生涯、あなたを愛します

 ジョッキグラス同士がぶつかる高い音や、ワイワイと騒ぐ声の合間を店員の元気のいい声が抜けていく。ぐびぐびと、ビールを喉に流していく彼のいい飲みっぷりを見ながら、向かいに座る男は頬杖をついて枝豆をつついていた。

「んで? なに話したいんだ?」

 成人してから何度誘っても飲みに行くことなんかない相澤から、"話がある。一杯おごる"というメッセージを受け取った山田は怪訝そうな顔をする。

「桜とやり直せることになった」

「それ半年前に聞いた」

顔色は一切に変わっていないというのに、ハイペースで飲み続けた相澤は既に酔っている。こんなに飲むだなんて、よっぽど言いにくいことがあるのかと思っていれば、ぽつぽつと繰り返すのは、防人と元鞘になったということだけ。それだけ嬉しかったのかと思えば、難しそうな顔をしている相澤を見る限りそうではなさそうだ。

「ほら、さっさと言えよ。こういう無駄な時間、嫌いなんだろォ?」

 そういう山田もそこそこに酔っていて、顔が赤らみ始めている。眠そうな目でその様子を見た相澤は、ようやく口を開いた。

「……結婚する」

「誰がァ?」

ポンポンとテンポよく枝豆を口に入れた山田は、もう一つ枝豆のサヤを手に取る。先ほど頼んだ焼き鳥がそろそろ来ないものだろうかと、ぼんやり思っていたところだった。

「俺と、桜が」

口に枝豆を運ぼうとしていた手が止まる。瞬きも忘れた山田の目に映ったのは、面映ゆさを誤魔化すようにビールを喉に流し込んでいる相澤の姿だった。

「……ワリィ、聞き間違いかも。もっかい言ってくれ」

「桜と結婚する」

ぽとりと山田の手から枝豆が落ちる。そのまま動かないでいる山田に相澤がかけた声は、大声にかき消された。

「マジか!!! Yeeeaaah!!!」

「よせ。店に迷惑だろ」

 喜びのあまり立ち上がった山田を目を吊り上げて注意する相澤だが、彼が見ているのは観葉植物だ。

「相澤、俺コッチ」

手のひらを、ひらひらと振りながら座り直した彼は、今も観葉植物に目を向けたままの相澤に、ニッと笑った。

「よかったな。本当に」

「……ああ。お前にも大分迷惑かけた」

視線をジョッキグラスに落としてから、相澤は半分ほど残っていた残りをあおった。

「まァ、気にスンナ。んで、いつ籍入れんだ?」

「桜が二十歳になったら入れるつもりだ。もう一緒に住んでる」

枝豆を取った相澤は緩慢な動きでそれを口に運ぶ。動きが遅いのは酔っているからというよりも照れくささを誤魔化しているからに思えてならない。

「やっとだなァ……」

 酒で火照った顔をテーブルにつけた山田は、これまでの二人のすれ違いを思い出して感慨深く目を半分伏せた。そしてこの会話も半年前に、そっくりそのまましたことを思い出して、ぱっちりと目を開ける。

(……まあ、めでたい話は何度してもいいよな)

自分も思っているより酔っ払っているようだと、ふぅっとため息をこぼすと目を閉じながら小さな笑みを浮かべた。

「式とかいろいろ相談してる時が一番楽しいって言うけどよ、どの辺DOなんだよ?」

 何気なく訊かれたことに相澤の眉間にしわが寄る。睨んでいるようにも見えるその表情は、不快さからそうなったのではなく、困り果ててそうなっていた。

「……分からない」

「ハァ?」

目を逸らした相澤の雰囲気は悲しさに満ちていて、どうしてか泣き出しそうにさえ思わせる。

「……そういう話が出てこない」

「お前がしないからだろ。そんなモン」

馬鹿馬鹿しいとテーブルに運ばれてきたばかりの焼き鳥をかじる。思った味ではないことに、ん?と口を離した山田は食べているものを確認する。塩だと思っていたものはタレだった。

「聞いた」

「お前から?」

こく、と小さく頷いた相澤は新しく届いたビールの泡へ目を落とす。最近覚えたアルコールの味は好きでも嫌いでもなかった。

「結婚式ってどういうのがいいんだって聞いたら、"私も参加したことがないので分かりません"って」

「誰かの結婚式に呼ばれたと思ったのか? なら、俺たちのだってはっきり言やいーだろ」

食べ終わった焼き鳥の串をかじりながら、山田は相澤に何が悩むことがあるのかとばかりの目を向ける。

「……俺は、女にとっての結婚ってのは、人生の中でも重要なイベントなんじゃないかと思ってた。でも、桜にとってはそうじゃないらしい」

ジョッキを握った彼は、躊躇うことなく半分ほど一気に飲み込んだ。

「別に俺は式にこだわりもないし、どうでもいい。ただ、桜に、あのときやっとけばよかったって後悔させたくねぇ……。なのにあいつ、全然そういうことに興味なさそうで、なんて聞けばいいか分からなくなってる」

酒が入っているせいか、普段の彼からは考えられないほど、よく口が動いている。こんなにもうじうじ悩むくらいなら、本人にそれを全部話しちまえ!と素面の山田なら言ったのだろうが、今日はこちらもただの酔っ払いだった。

「よォし! 俺に任せとけ! 防人のやつが何考えてんのか訊いてやる!」

「山田?」

「お前のことこんなに悩ませといて、なんも知らねぇままでいさせられるか!」

驚いている相澤を放って山田はスマホを取り出すと、迷わず防人へと電話をかけた。長めの呼び出し音のあと、やっと相手の声が受話器の向こうから聞こえてくる。

『もしもし?』

「HEEEEEY!! 防人、お前、何考えてやがんだァァァァア!?」

 うわっ!と声量に驚いた声が、向かいに座っている相澤の耳にも届く。つい、彼女が心配になって"オイ"と山田に声をかけたものの、勢いは止まらない。

「お前、相澤と結婚するつもりちゃんとあんだろーなァ!?」

『な、なにをいきなり言ってるんですか? ちょっと落ち着いてください』

声を潜めている彼女に不満そうに眉をぴくりと動かした彼は、変わらず声を張る。

「これのどこが落ち着いてられんだ! 俺の誘い断り続けた相澤が悩んで飲みに誘ってくるくらいなんだぞ!!」

『あ、あの、終わったらかけ直しますから……』

「バッカ野郎! ここで今すぐ思ってること言え! Say right now!」

『今すぐ言えって、そんなこと言われても、今、張り込み中ですって。ご存知でしょう?』

張り込みィ?と山田が声を出したことで、相澤は彼からスマホを取り上げた。

「桜、仕事中に悪かった」

『消太さん?』

 聞こえてきたのは機械を通した彼女の声だというのに、酒でも赤くならなかった相澤の顔が一気に赤く染まる。こんなにも嬉しく感じてしまうのは酔っているせいなのだろうかと相澤は俯いた。

『私のことで悩ませてしまって、ごめんなさい。帰ったらちゃんと話を聞きますから……』

だから、と桜は小さく息を吸い込んだ。

『おうちでいい子にして待っててくださいね』

「ガキ扱いすんな」

くすくすと笑っている声だけで、彼女がどんな顔をしているのか相澤には手に取るように分かった。そして、きっと自分もどんな顔をしているのか桜に見抜かれているような気がした。

『声が聞けたお陰で今以上に頑張れそうです』

「無理すんなよ」

『はい。消太さんも気をつけて帰ってくださいね』

そでじゃあ、と通話は終わり、相澤は山田へスマホを突き出した。

「ん」

「ん、じゃねェ。俺コッチ」

 観葉植物に向かって突き出している相澤の手から山田は自分のスマホを取り返す。酔って自分と観葉植物の見分けがつかないくせに、どうして防人のことは分かるんだとため息を漏らした。

「なァに、嬉しそうな顔してんだよ」

からかい半分で口にした言葉だったというのに、相澤は普段よりも柔らかい雰囲気でまたビールに口を付けた。

***

 急いで帰宅した防人は目の前の光景に驚いたあまり、動けずにいた。パチパチと目を瞬く彼女が見ているのは、リビングで重なるように倒れている山田と相澤。二人はぐうぐうと眠っている。

「……桜」

寝言で彼に名前を呼ばれた彼女は、ハッとして、二人に近づくと体を揺すった。

「消太さん、山田先輩、起きてください」

強く揺すっても、二人はなかなか目を覚まさない。仕方ないと大きくため息を吐いた防人は、来客用の布団を二組、寝室から持ち出した。

「よいしょっと」

個性で酔いつぶれている男二人を軽々と持ち上げると、布団も個性で敷いていく。その様子は魔法使いさながらだ。

そっと二人を布団の中に寝かせると、仕事の疲れを抜く為に彼女は風呂場へと向かった。

***

 ふと、気が付くと水の流れる音が聞こえてきた。次に感じたのは、最近よく感じるいい匂いだった。トントンと一定の間隔でしている小気味良いリズムに相澤の目が覚める。

「あ、おはようございます」

にこっと笑った彼女は見慣れたエプロン姿で、キッチンに立っていた。

「桜? お前、いつ帰って……?」

ハッとした相澤は部屋の時計を勢いよく見上げた。時刻は既に昼を回っている。

「悪い、全然気付かなかった」

「いいんですよ。たまには羽目を外してください」

くすっと笑った防人はトレーにおかずを乗せながら相澤に尋ねる。

「そろそろご飯にしようと思うんですが、山田先輩は起きられそうですか?」

「……叩き起こすから待ってろ」

 起きろと山田を体を相澤が揺する。しかし、ガーガーと大きないびきをかいている彼は一度、口をもごもごと動かしただけで起きない。

「オイ、山田。起きろ」

さらに強く体を揺すると、山田はやっと目を覚ました。寝ぼけ眼で周りを見た彼は大きくあくびをする。

「んあ? もう朝か?」

「もうお昼ですよ。ご飯にしますから、手を洗ってきてくださいね」

子どもに言うようなセリフだったが、彼女が言うと嫌味には聞こえない。"オーケー、オーケー"とあくびをしながら返事をした山田の後ろを相澤がついて行く。二人が使っていた布団を個性で端へ寄せた桜は用意した食事をローテーブルへと並べ始めた。


 洗面所から戻って来た山田はローテーブルに並んだ料理を目にして、さらにはっきりと目が覚めたのを感じた。

「お口に合うか分かりませんが、どうぞ召し上がってください」

「おお。……なんていうかスゲーな」

山田と相澤に用意されていたのは、しじみの味噌汁に、オクラと長芋の納豆和え、里芋の煮物にイカと豆腐の甘煮など。一人暮らしをしている彼にとって、こんなに体に気を遣った食事を見るのは久しいことだった。

「すみません。全然、買い物に行けてなくて……、やっぱり、おかず少ないですよね」

「これだけ出してやれば十分だろ」

申し訳なさそうな防人に相澤が答えると、山田もそれに続いた。

「料理好きだって知ってたけどよ、仕事明けにこんなに作ってもらっちまって、ホント、わりぃな」

「いえ、とんでもないです。温かいうちに召し上がってください。ご飯と菜っ葉のお粥を用意していますが、どうされますか?」

どこまでも用意がいいなと思う山田の横から、相澤が空の茶碗を差し出す。

「お粥くれ」

「はい」

茶碗を受け取った彼女は、ローテーブルの横に置いていた土鍋から菜っ葉のお粥を盛る。どうぞと優しい笑みを添えて渡された茶碗を相澤がなんでもないように受け取っているように見えるが、実際の彼はいつだって防人の手料理が食べられる嬉しさが顔に出ないように必死だった。特に、山田がいる今はちょっとしたことでも絶対に心境を悟られたくないと相澤は強く思っている。

「山田先輩はどうされます?」

「俺も最初はそれもらうわ」

"はい"と茶碗を受け取った彼女は相澤にしたものと同じようにお粥を盛り、山田へと返す。早速受け取ったお粥を口にした彼は、その優しい味付けとあたたかさに胸がぽかぽかとしてくるのを感じた。

「あー……いいよな、こういうの」

「菜っ葉のお粥、お好きなんですか?」

 小首を傾げた防人に山田はチッチッと指を振った。

「ちげぇって。起きたら可愛い彼女がメシ用意しててくれるって最高だろ。しかも手料理」

「桜はお前の彼女じゃない。俺のだ」

"お前ホント余裕ねーな"と言う山田を相澤は味噌汁をすすりながら睨みつける。本来は二人きりの休日の昼になるはずだった。そこに、昨夜、酔いつぶれて帰れなくなった彼を仕方なくここへ運んできただけで、こうして防人の手料理を食べさせるつもりなんて相澤の予定にはなかった。

「ったく、寝起きっから惚気とか勘弁してくれよな」

何を言ってるのかと、山田の視線を目で追いかければ、俯いている彼女の姿を見つける。真っ赤になっている防人にじわじわと相澤も照れが移ってきて、誤魔化すように味噌汁を飲み込んだ。

 口にする料理の一つ一つが飲み潰れた自分たちを気遣ったものだと分かる。シジミがあるということは、元々、彼が彼女に呑みに行くことを伝えていて、翌日のことを考えた彼女が事前に用意していたんだろう。優しい味付けは防人の相澤への気持ちを表しているように思えた山田は、小さな笑みを口元に浮かべながら僅かに肩をすくめて味噌汁を啜った。

***

 食事を終えてしばらくすると、山田は自分の家へと帰っていった。

「もっとゆっくりしていってもらえればよかったですね」

夕飯の下拵えを終えて、流しで手を洗っていた桜は、唐突に後ろから抱きしめられる。

「……俺と二人は嫌なのか?」

「消太さん?」

どうしたのかと、抱きしめてきた彼の腕に彼女の手が添えられる。自分が防人に気にかけられているのを感じながら、相澤は彼女の首筋に顔を埋めた。

「お前と付き合ってるのは俺だろ……」

 理由がなんであるのか分からない。しかし、彼が何かを不安に感じていることだけは分かった防人は頷いた。

「ええ。私と結婚してくれるのも消太さんでしょう?」

軽く目を閉じて彼女は彼に背中を預けるように寄りかかる。びくともしなかった相澤は何も言わず、まだ防人の首筋に顔を埋めたまま動かない。様子がおかしいと彼女が見上げようとしたとき、彼はやっと口を開いた。

「桜は本当に俺と結婚するつもりあるのか?」

「もちろんです。ちゃんと確かめたでしょう?」

 確かに、よりを戻したあの夜に防人が自分を選んでくれたことを何度も確かめた。それなのに、今の相澤の胸は不安ばかりが占めている。もう不安の原因は分かっているのだから、それを口にしなければ彼女には伝わらない。

 話すタイミングを探していたことに気づいて、ずっと待っていてくれた防人に相澤は覚悟を決めて重い息を吐き出した。

「……結婚式、興味ないのか?」

「え?」

考えるように視線を上げた彼女は、正直に自分の気持ちを打ち明けることにした。

「興味のあるないで訊かれると、答えられません。全然想像ができませんし、なんだかその、結婚だってまだ夢みたいだなって思っているところもあって……」

「夢?」

しっかりと頷いた防人の手に腕を解くように促されて、相澤は彼女を離した。振り返った防人は彼の胸に頭を寄せる。

「……中学生の頃に好きになった人を追いかけて高校に入って、その人に好きになってもらえたときだって信じられないくらい嬉しかったんです。その人が今度は私を生涯の相手にしようとしてくれているなんて、こんなの夢だって言われた方が納得できるくらい幸せで」

腕を回した彼女の体を引き寄せる。黒く艶やかな防人の髪に相澤の頬が寄せられた。

「俺は、こんなふうに誰かに想ったり、結婚もしないで生きていくんだって子どもの頃から思ってた」

強く目を閉じれば、彼女の匂いがさらに強く感じられる。この腕の中の存在が、自分がこんなにも誰かを深く想えることも、ここまで嫉妬深いことまでも教えてくれた。

「……だけど、桜、お前だけは何があっても譲れない」

気持ちを上手く言葉にできない相澤は強く防人を抱きしめる。痛いほどの力で抱きしめてくる彼の気持ちを察した彼女は何も言わず、そっと抱きしめ返す。

「消太さん」

「ん?」

 ただ何となく呼んだだけの防人に返事をした相澤の声は穏やかだった。それが嬉しくて彼女は小さく笑う。

「なんだよ?」

「ううん、嬉しくって」

一体何が嬉しいんだと思いつつ、彼は仕方がなさそうにため息をこぼした。

「……なあ、桜はどうしたいんだ?」

「うーん……」

 体を離した彼女は顎に手を添えて考え込んでいる。緩めた腕を決して離さないでいる相澤は、考えている防人を見ながら大人しく答えを待っていた。

「あの、消太さんはどうしたいですか?」

「俺が訊いてるんだ。質問で返すな」

「意見くらい教えてください。先に聞いておかないと、消太さん、優しいから私に合わせちゃいそうですから」

それの何が悪いと思いながらも見透かされていることに、ぐうの音も出ない。ムスッと下唇を突き出した相澤の顔を防人の手が包むように撫でた。

「ほら、いい子ですから教えてください」

「お前はなんで一々俺をガキ扱いするんだ」

「分かりませんか?」

首を傾げた拍子に彼女の黒髪が揺れる。家事をするときは必ず一つに括られている髪は、もう一度付き合い始めた頃よりも長くなっていた。

「大好きだから」

くすっと柔らかに微笑んだ防人に、相澤の胸は大きく跳ねる。

「だから、ついつい、からかっちゃうんです。嫌ですか?」

そんなふうに言われてしまったら、嫌だなんて言えるわけがない彼は不機嫌そうな顔で視線を逸らした。

「お前はズルい……」

ぽつりと呟いた相澤はまた防人を抱きしめる。照れている顔が彼女に見えないように抱きしめる彼はしかめっ面をしながらも赤くなっていた。

「それは消太さんでしょう? 私ばっかり好きにさせて、本当にズルいなぁ」

抱きしめられている彼女の嬉しそうな笑い声に、腕を緩めた彼はそのまま唇を奪う。

「なら、今から証明してもいいぞ」

意地悪くニヤリとしている相澤に、思わず防人の顔に熱が集まる。そんな彼女の様子を面白そうに見た彼は、自分の口を彼女の耳に寄せた。

「どうする?」

ぞくりとする声に目を固く閉じた防人は、こうして自分の弱いところでからわれて悔しくなりながらも、無意識に相澤へしがみついていた。
 くつくつと喉の奥で笑っている声に、すっと顔を上げた彼女は彼の顔に手を添える。目を丸くさせている相澤は至近距離で見る防人の整った顔に瞬きもできず、さらに目を瞠った。
するり、と優しく撫でてきた手。そのまま距離を詰めた彼女は、そっと彼の唇に自分の唇を重ねる。高鳴っていく鼓動を感じている相澤から体を離した防人は、ふっと微笑んだ。

「明るいうちから何言ってるんですか。エッチ」

"さ、録りためてた番組見よっと"とリビングへ歩いて行く彼女の後ろ姿を見送った相澤はその場に座り込むと、両手で真っ赤な顔を覆った。

***

 よく晴れた青空には、いくつかの千切れ雲が浮かんでいる。大きな窓の内側から空を見上げていた相澤の身なりは綺麗に整えられていた。髪を切り、無精ひげを剃った姿は、彼女の両親の元へ挨拶に赴いたとき以来。

そんな彼はもう一生、袖を通すことはないであろう服に堅苦しさを感じながら、彼女が来るのを待ちわびていた。

 ふぅっと、何気なくため息を吐いたとき、大きなドアが開かれる。数人の女性と共に現れた防人の姿に相澤は息を呑んだ。個性を使っているわけでもないのに、瞬きをしたくない。そう思ってしまうほど、彼女に見入っていた。

「消太さん」

 気恥ずかしいのか控えめな笑みで呼んできた防人に、我に返った相澤は思わず口元を隠すように手で覆った。どうしていいか分からなさそうに目を伏せる彼女にこんな顔をさせられない。長い一日になる今日は、いつも以上に笑顔にさせたいと相澤は動きにくい口をなんとか動かした。

「……似合ってる」

顔を上げた防人の表情が嬉しそうに緩んでいる。普段以上に美しい彼女の中に、普段の可愛らしさを見つけた彼は真っ赤になってしまう顔を逸らした。

「消太さんも、その、凄くカッコいいです」

「……勘弁しろ」

頬を淡く染めている防人は白いドレスを身にまとい、相澤も白いタキシードを着ていた。

 あれから結婚式についていろいろと考えた二人の出した結論は、フォトウェディングだった。防人はしなくても構わないという考えだったが、相澤は今の彼女の決断が後に悔やむことがないようにさせたかった。その結果のフォトウェディングだった。

 そろそろ撮影の方に、という係員の声に相澤は照れ切っていた顔を引き締める。そして、防人へと手を差し出した。

「桜」

表情は相変わらずのしかめっ面をしているのに、彼女の名を口にする声はどこまでも優しい。嬉しそうに目を細めた防人が彼の手を取る。この様子を勝手にカメラに収められていたことを二人が知ったのは、最後の写真選びに入ったときだった。

***

 リビングに置かれたシンプルなフォトフレーム。中に収められた写真には、ウェディングドレスを着た自分とタキシード姿の彼が映っている。それを手に取りながら防人は目を細めていた。

「届いたのか。写真」

「ええ、ついさっき」

 寝室から出てきた相澤に防人は、にこっと笑みを見せる。

「消太さん、ありがとうございます」

「なんだ、急に」

あくびをしていた彼は唐突な彼女のお礼に首を傾げた。

「本当に、しなくてもいいと思っていたんです。消太さんの傍にいられるだけで幸せですから」

きゅっ、とフォトフレームを胸元に抱きしめるようにした防人は目を伏せている。長いまつ毛の影が白い頬に落ちていた。

「私は思っていたよりも、ずっと欲深くて、嬉しいに限りがないから、もっと消太さんの気持ちや優しさが欲しくなってしまって……。これ以上、欲張りにならないように気を付けようと思っていたところだったんです」

でも、と顔を上げた彼女は困ったように眉をハの字に下げて笑う。

「こうして形に残せてよかったです。まだ籍を入れるのは先ですが、本当に消太さんと結婚したんだなって思えますし、何より、カッコいい消太さんを見られましたから」

表情が緩みそうになる。彼はそれをぐっと口を引き結ぶことで耐えた。言うか言わないかを、ほんの少し悩んだ相澤は、防人にきちんと伝えなくてはならないと小さく息を吸い込んだ。

「俺は、俺の気持ちをもっと桜に伝えたい。優しさが欲しいならいくらでもやるから、俺から離れられないようにしたい」

聞いていた彼女の顔が余すことなく赤く染まる。感極まった防人の目には涙が薄っすらと膜を張っていた。

「……もう、無理ですよ。離れられません。もしも、貴方が地獄に落ちることになったとしても、私は喜んでついていきます。絶対に」

とんでもない殺し文句だと耳まで真っ赤になった相澤は顔を伏せる。言葉にすると安っぽくなると思った彼は、彼女を引き寄せて唇を合わせた。

 何度も気持ちを込めて防人の唇を吸った相澤は、しばらくしてからやっと彼女を解放する。
いつも抱きしめれば抱きしめてくれる彼女の腕が回ってこなかったことで、彼は、彼女が抱えているものを思い出して目を向けた。

「……それ、寝室に置けよ」

「どうしてです? リビングの方が目にする機会が多いですよ?」

 普段は言葉にしなくても伝わることが多いのに、こういうときは何故だか伝わりにくい。頭を掻いた相澤は目を逸らしながら、小さく口を開く。

「俺は自分の嫁が美人だってことをひけらかしたくない。その姿の桜を知ってるのは最小限の人間だけでいい」

面映ゆさで顔を隠した彼が言ってることが、独占欲からだと気づいた彼女は胸に抱いていた写真を見てから、くすっと笑った。

「そうですね。私も消太さんのカッコいいところはあまり人目につかないようにしたいです」

 そう言ったものの、やっぱり身近に見られるところにもあればと思った防人は、自宅のみで使っているタブレットの待ち受けにタキシードの相澤だけが映った写真を設定した。そして、それに気づいた相澤が同じようにウェディングドレス姿で満開の花のような笑みを見せる防人だけの写真を待ち受けにしたりを繰り返した。

 結果、相澤家のタブレットの待ち受けは、フォトフレームに収められたものと同じ写真が使われることになったのだった。
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