『話がある』

 香山と喫茶店で別れた防人は、何気なく空を見上げた。よく晴れた空には小さな雲がぽつん、と浮かんでいる。

(気持ちのまま、正直に、飛び込んでいく、か……)

自分の中にはなかった考えは衝撃だった。受け入れてもらえなかったら、と思うと怖くないわけではない。しかし、それ以上に何も伝えないままでいてはいけないのかもしれない、と今は思えた。

 彼のことを想うと痛むばかりの胸元を掴む。目を閉じて考えると不思議と冷静になれた。これから自分がどうしたいのかを自分で問いかけると、答えは簡単に浮かび上がってくる。

(考えるまでもない、よね)

薄く自嘲の笑みを浮かべて、軽くなった心で歩き出す。まだ一度も本心を彼に打ち明けていないことに気づくと、最後にちゃんと"好きだ"と伝えたいと思った。

その結果、自分たちがどうなるかは、今は考えないでおこうと彼女は顔を上げた。

***

 事務所に戻って来た彼女は、入り浸っている仮眠室のベッドに腰を下ろしていた。

いきなり連絡を取るのは気が引ける。しかし、また突然会いに行って例の彼女に会ってしまうのもと考えてしまう。どうしようかと、スマホの画面を見つめて迷っていれば、ブルブルと手の中で震えだした。

「うわっ!」

 驚きのあまりお手玉のようにスマホを手の中で転がした防人は、両手で捕まえるような形でスマホを止めた。落とさなかったことに安堵の息を吐き出して彼女は、スマホの画面を確認する。通知されているのは一件の新着メッセージ。それを確認した防人の目はみるみる見開かれた。

恐る恐る動かす指は緊張からか、微かに震えている。タップする指もなかなか画面から離れない。なんとか退けた指の下から見えたメッセージに彼女の喉は緊張で小さな音を立てた。

『話がある』

短く端的なメッセージが彼らしい。何を言われるのだろうと怖くないわけではない。しかし、彼女もまた彼に会おうと決めたばかりだ。

 意を決して防人の細い指が動く。送信する前に、動きが止まる。軽く目を閉じた彼女は、目を開けるとその勢いを利用したかのように送信をタップした。

***

 すっかりと夜になった空を見上げる。仕事を終えた相澤はそのままの格好で、彼女との待ち合わせ場所へと向かった。

 山田から聞かされた彼女の勘違いとは一体何なのか。いくら考えても答えが出ることではない。直接本人から聞き出さなければと、相澤は防人へメッセージを送った。思いの外、すぐに来た彼女の返事に彼も緊張を感じないわけではなかった。

『私もお話したいことがあります』

 もう構うなと言われてしまうのだろうか。そう言われたらどうすればいいと考えていた相澤の前を、若いカップルが寄り添いながら歩いて行く。

(他に好きな奴がいる、とか……)

痛みが走るよりも先に、ドス黒い感情が塗りつぶすように胸に広がる。その一方で、"自分で突き放したんだ。自業自得だ"と頭の隅の冷静な部分がせせら笑っている。

 悲しさと恋しさがせめぎ合う彼の胸を強い痛みが苛む。足を止め、無意識にそこを掴んだ相澤はポケットに入れていたそれの存在に気づく。何気なく取り出したそれは、防人がずっと髪を結っていた捕縛武器だったもの。それが、"まだ自分と彼女は切れていない"と彼の胸の痛みを慰める。

 ぐっと、それを握り締めてからポケットにしまうと相澤はまた歩き出した。

***

 繁華街を抜ければ、相澤と待ち合わせた場所へと着くはずだった。はずだったというのも、防人の前に立つ二人の男のせいだ。

「ホント、めっちゃくちゃタイプ! な? ちょっとでいいから飲みに行こう!」

「大丈夫! 俺たちが驕るから、なぁーんも心配ないって!!」

「い、いえ、そういうことではなくてお断りしてるんです。それに私、未成年ですからお酒は飲めません」

誘いを断られているというのに、男たちは未成年という単語になぜか喜びだす。

「ということは! 十代!! サイコーだ!!」

「よぉし! 飲むぞ!!」

「だ、だから、行きません!!」

ぐいぐいと彼女の背中を押すこの二人の男。一人は頬にガーゼを張り付けていて、もう一人は松葉杖をついている。この二人、実は先日、彼女が取り押さえた酔った末に個性を使って大ゲンカしていた男たちだ。

 仲良くなったのは悪いことではないが、酔っ払ってナンパしていては成長が見られない。背中を押す手を外して振り返った防人は呆れて彼らを見上げた。

「以前、こういうお酒の飲み方はダメだってヒーローに言われたでしょう? きちんと節度を―――」

「いいのいいの! もう酒でケンカすんのは止めたから!」

「ケンカより可愛い子! 今夜はワンチャンあるで!!」

何を想像しているのか、彼女を下から舐めるように見て、ゲヘゲヘと下品な笑いをしている二人に、不機嫌さを含んだ声がかけられる。

「ねェよ。そんなもん」

 聞き間違えるはずのない声に驚いて振り返ろうとした防人の肩に無骨な手が乗せられた。動けないでいる彼女はその手に引かれるまま、肩を抱き寄せられる。

「コイツに何の用だ」

 鋭く睨みつけている相澤の横顔を見上げた防人の胸がドキドキと駆け出したように速くなる。勘違いしてはいけない。これはヒーロー活動の一環で助けてもらっただけだと自身に言い聞かせながら、彼女は喜びそうになる気持ちを必死に抑えた。

「ゲ!? ヒーロー!?」

「ごめんなさい、ごめんなさい!!」

 彼がヒーローだと気づいた二人組の男は、酔って真っ赤になっていた顔を青くさせながら、繁華街の中へ慌てて消えていった。

「あの、ありがとうございます。イレイザーさん」

お礼を言われた相澤の眉間にしわが寄る。不機嫌さはなく、悲しそうに見えた彼の顔は、すぐに防人から逸らされた。

「……お前、なんでこんなところ通ってんだ」

「待ち合わせ場所はここを通った方が早いですから」

何でもないように言った彼女は、そっと自分の肩にかかったままだった彼の手を下ろす。

「ここを通ったらこうなることくらい分からなかったのか」

 寂しさを隠して怒った表情を見せる相澤に、防人は目を伏せた。

「ここがどういう場所かは分かってます。自分がそういう対象に見られるなんて思ってなかっただけです」

感情の見えない彼女の顔がまるで自分のことなど、どうでもいいと思っているように見えた相澤は目を剥いた後、スッと表情を消した。

「来い」

「わっ!?」

 唐突に手首を握った彼の手は、びくともしないほど強い。ズンズンと進んでいってしまう相澤の背中に防人の戸惑った声がかけられる。

「イレイザーさん、どこに行くんですか?」

ぴくっと反応はしたが、彼は振り返ることも返事をすることもしなかった。そのまま手を引かれるままたどり着いたのは、繁華街の賑やかさの届かない人気(ひとけ)のない暗い路地裏だった。

「あの……?」

「お前、自分がそういう対象に見られないって本気で思ってたのか?」

 これまで向けられたことのない相澤の冷たい表情に困惑しながら防人は正直に頷いた。

「バカだな」

とん、と軽く体を押された彼女の背中がビル壁にぶつかる。ぶつかった勢いで目を閉じた防人は、彼が一体何をしようとしているのかと思いながら目を開けた。

最初に視界に入ってきたのは相澤の顔。とても近い距離に目を逸らそうとすれば、それを許さないように彼女の顔の横に彼の手が置かれた。

「お前のこと、そういう目で見ない男がいるわけないだろ」

「そんなこと、ありません。……そうでしょう?」

自分は違うだろうと言外に訊かれたことが分かった相澤は、ハッと鼻で笑う。

「期待に応えられなくて悪いが、俺はお前のことをそういう目で見る男の一人だ」

「……本気、ですか?」

疑うような防人の目に苛立った相澤の手が、彼女の頬に添えられる。

「当たり前だ。俺が、どれだけお前のことが欲しくて仕方ないか……教えてやりたいくらいだ」

切なそうに顔を歪めた彼の手がするりと彼女の頬を撫でて落ちていく。早鐘を打つ鼓動を感じながら、防人が思い切って口を開こうとしたときだった。

「コラァ! か弱い女の子に何してって、イレイザーじゃないか!」

 二人同時にその声の主の方へ顔を向ける。そこには、ずっと防人が忘れることができない女性ヒーローがいた。

「ジョーク……。今、取り込んでるから後にしろ」

「そんなこと言うなよ。あんなに愛し合った仲じゃないか」

オイ!と怒る相澤の隣で、ぎゅっと喉が閉まったのを感じながら彼女は、ジョークと呼ばれた女性へ視線を向ける。その視線に気が付いたジョークは、防人に屈託ない笑みを見せた。

「イレイザーにこんな美人な知り合いがいたなんてなァ。プ、似合わねー!」

 怒っている相澤の声も目の前の彼女の笑い声も少し遠くに感じながら、防人は無理やりに笑顔を作った。

「初めまして。私はイレイザーさんの後輩で、防人と申します」

「後輩か! 私はMs.ジョーク。イレイザーの後輩なら、やっぱりヒーロー?」

ぎこちなく頷いた彼女の様子に気づかず、ジョークはそっかとさっぱりと笑う。

「イレイザーって昔からこんな感じなのか?」

「えっと、どう、でしょう……」

 答えに困っている防人を緊張していると思ったジョークは、その緊張を解そうと悪気なくその言葉を使ってしまう。

「もう結婚するっていうのに、全然そういった話はしてくれないんだ。本当に困ったもんだよ」

「オイ! 冗談もいい加減に―――!」

俯きがちだった彼女の顔が上がる。衝撃で何も言えなくなった防人はただ目を丸くさせることしかできなかった。

「照れるなよ。隠すことなんかないだろ」

ぐいぐいと肘で相澤を突いているジョークの声も、何か言っている相澤の声も、もう遠すぎて防人には聞こえない。
 笑わなくては、と両手を握り締める。そうでなくてはいけないと、防人はいっぱいの涙を溜めた目で、二人へ微笑んだ。

「……そう、だったんですね。すみません、お邪魔ですから私はこれで失礼します」

すっと、綺麗なお辞儀を見せてこの場を去ろうとする彼女に向かって相澤は手を伸ばした。

「桜!!」

 ゆっくりと振り返った防人は涙のついた頬で、救急車の中で見せたように穏やかに微笑む。大通りからのネオンの光を背景にした彼女は、とても悲しく、美しかった。

「さよなら」

その言葉は彼が搬送中の彼女から最後に聞いたものと同じ。あのときはサイレンにかき消されてしまい、傍にいた相澤にしか聞こえなかった。言葉で思い切り殴られたような強い衝撃に、一瞬怯んでしまった彼を残して防人は路地裏から走り抜けていった。

「お、おい、イレイザー。どうなってんだ? なんであの子、泣いて……」

 動揺しているジョークに振り返った相澤はきつく唇を噛みしめてから、口を開く。

「言いたいことは山ほどある。でも、今はそれどころじゃない」

そう言い残して彼も路地を飛び出す。防人が走って行った方へと全力で駆け出しながら、あの手を掴めなかったら今度こそ自分たちは終わりだと直感していた。

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