君と帰る場所

 よく晴れた空から差す陽射しは強く、じりじりと照らすものすべてを焼くようだ。なるべく日の当たらないところを歩いてきた相澤だが、額には汗を掻いていた。乱暴に汗を手の甲で拭うと、駅前の時計へちらりと目をやる。

 まだ待ち合わせの時間には早い。何もしなくても、じんわりと汗がにじんでくる暑さは、あの日のことを彼に思い出させた。

(初めて出かけた日もこんなんだったな)

防人と初めて出かけた日も、こうして駅前の人の通りを何気なく見ていた。

「可愛い子でもいたんですか?」

 背後からかけられた声に、びくりと強張った相澤は慌てて声のした方へと振り返る。そこには、あの日のように水色のスカートに白いシャツを着た彼女が、おかしそうにくすくすと笑っていた。

「そんなに驚くことないじゃないですか」

「……先に来てんなら声かけろ」

 分かっちゃいました?と小首を傾げた防人の髪が揺れる。初めて出かけた日にはおさげにされていた黒髪は、鎖骨にかかる程度にまで短くなっていた。

 この髪が中学生だった彼女がもう一度自分に会うための願掛けとして伸ばされていたと最近知った彼は、短くなった髪を見るたびに少しだけ胸が痛んだ。

「消太さん?」

不思議そうに目を瞬いている防人の髪に一度視線をやって、少し考えてから相澤は口を開く。

「……髪、また伸ばすのか?」

「え?」

気まずそうにしている彼が何を気にしてるのか分かり、防人はハーフアップにした自分の髪に触れて、ふ、と目を細める。

「そうですね。消太さんがいいと思ってくれるほうにしたいな……」

ふふ、と小さく笑った彼女の頬に長いまつ毛の影が下りる。伏せていた目が上がり、優しく微笑まれた相澤は、柔らかな好意を感じて胸を高鳴らせていた。

「もう願掛けをしなくても、傍にいられますから」

 見つめてくる黒い目が、そうでしょう?と訊いてくる。スッと目を逸らした彼は、何も答えずに彼女の手を握って歩き出した。

「……離れたいって願掛けしても、もう無駄だけどな」

大きく無骨な手が、少し体温の低い白い手をしっかりと包むように握る。

あの日、言いたいことがあって手を掴んできた彼の手は、緊張で少し汗ばんでいたことを思い出した防人の目が懐かしさと嬉しさで細められた。

「知ってますか? 手のつなぎ方、他にもあるんですよ」

指を絡めるように繋ぎなおしてきた彼女は、驚いて目を見開いている彼に、またくすっと笑う。

「恋人繋ぎって呼ばれるそうです」

「……知ってる」

 学生の頃に付き合っていたときはしたことがなかった繋ぎ方は思いの外、手と手がしっかりと触れ合う。面映ゆさに目元を微かに赤らめる相澤の横顔を見上げた防人も似たように頬を染めた。

「初めてしたんですけど、結構恥ずかしいですね」

離れて行こうとする彼女の手を引き留めるように彼の手に力が篭る。恥ずかしいと思っているのに繋いでくれているのは不器用な優しさからなのか、それとも自分と同じように離したくないと思ってくれたからなのかと防人は嬉しそうに俯くと、そっと体を相澤の腕の方へ寄せた。

 びくっと体を震わせた相澤は、また彼女にからかわれるように笑われる気がして、ちらりと横目を向ける。しかし、彼が見たのは、赤い顔で俯ている防人だった。軽く目を見開いたのは、それが意外だったからなのか、ただ見惚れていただけなのか。それとも両方なのかは相澤にも分からない。

 ただ、分かっているのは、またこうして手を取って歩けることが幸せだということだった。

 くすっと漏れた声。同時に聞こえてきたお互いの声に相澤も防人も胸の奥からあたたかな気持ちが溢れてくるのを感じていた。

***

 通されたカフェの中。そこで、相澤は数年前と同じように瞬きもせず、眉間に深いしわを刻んでいる。

「消太さん、相変わらずですね」

眉間、凄いことになってますよと、苦笑いをする彼女の周りにいるのはゴロゴロと喉を鳴らすキジトラの猫。防人の体に頭を押し付けているその子は、再会の喜びを全身で表しているようだ。

 休みを合わせた二人がやってきたのは、初めてのデートで来た防人の通っていた猫カフェ。再び付き合いだした二人が最初に出かける場所にここを選んだのは、どちらかが言い出したことではなかった。行きたい場所となったとき、意見がぴったりと合った。

「久しぶりですね。私も会えて嬉しいですよ」

 言葉なんて通じるはずはないのに、聞き取りにくい微かな鳴き声で防人に応えた猫が可愛らしい。微笑ましく猫と彼女を見ていた相澤の傍へ、そっとその人は近寄ってきた。

「君たちがまたこうして来てくれて本当に嬉しいよ」

 注文したドリンクを運んできたオーナーである中年男性は、以前と変わらず紳士的で穏やかな人柄を思わせる笑みを見せている。
 ふと、相澤の視線に気づいた男性は、ああ、と何かを察した。

「相澤くんによく懐いてたあの子も、あの頃、君たちがよく会いに来てくれていた子たちもみんな元気だよ」

「元気なら、よかったです」

運ばれてきた冷たいドリンクに目をやった彼は、猫に囲まれている彼女の方へと顔を上げる。何匹もの猫からすり寄られている防人は、何気なく後ろへと振り返った。

 じっと様子を窺うようにチラチラと様子を見ている黒い猫。他の猫たちよりも幼いのか、とても小柄な猫は迷うように立ち上がっては、高いところへ行ったり来たりを繰り返していた。

 黒猫と目が合いそうになった彼女は目を閉じて、そのまま逸らす。なるべく黒い猫を見ないようにしている防人を見ていた相澤が代わるように黒い猫へ何気なく視線を向けた。

興味は彼女にあるのか、黒猫は彼の視線には気づかない。本当は行きたくて仕方がないのに、うじうじと悩んで、しかし諦めることもできなくて防人を見続けている黒猫が少し前の自分のように思えて彼は小さくため息をこぼして目を逸らした。

「二人は元気にしていたかい?」

「はい。無事に二人ともヒーローになりました」

 ヒーローに!と、男性はわっと喜んだ。にっこりと人好きのする笑顔を向けられた相澤は飲んでいたドリンクから思わず口を離した。

「凄いねぇ。大変だっただろう?」

「いえ。プロになったところからがスタートですから」

「そうか、ここからがさらに大変になるんだね」

何か思うところがあるのか少しだけ顔を伏せた男性の口元の笑みが先ほどのものと違って寂し気に見える。その表情に何かを感じて相澤が見ていると、男性は視線に気づいて困ったように眉を下げた。

「もう君たちが、すれ違うことがなければいいと思ってね」

猫たちと遊んでいる防人をちらっと見てから男性は、そっと相澤へ近寄る。

「……見ていられないくらい、痛々しかったんだよ」

 男性が何を言っているのか理解した彼の目が見開いた。そして、相澤も防人の横顔を見ると、ぽつりと口を動かす。

「もうそんなことはさせません」

面映ゆそうに視線を逃がす相澤に、オーナーの男性は数年前、ここで防人と付き合っていることを打ち明けた赤面しきっている少年の姿を重ねた。眩しいものを見るように目を眇めた男性に気づかず、相澤はもう一つ言葉を続ける。

「……桜が成人したら籍も入れる予定です」

「え?」

 恥ずかしそうに目を背けている彼から、猫とじゃれている彼女へと男性の視線が動く。

「どうしました?」

男性の視線に首を傾げた防人は、近寄ってきたシャムネコを抱き上げた。甘えてくるシャムネコの喉を撫でる彼女は本当に何も聞いていなかったようだ。

「今、相澤くんが結婚するって……」

じんわりと頬を染めてから防人は恥ずかしそうに眉を下げて笑う。驚きで目を瞠った男性は、彼女の笑みから溢れている幸せを感じ取り、目元のしわを深めた。

「そうか……。それは本当によかった……」

 顔を逸らした男性は熱く込み上げてくる目頭を押さえる。その様子に、今度は相澤と防人が目を見開いた。顔を見合わせている二人に、男性はごめんごめんと手を振る。

「本当に嬉しくってね。いや、本当によかった」

まだ目頭を押さえている男性が、どれだけ心配してくれていたのかが分かった防人は、家族のように親切にしてくれることに嬉しさを感じていた。そして、ふと、父が生きていたら同じような反応をしてくれたのだろうかと思った。

(きっと、拗ねたんだろうな……)

 嫁にやりたくないと拗ねる父と、それを宥める母の様子を思い浮かべた彼女は、微笑みに僅かな寂しさを混ぜる。

「何かお祝いをしないと、ちょっと待ってて……!」

普段のものよりも一段と明るい笑みを浮かべた男性は、急いでバックヤードへと戻っていった。その様子を見送った相澤の視線が防人へ向く。

「どうしました?」

 にこっと笑みを返してきた彼女はいつも通りだ。自分が見たものが気のせいだと思ってしまうほど、いつも通りな桜に、"なんでもない"と応えた相澤は目を閉じた。

 にゃあ、と聞こえてきた微かな声。気づけば、例の黒猫が隣に座っていた。行きたくても行けなくて困っていた猫は、相澤の隣から繰り返し鳴いて、まるで"ここなら来てくれるでしょ?"と言っているようだ。

「そこから呼ばれると行かないわけにいかなくなっちゃいますね」

ふふっとおかしそうに笑った彼女は、彼の隣に座る。黒い猫は、やっと自分のところに来てくれたとばかりに桜の頬に顔を擦り寄せた。そのとき、黒猫がオスであることに気づいた相澤の眉間には薄っすらとしわが刻まれていた。

***

 猫カフェのオーナーにお祝いと出されたケーキを食べ終えた二人は、近くの公園を歩いた。初めてのデートをなぞるように歩く相澤と防人の手は、あのときとは違い、恋人繋ぎで握られている。

「懐かしいですね」

ああ、と短く答えた彼は、彼女の少し冷たい手を心地よく感じながら、ここで彼女へ手を差し出した時のことを思い出していた。

 もしかしたら、暑いから手は繋ぎたくないと言われてしまうかもしれないと思ったのは、手を差し出した後だった。手を繋ぎたい気持ちが逸って考えが足りなかったと後悔し始めていた相澤の手をにっこりと笑って防人は取った。その瞬間、心から安心したのと同時に、また彼女と手を繋げることが嬉しかった。あの頃の初々しさは薄れたものの、手を繋げる嬉しさは変わっていない。

 最近食べた美味しいものの話、事務所の近くの定食屋へ山田に連れて行ってもらい、そこで夫婦喧嘩を仲裁した話。彼女ばかりが話しているが、面白い話を自分ができるわけではないと思っている彼は、相槌ばかりを打っていた。楽しそうに話す防人に相澤の表情も柔らかい。

 そして、話題は先ほどの猫カフェになり、相澤はずっと気になっていたことを口にする。

「お前、何考えてた?」

「え?」

目を瞬いている彼女に彼はあのときの寂しそうな表情を思い出す。言いたくないのであれば無理に聞き出したくはないが、何も気づかなかったことにはしたくなかった。

「さっきの猫カフェで、ケーキ出してもらう前」

「か、顔に出てました?」

慌てて顔を押さえた防人がいつもの誤魔化すような笑みを見せる。眉間にしわを刻んだ相澤は一見すると不機嫌だ。しかし、それが気遣いから来ているのだと彼女は知っていた。

「別に無理に聞き出したいわけじゃない」

 そう言って顔を逸らす彼の優しさに、頬を染めた彼女は"大したことじゃないんです"と前置きした。

「その、実は、父が生きていたらどんな反応をしたのかなって考えてしまって」

あの猫カフェのオーナーの反応に自分の父親だったらと考えていたのかと納得した彼も、彼女の父親が生きていたらと考える。

「俺はお前の親父さんを知らない。だけど、一発殴られる覚悟はして挨拶に行ったと思う」

遠くを見ている相澤が真剣に考えてくれていることが嬉しくて防人はくすっと笑って目を伏せた。

「殴ったりはしないですよ。多分拗ねるんだと思います。それをきっと母が宥めるんだろうなって」

それでと彼女は一度言葉を切ると、猫カフェで彼が見たほのかに寂しそうな表情になる。

「私がどれだけ消太さんを好きなのかを話したら、最後は納得してくれる……そんな気がするんです」

 風に吹かれて髪を押さえている彼女の横顔に、彼は足を止めた。無言で見つめてくる相澤に防人は小首を傾げる。

「消太さん?」

惜しいと思ってしまった。この手を離すことが、別々の家に帰ることが、惜しくて仕方がない。

「本当に結婚する気、だよな?」

「え、ええ。消太さんが心変わりしない限りは……」

どこか自信がないように聞こえるのは、以前、自分が別れを切り出したせいだろうかと、申し訳なさそうに顔を顰めた彼は、ふぅっと息を吐き出して真っ直ぐに彼女を見た。

「……同じ家に帰りたい」

ぐっと強く手を握られた防人は気づかぬうちに下げていた顔を上げた。照れていながらも相澤は目を逸らさず、真剣に彼女を見つめる。断られるんじゃないかと、どこか不安気な色を目の奥に隠している彼に、防人は淡く染めた頬を緩める。

「私も……、消太さんと同じ場所に帰りたいです」

 微笑む彼女にドキドキとしてるのを気づかれたくない彼は、少し強引に手を引いた。

「しょ、消太さん? どうしたんです?」

「部屋、探す。早い方がいいだろ」

早足で歩くせいで髪に隠れていた相澤の赤く染まり切った耳が見える。一度、見開いた防人の目が、柔らかに細められると、ふふっと小さな笑い声が漏れた。

「……何、笑ってんだ」

「いえ、何でもないです。消太さんのこと、好きだなって思ってただけです」

 何も答えず、手を引くように歩く彼の足が少し速まる。俯いてる様子が見えなくても、彼女にはこれが照れ隠しだと分かっていた。

「可愛いなぁ」

ぽつりと聞こえてきた防人の声に、唇をぎゅっと引き結ぶ。心の中で勘弁しろと思いながらも、彼は絶対に彼女の手を離さなかった。

 その足で二人は部屋探しへと向かった。その日のうちに選んだ候補の中の一件に相澤と防人が一緒に住みだしたのは、それほど遠い日のことではなかった。

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