起きてください

 昼の屋上には、今日も気持ちのいい日差しが注がれている。昼食を終えた相澤は膝を立てて、そこへ突っ伏して眠っていた。

 よく見る彼の姿に、ふつり、と山田の悪戯心がくすぐられる。思いついたら、即座に試してみたくなった。

 ケータイを取り出した彼は、先日、交換したばかりの彼女のアカウントへメッセージを送る。

 何度か一緒に昼食を食べた一学年下の女子生徒、その整った容姿の良さで入学当初から有名な防人桜。見た目と違い、とても気さくな彼女は、何がきっかけなのか知らないが、相澤に毎日会いに来ている。それだけで、防人が相澤をどう思っているのかなんて、山田には簡単に理解できた。

 ポン、と返ってきたメッセージをニヤニヤと確認した山田は寝ている相澤を見て、これから起こる面白そうなことにワクワクとし始めていた。

「ひざし、何ニヤニヤしてんだよ」

「ちょーっと、面白そうなこと思いついてよォ」

歯を見せてニヤニヤと笑う山田を不思議そうに見ている白雲と、何も知らずに眠っている相澤は彼が何を企んでいるのか、このときはまだ知る由もなかった。

***

 昼休みも半分を過ぎた頃。防人は誰も来ない中庭の茂みの奥で、一人、昼食を終えて猫とじゃれていた。

「まだまだ……ほらっ!」

彼女の個性で、ゆらゆらと揺れているねこじゃらしに猫は獲物を狙うように目を真ん丸にさせて突き上げたお尻を小刻みに揺らしている。

 そろそろ捕まえさせてあげようかと思っていた時、ポケットに入れていたケータイが震えた。なんだろうと、ケータイを取り出した防人は新着メッセージを送って来た相手を見て首を傾げる。

 山田からメッセージが送られてきたのは初めてだ。首を捻りながらメッセージを確認した彼女は、少し考える仕草をしてから、にゃあ!と声を上げた猫に目を落とした。

「先輩が……、あ、相澤先輩じゃない人ですよ? 他の先輩です。その人が今から屋上に来れないかって言うんです。相澤先輩も待ってるからって……」

言いにくそうに口を動かす彼女に構わず、猫は落ちているねこじゃらしを手で弄って、早く動かせと要求しているようだった。

「そうですよね。もっと遊びたいですよね」

先約はこちらなのだからと、断りのメッセージを送ろうしていると、目の前の猫は耳をぴくりと立てた。あれ?と防人が猫の視線を追いかけると、その先には別の猫がこちらを見ていた。

 ケンカになるんじゃないかと心配した彼女をよそに、猫たちはお互いを見つけて楽しそうに駆け回り始める。これまで遊んでいた猫はもう、防人が用意したねこじゃらしに見向きもしなかった。

「あの、今日はこれで! また遊んでくださいね!」

駆けていく猫の後ろ姿に声をかけてから彼女は山田へとメッセージを返す。ポケットにケータイを入れると、防人は弁当包みとねこじゃらしを持って屋上へと向かった。

***

 呼び出された屋上に、そっと入って来た彼女の姿を見つけた白雲が嬉しそうな声を上げる。

「お! 防人! もう昼、食っちゃったぞ」

「こんにちは、白雲先輩。私も今日は先約があったんです」

「なんだァ? 他の男と約束してたってかァ!?」

 冗談めかした山田の口調に、防人はにっこりと笑って頷いた。

「そうなんです。よく分かりましたね」

「えっと……え? マジで?」

驚いて固まっている山田の後ろで、寝ていたはずの相澤の体がぴくりと動く。

「凄いイケメンなんですよ」

この子ですと、見せられたケータイに写し出されているのは、確かに可愛い顔をした猫だった。

「猫かよ!」

 大袈裟に驚いてくれる山田にくすくすと笑っている彼女へ、白雲は眉を寄せて心配そうな顔をする。

「防人、男にはみんな下心があるんだから、そんなほいほいついてくな。危ないから」

腕を組んで、うんうんと頷く白雲に彼女は目を瞬いてからおかしそうにくすりと笑った。

「じゃあ、ここも危ないですか?」

「ここは大丈夫! ショータとひざしは分かんねェけど、俺がちゃんと守ってやる!」

任せろ!と白い歯を見せて笑う彼に、防人は目を瞬かせた。そして、綺麗に微笑んだ。

「ありがとうございます。頼りにしていますね」

「HEYHEYHEY! 俺も守ってやる側だから! ケダモノはここで寝てる省エネ消ちゃんだけだろ!」

 初めて聞く彼の呼び名に、また彼女はきょとんとした顔を山田に向けた。

「省エネ消ちゃん?」

「そ。コイツ、授業が終わるとすぐ寝ちまうからよォ」

クラスではそんなふうに呼ばれているのかと、防人は相澤へ視線を向ける。屋上へ来たときと変わらずに眠って動かない彼の知らない一面を聞いた彼女は、この場で自分だけが年下である寂しさをじんわりと感じた。

「んで、お前に頼みたいことがあんだよ」

「え? ああ、私にできることなら」

 寂しさでぼんやりとしていた防人はハッとして相澤から山田へと視線を向ける。彼から言われたことに、首を傾げた彼女は眠っている相澤へと近づいた。

「あの、これ何か意味があるんですか?」

「あとで教えてやっから、Hurry up!」

 早くやれと急かす山田を不思議に思いながら頷いた防人は、立てた膝に突っ伏して寝ている彼の横に膝をついた。そして彼女は、そっと彼の耳元へ口を寄せる。

「消ちゃん、起きてください」

***

 昼食後、日差しの暖かさのせいか、それとも午前の戦闘訓練のせいか眠気に襲われた相澤は昼寝を始めた。

ケータイにセットしたアラームが鳴るまで、途中で目が覚めることはそうそうない。しかし、屋上に誰かが入ってきたときと、聞こえてきた声に、ぼんやりとではあるが相澤の目は覚めかかっていた。

 そして、耳元に聞こえてきた優しく囁く甘い声。いつも腹立たしく感じている山田のつけた"省エネ消ちゃん"というあだ名も、その声に呼ばれるのなら不快に感じない。

その声の主が防人だと気づいても、動揺から相澤は顔を上げることができなかった。バクバクとうるさい心臓の音。そして熱くなっていく顔は間違いなく真っ赤であると彼は分かっていた。

「起きねェか?」

 つまらなさそうなその声で、これは山田が仕掛けたのだと察した相澤は心の中で盛大に舌打ちをした。

「ショータって一度寝ると、なかなか起きねぇよな」

「……もう一度だけ、やってみますね」

すっと近づいてきた体の気配。寝ているふりをしている以上、相澤が動くことはできなかった。

耳のすぐ近くに感じる防人の吐息を気にしないように努めていた彼が聞いたのは先ほどと同じ言葉ではなかった。

「消ちゃん、好きです」

 びくりと体が震えないようにするのが精いっぱいだった。思わず止めてしまった呼吸を不自然にならないようにゆっくりと再開させた相澤は、耳元で感じていた彼女の気配が遠ざかっていくのを、どうしてか寂しく思った。

「ダメですね。起きません」

 苦笑いをする防人に、山田は未だに寝たままの彼を見てから、二ッと口元を笑わせた。

「ダメかァ。お前ならもしかしてって思ったんだけどなァ」

「何をしたかったんです?」

何も訊かずに素直に自分の頼みを聞いた彼女へ、口元を大きくニヤっと笑わせてから山田は話し出す。

「この前、眠気を覚ますには好きな奴の声が一番効果あるって聞いてよォ」

「そうでしたか。それは残念です」

ちらりと、相澤を見た防人は僅かに頬を緩めてから、ケータイで時間を確認した。

「そろそろ、お昼休みも終わりますね。次、戦闘訓練なので、私はお先に失礼します」

 頭を一つ下げてから、彼女はスカートの裾を翻す。手を振る白雲へ、にこっと笑みを添えて会釈を返すと、防人は屋上から出て行った。

***

 屋上のドアをぱたん、と閉めた防人は、くすりと小さく笑う口元を隠す。階段をリズムよく下りる様子は、彼女の機嫌の良さを表していた。

生徒たちが多く通っている廊下に出たとき、屋上でのことを思い返した防人の口から、ふふっと笑い声が漏れる。

(消ちゃん、か……)

 最初に山田に呼び出されたときは何の用事だろうかと考えていた。実際に、彼から頼まれたのは、眠っている彼の耳元で"消ちゃん、起きて"と言ってほしいという簡単なもの。自分も呼んでみたいという気持ちから軽く受けたことだった。

 初めて呼んだ彼のあだ名。それだけでも嬉しく感じていたのに、相澤が反応を見せてくれたことが嬉しかった。

(相澤先輩、可愛かったな)

"消ちゃん"と防人が口にしたとき、彼はぴくりと体を反応させただけでなく、耳を真っ赤にさせていた。返事はもらえなくても、それが可愛いと思った。そして、つい、もっと彼に自分を意識してほしくなってしまった。

 だから、"消ちゃん"と呼んだことに続けて好きだと伝えた。すでにほんのりと赤かった耳がしっかりと赤くなっていったのを思い出すと、やっぱり防人はつい笑ってしまう。

好きだなぁと思いながら、彼女は合わせた両手の指先に口元を寄せる。こうして相澤のことを想うと、胸の内側から温かくなって僅かな気恥ずかしさと、それを大きく上回る幸福感が満ちていく。

 彼に自分の気持ちを信じてもらえれば、それでいいと思っていた。今でもその気持ちはあるけれど、少しでも相澤が自分のことを異性として意識してくれたら。もし、そうであったらと考えると嬉しさが込み上げる。

赤くなった彼の顔を思い出すと、浮かれるような気持ちでなんでも頑張れるような気がした。

***

「そろそろ、俺たちもショータ起こして教室行こうぜ」

「そうだな……」

 防人が出て行った屋上に、三人はまだ残っていた。寝ている相澤をそのままに、山田と白雲はアレコレと話していたらしい。そろそろ教室へ戻らなければと、やかんの中身をゴクゴクと飲んでいる白雲を横目に、山田は相澤へと近づいた。

「オイ、起きろ。省エネ消ちゃんから、ポンポコ消ちゃんってあだ名に変えちまうぞ」

 そろそろと上げた顔がまだ熱いのを感じながら、不満を含んだ目を彼は山田に向ける。

「……変なあだ名ばっかつけやがって」

「狸寝入りなんかすっからだろ」

ばつが悪そうに視線を逸らした相澤の髪から覗いた耳が赤い。普段の彼からは想像もつかない様子を面白がるように山田が笑う。

「お前の寝たフリ、防人も気づいてるぞ」

「……かもな」

目元まで赤くさせている相澤は頬杖を突くようにして口元を隠している。きっと、防人は相澤が寝たふりをしていたことに気づいているだろう。気づかなかったフリをしたのは、自分を気遣ってのことだと分かっていた。

 遠くを見ている相澤の眼差しが優しい。こういうときは大体、防人のことを考えているときだと知っている山田は、それ以上声をかけるのやめた。
"なんで彼女にしてやらねぇーんだ?"と訊いてしまいたい気持ちは、ずっと山田の中で燻ぶっている。しかし、訊いてしまうとこの奥手な友人の恋愛は更に歩みを遅くしてしまう予感がした。

どう見たって相澤の気持ちは防人にある。そして彼女の気持ちも同じだろう。それならば、付き合ったっていいはずだと山田は考えている。

「……俺は、アイツの気持ちにちゃんと応えられるのか自信がない」

 屋上に吹く風に紛れてポツリと零れた彼の小さな本音は、しっかりと聞こえた。相澤が恋愛事で本音を漏らすだなんて、想像もしたことがなかった山田はサングラスの奥で目を丸くさせる。

 目を逸らしながら首筋を掻いている彼を微笑ましく見てから、山田は聞こえないフリをした。相澤と防人には上手くいってほしい。そう思うのは、相澤の恋愛が想像がつかなくて面白そうだと考えるせいか山田本人も分からない。しかし、友人の幸せな様子を見てみたいと思う気持ちは本物だ。

 もし、これから先、相澤と防人が上手くいかないようなことがあれば、率先して自分が仲を取り持ってやろう。頭の後ろで手を組んだ山田は口笛を吹きながら、彼女にベタ惚れになった相澤を想像して笑っていた。

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