねるのを止められない。
「あ、あれ? すみません、なんでか分からないんですけど、"この浮気者"って思ったら勝手に手が動いちゃって」
あはは、と笑って謝っているものの、つねってくる指は離れない。決して強い力ではないけれど、少しは痛みもあり、何よりも"浮気者"と言われたことが相澤は許せなかった。
「誰が浮気者だ」
そう言われた瞬間、手を取られ、彼女の口は彼の口で塞がれる。驚きのあまり呆然としている桜に相澤は機嫌が良さそうに意地悪く笑った。
「俺には桜だけだ」
その言葉を聞くと、自分の知っている"相澤消太"は彼だけなのだと実感する。じわじわと胸から広がるあたたかみに頬を赤らめた桜の目は僅かに潤んでいた。
彼の首に腕を回すと、助け出されたときに感じた捕縛武器に触れる。そのまま引き寄せると相澤は抵抗することなく腰を折り、顔を近づけた。二人の唇が重なったとき、コンコンと病室をノックする音が響く。
慌てて離れた二人は、お互い背けた顔を真っ赤に染まらせていた。
top