傷つけてごめん

 路地裏を飛び出した防人は、右も左も考えずに走り出した。これまで我慢すれば涙は堪えられてきた。それなのに、今は別の意思を持ってしまったように涙が止まらない。
 戸惑いと混乱と言い表しようのない悲しみが強すぎて、どうしていいのか分からない。ただ、止まったら動けなくなってしまうような恐怖が、彼女の足を動かす。

「おっと!」

涙を拭った一瞬で、誰かにぶつかってしまった。なるべく人の少ないところを狙って走ってきたつもりだった彼女は慌てて頭を下げる。

「すみません、きちんと前を見ていませんでした。おケガは―――」

「防人……?」

 ぶつかった相手から自分の名前が出てきたことに驚きながら、防人はゆるゆると顔を上げる。そこには酷く驚いた様子の山田が立っていた。
 何も考えずに走った彼女の出てきた先は人の通りもほとんどない繁華街の外れ。そこに偶然用事で出てきていた私服の山田に、防人はぶつかったのだった。

「……お前、なんでそんなに泣いてんだ?」

驚いていた彼の顔はみるみる心配に染まっていく。いけないと、笑みを作ろうとしても先ほどのショックが強すぎる彼女は笑うことができず、ふっと小さな息を漏らして俯くしかできなかった。

「とりあえず、こっち来い」

 伸ばされた山田の手が防人の肩に触れる。その寸前、彼女の体は強く引き寄せられた。

***

 路地裏にジョークを残し、防人の後を相澤は必死に追いかけた。彼女がどちらに走って行ったのかは分からない。とにかく必死だった。ようやく見つけた後ろ姿と共にもう一つ。視界に入ってきたそれに焦りながら相澤は手を伸ばして彼女の手を思い切り引き寄せた。

「行くな!」

 人前だとかそんなことよりも、誰かに防人を取られてしまうことが嫌で怖くて無我夢中だった。そこでやっと、相澤は防人の前に立っていたのが山田であることに気が付く。

「よォ、相澤。なんでコイツ、こんなに泣かせてんだ?」

 目尻を吊り上げた山田に、相澤は彼女の手をきつく握る。そして、強い眼差しで彼は山田を見つめ返した。

「誤解があるだけだ。全部、これから桜に話す」

「私は、もう……」

 どうやら例の誤解がなんであるか相澤は気づいたらしい。防人がこんなにも泣いていることに心が痛まないわけではないが、きっとそれも必要なことなのだろうと思った山田は、相澤から顔を背けて動かない彼女に優しく声をかけた。

「行ってこい、防人。そんで、なんでこんなに泣かされてんのか全部問い詰めてこい」

困りきった目をしている防人に向けられた仕方なさそうな笑みは、まるで嫌だ嫌だという子どもを宥めるように優しい。

「んで、もし、コイツにもっと泣かされるようなことがあったら、そんときはまた俺が胸を貸してやんよ」

大きく歯を見せてニカッと笑う山田に背中を押されたのを感じて、彼女は迷いながら頷いた。

 まだ俯いている防人の頭を見て、相澤に視線をやった彼は一歩前に出る。すれ違うところで足を止めた山田の声は彼にだけ聞こえる大きさだった。

「もう泣かせるのは、これで最後にしてやれよ」

「分かってる」

その答えに満足したように笑みを浮かべた山田は、ぽんと相澤の肩を一つ叩いて、繁華街の外へ向かって歩いて行った。

 通り過ぎて行った山田に振り返らなかった二人は何も話さない。お互いに何を言えばいいのか分からないでいた。
 繋いだままの手が視界に入った相澤は、この手が振り払われないことに少しだけ安堵して息を止める。そして、ゆっくりと吐き出しながら防人を見た。

「……ちゃんと話したい。全部。だから、聞いてくれ」

見上げてきた目は酷く怯えている。申し訳なさで逸らしたくなるのを堪えて相澤が見つめていると、彼女も彼の目を見ながら小さく頷いた。

***

 最初に約束した待ち合わせ場所ではなく、二人は繁華街からほど近い公園へと場所を移した。

 どこから説明すべきかと相澤は夜空を見上げる。街の明るさが夜の暗さを必要以上に追い払ってしまい、本来の暗さはない。星々も、そこに在るのだろうが見えることはなかった。

 小さく息を吐き出すと、繋いだ手の先から防人がビクッと体を強張らせたのが相澤に伝わる。隣で俯いている彼女を見て、彼はやっと口を開いた。

「……お前が俺を信じられない理由は分かった」

顔を上げないままの防人に相澤は続ける。

「でも、俺がお前に言ったことは嘘じゃない」

ぎゅっと、手を握ってきた彼に、彼女はぴくっと反応を見せた。

「桜が好きだ。別れても、ずっと変わってない」

 細かに震える唇が上手く動かせないながらも防人は何とか口を開く。か細く震える声に相澤は目を見開いた。

「うそ、つき……」

ぽたぽたと彼女の涙が地面に落ちては吸い込まれていく。止まらない涙のせいで地面にはどんどんとシミが広がっていた。

「嘘じゃない」

「私、もう嫌、なんです。もう、貴方のことで傷つきたくありません……」

 一言口にしてしまえば、彼への不信感は堰を切ったように溢れ出す。

「こんなに信じたいのに……どうして、信じさせてくれないんですか!」

胸を押さえた勢いで防人の涙が周囲に散る。

「どうして、他の女性(ひと)がいるのに、好きだなんて言うんですか!!」

相澤から"好きだ"と言われるたび、防人の胸は喜び、必ず裂かれるような強い痛みを感じていた。彼を愛したままの心が信じたくて堪らないと叫ぶのに、理性が信じることを許さない。もう、この苦しみを抱き続けるのは彼女にとって限界を迎えている。

 繋いでいた手を振りほどいた彼女は涙を拭って彼を睨んで見上げた。

「……私、おめでとうなんて言いません。でも―――」

堪えられない悲しさを涙で溢れさせながら防人は優しく細めた目で相澤を見つめる。

「幸せに、なってくださいね」

言いたいことだけを残して彼女は彼に背を向けて歩き出した。一歩進めるごとに、これで本当にお別れだと思う。

「桜っ!」

 後ろから飛んできた声と一緒に相澤が自分を追いかけようとしているのに気づいた防人は、すっと真面目な顔をして小さく振り返る。しかし、すぐに前を向いて歩き出した。

彼女の名前をもう一度呼ぼうとした彼の足が動かなくなる。これには覚えがあった。

 防人のテレキネシスで地面に両足を張り付けられた相澤は、遠ざかっていく背中を見る。そのとき、自分のすぐ頭上から彼女のハンカチが下りてきているのが視界に入った。防人の個性で意のままに動かされているハンカチの意図に気づいた相澤は焦りで汗を一つ掻く。

(これで視界を覆うつもりか!)

一度も振り返らずに、正確に物を操作する技術は学生だった頃とは比べ物にならないほど磨かれている。それでやっと、彼は気づいた。自嘲した笑みを口元に引いてから、彼は表情を引き締めた。

迫ってきたハンカチを無理やりに動かした手で押さえた相澤は防人の背中をその目で見た。

 どうしても止まらない涙が頬を流れていくことも気にせず彼女は歩く。もう公園を出るというところで防人の体は後ろから抱きしめられた。

「言いたいことだけ言って行くな! 話を聞け!!」

驚きのあまり体も口も動かせなくなった彼女を彼は更に強く抱きしめる。

「今の俺が何を言っても信じられないのは分かった。でも、誤解だけは解きたい」

何も言わないでいる防人の温もりが相澤の彼女への想いを強くした。

 離す怖さを感じながら、それでも彼は彼女を抱きしめる腕から力を抜く。ゆっくりと自分の方へ向かせた防人の肩に手を置いて、相澤は涙に濡れた苦しそうな黒い目を覗き込んだ。

「……ジョークの言ってることは全部冗談だ」

疲れたような無気力な彼女の目を彼は強い眼差しで見つめる。

「アイツは自分の個性で俺を笑わせたくて、それで絡んでくる」

「個性……?」

やっと反応を見せた防人に頷いて相澤は説明を続ける。

「アイツの個性は爆笑。近くの人間を強制的に笑わせる。俺が個性を消して相手にしないせいで、普段から会うたびに結婚だのなんだのと絡まれるようになっただけで、本当に付き合ったりなんかしてない」

 彼の必死な目を見れば、それが嘘かどうか彼女には分かった。元々、誠実な人だ。相澤が嘘を吐くとも思えない。それなのに、防人は信じられない。もしも、嘘であったらを考えずにいられない。信じてしまったあとの嘘は、今以上の痛みが来るのを彼女は分かっていた。

「信じ、たいよ……消太くん」

もう痛みに耐えるだけの気力はない。そんな自分の弱さが情けなくて、また涙がこみ上げた。はらはらと涙を流す彼女に彼の顔も悲痛に歪む。何を言えば、防人の信頼を取り戻せるのか考えていたとき―――

「いたーーー!!」

―――大きな声が二人のいる公園中に走り抜けるように響いた。驚いて同時に体をビクッと反応させた二人は、声の主へ揃って顔を向ける。

「や、やっと見つけた……」

ヘロヘロになりながら走ってきたのは、先ほどの話に出てきた彼女。汗を拭いながら、近寄って来たジョークは防人の前までくると丁寧に頭を下げた。

「ごめん。冗談で傷つけた」

屈託なく笑う姿しか知らない防人だけでなく、相澤も謝るジョークに面食らう。

「イレイザーとは何にもないよ。だから、もう泣かないで」

 頭を下げたままのジョークの手は両膝のあたりできつく握り締められている。力が込められ過ぎて微かに震えている手へ防人の心配そうな目が向けられた。

「顔を、上げてください」

そろそろと上がった顔は申し訳なさそうで、彼女は許してもらえないんじゃないかと委縮している。防人を見る目も後悔にまみれていた。

 彼女の目の奥をしっかりと見つめた防人は、戸惑うのを止めて涙の残る目尻を下げた。

「……分かりました。貴女も、もう気に病まないでください」

微笑む防人に、ジョークの口から無意識に安堵のため息が小さく吐き出される。涙のついた頬の微笑みが気遣いのものだと感じたジョークはもう一度頭を下げてから、相澤へ顔を向ける。

「それじゃあ、私は行くよ」

 少し歩いてから振り返ったジョークはぎこちない笑みで防人に小さく手を振った。目を瞬いた彼女は、同じようにぎこちない笑みを返して手を振る。今度会うときには、あの屈託のない笑顔が見たいと防人は思っていた。

「……桜」

 見送ったまま、ジョークの姿が見えなくなった方へ視線を向けている彼女の気を引くようにかけられた彼の声ははっきりとしている。

「今はまだ信じられなくていい。だから、明日もお前に言いに行く」

真っ直ぐに向けられる誠実な相澤の目に、防人の胸が切なく締め付けられた。

「好きだって、言いに行くから……だから、避けないでくれ」

つい先ほどまで自分の中に強くあった彼への不信は、急速に小さくなっているものの、まだ信じると口にすることはできない。それでも、もう彼女の中では違う気持ちが大きくなっていた。

「待ってます。……信じたいですから」

 引き寄せられる力に逆らわず、防人は身を委ねて目を閉じる。抱きしめる相澤も腕の中の存在を感じながら目を閉じていた。

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